第二話|灰穂村の朝
辺境城・ログから、およそ二日かかる場所に、ひっそりとたたずむ小さな村があった。
灰穂村。
村の周囲を取り囲んでいるのは、立派とは言いがたい、簡素な木の柵だった。その村のちょうど中央には、長い年月を経た時計塔が高くそびえている。
塔の外壁にはいくつものひびが入り、文字盤の二本の針は、ずっと前から十一時四十七分を指したまま止まっていた。
大小さまざまな木造の家が道に沿って並び、屋根からは薄い炊煙が立ちのぼっている。
朝日の柔らかな光が、まだ村に漂う淡い霧を透かして、黄金色に染まった麦畑の上へと静かに降り注いでいた。
そよ風が吹くたび、畑一面の穂が波のようにゆっくりと揺れる。
農夫たちはそれぞれの畑で朝から忙しく働き、女たちは水の入った桶を手に、井戸と家との間を何度も行き来していた。
鶏小屋から逃げ出した雌鶏を、数人の子供たちが追いかけ回している。あまりの騒がしさに、近所の住民たちまで顔をのぞかせた。
「こら! うちの鶏を追い回すんじゃない!」
「あははは!」
子供たちは笑い声を上げながら走り去っていく。
少し離れた道では、木材を山ほど積んだ荷車がゆっくりと進んでいた。
車を引く青年は額の汗を拭いながら、行き交う村人たちに挨拶をしている。
この小さな村には、外敵を威圧するような立派な城壁などない。
にぎやかな商店街もない。
世界各地から旅人が集まってくることもない。
ここにあるのは、百人あまりの住民と、彼らがそれぞれの日々を懸命に生きながら守り続けている、ささやかで平凡な暮らしだけだった。
「おう、ダーン! おはよう!」
農具を片づけていた中年の男が、二人に手を振った。
「今日も息子に剣を教えてたのか?」
ダーンはうなずく。
「ああ。朝は時間もあるからな」
男はルーンを見ると、思わず笑った。
「どうだ? 今日は父ちゃんに勝てたか?」
ルーンの表情が、ぴたりと固まる。
「……あとちょっとだった」
「ははは! また『あとちょっと』か!」
「今度は本当に、あとちょっとだったんだって!」
男は笑いながら首を振った。
「なら、次こそ頑張れよ!」
「絶対に勝ってみせるから!」
ルーンは負けん気たっぷりに言い返した。
隣では、ダーンが笑いをこらえていた。
親子はそのまま道を歩いていく。
村の東側にある詰め所の前を通りかかると、何人かの男たちが木柵のそばに集まり、腐りかけた支柱に新しい板を打ちつけていた。
「ダーン!」
その中の一人、がっしりした体格の男が声をかけてきた。
短い顎ひげを生やし、右頬には頬骨から耳元まで続く古傷がある。
灰穂村の警備隊長、ヘドだ。
「昨夜、西側の柵がまた壊されたんだ」
ヘドは詰め所の脇に立てかけられた折れた木材を指さした。
西側の柵から取り外してきたものだった。
木の板の表面には、何本もの鋭く深い引っかき傷が残されていた。そのうちのいくつかは、厚い木板を貫いてしまうほどだった。
「普通の獣がつけた傷には見えない」
ダーンは足を止めた。
折れた木材へ近づき、傷の一つを指先でなぞる。
「ほかに痕跡は?」
「爪痕がいくつかあるだけだ。足跡はない」
ヘドは眉をひそめる。
「もう何人かに、近くを調べさせている」
ダーンはうなずいた。
「今夜から巡回を二人増やしたほうがいい」
「俺もそう思ってたところだ」
そう答えてから、ヘドは傍らに立つルーンへ視線を移した。
「おっ、今日も父ちゃんと剣の稽古か?」
「うん!」
ルーンはすぐに胸を張った。
「それに、もう少しで勝てたんだ!」
ヘドは思わず笑う。
「まったく、元気な坊主だな」
そう言って、ルーンの肩をぽんと叩いた。
「もう少し大きくなったら、警備隊の手伝いでもしてみるか?」
「本当にいいの!?」
「父ちゃんが許してくれればな」
ルーンはすぐさま振り向いた。
「父さん!」
ダーンは息子の期待に満ちた目を受け流す。
「まずは木剣をちゃんと使えるようになれ」
「ええーっ!」
ヘドは声を上げて笑い、ダーンも薄く笑った。
