(四)また来た水
◆ また来た水
観測と訓練を始めてから、何か月も過ぎた。
その日の記録を終えて訓練室へ戻ろうとしたセトたちは、入口に立つ男を見つけた。
背中の上部まで伸びた藍青色の髪を、首の低い位置で緩くまとめている。
衣装の端は水中にあるようにゆっくり揺れ、淡い青緑色の瞳がセトへ向けられていた。
水の精霊王ヴァルナだった。
「ヴァルナさん?」
フィオラが足を止める。
セトも、なぜここにいるのか分からず男を見た。
水の精霊王が祀られている村から、天文設備まではかなり遠い。
ここへ来るよう頼んだ覚えもない。
「大変そうだったから来た」
「誰かが呼びましたか?」
「呼ばれてはいない」
「なぜ、ここが分かった?」
「分からない。なぜか、ここにいることが分かった」
その返事に、フィオラは以前の山小屋を思い出した。
セトの精霊回路が壊れ、誰も治せなくなった時も、ヴァルナは突然現れた。
あの時も頼まれたわけではなく、場所だけを知っているかのように迷わず来た。
「以前、山小屋へ来た時も同じでしたね」
「そうだった」
「二度とも、セトさんが困っている時です。何か理由があるのでしょうか」
「分からない」
「誰かから教えられたのですか?」
「誰にも会っていない」
言葉に迷いはない。
隠しているようにも見えない。
本人にも、理由を説明できないのだろう。
フィオラは問いを重ねるのをやめた。
「今回は、何をしに来たのですか?」
ヴァルナはセトの胸元へ目を向けた。
「その流れを見に来た」
セトは黙って訓練室の扉を開けた。
◆ 固定された分かれ道
ヴァルナはセトの手首へ触れた。
細い水の流れが指先から入り、セトの精霊回路を静かに巡る。
セトは十四個の水球を浮かべ、右と左へ異なる速さで動かし始めた。
ヴァルナは水球ではなく、その動きを生む流れの内側を見ていた。
「二つに分けている」
「ああ」
「分けた後の道が変わらない」
セトは動きを止めた。
光の精霊王戦から使ってきた方法では、右へ流す量と左へ流す量を自分で決めていた。
十四へ枝分かれする先も、必要に応じて絞ったり広げたりする。
セトは細かく調整しているつもりだった。
だが、ヴァルナが見ているのは流す量ではない。
最初に決めた分かれ道そのものだった。
「流れが変わるたび、オレが全部調整してる」
「できている」
「なら、何が悪い」
「遅い」
ヴァルナは穏やかな声で即答した。
先ほどの訓練でも、水球の動きが遅れた瞬間があった。
セトはその原因を操作の不足だと考えていたが、ヴァルナは回路の構造へ目を向けている。
「一つの流れが増えるたび、道を狭める。一つが減れば、別の道を広げる。十四へ分けるたび、すべてを決め直している」
「そうしないと、二つの流れがぶつかる」
「今の形では、そうなる」
ヴァルナの水が、セトの回路の分岐へ集まった。
そこは最初に二つへ流れを分ける場所だ。
右と左は、混ざらないように明確な境目を持っている。
しかし、その境目が固定されているから、急に流れが変わるたび道幅を変えなければならない。
「水の道は、石の管ではない」
ヴァルナの言葉を聞き、セトは自分の回路の形を初めて別のものとして捉え直した。
◆ 形を変える回路
ヴァルナの輪郭が薄くなった。
水の精霊王の存在が、一時的にセトへ重なる。
以前、壊れた精霊回路を再構築した時と同じ方法だった。
ただし今のセトは、すでに水の精霊王型の回路を持っている。
最初から作り直すのではない。
その内部で固定されている流路を、状況に応じて変化できる形へ調整するのだ。
ヴァルナの力や役割がセトへ渡るわけでもなかった。
左右に分かれていた境目が、水のように緩やかに揺れた。
一つの場所へ負荷が集まると、その周囲へ細い逃げ道が開く。
右へ多く流れれば、回路の空いている部分が右側へ広がる。
左の流れが増えた時には、そこへ道が移る。
十四の作用点へ向かう分岐も、一度決めた形へ縛られない。
速い流れを遅くし、遅い流れを速くして無理にそろえるのではなく、違うまま通す。
力の偏りは、回路の一か所で受け止めず全体へ逃がした。
やがて、ヴァルナの水がセトの身体から抜ける。
「もう一度」
セトは十四個の水球を浮かべた。
右側の七つへ急に多くの力を送る。
以前なら、左側の流れを先に細くしておかなければ中央で詰まっていた。
今は右へ向かった流れに合わせ、回路の形が変わる。
左側も止まらない。
セトは右の流れを弱め、左の一つだけへ大きく送った。
空いた経路が左へ寄る。
その途中で右の三つを動かしても、流れは途切れなかった。
「こんな動きもできるのか」
「できるようにしたのではない。水の道を、水の道として使う」
十四個の水球が別々の軌道を描き始めた。
セトは自分で道を広げ直さずに、それを見続けることができた。
※第65話「一年の戦い」は全六回です。
続きます。
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