(五)消えない自分
◆ 消えない自分
「消えたくない」
フィオラは、先ほど口にした言葉を繰り返した。
「これは、シアさんとネアさんが使った言葉です」
「はい」
「ですが、お二人が消えたくなかったこと自体は、本物です」
「そうです」
「私には、本当に消えるものがないのでしょうか」
ネアは答えなかった。
それは、ネアが外から決められることではなかった。
フィオラは再び目を閉じる。
風の精霊王アイオロスとして受け継いだ知識。人間として生きたミレナの記憶。
どちらも、フィオラが生まれるより、はるか前から存在していた。
アイオロスの知識が持つ時間から見れば、フィオラが過ごした数か月など、ほとんど何もない。
ミレナの記憶と比べても同じだった。
家族と暮らした時間。村で過ごした時間。セトたちと旅をした時間。人間として悩み、選び、風の精霊剣となった記憶。
その長さに比べれば、フィオラ自身が生まれてから積み重ねたものは、あまりにも少ない。
風の精霊殿で目を覚ました。
自分がミレナではないと知った。
新しい名前を望んだ。
フィオラという名を受け入れた。
風の精霊殿を、自分が戻る場所に決めた。
ミレナがセトを選んだ記憶を、そのまま自分の選択にはしなかった。
自分の目でセトを見た。
自分で考えた。
そして、フィオラ自身の意思で、セトを精霊剣の使い手として選び直した。
どれも、アイオロスの知識にはない。
ミレナの記憶にもない。
フィオラが生まれてから、自分で行った選択だった。
だが、まだ少ない。
フィオラをアイオロスという役割としてだけ見れば、数千年続く知識の端へ生じた、わずかな揺らぎでしかない。
ミレナの続きとして見れば、長い人生の記憶が途切れた後に付け加わった、短い数か月でしかない。
役割だけが残れば、フィオラはいなくてもアイオロスは存在できる。
ミレナの記憶だけを基準にすれば、フィオラが生まれてからの時間は、ほとんど存在していないのと同じだった。
フィオラ自身まで、自分をミレナの続きだと思ってしまえば。
自分をアイオロスという役割だけで捉えてしまえば。
フィオラという個人は、最初から存在しなかったことになる。
「……消えます」
フィオラが言った。
「何がですか」
ネアが尋ねる。
「私です」
閉じた知識へ触れる。
「私は今、身体を失うわけではありません」
境界は、まだ動かない。
「ですが、私をアイオロスとしてだけ見れば、私はいません」
知識の奥で、何かがわずかに揺れた。
「ミレナさんの続きとして見ても、私はいません」
フィオラは、自分の名を意識する。
役割名でも、受け継いだ名前でもない。自分のために与えられ、自分で受け入れた名前。
「私は生まれてから、まだ数か月しか経っていません」
アイオロスの知識と比べれば、一瞬にも満たない。
ミレナの人生と比べても、ほとんど存在していないのと同じだった。
「それでも、私はここにいます」
境界が揺れる。
「ミレナさんの記憶を持っています。アイオロスの知識も持っています」
そのどちらも否定しない。
捨てようとも思わない。
どちらも、現在のフィオラが持つものだった。
だが、それらだけがフィオラなのではない。
「私は、ミレナさんではありません」
閉じた知識の奥へ、細い亀裂が入った。
「役割としてのアイオロスだけでもありません」
フィオラが生まれてから選んだものを思い出す。
「これからも、フィオラとして存在したい」
それは、誰かを助けるという目的より前にある願いだった。
役割を果たすためではない。
強くなるためでもない。
自分という個人を、この先も続けたい。
「私は消えたくありません」
境界が大きく揺れた。
「ミレナさんとしてではなく、フィオラとして選び続けたい」
フィオラは、閉じた知識へ触れる。
「これから先の私を、私自身で作りたい」
鍵が外れた。
※第61話「二翼のフィオラ」は全七回です。
続きます。
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