(一)動けない朝
◆ 動けない朝
朝になっても、セトの右脚には力が入らなかった。
長椅子へ横になったまま上体を起こすと、脇腹へ鈍い痛みが走る。
息を止めたことに、すぐ近くへ座っていたシアが気づいた。
「痛いのか」
「少し」
「少しなら寝ていろ」
「起きても寝ても変わらない」
「なら寝ている方がいい」
シアは迷わず言った。
いつもなら、自分が動けるかどうかは自分で決めようとする。
だが、今はセトが足を床へ下ろすだけでも、その動きを見ている。
「外は」
「今のところ何もない」
入口近くにいたネアが答えた。
銀青色の細い線を戸の隙間から外へ伸ばし、水路と川へ続く原光の流れを確認している。
「リグとハルヴェンが、夜の間も交代で川を見ていました。ヴァルナが近くへ戻った痕跡はありません」
「遠くへ行ったのか」
「それも分かりません。水は地面の下にも、井戸にも、水路にもあります。人の形を保っていなければ、どこにいるかを見分けるのは難しくなります」
部屋の端には、ミレナが座っていた。
昨夜は家族のもとへ戻らず、ネアと同じ家で夜を過ごした。
一人にしないためでもある。
水の精霊王を見た時に、会ったネアと同じ家で夜ことのない相手を知っていると感じた。その知識が、再び人間としての記憶へ混ざらないかを確かめるためでもあった。
「ヴァルナというのは、あの人の名前ですか」
ミレナが尋ねる。
「役割名です」
ネアが答えた。
「水の精霊王は、ヴァルナという役割を継ぎます。今の個人を区別する名前は、わたしの知る限りありません」
「名前がない」
「ええ」
ミレナは、閉じた窓へ目を向けた。
「それでも、昨日の人が誰なのかは分かるんですか」
「同じ役割の流れは分かります。ただし、今のヴァルナが過去のヴァルナとどう違うのかは、名前だけでは分けられません」
自分がミレナなのか分からなくなった夜に、名前のない精霊王と出会った。
ミレナはそのことを考えたが、口には出さなかった。
◆ 戻せるのか
日が少し高くなったころ、リグとハルヴェンが戻ってきた。
二人とも眠っていないわけではない。
それでも、顔には夜通し川を見張った疲れが残っていた。
「上流にもいなかった」
リグが言う。
「少なくとも、人の形ではな」
「水の量が不自然に減った場所も確認しましたが、はっきりした痕跡は見つかりませんでした」
ハルヴェンは外套を外し、壁際へ置いた。
「昨日の迅雷は効いていたように見えた」
セトが言う。
「動きは止められました」
「だが、倒してはいない」
リグが続ける。
「あれは身体を分けた。雷が通った部分を捨て、残った水で形を戻したようにも見えた」
「捨てた水は?」
「川へ残っていた。しばらくして、上流へ動いた」
シアが腕を組む。
「全部焼けばいい」
「水量が分かりません」
ネアが言った。
「昨日見た身体だけが、ヴァルナのすべてとは限りません。分かれた一部を別の場所へ残している可能性もあります」
「全部見つけて焼く」
「見つけられれば、です」
「戻す方法はないのか」
シアはネアを見る。
「狂う前に」
「分かりません」
ネアはすぐに答えた。
「原光の枯渇によって、自分を一人として保つ境界が崩れています。足りない原光を補えば戻るのか、眠りの王が再び眠れば戻るのか、それとも一度崩れた境界は元へ戻らないのか。確かめた例を、わたしは知りません」
「倒したら次が生まれるのか」
「役割まで失われなければ、いずれ次代が生まれる可能性はあります」
「今のヴァルナは戻らない」
「消滅させれば、今いる個人は戻りません」
部屋が静かになる。
昨日のヴァルナに、会話が通じる様子はなかった。
それでも、穏やかな青年の姿をした一人の存在だった。
「戻せるか分からないなら、まず動けなくする」
リグが言った。
「殺すかどうかは、その後だ」
「それしかありませんね」
ハルヴェンがうなずく。
「村へ来なければ、こちらから探し出して追い詰める必要はありません。ただし、水路へ入られれば、家の近くまで気づかずに来る可能性があります」
「見張りを続ける」
セトが言う。
「あなたは休んでください」
ハルヴェンの返事は早かった。
「見張るだけなら」
「座っているだけでも痛むのでしょう」
「少しだ」
「昨日も聞きました」
ハルヴェンは、固定されたセトの右脚を見る。
「少し動けない、という意味だったようですが」
※第27話「狂った水の精霊王」は全七回です。
続きます。
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