第六話|鐘の音と約束
「……誰と一緒に行くか、って?」
ルーンはきょとんとした。
シーナは小さくうなずいた。
「うん」
少女は窓辺に立ったまま、両手を木製の窓枠に添えている。
外から吹き込む風が、耳元の髪をそっと揺らした。
「いつも言ってるでしょう? 大きくなったら村を出て、外の世界を冒険したいって」
「うん!」
「だったら、誰と一緒に行くか、考えたことある?」
ルーンは何度か瞬きをした。
そういえば、そんなことを真剣に考えたことはなかった。
いつも思い描いていたのは、立派な災器使になった自分が、広い世界を旅する姿だった。
強い災裔を倒すこともある。
見たこともない大きな街を歩き、大勢の人に歓迎されることもある。
けれど、そうした想像の中にいるのは、いつも自分一人だった気がする。
「……うーん」
ルーンは眉を寄せた。
「父さんは、たぶん一緒に来てくれないだろうなあ」
シーナは少し驚いた。
「どうして?」
「だって、きっと『まずは木剣の稽古をしろ』って言うから」
ルーンはわざと声を低くし、父の口調を真似た。
「『ルーン、俺に勝ってから言え』」
シーナは思わず吹き出した。
「似てる!」
「でしょ!」
ルーンは得意げに笑う。
「それに、父さんには見回りがあるし、母さんだって村のみんなの世話をしてるから」
再び遠くへ視線を向けた。
「だから、大きくなったら一人で冒険に出られるかなって」
シーナはすぐには答えなかった。
ただ、小さくつぶやく。
「……そっか」
ルーンは振り返った。
「どうしたの?」
「別に」
「本当に?」
「本当だってば」
シーナは窓の外に目を戻した。
麦畑を抜け、村の外の丘へと続く細い道。
二人にとっては、幼い頃から見慣れた景色だった。
それでも、まだ村を離れたことのない子供たちには、道の向こうがまるで別の世界のように感じられた。
少しして、ルーンが口を開く。
「じゃあ、シーナは?」
「え?」
「シーナだって、大きくなったら外の世界を見たいでしょ?」
少女は少し目を見開いた。
「……見たいよ」
その声は、少し小さかった。
ルーンはすぐに笑顔になる。
「だよね!」
「でも、私はルーンとはちょっと違うかな」
「どこが?」
シーナは少し考えた。
「私は、そんなに災裔と戦いたいわけじゃないし」
「え?」
「すごく強い災器使になりたいわけでもないの」
遠くの景色を眺めながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「ただ、村の外にいる人たちが、どんな暮らしをしてるのか知りたいんだ」
「大きな街の通りを歩いてみたいし」
「いろんな場所で、その土地の料理も食べてみたい」
「できるなら、本に書いてある景色も、自分の目で見てみたいな」
ルーンは黙って聞いていた。
シーナの口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「街によっては、この時計塔より高い建物もあるんだって」
「本当!?」
「うん。前に村へ来た商人さんが話してたでしょう?」
ルーンは一生懸命に思い出す。
「あっ! ログがどれだけにぎやかな街か、ずっと話してたおじさん!」
「そう、その人」
シーナは笑った。
「ログにはお店がたくさんあって、いろんな土地から旅人が来るんだって」
「そうそう!」
ルーンは勢いよくうなずく。
「公会の支部もあるって言ってた!」
「うん」
「商隊を護衛する氏族の人たちも!」
「そういうことは、よく覚えてるんだね」
「だって、すごそうだったもん!」
シーナはまた笑った。
ルーンは木剣を肩に担ぎ、遠くを眺める。
「本当にログへ行けたら、まずは公会を見に行きたいな!」
「私は先に街を歩いてみたい」
「ええっ!?」
ルーンは勢いよく振り返る。
「公会のほうが大事でしょ!」
「どうして?」
「本物の災器使が見られるかもしれないんだよ!」
「でも、街には見たことのないものがたくさんあるんでしょう?」
「それとこれとは違うよ!」
「何が違うの?」
ルーンは口を開いた。
けれど、どう説明すればいいのかわからない。
