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第一話|世界の向こう側

 パァン!


 二本の木剣が空中でぶつかり、乾いた音が響いた。


 少年は二歩ほど後ずさりすると、改めて剣の柄を握り直した。


 しかし、その顔に落胆の色はない。それどころか、ますます楽しそうな笑みを浮かべていた。


「もう一回! 今度こそ絶対に当ててみせる!」


「その台詞、今日だけでもう十九回目だぞ」


 男は呆れたように笑い、手にしていた木剣を軽く肩に担いだ。


「でも、今度は違うんだ!」


 少年は両手で木剣を強く握り締め、自信に満ちた目で男を見つめた。


「ほう? 何が違うんだ?」


「父さんの弱点が、もうわかったから!」


「そうか?」


 男は片眉を上げる。


「それは楽しみだな」


「見ててよ!」


 少年は大きく息を吸い込んだ。


 次の瞬間、勢いよく一歩踏み出す。


「はああっ――!」


 木剣が空気を切り裂き、男の左肩へ向かって一直線に振り下ろされた。


 しかし、あと少しで当たるという瞬間。


 男はほんのわずかに体を横へずらしただけで、その一撃をあっさりとかわしてしまった。


 少年はすぐさま手首を返し、剣を振る方向を変えようとする。


 だが、二撃目を繰り出すよりも早く、一本の足がいつの間にか少年の進む先へ伸びていた。


「え?」


 次の瞬間、少年の体勢が崩れた。


 ドサッ!


「いったああっ!」


 少年は草むらに勢いよく倒れ込み、握っていた木剣まで手から離れて飛んでいった。


 一枚の草の葉がゆっくりと舞い落ち、ちょうど少年の鼻先に乗る。


 少年は仰向けになったまま、青く澄んだ空を見上げていた。


 その顔には、悔しさがありありと浮かんでいる。


「また同じ失敗だな」


 男は少年を見下ろした。


「どうやって相手に当てるか、そればかり考えている。相手がどう反撃してくるか、少しも考えていないだろう」


「だって……」


 少年は起き上がると、不満そうに男を指さした。


「父さん、ずるいよ!」


「ほう?」


「毎回ひょいひょい避けるし、わざと僕を転ばせるし!」


 男は片眉を上げた。


「じゃあ、敵にはその場に立ったまま、お前に斬られてほしいのか?」


「そういう意味じゃないってば!」


 男はとうとう笑いをこらえきれなくなった。


 彼の名は、ダーン・ヴィル。


 四十五歳。


 短く切り揃えた黒っぽい髪は、少し乱れている。左の眉の上には薄い傷痕が一本残っていた。


 飛び抜けて大柄というわけではない。しかし、鍛え上げられた肩や腕には、長年の鍛錬によって培われたものが、はっきりと表れていた。


 よく見れば、その手のひらにも厚いまめがいくつもできている。


 それは、長年農作業を続けてきたことで生まれたものではなかった。


 幾年にもわたって剣を握り、戦い、そして幾度となく死の淵をくぐり抜けてきた証だった。


 今のダーンは、灰穂村で巡回と防衛を担う、ただの夜警にすぎない。


 しかし、新世紀が始まるよりも前。


 彼は、かつて本物の兵士だった。


 原災の戦役を生き延びた、一人の兵士だったのだ。


 そして、そのダーンに何度も挑み続けている目の前の少年こそ、彼の一人息子――


 ルーン・ヴィル。


 十二歳である。


「もう一回!」


 ルーンは勢いよく立ち上がり、草の上に落ちた木剣を拾い上げた。


 ダーンはそんな息子をちらりと見る。


「まだ疲れてないのか?」


「全然!」


「脚が震え始めているぞ」


「震えてない!」


 ルーンは慌てて背筋を伸ばした。


 しかし、長時間の稽古で小刻みに震えている両脚が、その強がりをあっさりと裏切っていた。


 ダーンは仕方なさそうに首を横に振った。


「わかった。じゃあ、これが最後だ」


「本当!?」


「ただし、今度も負けたら帰るからな」


「うん!」


 ルーンはすぐさま構え直した。


 けれど、今度はすぐに飛びかかろうとはしなかった。


 同じ攻撃を繰り返していても、結果が変わらないことはわかっている。


 だったら……。


 ルーンは深く息を吸い、父の動きをじっと観察し始めた。


 ダーンは相変わらず、その場に立っている。


 右足を少し後ろへ引き、左肩からは自然に力を抜いていた。手にした木剣は、体の横で斜め下に向けられている。


 一見すると、隙だらけに見える構えだった。


 けれど、いざ攻撃を仕掛けると、父はいつも簡単にその一撃をかわしてしまう。


 ルーンはわずかに眉をひそめた。


 自分が正面から攻撃すると、父さんは決まって横へ避ける。


 そして、慌てて追いかけようとすれば、体勢を立て直す前に足を出して転ばせてくる。


 それなら……。


 最初から父さんの肩を狙わなかったら?


