(一)窓を閉めた日
◆ 窓を閉めた日
窓を閉めたのは、ミレナだった。
幼い手で重い木の戸を引き、外から吹き込む雨を止めた。
家族に褒められたことも覚えている。
濡れた木の匂いも、窓へ打ちつける雨音も、自分の服の袖が少し濡れたことも覚えている。
それは、ミレナが生きた記憶のはずだった。
だが、同じ記憶の中に、別の景色がある。
海の上で生まれた湿った流れ。山へぶつかって持ち上がる風。雲が重くなり、雨となって村へ届くまでの道。
高い空から、そのすべてを見ている。
窓を閉めた幼いミレナと、遠い海から村までの風を見下ろす何かが、同じ出来事を覚えていた。
「私は、空にはいなかった」
長椅子へ座ったまま、ミレナは声に出した。
閉じた窓の向こうで、小さな風が回っている。
「海も見ていない」
そう言えば、分けられると思った。
窓を閉めた方が自分の記憶で、風の道を見た方が精霊王の知識だ。
頭では分かる。
だが、自分の中では、どちらも同じように思い出せる。
片方だけを知らないものとして押し出すことができなかった。
◆ 生まれる前の村
別の記憶が浮かんだ。
村の北を流れる細い川。
ミレナは子供のころ、川沿いの古い水車小屋で転び、膝を擦りむいたことがある。
泣きながら村へ戻った。
その時の痛みも、土の冷たさも覚えている。
だが、その川が今の場所へ流される前の形も知っていた。
水路が掘られる前。水車小屋が建てられる前。村の家が今より少なかったころ。
風が草の上を通り、川の流れを少しずつ削っていた景色を知っている。
「知らない」
ミレナは両手で頭を押さえた。
「私は、そんなころを知らない」
知らないはずなのに、懐かしい。
水車小屋が建つ前の川を見て、今の方が狭くなったと思う。
その感覚が、自分のものではないと言い切れない。
逆に、膝を擦りむいて泣いた記憶まで、本当に自分のものなのか分からなくなる。
誰かから渡された知識へ、人間の感情だけを後から重ねたのではないか。
ミレナという人間の二十年そのものが、風の精霊王が人間として見た夢なのではないか。
「違う」
否定すると、窓の外の風が強くなった。
「私はミレナ」
ネアに確認された言葉を繰り返す。
「二十歳。この村で生まれた」
どれも事実として知っている。
だが、事実を知っていることと、自分が生きたことの違いが分からなくなっていた。
◆ 呼ばれた名前
部屋の外から、家族の声がした。
「ミレナ。まだ起きているの?」
聞き慣れた声だった。
何度も自分の名前を呼んだ声だ。
それなのに、今聞いた声なのか、過去の記憶の中で聞いているのか、一瞬だけ分からなかった。
「ミレナ?」
もう一度呼ばれる。
「起きています」
答えた後で、ミレナは自分の口を押さえた。
今の言葉は、自分で考えたのか。
呼ばれたから答えただけなのか。
長い間、人の呼びかけに応じてきた記憶を、風の役割がなぞっただけではないのか。
考えるほど、区別が消えていく。
風が窓を押した。
閉めたはずの戸が音を立てる。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
また答えた。
大丈夫ではない。
だが、家族へ何を説明すればよいのか分からない。
自分が本当に家族の一人なのか疑っているなど、口に出したくなかった。
ここにいれば、家族と過ごした記憶まで一つずつ疑ってしまう。
そう思った瞬間、ミレナは立ち上がっていた。
◆ 家を出る
短い外套を羽織る。
革靴を履く。
戸を開け、家の裏側へ出る。
考えて決めた動作ではなかった。
家族の顔を見る前に、外へ出たかった。
夜の空気へ触れた途端、周囲の風がミレナへ集まった。
「待って」
自分で起こした風へ言う。
「今は、動かさないで」
風は止まらなかった。
止め方を知らないのではない。
どうすれば流れを止められるか、分かってしまう。どこへ力を逃がせば家を傷つけないか。どの方向へ進めば村の屋根を巻き上げずに済むか。
考えるより先に、風の知識が道を選ぶ。
ミレナの身体が軽くなった。
地面を蹴ったはずなのに、次の一歩が遠すぎた。
裏庭を越える。
柵の前へ着き、いつものように留め金を外す。
通り抜けた後、手が勝手に留め金を戻した。
その直後、風が身体を押し出した。
「止まって!」
声は後ろへ残った。
畑の外側を通る細い道が、足元を流れていく。
風は何本にも分かれ、村の外へ広がった。
ミレナ自身にも、自分がどの流れに乗っているのか分からなかった。
※第26話「逃げた少女」は全六回です。
続きます。
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