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第三話|ありふれた幸せ

「ルーン!」


 聞き慣れた声が、不意に前方から飛んできた。


 ルーンの体がぴたりと固まる。


 家の戸口には、濃い茶色の長い髪をした女性が、両手を腰に当てて立っていた。


 どう見ても、機嫌がよさそうには見えない。


「あなたたち、二人とも!」


 ルーンはそっと隣の父を見上げた。


 ダーンも息子を見る。


 親子はしばらく黙り込んだ。


「……父さん」


 ルーンが小声で言う。


「ん?」


「あとで母さんが怒ったら、父さんがもう少し稽古しようって言ったことにしてよ」


「どうしてだ?」


「だって、そうだったじゃん!」


「何度も『もう一回』と言ったのはお前だろう」


「でも、父さんだって断らなかったじゃん!」


 二人が責任を押しつけ合っているうちに、女性はもう目の前まで来ていた。


「二人で何をこそこそ話しているの?」


「……」


「……」


「どうして黙っているの?」


 彼女は少し目を細める。


 ルーンは慌てて背筋を伸ばした。


「母さん!」


 エイダ・ヴィル。三十八歳。


 ルーンの母親であり、村で薬草の整理や簡単な手当てをしている女性の一人だ。


 普段はとても穏やかな彼女も、今は珍しく厳しい顔をしていた。


「太陽が時計塔の上まで昇ったら帰ってきなさいって、言ったでしょう?」


 ルーンは気まずそうに顔を上げた。


 遠くの時計塔は、もうすっかり朝日に照らされている。


「それは……」


 一瞬ためらったあと、すぐさま父を指さした。


「父さんが、もう少し練習しようって!」


 ダーンが勢いよく振り向く。


「何度もせがんだのはお前だろう!」


「でも父さんもいいって言った!」


「お前な……」


 目の前で責任をなすりつけ合う親子を見て、エイダはとうとうため息をついた。


「まったく。二人のうち、どっちが子供なの?」


 そう言って家の中へ戻っていく。


「早く手を洗って! 朝ごはんが冷めちゃうわよ!」


「はーい!」


 ルーンはすぐに家へ駆け込んだ。


 ダーンはその後ろをゆっくりとついていく。


 戸口をくぐろうとしたとき、エイダがふと足を止めた。


「ダーン」


「ん?」


「今日もあの子を何回転ばせたの?」


 ダーンは少し考える。


「二十回だ」


「……」


 エイダは黙って夫を見つめた。


「少しくらい、勝たせてあげられないの?」


「すぐに気づくさ」


「ちょっと喜ばせてあげたっていいでしょう?」


 ダーンは答えず、困ったような顔をするだけだった。


 エイダは小さく首を振った。


「あなたって人は……」


 手を伸ばし、夫の肩についた草くずを払う。


「あんなに可愛がっているくせに、いつも厳しいふりをするんだから」


 ダーンは少し目を見開いた。


「そんなことはない」


「あら、そう?」


 エイダは笑って夫を見る。


「じゃあ昨日の夜、自分の肉をわざわざ今日まで残して、育ち盛りの息子に食べさせようとしていたのは誰かしら?」


 ダーンは視線をそらした。


「……ただ、食べきれなかっただけだ」


「へえ?」


「本当だ」


 エイダはこらえきれず笑ってしまった。


「はいはい。ほら、早く入りましょう」


 彼女は夫の手をそっと引いた。


 ダーンは妻の背中を見つめた。


 その一瞬、顔に残っていた疲れが、少しだけ薄れたように見えた。


*


 朝食は、簡単なパンと野菜のスープ、それに少しの焼いた肉だった。


 辺境に暮らす村人にとっては、それでも十分にごちそうと言える食事だ。


「いただきます!」


 ルーンは待ちきれない様子でパンを手に取った。


「ゆっくり食べなさい」


 エイダはスープの器を息子の前に置いた。


「誰も取ったりしないんだから」


「だって、今日のスープ、すっごくおいしいんだもん!」


「まだ飲んでないでしょう?」


「匂いでわかるよ!」


 エイダは笑って首を振った。


 ダーンは向かいの席で、ゆっくりとスープを飲んでいる。


 ふと、ルーンが顔を上げた。


「父さん」


「ん?」


「昔、戦争に行ってたときも、毎日剣の稽古をしてたの?」


 ダーンの手が、一瞬止まった。


「……まあ、そんなところだ」


「じゃあ、きっとすごく強かったんだね!」


「大したことはない」


「災裔は何匹くらい倒したの?」


 ダーンは答えなかった。


 それでもルーンの質問は、ますます勢いを増していく。


「十匹?」


「……」


「二十匹?」


「ルーン」


「まさか、百匹とか!?」


 エイダが手を伸ばし、息子の額を軽くこつんと叩いた。


「まずはごはんを食べなさい」


「いたっ!」


「食事中に、父さんを質問攻めにしないの」


 ルーンは額をさすりながら、小さくこぼした。


「だって、知りたいんだもん……」


 ダーンは匙を置いた。


 息子を見て、不意に尋ねる。


「ルーン」


「ん?」


「どうして、そんなに知りたいんだ?」


 ルーンはきょとんとした。


 それから、そんなことは決まっていると言わんばかりの顔になる。


「だって、父さんはすごいんだもん!」


「……」


「村のみんなも言ってるよ。父さんは昔、すごく強い兵士だったって」


 ルーンは拳を握りしめた。瞳がきらきらと輝いている。


「いつか僕も、父さんみたいに強くなれたら……」


「みんなを守れるでしょ!」


 ダーンは黙って息子を見つめた。


 少年の目は、純粋な憧れで満ちていた。