 そう考えた瞬間、ルーンの顔に笑みが浮かんだ。


「準備はいいか?」


 ダーンが尋ねる。


 ルーンは大きくうなずいた。


「うん!」


 次の瞬間、少年は勢いよく駆け出した。


 木剣を高く振り上げ、そのままダーンの左肩へと振り下ろす。


 先ほどまでと、まったく同じ攻撃だった。


 ダーンは自然に重心を移し、右へかわそうとする。


 しかし、木剣が振り下ろされる寸前。


 ルーンは突然、体を低く沈めた。


 肩へ向かっていたはずの木剣が、途中でその軌道を変える。


 狙いは上半身ではない。


 ダーンの左脚だ!


 男の目つきが、ほんのわずかに変わった。


 ダーンは素早く左脚を後ろへ引く。


 木剣の先が、ズボンの裾をかすめた。


 あと少し。


 本当に、あとほんの少しだった!


 ルーンの顔には、すでに勝利を確信した笑みが浮かんでいた。


 だが、少年は一つだけ忘れていた。


 その一撃にすべての力を込めたせいで、体の重心が完全に前へ傾いていたことを。


 ダーンは木剣を振って反撃しなかった。


 ただ、空いている左手を伸ばし、少年の肩を軽く押しただけだった。


「え?」


 ドサッ!


 ルーンは再び草の上へ倒れ込んだ。


 今度は、木剣まで手からすっぽ抜けて飛んでいった。


「うわああっ!」


 ダーンがしゃがみ込む。


「二十回目」


「……」


「今日はここまでだ」


「ちょっと待って!」


 ルーンは勢いよく顔を上げた。


「今の、あと少しで成功してたよね!?」


「ああ」


「父さんも見たでしょ!?」


「見たぞ」


「じゃあ、どうしてまた負けたの!」


 ダーンは手を伸ばし、息子の髪についていた草の葉を取り除いた。


「一つ、忘れていたことがあるからだ」


「何?」


「相手の動きをうまく予測できたとしても、相手がもう一度反撃してこないとは限らない」


 ルーンはきょとんとした。


 ダーンは地面に落ちていた木剣を拾い、息子の目の前でゆっくりと動かしてみせる。


「さっきの一撃は確かによかった。俺が避けるとわかっていたから、わざと途中で攻撃の方向を変えたんだろう?」


「でも、お前はその一撃に、持っている力を全部使ってしまった」


 そう言って、ダーンは息子に木剣を差し出した。


「もし当たらなかったら、その次はどうする?」


 ルーンはうつむいた。


 確かに、考えていなかった。


 さっきの瞬間、頭の中にあったのは、たった一つのことだけだったからだ。


 父さんに当てる。


 ただ、それだけ。


 ダーンは黙り込んだ息子を見つめると、手を伸ばしてその頭を優しく撫でた。


「覚えておけ、ルーン」


「本当の戦いは、どちらが先に相手に一撃を当てるか、それだけで決まるものじゃない」


「攻撃する前に、その次の一手まで考えておけるかどうかが大切なんだ」


 ルーンは顔を上げた。


 それから、手の中の木剣に目を落とす。


 父の言葉を、頭の中で一生懸命考えているようだった。


 しばらくして、少年はふと期待に満ちた笑みを浮かべた。


「つまり……父さんは、さっきの僕がすごかったって言いたいんだよね?」


「……」


 ダーンは無表情で息子を見つめた。


「そうでしょ?」


 ルーンは期待に目を輝かせている。


 ダーンは立ち上がると、くるりと背を向け、村の方へ歩き始めた。


「帰って朝飯にするぞ」


「父さん!」


「母さんが、もうずいぶん前から呼んでる」


「まだ答えてくれてない!」


 ルーンは慌てて木剣を拾い、父の後を追いかけた。


 ダーンは振り返らず、ただ小さく笑った。


 本当のところ、先ほどの一撃には少し驚かされていた。


 ルーンは短い時間の中で攻撃の方向を変えただけではない。


 相手の重心や反応を観察し、それに合わせて動きを変えることを、すでに覚え始めていた。


 十二歳の子供にしては、見事な判断力だった。


 もしかすると……。


 昔の自分よりも、ずっと優れているかもしれない。


 けれど、ダーンはその驚きを顔には出さなかった。


 ただ、隣を歩きながら、いつまでも文句を言い続けている息子を見つめていた。


 そして、なぜだろう。


 この子が、いつの日か本物の戦場で、今教えた技を使わなければならなくなる。


 そんな日だけは、どうか永遠に訪れないでほしいと、ふと思った。

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