(二)名前を取り戻す
◆ その名を呼ぶ
ネアは目をそらさなかった。
赤いもの。火の王。消すべき相手。
その呼び方では、どうしても足りない。
あの者は、ネアへ言い返す。
無茶をして、たしなめられて、それでも笑う。
役割の名前で呼んでも、その一人だけを呼んだことにはならない。
個人を示す名前がある。
ネアはそれを知っているはずだった。
名前だけが失われたのではない。
言葉も、記憶も、初めから残っている。
ただ、それを自分にとって大切なものとして選び取れなかった。
ネアは思い出す。
誰かがあの少女に名を与えた。
初めて出会った人間が、役割とは別の名前で呼んだ。
その人間の名前も知っている。
剣を二本持ち、精霊王を道具として扱わない、危なっかしいほど真っすぐな人間。
セト。
その名前が浮かんだ瞬間、別の名前も続いた。
ネアは声を出そうとした。
空気のない場所では、声は音として届かない。
それでも、かつて同じ人間へ身を預け、何度も共に戦った相手とのつながりが残っている。
短い言葉なら、そこへ通せるかもしれない。
ネアは意識を向けた。
相手を消すためではなく、相手から返事をもらうために。
また、消せという思いが割り込んでくる。
その思いに従うかどうかは、自分で決める。
ネアは名前を引き上げ、つながりへ呼びかけた。
「……シア! 返事しなさい!」
◆ シア
呼ばれた。
シアはそう感じた。
音ではない。
耳へ届いたものでもない。
それでも、自分へ向けられた言葉だと分かった。
シア。
火の精霊王を表す名前ではない。
次の世代へ受け継がれる役割名でもない。
たった一人の人間が、自分へ与えた名前だ。
最初に会ったとき、セトは自分をイフリートとして恐れなかった。
目の前にいる自分へ話しかけ、名前を付けた。
白刃と黒刃を使う人間。
危険へ向かっても、誰かに無理やり力を出させようとはしない人間。
そのセトへ、自分の意思で剣となって身を預けた。
炎を合わせ、走り、何度も隣で戦った。
剣になることを決めたのは役割の知識ではない。
ほかの誰でもない、自分自身の選択だった。
記憶は消えていなかった。
ただ、相手を消すこと以外へ使えなくなっていた。
シアは赤い四翼を開く。
炎は生まれないが、身体の回転がほんの少し変わった。
黒い翼が見える。
長い髪。漂う袖。いつも自分の無茶を止めに来る精霊王。
そこにいるのは、消すべき月の力ではない。
「聞こえてる。いや、今やっと聞こえた感じだ」
言葉を返した途端、自分が何を言うつもりだったのかまで分かった気がした。
シアは黒い翼を見つめる。
「ネア」
呼びかけは短かった。
それでも、黒い翼が大きく揺れた。
相手も、自分の名前を待っていたのだと分かった。
◆ 私はネア
「はい。私はネアです」
ネアは答えた。
シアが呼んだのは月の精霊王ではない。
いまここで、同じように落ちているネア自身だった。
自分が何を見て、誰と関わってきたか。
なぜ四翼を開き、その後に何をしたのか。
すべて覚えている。
シアへ向けて放った黒い線も、あの少女の身体が崩れた瞬間も。
思い出せなかったのではない。
それらを見ても何も感じず、次の攻撃だけを選んでいた。
今は、違う選択ができる。
シアの赤い翼がわずかに光った。
ネアの黒い線が、反射的にその方向へ伸びかける。
赤いものを消せという認識は、まだ消えていなかった。
シアも、一瞬だけ黒い線へ火を向けようとした。
二人の視線が合う。
相手を見失うより先に、自分たちが何をしようとしたかを理解した。
ネアは黒い線の向きを変え、シアは火へ流しかけた力を止める。
どちらの攻撃も成立しなかった。
いまの四翼に、それだけの出力はない。
だが、力が戻ったとしても同じ選択をする必要はなかった。
原初の欲望は残っている。
四翼も消えていない。
それでも二人は、自分の意思で相手を残そうとしていた。
「……まだ、消せって感じがする」
「私もです」
「でも、ネアを消したくない」
「ええ。私も、あなたを消すつもりはありません」
短い確認だった。
それで十分だった。
少なくとも、いま二人が向かおうとしている先は同じだった。
※第54話「名前を取り戻す」は全七回です。
続きます。
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