(二)風の側
◆ 風の側
その日の午後、初めて風の側を自分から前へ出す訓練を行った。
ネアはミレナへ触れず、少し離れた場所に立つ。
セトは裏口に近い椅子へ座らされていた。
本来なら休んでいるべきだったが、ミレナが見える位置にいることだけはネアも止めなかった。
シアは家の屋根に座り、村の外を見張っている。
リグとハルヴェンは川と水路を交代で確認していた。
「前回、わたしは外から境界をずらしました」
ネアが言う。
「今回は、あなた自身が風の側へ道を譲ります」
「人間の私が奥へ下がる?」
「押し込まないでください」
「違うんですか」
「人間のあなたを小さくして、風の精霊王を大きくするのではありません。どちらへ身体を預けるかを変えます」
「同じ身体なのに」
「同じ身体だからこそです」
ミレナは目を閉じた。
自分の足が地面へ触れている。
服の重さが肩にある。
髪をまとめた紐が、首の後ろへ触れている。
その外側に、村を通り抜ける風がある。
畑の上で弱くなる流れ。屋根へ当たり、二つに分かれる流れ。川の冷たさを運ぶ流れ。
意識を向けるほど、自分の身体が小さくなるように感じた。
「止めますか」
ネアが尋ねる。
「まだ」
ミレナは足の裏へ意識を戻した。
地面の硬さを確かめる。
そのうえで、風を遠くから眺めるのではなく、自分のすぐ近くへ迎えた。
淡緑色の流れが身体へ重なる。
栗色の髪へ、薄い銀緑色の光が差した。
服の裾が持ち上がる。
「名前は?」
ネアが尋ねる。
「ミレナです」
「年齢は?」
「二十歳」
「今いる場所は?」
「村の……」
言葉が止まった。
村の外から見下ろした景色が重なる。
屋根の数。川の曲がり方。畑を通る風。
「ミレナ」
セトの声がした。
「裏庭だ」
ミレナは足元を見る。
土がある。
自分の革靴がある。
「裏庭です」
「戻れますか」
ネアが尋ねる。
ミレナは風を押し出そうとした。
淡緑色の流れが乱れる。
「押し返さないでください。前へ出る側を変えます」
「どうやって」
「今ここで、あなたが選んだ感覚を一つ」
ミレナは右手を握る。
朝、冷たいと感じた手だった。
「手が冷たい」
「そこへ戻ってください」
銀緑色の光が薄くなる。
服の裾が落ちた。
髪も元の栗色へ戻る。
ミレナは大きく息を吐いた。
「戻れました」
「ええ。今は、わたしが境界を動かしていません」
◆ 戻るための場所
初日の訓練は、それだけで終わった。
ミレナは風の精霊王へ完全には変わっていない。
髪と瞳へ光が重なり、身体が少し軽くなっただけだった。
それでも、前回とは違う。
ネアに分けられたのではなく、自分で風の側を前へ出した。
自分で人間の側へ戻った。
「これを繰り返せば、精霊王になれるんですか」
「なれるかではなく、すでになれます」
ネアは言った。
「あなたが覚えるのは、自分で境界を動かすことです」
「完全に変わっても、戻れるように」
「ええ」
「戻る時に使ったのは、手の冷たさでした」
「毎回同じものを使う必要はありません」
「消えてしまうものでは駄目ですよね」
「その時の身体にあるものなら使えます。ただし、強い恐怖の中でも確かめられるものがよいでしょう」
ミレナは考える。
家族の顔。村の家。自分の名前。
どれも大切だった。
だからこそ、風の知識と混ざった時に疑ってしまった。
「自分の記憶を、戻る場所にするのは怖いです」
「では、今選んだ行動を使ってください」
「行動?」
「右手を握ったのは、あなたです」
ネアはミレナの手を見る。
「過去の記憶がどこから来たか分からなくても、今この瞬間に選んだことまでは奪われません」
ミレナは右手を開き、もう一度握った。
「私が選んだこと」
「それを重ねてください」
※第28話「風の精霊剣」は全九回です。
続きます。
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