(八)自分の記憶
◆ 自分の記憶
「ミレナ自身の記憶を、一つ思い出してください」
ネアが言った。
「できるだけ最近のものを」
「昨日、荷車から袋が落ちました」
「その時、何を感じましたか」
「怖かったです。ぶつかると思って」
「誰が近くにいましたか」
ミレナは、袋を運んでいた村人たちの顔を思い出す。
名前も分かる。声も、服も覚えている。
「思い出せます」
「それは、あなたの記憶です」
「はい」
「風の景色には、その時のあなたの感情がありますか」
「ありません」
「誰と一緒にいたかは?」
「分かりません」
「なら、知識に近い可能性があります」
ミレナは少し安心したように息を吐いた。
だが、その直後、表情が止まる。
「どうしました」
「子供のころのことを思い出しました」
「どのような?」
「雨の日です。窓を閉めるように言われて、私が走って……」
ミレナは目を閉じる。
家の中。濡れた木の匂い。窓を打つ雨音。自分の小さな手。
それは確かに、ミレナが生きた記憶だった。
「その風が、どこから来たかも分かります」
「当時から分かっていたのですか」
「分かりません」
「今、知識が加わったのかもしれません」
「でも、記憶の中では、最初から知っていた気がするんです」
ネアの視線がわずかに険しくなる。
「昔の記憶へ、今の知識が重なっている?」
セトが尋ねた。
「可能性があります」
「取れるか」
「今ここで無理に分ければ、どちらが元の記憶かまで傷つけるかもしれません」
「では、どうする」
「新しい知識を追わず、休ませます」
ミレナが起き上がる。
「休めば戻りますか」
「分かりません」
「また、それですね」
「ええ」
◆ 分けた後
夕方までに、遠い景色は薄くなった。
完全に消えたわけではない。
意識を向ければ、山の向こうを流れる風が分かる。
だが、目の前の部屋と重なるほど強くはなくなった。
ネアは、ミレナを一人にしないよう伝えた。
家族へ詳しい事情を話すかは、ミレナ自身が決める。
少なくとも今夜は、急に外へ出たり、力を試したりしないことになった。
「今日、分けたせいですか」
ミレナが尋ねた。
「風の側を表へ出したことで、今まで奥にあった知識が近くなった可能性はあります」
「しなければよかった?」
ネアは答える前に考えた。
「調べなければ、あなたが精霊王として存在できることも、どのような危険があるかも分かりませんでした」
「危険が増えたのではなく、見えるようになっただけ?」
「そう言い切ることもできません」
ネアはミレナへ近づく。
「今日の状態は記録しておきます。次に風の側へ触れるとしても、同じところまでは進めません」
「次もあるんですか」
「あなたが望まなければ行いません」
「神殺しの剣を使うなら、必要なんですよね」
「最終的には、あなた自身が切り替えられる必要があります」
「でも、私はまだ選んでいません」
「ええ」
「選ばなくても、元へ戻す方法は探してくれますか」
「探します」
ネアは迷わず答えた。
「世界を救うために必要だからではなく?」
「あなたが望んでいるからです」
ミレナはネアを見つめた。
それから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
◆ 二つとも覚えている
夜になり、ミレナは自宅へ戻った。
セトたちは村に残り、何かあればすぐに知らせてもらうことにした。
部屋へ入ったミレナは、窓を閉める。
風は入ってこない。髪も、服の裾も動かない。
長椅子へ座り、両手を見る。
朝と同じ、人間の手だった。
「ミレナ」
自分の名前を言う。
「二十歳」
ネアに聞かれたことを、一つずつ確かめる。
この村で生まれた。ここで育った。家族と暮らしている。昨日、荷車から袋が落ちた。今日、村の外で風の精霊王になった。
どれも覚えている。
目を閉じる。
子供のころ、雨の前に窓を閉めた記憶が浮かぶ。
小さな手で、重い木の戸を引いた。
その時の雨が、遠い海からどのような流れを通って来たのかも分かる。
自分が窓を閉めたことは、覚えている。
風の道を空から見たことも、覚えている。
だが、その日、ミレナは空を飛んでいない。
海を見てもいない。
それでも二つは、同じ一つの出来事として浮かんでいた。
「これは……」
どちらが記憶で、どちらが知識なのか。
説明されれば、頭では分かる。
窓を閉めたのが記憶で、風の道が知識だ。
だが、自分の中では、どちらも同じように覚えている。
ミレナは目を開けた。
閉じた窓の向こうで、風が小さく渦を巻いた。
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