「と、とにかく違うの!」
シーナはくすっと笑った。
「本当に、そういうのが好きなんだから」
「もちろん!」
ルーンは胸を張る。
「強くなったら、僕だって氏族に入って、公会の仕事を受けられるかもしれないし!」
「そうなんだ?」
「それで、いろんな場所へ冒険に行くんだ!」
シーナは微笑みながらうなずいた。
「うん」
二人は再び遠くを眺めた。
陽光を浴びた麦畑が、風に吹かれて金色に揺れている。
丘の向こうまで続く道を見つめていると、不思議と、遠くの世界が少し近づいたような気がした。
*
「あっ!」
ルーンが突然声を上げた。
シーナは肩を跳ねさせる。
「ど、どうしたの?」
「忘れるところだった!」
ルーンは慌てて腰の布袋に手を伸ばした。
家を出る前に、母から渡されたものだ。
袋の口を開き、中から二つのパンを取り出す。
「じゃーん!」
シーナは瞬きをした。
「……パン?」
「うん!」
ルーンは得意げに笑った。
「母さんが、朝に用意してくれたんだ!」
「エイダおばさんが?」
「そう!」
ルーンは一つを差し出した。
「これ、シーナにあげる!」
少女は少し驚いた。
「いいの?」
「もちろん!」
「でも、おばさんがルーンにくれたんでしょう?」
「二つあるし」
ルーンは当たり前のように答える。
「それに、僕は朝ごはんを食べてきたから」
シーナは差し出されたパンを見つめた。
表面はほんのりきつね色に焼けていて、麦の優しい香りが残っている。
焼きたてほど温かくはなかったけれど、手に取るとまだ柔らかかった。
「……ありがとう」
少女はそっと受け取った。
ルーンは笑う。
「どういたしまして!」
二人は窓際のきれいな場所に腰を下ろした。
少し離れたところでは、セイロが鐘を鳴らす装置の古い縄を取り替えている。
老人はときどき顔を上げ、子供たちが危ないものに触っていないか確かめると、再び作業に戻った。
ルーンは待ちきれず、パンに大きくかぶりついた。
「んー!」
満足そうに目を細める。
シーナはその顔を見て笑った。
「そんなにおいしい?」
「もひろん!」
口いっぱいにパンを頬張ったまま答える。
シーナは小さくため息をついた。
「ちゃんと飲み込んでからしゃべってよ」
「んぐ……」
ルーンは慌ててパンを飲み込んだ。
「母さんのパンは、もともとおいしいんだよ!」
「それは知ってる」
シーナも小さくひと口かじった。
柔らかなパンには、ほんのり甘みがあった。
窓の外を眺めながら、少女は足をゆっくりと揺らす。
しばらくして、ふっと笑った。
「どうしたの?」
ルーンが尋ねる。
「何でもない」
「今、笑ったじゃん」
「ちょっと、不思議だなって思って」
「何が?」
シーナは手の中のパンを見た。
「ただ時計塔の上で、パンを食べてるだけなのに」
そして、外の景色へ目を向ける。
「いつもとは、何か違う気がするの」
ルーンは考えた。
「ここが高いから?」
「そうかも」
「それとも、景色がきれいだから?」
「きっと、どっちもかな」
シーナは笑って答えた。
ルーンは顔を上げる。
大きな銅鐘が、頭上の梁から静かに吊るされていた。
窓から差し込む光が、鐘の表面に残された古い傷や染みを照らしている。
普段なら、こんな場所に来る機会はほとんどない。
ただ隣に座って、遠くの景色を眺める。
何かを急いでする必要もない。
「……こういうのも、いいな」
ルーンはふと言った。
シーナが振り返る。
「何が?」
「こういうのだよ」
手にしたパンを少し持ち上げる。
「遠くまで見えるし、シーナと一緒に食べられるし」
シーナは少し驚いたあと、笑ってしまった。
「本当に、幸せになるのが簡単だね」
「いいじゃん!」
「悪いなんて言ってないよ」
少女は首を横に振る。
「こういうの、私も好き」
*
「そうだ」
ルーンが突然、シーナへ向き直った。
「さっき、大きくなったら誰と旅行に行きたいかって聞いたよね?」
シーナの手が少し止まる。
「……うん」
「決めた!」
ルーンは真剣な顔をした。
少女は彼を見つめる。
なぜだろう。
胸が、さっきより少しだけ速く鳴った。
「……誰?」
ルーンは迷わず答えた。
「シーナだよ!」
