第080話:白金の雷剣
リィンは地底湖へ足を踏み入れた瞬間、奇妙な感覚に囚われていた。
静まり返った湖面に姿を現し、こちらへ向けてゆっくりと進んでくるケルピー。その青白く燃える双眸と視線が交わった刹那、頭の中へ、明確な戦意を孕んだ悍ましい「声」が直接響いた気がしたのだ。
直後、ケルピーの周囲から、極限まで圧縮された高圧の水刃が放たれる。
高度な魔法障壁をまだ自力で構築できないリィンは、ステラが展開した庇護に頼るしかなかった。だが、敵の猛攻はそれだけに留まらない。湖面から這い上がるウォーターハウンドの群れ、さらに天井の鍾乳石に擬態していた『アクアガーゴイル』の容赦ない波状攻撃が襲いかかる。
頭上から死角を突くガーゴイルの奇襲に、リィンは気づくことができなかった。
「リィン、危ない!」
咄嗟にアイラが身を挺してリィンを魔法壁で庇う。だが、リィンを救った代償として、もう一体のガーゴイルから放たれた鋭利な爪が、アイラの肩を深く切り裂いた。
「あ、アイラさん……っ!?」
「気にするな、かすり傷だ!」
アイラは痛みに顔を歪めることもなく吠え、迫り来るガーゴイルの首を瞬時に切り捨てると、再び狂暴な魔獣の群れへ突撃していく。
リィンもまた、愛用の剣『メルクリウス』を強く握り締め、襲いかかる魔獣を文字通り爆散させながら、必死に戦線を維持した。
しかし、戦況は悪化の一途を辿る。
前方で縦横無尽に立ち回るアイラの白金の鎧と純白のマントは、すでに赤黒い血と泥土にまみれていた。卓越した剣技でウォーターハウンドたちを退けてはいるものの、無限に再生する水の魔獣を相手に、その動きからは確実に勢いが削がれつつある。限界は近かった。
アイラは自らの身を削りながらも、リィンの方へ押し寄せる魔獣を優先的に排除してくれていた。
ステラとアイラ――二人の強者に、自分はどれほど守られているのだろうか。
それを痛烈に実感した、まさにその瞬間だった。
一瞬の隙を突き、ウォーターハウンドの強靭な牙がアイラの脚へ深く突き刺さる。
「っ……あ……!」
アイラが膝をつき、湖面へ崩れ落ちた。
そこへ、好機と見た他のウォーターハウンドたちが、一斉に牙を剥いてアイラへ躍りかかる。
「アイラさん――ッ!!」
リィンの叫びとともに、彼女の感情に呼応した蒼雷が迸った。
咄嗟に放たれた激しい雷撃がウォーターハウンドたちへ直撃する。魔獣たちは悲鳴を上げてのけぞった。
その時、リィンは突き動かされるように『メルクリウス』を天高く掲げた。
直後、洞窟全体の空気を震わせる凄まじい轟音が響き渡り、視界が純白の光に包まれる。
特大の雷を帯びたメルクリウスは、普段の蒼い剣姿から、猛烈なプラズマを纏う『白金の雷剣』へとその姿を変貌させていた。
――神具の真なる覚醒。
リィンが白金の剣を一振りするごとに、空間を裂くほどの強大な破壊力が対象を直撃し、ガーゴイルの硬質な身体すら一撃で木端微塵に爆散させていく。
さらに、刃から溢れ出した強力な追撃の雷撃が、地底湖の水面を伝って周囲へ一気に拡散した。
バチバチと激しい紫電が湖面を駆け巡る。
「水」の肉体を持つウォーターハウンドやアクアガーゴイルたちにとって、雷撃は天敵であった。
逃げ場のない伝播する雷撃に呑まれ、魔獣たちは次々と蒸発し、虚空へ消滅していく。
「――助かった、リィン!」
すぐさま態勢を立て直したアイラが再び戦列へ加わる。凄まじい手際で残った魔獣たちを駆逐していった。
「よし! いけるぞ!」
満身創痍ながらも、背後からステラの正確無比な回復魔法を受けたアイラは、瞬時に傷を癒やして立ち上がる。
中空のケルピーへ肉薄する軌道が見えた。
アイラは剣を構え、強烈な真空の斬撃を放とうとする。
――その刹那、再びケルピーが甲高く嘶いた。
その声を合図に、地底湖の水面から濃密な霧が急速に立ち上がり始める。瞬く間に辺りは視界を遮る薄白い世界へ包まれていった。
「二人とも気をつけて! 単なる霧じゃないわ、これには強力な『幻影』の効果が含まれている!」
中空から執拗に降り注ぐケルピーの水刃を多重防壁で防ぎながら、ステラが鋭い声で警告を発する。
アイラは霧の奥、湖面に浮かぶケルピーの影へ向けて渾身の真空刃を放った。
同時にリィンもまた、白金の刃から目も眩むような雷撃を放つ。
しかし、二人の一撃はケルピーの姿を虚しくすり抜け、霧の彼方へ消えた。
それは幻影であった。
直後、全く想定していなかった死角から、本物の高圧水刃が二人を襲う。
「っ、しまっ……!」
「ここは、私に任せて!」
ステラの凛とした声が響く。
「二人は残りの魔獣の処理を頼むわ!」
「わかった、任せる!」
アイラが即座に答え、再びリィンの元へ全力で駆け戻る。
リィンは雷撃の剣と化したメルクリウスを振るい、霧に紛れて果敢に襲いかかってくるウォーターハウンドたちを的確に斬り伏せていった。
一方、ステラは冷徹な金色の瞳で、霧の奥深くに身を潜めるケルピーの「本質」を正確に見据えていた。
「……浅知恵ね。どのように本体を隠し、位置を偽ろうとも、私の前では無駄」
二人への防御壁を維持したまま、ステラは自由になった片手を霧の空間へ向ける。
ドラゴンスケイル――超高密度の魔力の鱗が、ステラの意志に従って全方位へ展開された。
幻影によって姿を眩ませていたケルピーだったが、龍の全方位知覚を持つステラには、その隠蔽すら通用しない。
的確に放たれた魔力の質量攻撃が、ケルピーの不可視の肉体を激しく打ち据えた。
「――グルルアァッ!?」
たまらず悲鳴を上げ、幻影の霧を維持できなくなったケルピーの本体が、中空へ生々しく弾き出される。
「リィン、今よ!」
「はいっ……!!」
ウォーターハウンドの数を減らし、好機を待っていたリィンが鋭く踏み込んだ。
ケルピーの無防備な胴体を見据え、白金の雷剣を渾身の力で一閃する。
刃から放たれた最大出力の雷撃が、逃げ場を失ったケルピーの脳天へ直撃した。
凄まじい閃光と爆音が轟き、ケルピーの巨体が激しく痙攣する。
やがて、その肉体は光の粒子へと崩壊し、水色に輝く巨大な魔石へ姿を変えて床へ転がった。
それと同時に、視界を覆っていた濃霧が嘘のように晴れ渡る。
あれほど広大だった地底湖の水面も、まるで最初から存在しなかったかのように引き、消え去っていった。
後に残されたのは、ただ静まり返った広大な鍾乳洞の部屋だけだった。
「はぁ……はぁ……ようやく、終わった……」
緊張の糸が切れたアイラとリィンは、その場へ崩れ落ちるように座り込んだ。
二人の荒い呼吸音だけが、静まり返った洞窟内へ響く。
ステラは二人の元へ歩み寄り、地面に転がっている瑞々しい水色の大きな魔石を優しく拾い上げる。
「お疲れ様。……これで第二層も、無事に突破できたわね」




