(五)下へ
◆ 黒い四翼
音はしなかった。
だが、閉じられていた知識が開いたことだけは分かった。
背中から、黒い力の面が伸びる。
右上へ一枚。
左上へ一枚。
右下へ一枚。
左下へ一枚。
四枚の半透明な翼が、大きなX字を作って開いた。
羽根ではない。
光を通しながら、その部分だけが欠けて見えるほど深い黒だった。
長い袖が浮く。
裾が地面から離れる。
凍りついていた羽衣が砕け、四翼と一体になるように周囲へ広がった。
翼の間を、黒い線が走る。
結晶の檻へ触れる。
檻そのものは消えない。
だが、その内側を流れていた精霊力が、すべてネアの知覚へ入った。
氷の精霊王が広げている冷気。
晶の精霊王が結晶へ送り続けている力。
二人の身体を形作っている流れ。
固定されていた分霊核。
残る一個。
そして、周囲に満ちている無数の原光。
すべてが見えた。
すべてへ手が届いた。
二個の分霊核が動く。
結晶に包まれていた方は、外側の結晶を残したまま、その中を黒い光となって抜けた。
もう一個も、ネアの左右へ並ぶ。
二つの器が、四翼の循環へ入る。
傷口へ黒い光が集まった。
肩へ刺さっていた結晶が押し出される。
凍っていた右腕が動く。
ネアの身体が、地面から静かに浮いた。
◆ 自分だけでよい
知識と一緒に、別の感覚が入ってくる。
自分以外の流れがある。
氷の精霊王。
晶の精霊王。
遠くにいる、ほかの精霊王。
それらは、ネアではない。
自分ではないものが、同じ世界に存在している。
そのことが、不自然に思えた。
必要ない。
自分だけでよい。
自分と異なるものを、すべて消せばよい。
「違います」
ネアは小さく言った。
何に対して否定したのか、自分でも分からなかった。
「私は、ネアです」
かつて人間から与えられた名前。
長い時間を越えて残ってきた名前。
シアやセトが呼ぶ名前。
それを口にしても、流れ込んでくる欲望は止まらない。
ネアという名前を否定しているのではない。
もっと古い欲望が、その上へ重なってくる。
氷の精霊王が両手を向けた。
「寒くする。止める。止める」
四方から冷気が集まる。
晶の精霊王も、檻の外側へさらに厚い結晶を作る。
「形を作る。壊す。もっと作る」
黒い四翼を閉じ込めようとしていた。
ネアは二人を見た。
光の影響で判断を失い、自分の役割だけを繰り返している精霊王。
先ほどまでなら、止める方法を考えていた。
元へ戻せる可能性を探していた。
今は、違った。
二人が狂っているかどうかは関係ない。
そこにいること自体が邪魔だった。
◆ 下へ
ネアは左手を上げた。
手のひらを、氷と晶の二人へ向ける。
新しい術を考えたわけではない。
何をすればよいのかは、開いた知識の中にあった。
周囲の原光へ触れる。
ネア自身の力だけではない。
氷の精霊王が広げた冷気の中にある精霊力。
晶の精霊王が結晶へ流している精霊力。
地中を流れる精霊力。
空気中を漂う微細な精霊。
その場にあるすべての力へ、一つの方向を与える。
「下へ」
ネアが手を下ろした。
銀青色でも黒でもない。
目に見える光は、ほとんど生まれなかった。
それでも、その場の精霊力が一斉に下へ流れた。
氷の精霊王の身体が落ちる。
晶の精霊王も、地面へ叩き付けられた。
二人の膝が大地へ沈む。
重力が増したように見えた。
だが、周囲の岩は動いていない。
結晶の柱も倒れない。
氷に覆われた草も、形を保っている。
地面に積もった雪さえ、そのままだった。
下へ流れているのは、物質ではない。
精霊力だけだった。
精霊力によって身体を形作る精霊王は、自分自身の内側から下へ引かれている。
「何を……」
氷の精霊王が片手を地面へ付いた。
身体を凍らせ、大地と一体にして耐えようとする。
晶の精霊王も、自分の周囲へ厚い結晶を作った。
透明な殻が女性の身体を包む。
だが、外側を固めても意味はない。
引かれているのは、殻の外からではなかった。
二人自身を満たす精霊力が、下へ向かっている。
※第49話「下へ」は全六回です。
続きます。
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