(四)フィオラ
◆ 逆の恐れ
「以前の私は、反対のことで怖くなりました」
ミレナが言った。
「人間の記憶と、風の精霊王の知識が混ざって、自分がミレナなのか分からなくなりました」
「覚えています」
「今は、あなたが私の記憶を持っている」
ミレナは目の前の同じ顔を見る。
「でも、あなたは自分が私ではないと分かっている」
「ミレナさんが、ミレナさんとして残っているからです」
女性は答えた。
「風の役割が離れた後も生きて、今日まで新しい時間を過ごしている。だから、わたしがその場所へ入る必要はありません」
「私は、風の役割がなくても私でした」
「はい。わたしも、ミレナさんの記憶だけではミレナさんになりません」
ミレナはうなずいた。
風を失った自分と、風として生まれた別の自分。
同じ記憶を境に、二人は反対の側へ立っていた。
◆ 役割の名前
「では、今は何と呼べばいい」
セトが尋ねる。
「役割名なら、アイオロスです」
「それでいいのか」
「よくありません」
女性ははっきり答えた。
「アイオロスは、風の精霊王の役割名です。わたしが消滅し、次が生まれても、同じ名前で呼ばれます」
「ヴァルナは、役割名だけで個を保っている」
シアが言う。
「村の人たちが、毎日同じ存在として見ているからです」
ネアが答えた。
「名前がなければ個になれないわけではありません」
「でも、私は欲しいです」
女性はミレナを見る。
「ミレナという名前は、この方のものです」
次に、自分の手を見る。
「少なくとも名前だけは、ミレナさんと混ざらないものが欲しいです」
「自分で付けないのか」
シアが尋ねた。
「自分で考えると、ミレナさんが選びそうな名前を選んでしまいそうなので」
「それもミレナの記憶に引っ張られた選択になる」
「はい」
◆ 名前を付ける者
女性はセトを見た。
「セトさんに、お願いできますか」
「俺が?」
「ミレナさんの記憶の中で、セトさんは、風の精霊王ではなくミレナさんを見つけました」
ミレナが逃げた時の記憶。
風の力だけを追わず、人間として残した痕跡から本人を見つけた。
「役割と人を分けて見ることができる方だと思っています」
「その評価も、ミレナの記憶から来ているんじゃないのか」
「そうです」
女性は否定しなかった。
「今のわたしは、受け継いだ記憶を使わずに誰かを選ぶほど、何も経験していません」
「なら、今は決めなくてもいい」
「いいえ。名前がないままでは、何を経験しても、誰の経験なのか言いにくいです」
セトは女性とミレナを見比べた。
似ている。
しかし、同じではない。
目の前の女性は、ミレナの記憶を持ちながら、ミレナの名前を使わないことを自分で選んでいる。
「フィオラ」
セトが言った。
◆ フィオラ
「フィオラ」
女性は自分の名前を確かめるように繰り返した。
精霊殿を抜けていた風が、一度だけ中央へ集まる。
衣装の端と淡い緑色の髪が、静かに持ち上がった。
「なんか響きは似てますね」
「どうしても似てしまう」
セトが答える。
「嫌か」
「いいえ」
女性は首を振った。
「全く関係のない名前にすると、記憶まで否定するような気がします。似ていますが、同じではありません」
「ミレナとフィオラ」
シアが交互に二人を見る。
「これなら呼び分けられる」
「髪の色でも分かるだろう」
「暗いところだと間違えそう」
「シアは明るくても間違えそうです」
ネアが言う。
「間違えない」
「先ほど、ミレナが二人いると言いました」
「あれは最初だけ」
フィオラは二人のやり取りを見て、また少し笑った。
それはミレナの記憶にもある光景だった。
しかし、フィオラとして見たのは初めてだった。
◆ 名前で変わるもの
「名前を付けたことで、何か変わりましたか」
ミレナが尋ねる。
フィオラは自分の内側を確かめる。
「力は変わっていません」
「記憶も?」
「同じです。わたしがミレナさんではないという考えも、名前をもらう前からありました」
「名前だけで個人が作られたわけではありません」
ネアが言う。
「ですが、自分と他者が、同じ存在を同じ名で呼べるようになります」
「境界の目印?」
シアが尋ねる。
「近いです」
フィオラはもう一度、自分の名を心の中で繰り返した。
記憶を探す時には、ミレナという名前がある。
今考え、今選んでいる者には、フィオラという名前がある。
「わたしには、とても大事なものになりそうです」
※第32話「フィオラ」は全六回です。
続きます。
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