(三)古い水車小屋
◆ 古い水車小屋
水車小屋は、村から少し離れた川沿いに残っていた。
今は使われていない。
水車は半分ほど欠け、細い水路だけが小屋の横を流れている。
近づく前から、風の音が聞こえた。
一定の方向へ吹く風ではない。
小屋の周囲を回り、川へ降り、木々の間を抜け、また同じ場所へ戻っている。
「ミレナ」
セトが呼ぶ。
返事はなかった。
白刃も黒刃も作らず、小屋の裏へ回る。
崩れかけた石壁のそばに、ミレナが座り込んでいた。
膝を抱え、顔を伏せている。
栗色の髪が、風に持ち上げられていた。
「ミレナ」
二度目に呼ぶと、肩が動いた。
「来ないでください」
「見つけたと伝えるだけだ」
「誰をですか」
ミレナは顔を上げなかった。
「私を探していたんですか。それとも、風の精霊王を探していたんですか」
「ミレナを探していた」
「それが、分からないんです」
風が石壁へぶつかり、細い砂を巻き上げる。
「どこまでが私の記憶なのか、分からないんです」
◆ 私がミレナなのか
セトは、それ以上近づかなかった。
ミレナが自分から話すのを待つ。
「ここで転んだことがあります」
ミレナは水車小屋の前を指した。
「子供のころです。膝を擦りむいて、泣きながら村へ帰りました」
「ああ」
「でも、この小屋が建つ前の川も覚えています」
ミレナがようやく顔を上げた。
目の下には、眠れなかった疲れが濃く残っている。
「村が今より小さかったころも。水路が掘られる前も。私は生まれていないのに、覚えています」
「風の知識だと、ネアは言っていた」
「頭では分かります」
ミレナは胸元を押さえた。
「でも、思い出す時は同じなんです。転んだことも、小屋がなかったころも、同じように自分の中から出てくる」
風が一度強くなる。
「家族と過ごしたことも、村で生きてきたことも、本当に私の記憶なのか分からなくなりました」
「ミレナ」
「今話している言葉も、私が考えているのか分かりません」
ミレナは自分の手を見る。
「私がミレナなのかも、分からない」
セトは、すぐに答えなかった。
精霊王の知識と人間の記憶を分ける方法を、セトは知らない。
どちらが本物かを決めることもできない。
分からないものを、分かるとは言えなかった。
「分からなくなっても、今それを怖いと思っているのはミレナだ」
ミレナが顔を上げる。
「どうして、そう言えるんですか」
「風の知識が何を知っているかは分からない。でも、今ここで、自分が消えるのを怖がっているのは、今まで人間として生きてきたミレナだ」
「それも、風の精霊王の感情かもしれません」
「そうかもしれない」
「それでは、私だとは言えません」
「ああ」
セトは否定しなかった。
「でも、今ここにいるお前が、怖いと言っている。どちらから出た感情でも、怖がっているお前を置いていく理由にはならない」
◆ 見つけたもの
ミレナはしばらく黙っていた。
小屋の周囲を回っていた風が、少しだけ弱くなる。
「どうして、私だと分かったんですか」
「風の精霊王を探したんじゃない。ミレナを探した」
「同じ場所にいるのに?」
「ああ」
セトは村の方角を指した。
「家の裏の留め金を閉めていた」
「留め金?」
「畑も踏まなかった。近道をせず、外側の道を通っている」
ミレナは、自分が家を出た後のことを思い出そうとした。
「覚えていません」
「覚えていなくても、そうしていた」
「風が選んだのかもしれません」
「風の痕跡は畑の上にもあった。でも、お前の靴の跡は道に残っていた。身体を運ぶ流れだけは、畑を避けている」
セトは古い水車小屋を見る。
「ここへ来ることも、村の人に聞いた。ミレナが一人で考えたい時に来ていた場所だ」
「昔のことです」
「風の精霊王が昔から知っていた場所じゃない。ミレナが子供のころに来た場所だ」
ミレナは膝を抱えていた腕を少し緩めた。
「私が選んだ?」
「少なくとも、ここへ来るまでに残したものは、ミレナのものだった」
「それだけで?」
「それだけあれば、探せる」
ミレナは返事をしなかった。
だが、顔を伏せることもしなかった。
※第26話「逃げた少女」は全六回です。
続きます。
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