だが、立ち去ろうとしたとき、ダーンはもう一度、あの折れた木材を振り返った。
「ヘド」
「ん?」
「本当に災裔の痕跡が見つかっても、一人で追わせるな」
ヘドの顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「わかってる」
ダーンはそれ以上何も言わず、息子とともに家への道を歩き出す。
けれどルーンは、何度も後ろが気になってしまった。
「父さん」
「何だ?」
「もし本当に災裔が村の近くに来てたら、ヘドおじさんたちは勝てるの?」
ダーンは一瞬、口をつぐんだ。
「相手によるな」
「でも、警備隊には人がたくさんいるんでしょ?」
「人数が多ければいいというものじゃない」
「どうして?」
ダーンは息子を見た。
「災裔は、俺たち人間とは違うからだ」
少し間を置いて、続ける。
「普通の剣や刀じゃ、当てたところで、ろくに傷を負わせられないこともある」
ルーンは目を少し大きくした。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「だから災器が必要になる」
「災器……」
ルーンはその言葉を小さく繰り返した。
その名前なら知っていた。
村の大人たちが話をしているとき、ときどきその名前が出てくるのを聞いたことがあったからだ。
災器という武器のこと。そして、それを携えて災裔と戦う人々のこと。
災器を自在に操り、危険な荒野でも生き抜いていく者がいるという。
中には、「契」と呼ばれる特別な力を使える者もいるらしい。
ルーンにとって、そんな人々の話は、何度耳にしても胸が躍るような、憧れに満ちた物語だった。
「父さん」
「ん?」
「災器を手に入れたら、災契使になれるの?」
ダーンは息子をちらりと見る。
「誰に聞いたんだ?」
「前に村を通った旅の人だよ! 災契使はすっごく強いんだって!」
ダーンは静かに首を横に振った。
「そういうわけじゃない」
「え?」
「災器を熟練して扱える者は、災器使と呼ばれる」
「災器使……」
「だが、災契使になるには、災器を使えるだけでは足りない」
ルーンは顔を上げた。
「どうして?」
「『契』を覚醒させなければならないからだ」
少年はぱちぱちと瞬きをした。
「契?」
「ああ」
ダーンは息子の持つ木剣に目を落とした。
「一本の災器と長い間を過ごしても、結局、覚醒しない者もいる。逆に、思いもよらない瞬間に災器と特別な共鳴を起こす者もいる」
「じゃあ、共鳴さえすれば、契が使えるようになるの?」
「必ずしもそうじゃない」
ダーンは答えた。
「本当に契を覚醒させて、初めて災契使と呼べるんだ」
ルーンは、わかったような、わからないような顔でうなずいた。
少しして、ふいに別のことを思いつく。
「じゃあ、父さんも昔は災器を持ってたんだよね?」
ダーンはすぐには答えなかった。
「……ああ」
その瞬間、ルーンの目が輝く。
「じゃあ、見せてくれない!?」
「駄目だ」
「どうして!」
「今のお前にはまだ早い」
「またそれ!」
ルーンは不満そうに頬を膨らませた。
ダーンはそんな息子を見て、少しだけ声を引き締める。
「ルーン。災器はおもちゃじゃない」
「誰にだって手に取ることはできる。だが、誰でも安全に扱えるとは限らない」
「使い方を間違えれば、自分を傷つけることだってある」
ルーンはうつむいた。
「……わかってるよ」
ダーンは手を伸ばし、息子の髪をくしゃりと撫でた。
「もう少し大きくなったら、少しずつ教えてやる」
ルーンは顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
少年は、たちまち笑顔になった。
「じゃあ、約束だよ!」
ダーンはかすかに微笑む。
「約束だ」
けれど、その言葉を口にしたとき、彼の視線は無意識に、自分の右手に残る古傷へと落ちていた。
その古い傷痕は、すでに長い年月を、彼とともに過ごしてきたものだった。




