(一)起き上がる前に
◆ 起き上がる前に
翌朝、ミレナが借りた家を訪ねると、セトは長椅子の上で身体を起こしていた。
右脚にはまだ布と添え木が巻かれている。
「何をしているんですか」
「起きた」
「見れば分かります」
入口の近くにいたネアが振り返る。
「横になっていてください」
「今日は昨日より動く」
「昨日より動くことと、動いてよいことは同じではありません」
セトは長椅子へ背を戻した。
「分かった」
「素直ですね」
ミレナが言う。
「立てなかった」
「理由はどちらでも構いません」
昨日、ハルヴェンが言っていた言葉を、ミレナはそのまま返した。
セトは少しだけ目を細める。
「ハルヴェンに似てきたな」
「二日で似るものではありません」
ミレナは長椅子の横ではなく、ネアの前へ立った。
「昨日の話を、覚えていますか」
「ええ」
「状態を見てから、と言っていました」
「言いました」
ネアは銀青色の細い線をミレナの周囲へ巡らせる。
淡緑色の流れは、初めて調べた時より表へ近かった。
人間としての身体へ重なりながら、呼吸に合わせて外側へ広がろうとしている。
「眠れましたか」
「少しは」
「風の知識は?」
「浮かびます。でも、昨日の夜よりは薄いです」
「自分の記憶と区別できますか」
ミレナはすぐに答えなかった。
「説明されれば、分かります」
「感じ方としては?」
「同じように覚えています」
「では、そこから始めます」
◆ 見分ける練習
訓練は村の外ではなく、借りた家の裏庭で始まった。
強い風を起こさない。
精霊王の姿にもならない。
ネアが最初に求めたのは、ミレナが自分の手を見て、今感じていることを順に口へ出すことだった。
「右手が少し冷たいです」
「なぜですか」
「朝だから」
「風の知識では?」
「ありません。触って冷たいと感じています」
「左足は?」
「靴の中で指が少し曲がっています」
「遠くの風は?」
ミレナは北を見た。
「山の向こうで雨が降っています」
「見えますか」
「いいえ。でも分かります」
「それは、今の身体で得た感覚ではありません」
「風の知識ですか」
「知識だけとも限りません。あなたの中にある風の役割が、実際に遠方の流れへ触れている可能性もあります」
「また分からなくなりました」
「分からないままで構いません」
ネアは、ミレナが意外そうに見るのを待ってから続けた。
「すべてを記憶か知識かへ分けることが目的ではありません。今、どちらを前へ出しているかを見分けます」
「私が感じた冷たさと、風が感じた雨を?」
「ええ。どちらもあなたの中にあります。ですが、同じ方法で得たものではありません」
ミレナはもう一度、自分の手を見る。
朝の冷たさは、皮膚に残っている。
山の向こうの雨は、身体のどこにも触れていない。
それでも、確かに分かる。
「冷たいのは、今ここにいる私です」
「はい」
「雨は、風の側」
「今は、その分け方でよいでしょう」
すべての記憶を正しく分類することはできない。
だが、今この瞬間に身体で感じているものと、風の役割を通して届くものなら分けられる。
ミレナは右手を握った。
「ここにいる方を、先に確かめるんですね」
「そうです」
※第28話「風の精霊剣」は全九回です。
続きます。
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