(三)生まれる気配
◆ 人間へ戻った者
ミレナは、自分の手を見る。
風の流れは見えない。
遠くの空気がどこへ向かうのかも分からない。
風の精霊王として受け継いでいた知識は、この一か月、一度も戻らなかった。
「私は、逆ですね」
「何がですか」
「身体も記憶も前のままです。でも、役割だけがありません」
「人間のミレナと、風の役割が別だったからです」
ネアが答える。
「寂しいか」
シアが尋ねた。
「少しは」
ミレナは正直に答える。
「でも、静かなことには慣れました。今は、考えたことが全部、自分の考えだと分かります」
「力がなくても平気か」
「重い物を運ぶ時は、少し不便です」
「それは風の精霊王の使い方ではないと思います」
ネアが言った。
「便利でしたよ」
「否定はしませんが」
ミレナは籠の中の布を整える。
風の知識が消えても、家族と過ごした記憶、村で覚えた仕事、セトたちと旅をした記憶は残っている。
役割が離れた後も、自分が何をしてきたかは失われなかった。
「二人が記憶ごと戻れて、よかったです」
ミレナは改めて言った。
「私だけが覚えていても、少し困りますから」
◆ 祠にいる王
夕方、四人は村の祠へ向かった。
ハルヴェンとリグは、今も村に残っている。
眠りの王が消えた直後より、ヴァルナの姿は安定していた。
指先が水へほどけることも、ほとんどない。
祠の前には、村人が置いた器と花が並んでいる。
「今日もいるな」
水を替えに来た老人が、ヴァルナへ言った。
ヴァルナは答えない。
淡い青緑色の瞳だけが、老人を追う。
「名前はなくても、誰なのかは分かってきたみたいです」
ミレナが言う。
「村の者が、毎日同じ存在として見ているからでしょう」
ネアは祠の外から流れを確かめた。
「役割だけへ戻ろうとする動きが、以前より弱くなっています」
「こいつは生まれ直していない」
リグが言う。
ハルヴェンは祠の屋根へ落ちた葉を払い、入口の横へ戻った。
「一か月見てきましたが、村の方が来なかった日はありません」
「雨の日も?」
シアが尋ねる。
「雨の日は、水を供える必要があるのかで少し揉めていました」
「結局、供えていたな」
リグが言う。
祀る方法が正しいかどうかではない。
毎日、同じ存在がそこにいると確かめることが、ヴァルナの境界を支えていた。
「あの時のヴァルナのままだ」
◆ 残った王たち
眠りの王へ取り込まれずに残った精霊王は多くない。
シアとネアは、人間とのつながりによって取り込まれなかった。
リグも、ハルヴェンへ身を預けたつながりを持っていた。
ヴァルナは狂っていたが、眠りの王へ融合する前に村へ留められた。
風の精霊王の役割は、ミレナという人間の中へ重なっていた。
それ以外の多くは、眠りの王の一部となった。
創界で役割だけを分け、世界へ返した。
「そろそろ一か月です」
ネアが言う。
「何がだ」
シアが尋ねる。
「世界へ返った役割が、次代として生まれる時期です」
リグが空を見る。
「同時に戻るのか」
「正確に同じ日ではないでしょう。ただ、近い時期に集中します」
◆ 生まれる気配
その夜、最初に立ち上がったのはシアだった。
借りた家の窓を開け、暗い空を見る。
「増えた」
セトも目を覚ます。
「何が」
「精霊王だ」
少し遅れて、ネアも起きた。
銀青色の細い線を外へ伸ばし、遠くの原光を探る。
「一人ではありません」
「どこにいる」
「遠すぎます。場所までは分かりません」
それでも、昨日までなかった大きな流れが、世界の各所へ現れている。
一つではない。
離れた複数の方角から、それぞれ異なる性質を持つ強い原光が、同じ夜に目を覚ましていた。
シアは胸へ手を置く。
「知っている感じがする。でも、誰かは分からない」
「役割の知識が反応しています」
ネアが言う。
「次代の精霊王たちが生まれ始めました」
「前の連中とは違うのか」
シアが尋ねる。
「まだ分かりません」
ネアは遠くへ伸ばした線を戻した。
「ただ、気配が強すぎます。生まれた直後の精霊王が、これほど広く役割を動かすことは普通ではありません」
その夜は、それ以上のことは分からなかった。
シアとネアに感じ取れたのは、新しい精霊王が一人ではないことと、それぞれが生まれた直後から大きく役割を動かしていることだけだった。
※第31話「生まれ直した王たち」は全五回です。
続きます。
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