 それは、本当の戦争を経験したことのない者だからこそ持てる眼差しだった。


 ダーンは長いあいだ、黙っていた。


 やがて手を伸ばし、そっとルーンの頭に置く。


「ルーン」


「何?」


「お前は、みんなを救う英雄にならなくていい」


 少年は不思議そうな顔をした。


 ダーンはかすかに笑う。


「いつか、大切な人たちを無事に連れて帰ってこられたら……」


「それで十分なんだ」


 ルーンはぱちぱちと瞬きをした。


 父の言葉が、よくわからないらしい。


「でも……」


「ん?」


「僕がすっごく強くなれば、みんなを助けて帰ってこられるんじゃないの?」


 ダーンの笑みが、ほんの少し止まった。


 ルーンは続ける。


「誰かが危ない目に遭ってたら、僕が助けに行く」


「災裔が現れたら、僕が倒す」


「そうすればいいんでしょ?」


 ダーンは息子を見つめ、すぐには答えなかった。


 努力したからといって、必ずできるわけではないことがある。


 誰もが無事でいられる答えなど、最初から存在しない選択もある。


 彼は、それを知っていた。


 だが、今の息子にはまだ、そんなことを知ってほしくなかった。


 だから、ただルーンの髪をくしゃりと撫でた。


「大きくなれば、わかるさ」


 ルーンは頬を膨らませた。


「大人って、いつもそう言う!」


 エイダが笑った。


「だって、まだ子供なんだもの」


「もう十二歳だよ!」


「はいはい」


「あと何年かしたら、一人で冒険にだって行けるんだから!」


 ダーンは片眉を上げた。


「まずは俺に勝ってから言え」


 ルーンはたちまち立ち上がった。


「じゃあ、明日また勝負だ!」


「まず座って、飯を食え」


「はーい……」


 三人はまた笑った。


 窓から差し込む陽の光が、食卓を照らしている。


 どこにでもある、ごく普通の朝だった。


 あまりにも普通で、ルーンが特別に覚えておこうとすら思わないほどに。


 明日も、明後日も、そのずっと先も……。


 こんな日々が、ずっと続いていく。


 彼は、そう信じていた。


*


 朝食が終わると、ルーンは木剣を抱えて家を出ようとした。


「ルーン!」


 台所から母の声が飛んでくる。


「なあに?」


「待って。これを持っていって」


 エイダは台所から出て、小さな布袋を息子に手渡した。


 中には焼きたてのパンが二つ入っていた。


「お腹がすいたら食べなさい。日が暮れるまで帰ってこない、なんてことにならないようにね」


 ルーンは袋を開き、ぱっと目を輝かせた。


「わあ! ありがとう、母さん!」


「それから、村からあまり遠くへ行っちゃ駄目よ」


「わかってるって!」


「いつもそう言うんだから」


 エイダは困ったように笑った。


 ルーンは布袋を腰に下げ、そのまま出かけようとして、ふと立ち止まった。


 振り返り、食卓のそばに座っている父を見る。


「父さん!」


 ダーンが顔を上げた。


「どうした?」


「明日の朝も稽古しようね!」


「……まだ諦めてないのか?」


「もちろん!」


 ルーンは胸を張った。


「絶対に一本取るから!」


 ダーンは思わず笑った。


「いいぞ」


「約束だよ!」


「ああ、約束だ」


 父の返事を聞くと、ルーンは満足そうに笑い、くるりと背を向けて家から飛び出した。


「行ってきまーす!」


 少年の声は、村の小道を遠ざかっていく。


 エイダは戸口に立ち、息子の後ろ姿を見送った。


「あの子ったら、本当に一日もじっとしていられないのね」


 ダーンが隣に立つ。


「若い頃のお前そっくりだ」


 エイダが振り返った。


「何か言った?」


「……いや、何も」


 彼女は思わず笑った。


 しばらくして、エイダが静かに尋ねた。


「今日の稽古はどうだった?」


 ダーンは息子が走っていった方角を見る。


「……ずいぶん上達した」


「本当?」


「ああ」


 少し間を置く。


「思っていたより、ずっと早い」


 エイダは嬉しそうに笑った。


「それなら、いいことじゃない?」


 だが、ダーンはすぐには答えなかった。


 その目に、複雑な色が浮かぶ。


「……そうかもしれないな」


 エイダは夫の様子が変わったことに気づいた。


「ダーン?」


 男は目を伏せ、古傷だらけの自分の両手を見つめる。


「俺はただ……」


 その先は、言葉にならなかった。


 エイダは静かにその手を握った。


「あの子は、あなたとは違うわ」


 ダーンがわずかに顔を上げる。


 妻は優しい声で続けた。


「ルーンが生まれたときには、もう戦争は終わっていたでしょう」


「あの子には、あの子自身の暮らしがある」


「これから先の未来だって、あるんだから」


 ダーンはしばらく黙っていた。


 やがて、小さくうなずく。


「……ああ」


 それでも、彼の視線は村の外に広がる荒野へと向けられたままだった。


 遠い空には雲ひとつない。


 すべてが、ひどく穏やかに見えた。


 村人たちの話し声、子供たちの笑い声、麦畑を渡る風のさざめき。


 それらが重なり合い、この村の何でもない日常を形づくっていた。


 ダーンは妻の手をそっと握り返す。


 誰よりもよく知っていた。


 平和は、決して当たり前に与えられるものではない。


 それでも今は、こんな日々が、あと少しでも長く続いてほしかった。


 せめて……。


 いつも自分を倒すと言って騒いでいるあの子が、無事に大人になるまでは。


――第三話「ありふれた幸せ」・了

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