(四)音のない場所
◆ 横流れ
ネアは風が来る側へ移動した。
シアの赤い火が届く前に、黒い線を横風と同じ方角へ伸ばす。
火の外側が流れ、シアの身体へ当たる空気も横へ押す。
そこへネア自身が反対側へ抜ければ、拳を受けずに済む。
最初の一撃では、狙いどおりだった。
シアの拳がわずかに逸れ、ネアはその脇を抜けた。
だが、次の瞬間に風の流れが変わった。
山脈から遠ざかった空の中にも、高さと場所によって違う向きの風がある。
黒い線を伸ばした側へ、今度はネア自身の袖が強く引かれた。
ネアの身体が予定より遅れる。
そのわずかな遅れへ、シアが踏み込んだ。
拳の先へ赤い火が集まる。
ネアは風へ任せてかわすことをやめ、四翼から直接力を通して身体をずらした。
拳が胸の前を通る。
黒い防御膜が一瞬たわんだが、直撃にはならなかった。
シアにも都合の悪い変化があった。
ネアを追うために強く火を放つと、流された炎の外側が大きく広がる。
次に向きを変えた時、自分が作った熱い空気の流れが横から来た。
シアは四翼の片側を動かし、予定の軌道へ戻った。
修正できた。
しかし、修正しなくてよい場所なら、その分だけ早く相手へ届く。
ネアは上を見た。
雲のさらに上へ来ても、空気がある限り風は吹く。
ならば、風の少ない場所まで離れればよい。
黒い翼が一段高く上がった。
シアは赤い火を短く放ち、その後を追う。
ネアを逃がすためではない。
相手へ届く最短の道が上へ続いていたからだった。
やがて、袖を引いていた風の力が少しずつ弱まり始めた。
◆ 空気が薄れる
ネアの長い袖が、次第に大きく揺れなくなった。
強い風を抜けたのか、さらに高く来たためなのか。
少なくとも今、身体の横から押す流れは弱まっている。
ネアは黒い四翼で向きを変え、同じ操作をもう一度行った。
先ほどまで必要だった余分な修正がいらない。
シアが追いついて右拳を振った。
ネアは身体を沈める。
拳はその頭上を通る。
シアは四翼へ力を戻し、その場で向きを変えた。
空気によって身体を押される量が少なくなり、移動の結果を読みやすくなっている。
シアが火を放つ。
赤い流れは空へ伸びた。
低い場所では、火の周囲の空気が熱せられ、揺らぎや音を生んでいた。
ここでは、外側に広がる揺らぎが小さい。
火の中心が弱くなったわけではない。
ただ、周囲へ運ばれる熱や空気の動きが少なくなった。
ネアは黒い線を炎へ伸ばす。
外側へ散った火を動かそうとしたが、風に押し広げられる部分そのものが少ない。
代わりに、シアが放った精霊力へ直接触れる必要があった。
ネアは中心を受けず、進む場所だけをずらしてかわした。
二人の衣装は、四翼の流れに沿って漂っている。
下にある星が遠くなり、空の青さも薄れていた。
シアは一度、ネアの背後へ回ろうとする。
ネアが黒い線を引く。
互いの移動へ加わるものは、先ほどより少ない。
風の抵抗がなくなれば、相手を消せるわけではない。
だが、風に邪魔されず動ける方がよい。
二人は高度を戻さず、さらに空の薄い場所へ入っていった。
◆ 音のない場所
シアが右手を振った。
赤い火が伸びる。
その中心の光は、空気がほとんどない場所でも消えなかった。
シアの火は、周囲の酸素を燃料にしているものではない。
四翼が取り込んだ原光を熱と放出へ変えている。
火の精霊力を通す場所がある限り、空気は必要なかった。
ネアの黒い線も途切れない。
空気の流れを操っているのではなく、そこにある原光へ触れ、向きを変えている。
ネアは火の外側へ線を伸ばし、進路を少し逸らした。
シアはそのずれを補うように火を放つ。
赤と黒が交わり、すぐに離れる。
ところが、その攻防に音はなかった。
谷で岩が砕けた時のような衝撃音は聞こえない。
火が広がる音も、衣装が風に鳴る音もない。
光だけが動いている。
シアはそれを不思議に思わなかった。
聞こえなくても、相手の位置と自分の力は分かるからだった。
ネアの口元がわずかに動いた。
声を届ける空気がないので、言葉は相手へ伝わらない。
念話を送ろうとしたわけでもなかった。
そもそも、互いを個人として呼び合う理由を見失っている。
シアは息を吸っていなかった。
息を止めて耐えているのではない。
空気がなくても、四翼の循環が身体を維持している。
ネアも同じだった。
身体の形は崩れず、七個の分霊核も同じ流れを巡っている。
周囲に空気がなくなった分、移動を邪魔する力は減った。
それでも、相手を消すという目的は変わらない。
シアの赤い翼が傾き、ネアの黒い翼が向きを変える。
二人は音のない場所で、なおも接近し続けた。
※第52話「星の外へ」は全六回です。
続きます。
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