第四十一話「狩人」
雨の降る夜は、獲物が見つかりやすい。
レンは、そんなことをいつから考えるようになったのか、自分でもよく覚えていなかった。
けれど、深夜二時を過ぎた国道二十号を運転しながら、濡れたアスファルトに反射する白い街灯を見ていると、いつも同じ感覚が胸の奥に湧いてくる。
ああ、今夜も誰かが消えたがっている。
湿った空気の中に、ガソリンとコンビニの揚げ物の匂いが混じっていた。トラックのアイドリング音が低く響き、屋根の下では、疲れた顔の運転手が紙コップのコーヒーをすすっている。自販機の光だけが妙に明るくて、そこから少し離れた暗がりには、現実からはぐれたような人間がたまに立っていた。
スマートフォンを握りしめたまま、どこにも電話をかけず、誰かを待っているわけでもない人間。
そういう連中は、だいたい目で分かる。
帰る場所がない目ではない。
帰る場所を、もう帰る場所だと思えなくなった目だ。
「兄貴、あれじゃないっすか?」
後部座席から、ケンタが小声で言った。
レンは助手席の窓越しに視線を流す。
コンビニの横、自販機の影に、若い男が一人立っていた。年齢は二十代前半。痩せている。薄いパーカーにジーンズ。靴は汚れていない。旅行者でも、ホームレスでもない。片手にスマートフォンを持ち、画面を見つめたまま、雨に濡れることも気にせず立っている。
画面の光が、男の頬を青白く照らしていた。
「スマホ見てんな」
「見てますね」
「イヤホンは?」
「してます」
運転席のナオキが、煙草を咥えたまま笑った。
「また例のやつじゃね?」
例のやつ。
ここ最近、レンたちの間でそう呼ばれるようになった動画群があった。
正確なタイトルは知らない。毎回少し違う。投稿者も違う。サムネイルも違う。ただ、どれも同じような声と、同じような言葉で、人の心の隙間に入り込んでくる。
『静かな方が楽なのだ』
『無理に繋がらなくていいのだ』
『あなたは、もう選んでいるのだ』
最初にそれを見つけたのは、ケンタだった。
樹海周辺で『仕事』をしていた頃、彼らは自殺志願者を相手にしていた。SNSでそれらしい投稿を探し、声をかけ、車に乗せる。相手はもう世間から消えるつもりでいるから、身元確認も雑で、誰かに行き先を告げていることも少ない。そこから先の流れは、レン自身も詳しく考えないようにしていた。
日本人の『身体』は海外では想像以上に高く取引される。うまく売れば、かなりの金が手に入るのだ。
だが最近、樹海に来る人間の種類が変わった。
死にたいというより、静かになりたい。
消えたいというより、誰にも返事をしたくない。
そういう、妙に穏やかな顔をした人間が増えていた。
そして、彼らのスマートフォンには大抵、あの動画が開かれていた。
「動画見て消えようとしてる奴はさ」
ケンタが笑いながら言った。
「自分から社会との接点切ってくれてるんすよ。家族にも友達にも何も言わない。通知も切ってる。GPSもオフ。最高じゃないすか」
レンは、何も言わなかった。
けれど、否定もしなかった。
今では、彼らはその動画を使って獲物を探しているからだ。
SNSで「静かな場所へ行きたい」「通知を全部切った」「もう迷わない」と投稿しているアカウントを拾う。居住地、行動範囲、勤務先、直近の投稿画像。そこから場所を絞り、声をかける。
大抵は簡単だった。
彼らは警戒心が薄い。
というより、もう外部への興味が薄れている。
「お兄さん、大丈夫?」
「静かな場所、探してるの?」
「車で送ってあげようか?」
それだけで、乗る者もいた。
レンはドアポケットから缶コーヒーを取り出し、ぬるくなった中身を一口飲んだ。
甘ったるい液体が舌に絡みつく。胃の奥が少し重くなった。
「さて、行くか」
ナオキが車のエンジンを切った。
アイドリング音が止まると、急に雨音が大きくなる。
「兄貴、今日はどうします?」
「普通に声をかける。暴れるタイプじゃねえだろうからな」
「ですね。ああいうの、だいたい目が死んでるし」
ケンタが笑う。
