(三)残った名前
◆ 残った名前
「名前を呼ばれることに、意味があるのでしょうか」
ネアが言った。
「名前ならあるだろ」
シアが答える。
「ネアだ」
「あります」
「なら呼べばいい」
「あなたの名前は、セトが付けたのでしょう」
「ああ」
「わたしの名前を付けたのは、セトではありません」
「同じ者が付けなければならないのか」
「分かりません」
「また分からないのか」
「分からないものは分かりません」
ネアという名を与えたのは、遠い昔に生きていた一人の人間だった。その人間は、特別な死に方をしたわけではない。戦いで命を落としたわけでもない。
病によって、若くして倒れたわけでもない。人間として生きられるだけの時間を生きた。年を取り、やがて寿命を終えた。
本人にとっても、それで十分な人生だっただろう。周囲の人間も、それが一番の幸せだと思っただろう。ネアも、それでよいと思った。
人間が永遠に生きられないことは知っていた。精霊王と同じ時間を生きる必要もない。短いから不幸なのではない。
限りある時間を生ききったのなら、それでよい。そう思う反面、何も残らないのだとも思った。家も変わる。
物は失われる。その人間の声を知る者も、顔を知る者も、やがていなくなる。長い時間が過ぎれば、その人間が確かに生きていたことすら、誰も知らなくなる。
残ったのは、ネアという名前だった。その人間が、ネアへ与えたもの。だから名乗り続けた。
月の精霊王セレーネとだけ名乗れば済む時にも、ネアという名を使った。誰にでも親しく呼ばれたかったわけではない。
月の精霊王として距離を置かれることも、大切だった。それでも時折、誰かがネアと呼ぶ。そのたびに、あの人が世界へ残したものが、まだ消えていないと思えた。
「ネアという名は、昔の人間からもらいました」
ネアが言った。
「その人間は?」
「もういません」
「死んだのか」
「ええ。寿命を全うしました」
シアは少し考える。
「なら、その名前は残っている」
「そうですね」
「ネアが名乗っているからだ」
「ええ」
「それなら、セトが呼んでも同じだ」
シアは簡単に言った。ネアはセトを見る。
「あなたは、その人ではありません」
「当たり前だ」
「名前を付けた人でもありません」
「ああ」
「それでも、ネアと呼べますか」
セトは少し眉を寄せた。何を迷っているのか分からないという顔だった。
「ネアと呼べば、ネアを呼んでいる」
「月の精霊王ではなく?」
「月の精霊王であるネアだろ」
「セレーネではなく?」
「今、俺の前にいるのはネアだ」
セトはそれ以上、説明を加えなかった。あの人に似ている。また、そう思った。だが、やはり違う。
あの人なら、もう少し気の利いた言葉を選んだかもしれない。セトは、思ったことをそのまま言う。おそらく、自分の言葉がネアにとってどれほど大きな意味を持つのかも分かっていない。
セトはセトだ。あの人の代わりではない。それでも、あの人が残した名前を、今はセトが呼んでいる。
名前は過去に残っただけではない。今も誰かへ届いている。
「試します」
ネアは右手を差し出した。
「何をすればいい」
セトが尋ねる。
「手を取ってください」
セトがネアの手を取る。
「それから?」
「名前を呼んでください」
「今?」
「わたしが合図します」
「先に言え」
「今、言いました」
ネアは目を閉じた。周囲を流れる原光へ意識を向ける。採石場へ向かう無数の流れ。
その一部が、ネアの周囲でわずかに揺れた。シアが剣になった時、守りたいと思ったという。自分は何を望んでいるのだろう。
古代兵器を止めたい。周囲の人間を守りたい。それは月の精霊王としての役目なのかもしれない。
だが、それだけではない。セトを行かせたくないわけではなかった。セトは、止めても行くだろう。
ならば、力を貸したかった。黒月へ乗せられる一部ではなく。自分の力を、そのまま。
「セト」
「ああ」
「呼んでください」
「ネア」
※第15話「二本目の精霊剣」は全九回です。
続きます。
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