「……え?」
少女は目を見開く。
「私?」
「そう!」
ルーンは笑った。
「シーナも外の世界を見に行きたいんでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「じゃあ、一緒に行けばいいじゃん!」
シーナはぽかんとしたまま、少年を見つめた。
ルーンはその反応に気づかず、楽しそうに話し続ける。
「そしたら僕は公会に行けるし、シーナは街を見て回れる!」
「おいしいものがあったら、一緒に食べればいいし!」
「いろんな景色も見たいって言ってたよね?」
ルーンは窓の外を指さした。
「だったら、どんどん遠くまで行こうよ!」
「すっごく遠いところまで!」
シーナは目の前の少年を見つめた。
その瞳は、相変わらずきらきらしている。
毎朝、木剣を握って父に挑んでいるときと同じだった。
努力すれば、いつか行きたい場所へたどり着ける。
少年は本当に、そう信じているのだろう。
シーナは少しうつむいた。
けれど、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……ばか」
「え?」
ルーンは驚いた。
「どこがばかなんだよ!」
「だって、そんなに簡単に言うんだもん」
シーナは顔を上げる。
「旅行するには、いろいろ準備が必要なんだからね」
「わかってるよ!」
「お金だっているし」
「うん!」
「道も覚えなきゃいけないし」
「うん!」
「危ないことがあっても、何も考えずに飛び出しちゃ駄目だよ」
「……うん」
急に返事が小さくなった。
シーナは思わず笑った。
「ほらね」
「な、直すってば!」
「本当?」
「本当!」
ルーンは真剣にうなずいた。
「それに、僕が強くなったら、ちゃんとシーナを守るから!」
シーナは少し黙った。
「……じゃあ、ルーンが危ない目に遭ったら?」
「え?」
「もし、ルーンのほうが危なくなったら、どうするの?」
少年は眉を寄せた。
そんなことは、あまり考えたことがなかった。
「うーん……」
しばらく考えてから、口を開く。
「そのときは、シーナに助けてもらう?」
シーナは目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「何それ!」
「駄目なの?」
「駄目じゃないけど」
少女は笑いながら首を振る。
「そんな答えが返ってくるとは思わなかった」
ルーンは少し照れくさそうに頭をかいた。
「だって父さんが言ってたんだ。相手にどうやって勝つか、それだけ考えちゃ駄目だって」
「次にどうするかも考えなきゃいけないんだって」
少年は隣に置いた木剣を見た。
「本当に勝てない相手が出てきたら、ずっと一人で頑張るわけにもいかないし」
シーナは静かに聞いていた。
ルーンは顔を上げる。
「だから、僕が危なくなったら頼んだよ!」
少女は彼を見つめた。
それから、優しく笑った。
「……いいよ」
「本当?」
「うん」
シーナは手を伸ばし、少年の額に軽く触れた。
「でも、自分のこともちゃんと大事にしてね」
「わかってるよ!」
「いつも英雄になろうとしないこと」
「いつもじゃないって!」
「本当に?」
「……たまにだけ」
シーナはまた笑い出した。
*
二人は残りのパンを食べ終えた。
シーナは服についたパンくずを丁寧に払う。
ルーンは立ち上がり、もう一度窓のそばへ歩いていった。
「シーナ」
「ん?」
「じゃあ、約束だよ」
少女が顔を上げる。
「何を?」
「大きくなったら、一緒に旅行しよう!」
ルーンは振り返った。
背中から差し込む陽光が、木の床に少年の影を落とす。
「一緒にログへ行って」
「それから、もっと遠くへ行こう!」
「見たことのない街を、いっぱい見に行くんだ!」
シーナは少年を見つめた。
しばらくして、ゆっくりと立ち上がる。
「……うん、いいよ」
ルーンの目が輝いた。
「本当!?」
「うん」
少女は微笑んだ。
「でも、一つだけ条件があるの」
「条件?」
シーナは右手を差し出し、小指を軽く曲げた。
「今日の約束を、忘れないこと」
ルーンは一瞬、きょとんとした。
けれど、すぐに自分も小指を差し出した。
