(八)天縛
◆ 天縛
ヴァルナの身体へ走る亀裂が増えた。
髪が水へほどける。
左右の腕が何本もの流れへ分かれ、草地の外へ伸びようとした。
セトは翔嵐を正面へ向ける。
「天縛」
その言葉を合図に、翔嵐からミレナの気配が消えた。
意識が消えた一瞬、風のすべてが固定する力へ変わる。
鍔の開放円環から、複数の細い風の輪が広がった。
輪はヴァルナの周囲へ幾重にも重なる。
輪と輪の間を、無数の直線的な風圧が結んだ。
水の身体。外へ伸びた流れ。周囲の空気。分裂へ向かっていた原光。
すべてが、一つの場所へ固定された。
暴風は起こらない。
流れ続けるはずの水が、完全な静止へ至る。
ハルヴェンは、合図を待っていた。
天縛が成立したのと同時に踏み込み、轟雷の切っ先をヴァルナの胸へ突き入れる。
紫白色の雷が、固定された水の全体へ走った。
雷を受けた部分だけを切り離すことはできない。
身体の端から端まで、一つにつながった水を雷が貫く。
同時に、ネアの銀青色の線が閉じた。
ヴァルナ一人分の水を、一人の存在として外側から囲む。
「ミレナ」
セトはすぐに名前を呼んだ。
一瞬遅れて、翔嵐の中へ息を吸うような気配が戻る。
『……はい』
風の輪がほどけ始めた。
天縛は終わった。
だが、ヴァルナはもう分かれなかった。
雷を受けた身体は力を失い、ネアの境界の内側へ膝をつく。
ハルヴェンが轟雷を引いた。
『これ以上は、今の個まで壊す』
リグの声が響く。
「止めます」
ヴァルナは人の姿を保ったまま、草地へ倒れた。
『戻れました』
「ああ」
『本当に一瞬でしたか』
「ああ」
ほんの一呼吸にも満たない時間だった。
それでも、その一瞬だけは、翔嵐のすべてが相手を固定する力へ変わっていた。
◆ 消さない
ヴァルナは草地の中央へ横たわっていた。
人の姿は保っている。
髪と衣装の端から、少しずつ水が流れ落ちるが、地面へ広がる前に翔嵐の風が戻している。
淡い青緑色の瞳が、ゆっくり開いた。
「言葉は分かりますか」
ネアが尋ねる。
ヴァルナの視線が、わずかにネアへ向く。
返事はない。
だが、先ほどまでのように無差別に水を動かそうとはしなかった。
「殺さないのか」
シアが尋ねる。
「動けません」
ネアはヴァルナの流れを確かめる。
「原光が枯渇している状態は変わっていません。境界も崩れたままです」
「また戻る?」
「このまま放置すれば」
「では、どうする」
ネアは村の方角を見る。
「一人であることを、外から支えます」
「外から?」
ハルヴェンが尋ねる。
「精霊王の個は、名前だけで保たれるわけではありません。他者とのつながりも境界になります」
「ヴァルナには個人名がない」
ミレナの声が翔嵐から届く。
「ええ。ですが、役割名しかなくても、今ここにいる存在を同じ一人として認識し続ける者がいれば、境界を支えられる可能性があります」
「村の人に覚えてもらう?」
「それが最も近い方法です」
昨日まで村を襲っていた存在を、村人へ預ける。
簡単に頼めることではない。
「まず、話をします」
ハルヴェンが言った。
「無理に祀らせることはできません」
「ええ」
ネアもうなずく。
◆ 水の祠
村の北側、水路の始まりに小さな祠があった。
石を積んだ土台へ、雨を避ける木の屋根を載せただけの簡素なものだった。
水路を使い始めたころから、水が絶えないよう願う場所として残されている。
普段、毎日人が来る場所ではない。
季節の変わり目に、水路を掃除した者が手を合わせる程度だった。
村人たちは、草地から運ばれてきたヴァルナを遠巻きに見た。
翔嵐の風が人の形を保ち、轟雷が再び動かないよう流れを見張る。
ネアは、ヴァルナが水の精霊王であることを隠さなかった。
原光の枯渇によって自分を保てなくなったこと。村を襲う意思があったかも分からないこと。このまま一人にすれば、再び水へ分かれて暴れる可能性があること。
「ここへ置けば、安全なのですか」
村人の一人が尋ねる。
「必ずとは言えません」
ネアは答えた。
「弱らせてあります。しばらくは、自分で祠から出ることもできません」
「その後は?」
「今いる一人を、同じ一人として覚えてください」
「お参りをするということですか」
「ええ」
昨日、ミレナの家へ知らせに来た村人が、ヴァルナを見る。
「この人が、水を守ってくれるんですか」
「今は約束できません」
「では、何を願えば?」
「願わなくて構いません」
ネアは静かに言った。
「ここにいると確かめてください」
村人たちは顔を見合わせた。
水路は、村の暮らしに欠かせない。
その水を狂わせた存在でもある。
それでも、セトたちが消滅させずに連れてきた一人だった。
「毎日、水路を見る者はいます」
年長の村人が言う。
「その時に、ここへ寄るくらいならできます」
「俺も来ます」
「私も」
一人ずつ、短い返事が続いた。
※第28話「風の精霊剣」は全九回です。
続きます。
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