(五)煙の中
◆ 下への偏向
ネアは四翼の間から、黒い線を何本も伸ばした。
シアの頭上、左右、進行方向の先へ広がる。
相手の拳や炎だけを狙ったものではない。
その周囲へ流れている原光を、まとめて下へ向けようとしていた。
氷と晶の精霊王を消した時も、流れに方向を与えた。
だが今、目の前にいる相手は同じ四翼を持っている。
外からの原光だけを操っても、それだけで全身を動かせるとは限らなかった。
ネアが右手を下げた。
シアの周囲の流れが、下方へ傾く。
赤い四翼へ入ろうとする原光まで引かれ、シアの身体がわずかに沈んだ。
そのまま谷の方へ進路がずれる。
シアは進もうとした場所から外されたことに気づいた。
右腕を伸ばしたまま、四翼の下側へ火を通す。
赤い流れが横へ広がり、沈み始めた身体を押し戻した。
黒い線のすべてを消したわけではない。
下へ向く力が残ったまま、それを上回る別の流れで進む方向を直した。
ネアはさらに周囲の原光を下へ送った。
シアの身体が、もう一度傾く。
しかし赤い翼の片側が大きく開くと、軌道はすぐ戻ってくる。
どこかへ押せば、その反対から力が加わる。
ただ重さを増やしたり、地面へ引き落としたりしているのではない。ネアが動かせるのは、そこを巡る流れだった。
ネアは右手を止めた。
作用していないわけではない。
相手の進路を何度もずらした。
だが、相手が自分で流れを作り直せる以上、ずらすだけでは押し切れない。
シアは一度下へ向いた身体を戻し、正面から火を放った。
狙いは、まだ黒い線を広げているネアだった。
◆ 逸れた一撃
ネアは火を受け止めなかった。
直前で黒い線を横へ重ね、炎の外側を押し流す。
さらに自分も斜め上へ移動した。
正面へ進むはずだった赤い流れが、谷の斜面へ向きを変える。
火はネアの横を通り過ぎ、そのまま岩壁へ届いた。
岩の表面が赤く光る。
次の瞬間、深い亀裂が走った。
厚い岩盤が崩れ、谷底へ落ちる。
大きな破片が地面へぶつかり、さらに細かな石を巻き上げた。
土煙が広がった。
山腹の一部が崩れたことで、谷へ向かう細い斜面も途中から失われていた。
岩が落ちた後も、細かな土砂が崩れ続ける。
精霊力による攻撃は通り過ぎているのに、動いた岩はその場で止まらなかった。
シアはその変化へ目を向けなかった。
攻撃がネアを外れたことだけを認識している。
ならば、次を放てばいい。
町で火を止めた時のような迷いは生まれなかった。
ネアにも、崩れた地形を戻す理由はなかった。
火を自分から遠ざけるために向きを変えた。その結果として岩が砕けた。
今、優先するべきなのは、もう一度迫る赤い姿だった。
ネアが黒い線を伸ばしたところへ、シアが突っ込む。
赤い四翼が岩の破片を押しのけた。
ネアは斜面から離れ、崩落の上を横切る。
シアの拳は、その少し後ろを通った。
次に二人が向きを変えた時、舞い上がった土煙が間に広がった。
先ほどまで見えていた相手の輪郭が、灰色の中へ隠れた。
◆ 煙の中
シアの目から、ネアの姿が消えた。
だが、遠くから感じていたつながりは途切れていない。
右上のどこかに、黒い四翼の強い流れがある。
その方角だけは分かった。
シアが火を放つ。
赤い光が煙の中へ伸びた。
しかし、黒い姿は現れない。
火は相手の少し下を通り抜け、さらに遠くで薄れた。
方向が分かることと、拳や火を当てる位置まで分かることは違っていた。
ネアも、煙の向こうにいるシアの力を感じていた。
赤い四翼が周囲へ流す原光は大きい。
ただし、その力の広がりだけを頼りにすれば、身体の正確な位置を誤る。
正面から火を受け止める危険は、煙の中でも変わらなかった。
黒い線が土煙へ触れる。
ネアは自分の近くの原光を動かし、漂う細かな土砂を横へ流した。
完全に晴らす必要はない。
自分が通る範囲と、シアが近づく方向を見られれば足りる。
わずかな隙間から、赤い光が見えた。
シアは煙を抜けようとしている。
ネアは上へ移動した。
前や横へ抜ければ、また岩壁が近くなる。上には、今のところ何もない。
シアが煙を突き抜けた。
目の前にネアはいない。
感覚を追って顔を上げると、黒い四翼が自分より高い位置にあった。
シアが追う。
今度は火を放つ前に、相手の輪郭を見た。
ネアはさらに上へ動く。
背後の岩壁が少しずつ遠くなった。
煙は谷の上へ残されたままだった。
二人とも、もうそれを片付けようとはしなかった。
※第51話「互いを消す」は全六回です。
続きます。
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