「もちろん!」
二人の小指が、そっと絡み合う。
「約束だよ」
シーナが言った。
「約束!」
ルーンは笑顔で答える。
少女はその顔を見つめた。
「それからね」
「ん?」
「旅に出ても、ちゃんと帰ってこようね」
ルーンは瞬きをする。
「灰穂村に?」
「うん」
シーナは窓の外へ目を向けた。
「どれだけ遠くに行っても、またここへ帰ってきたいの」
「父さんも母さんもいるし」
「友達もいる」
「小さい頃から知ってる場所も、いっぱいあるから」
少女は振り返った。
「だから、一緒に出発するだけじゃなくて」
「一緒に帰ってくるの」
ルーンはシーナを見つめた。
なぜだろう。
今朝、食卓で父に言われたことを思い出した。
いつか、大切な人を無事に連れて帰ってこられたら……。
それで十分なんだ。
あのときは、その意味がよくわからなかった。
けれど、今シーナの言葉を聞くと、それも悪くない気がした。
ルーンは絡めた小指に、少しだけ力を込めた。
「うん!」
笑顔で答える。
「じゃあ、一緒に帰ってこよう!」
シーナも笑った。
「約束だからね」
「うん!」
「絶対、忘れちゃ駄目だよ!」
「忘れないってば!」
二人は顔を見合わせて笑った。
窓から吹き込む風が、少女の髪をそっと揺らす。
遠くには黄金色の麦畑が広がっていた。
道は村の入口を抜け、まだ見ぬ場所へと続いている。
*
「おーい、お前さんたち!」
後ろから、セイロの声が聞こえた。
二人は慌てて振り返る。
老人は新しい縄をしっかりと取りつけ、道具を片づけているところだった。
「ずいぶん楽しそうに話してたねえ。何の話だい?」
「セイロおじいちゃん!」
ルーンは嬉しそうに駆け寄った。
「僕、シーナと約束したんだ!」
「ほう?」
老人は笑って少年を見た。
「どんな約束だい?」
「大きくなったら、一緒に旅行するんだ!」
セイロは少し目を見開いた。
それから、シーナに視線を向ける。
少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「……うん」
セイロは一瞬、黙った。
やがて、その顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「そうかい」
老人は手を伸ばし、ルーンの頭を撫でた。
「それなら、ちゃんと大きくならないとね」
「もちろん!」
「外の世界には、楽しいことばかりじゃないからね」
「わかってるよ!」
ルーンは胸を張った。
「だから、もっと強くなるんだ!」
セイロはすぐには答えなかった。
目の前の少年を見て、それから窓辺に立つ少女を見る。
最後に、静かに微笑んだ。
「……そうだね」
「でもね」
老人は顔を上げ、頭上に吊るされた大きな銅鐘を見た。
「いつか、本当に遠くまで旅に出る日が来たら……」
「ここで帰りを待っている人たちのことも、忘れちゃいけないよ」
ルーンは瞬きをした。
そして、明るく笑う。
「わかってる!」
シーナも小さくうなずいた。
「うん」
セイロは笑いながら道具箱を持ち上げる。
「さて、今日はここまでにしようか」
「ええっ? もう下りるの?」
「おや、まだ見足りないかい?」
「もうちょっとだけ見たい!」
「はっはっは!」
老人は笑った。
「それなら、最後にもう一度見ておいで」
ルーンはすぐに窓のそばへ駆け戻った。
シーナもその隣へ歩いていく。
二人は並んで、時計塔の上から外を眺めた。
遠い山々が、静かに連なっている。
麦畑は風に揺れ、村のあちこちから子供たちの笑い声や、大人たちの話し声が聞こえてきた。
頭上では、大きな銅鐘が静かに吊るされている。
鐘の音は、鳴らなかった。
時計塔の外にある二本の針も、相変わらず十一時四十七分を指したままだ。
灰穂村の人々にとっては、何でもない朝だった。
けれど、ルーンとシーナにとって、今日という日は少しだけ特別なものになった。
まだ一度も足を踏み入れたことのない、世界の向こう側。
そこに、一緒に行きたい場所ができた。
そして、どれだけ遠くまで行っても。
一緒に帰ってこようと約束した場所も。
――第六話「鐘の音と約束」・了




