(九)名前の代わり
◆ 名前の代わり
ヴァルナは祠の内側へ横たえられた。
身体の下には、水を溜められる浅い石のくぼみがある。
乾かない程度の水を残し、外へ流れないようネアが細い境界を作る。
ハルヴェンとリグは、再び動き出した時に備えて近くへ残ることになった。
セトは翔嵐を持ったまま、祠の前へ座った。
右脚への負担を風が支えているが、戦いが終わった途端、脇腹の痛みも戻っている。
「もう戻っていい」
セトが剣へ言う。
『まだ、風を外せば水が広がるかもしれません』
「ネアが押さえている」
「押さえています」
ネアが答えた。
「ミレナ、戻れますか」
『はい』
翔嵐の刀身が、淡い銀緑色の光へ変わる。
光はセトの手から離れ、祠の前へ人の形を作った。
銀緑色の髪と瞳を持つ風の精霊王の姿で、ミレナが立つ。
右手を握る。
自分が戻る方を選ぶ。
髪から光が消え、栗色へ戻った。
衣服にも重さが戻る。
両足が地面へ着いた。
「戻れました」
「ああ」
「剣からも」
「ああ」
ミレナは自分の手と、セトの空いた右手を見た。
「翔嵐」
名前を口にする。
「私の剣の名前なんですね」
「嫌だったか」
「いいえ」
ミレナは首を横へ振った。
「風の中でも、セトさんが呼んだのはミレナでした。剣には別の名前がある方がいいです」
祠の中で、ヴァルナの指先がわずかに水へ溶けた。
ネアが流れを確認する。
「名前がなくても、存在を認識されていればたぶん暴れないと思う。毎日誰かがお参りすればしばらくは大丈夫」
「ずっとではないんですか」
ミレナが尋ねる。
「状態を見なければ分かりません。眠りの王が活動している間は、原光の枯渇も続きます」
「それでも、今のヴァルナは残る」
セトが言った。
「ええ。少なくとも、次代へ役割だけを渡すために今の個人を消す必要はありません」
村人の一人が祠の前へ立つ。
何を願うでもなく、内側にいる青年を見る。
「今日から、ここにいるんですね」
ヴァルナは答えなかった。
だが、淡い青緑色の瞳が、その村人へ少しだけ向いた。
◆ 選んだ後
村へ戻る道で、セトは再びハルヴェンへ肩を貸されていた。
「精霊剣なら歩けていた」
「戻った後に歩けないなら、治ったことにはなりません」
ハルヴェンが答える。
「前回よりは動ける」
「比較対象が悪すぎます」
シアはセトの反対側を歩き、何度も右脚を見ていた。
「次は剣にならないと言った」
「今日はミレナだった」
「私の時もなった」
「必要だった」
「それを言えば何でも必要になる」
ネアが前を歩いたまま言う。
「今回は、ミレナが選んだことと、セトが無理をしたことを分けて考えてください」
「私は選んだ」
ミレナが答える。
「セトさんは無理をした」
「そういうことです」
「味方がいない」
セトが言う。
「私も以前言った」
シアが少しだけ満足そうに答えた。
ミレナは、自分の右手を握る。
人間の身体の重さがある。
風の知識も残っている。
遠い山の向こうで、雨が降っていることも分かる。
それでも、今歩いているのが誰かは分かった。
風の力を得たからではない。
精霊剣になれたからでもない。
自分で風の側へ進み、自分で身を預け、自分で人間へ戻った。
どの記憶が誰のものか、すべてを分けられなくてもいい。
今ここで選んだことは、ミレナのものだった。
作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。
※ネタバレ範囲にご注意ください。
https://www.simulationroom999.com/blog/elemental-cross-top/