その笑い声は軽かった。まだ若く、自分が何をしているのかを深く考えたことのない人間の声だった。
レンはドアを開ける。
夜気が入り込む。濡れた風が頬に触れた。
自販機の影に立つ男は、まだスマートフォンを見ていた。
動画の音声は聞こえない。だが、画面の中に小さな少女のような輪郭が揺れているのが見えた。
ダークグリーンの髪。
黒く塗りつぶされたような目。
笑っているのか、笑っていないのか分からない口元。
レンは、わずかに眉をひそめた。
嫌なキャラクターだと思った。
だが、嫌なだけだ。
それ以上ではない。
「こんばんは」
レンが声をかけると、男はゆっくり顔を上げた。
焦りはない。
怯えもない。
ただ、眠りから醒めたばかりのような、ぼんやりした目をしている。
「こんな時間に一人?」
男は答えなかった。
レンの後ろでは、ケンタが周囲を確認している。ナオキは車のそばに立ち、煙草の火を靴裏で潰した。
「お兄さん、どこ行くの?」
「……静かな場所」
男の声は、雨に溶けそうなほど小さかった。
レンは笑った。
「俺たち知ってるよ。そういう場所」
男は、少しだけ表情を変えた。
安堵。
そう呼ぶしかないものだった。
「本当ですか?」
「本当」
「誰も、来ないですか?」
「来ない来ない」
「通知も?」
「鳴らないよ」
男の喉が小さく動いた。
泣きそうにも見えた。笑いそうにも見えた。
「……行きたいです」
その言葉を聞いた瞬間、ケンタが後ろで小さく吹き出した。
レンは男の肩に手を置く。
骨が細かった。薄いパーカーの下に、頼りない体温がある。
「じゃあ、乗りなよ」
男は抵抗しなかった。
むしろ、促されるより先に車の方へ歩き出した。
その時、男のスマートフォン画面が一瞬だけこちらを向いた。
動画は終盤だった。
画面の中の少女が、ゆっくりと口を開けている。
字幕が滲むように浮かんでいた。
『──邪魔する人には、気をつけて』
レンは立ち止まった。
「兄貴?」
ケンタが怪訝そうに振り返る。
レンは何も言わず、男のスマートフォンを奪い取った。
「あ……」
「見るな」
自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。
動画の少女は、画面の中で微かに首を傾げていた。
暗い瞳が、こちらを見ているように思えた。
錯覚だ。
レンはそう思った。
スマートフォンの電源ボタンを長押しする。画面が暗転し、黒い板になった。そこに、自分の顔がぼんやり映る。
疲れた顔だと思った。
雨に濡れた髪。目の下の隈。笑っているのに笑っていない口。
まるで、自分もどこかへ行きたがっているみたいだった。
「兄貴、早く行きましょうぜ」
ケンタの声で我に返る。
レンは男を後部座席に押し込み、ドアを閉めた。
車内には湿った布の匂いと、古い芳香剤の甘い匂いが混ざっていた。男は座席に腰を下ろすと、何も言わず窓の外を見ている。
車が発進する。
コンビニの明かりが遠ざかっていく。
雨粒がフロントガラスを流れ、ワイパーがそれを機械的に拭っていく。
ナオキがハンドルを握りながら言った。
「最近、楽っすね」
「何が?」
「こいつら、自分から乗ってくれるし」
「そうだな」
「動画のおかげっすよ。マジで」
ケンタが後ろで笑う。
「KJだっけ? なんか番号のやつ。あれ、神コンテンツっすよ。勝手に獲物を作ってくれる」
レンは返事をしなかった。
後部座席の男は、まだ外を見ている。
手元にはもうスマートフォンがない。
それでも彼は、何かを聞いているようだった。
「……静かですね」
男が言った。
車内には、エンジン音がある。雨音がある。ワイパーの擦れる音がある。ナオキの鼻歌がある。ケンタのスマートフォンから漏れる短い通知音がある。
静かなわけがなかった。
だが男は、安らいだ顔で続けた。
「さっきより、ずっと静かです」
レンは後ろを振り返らなかった。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
それは罪悪感ではない。今さらそんなものを持つほど、綺麗な生き方はしていない。
ただ、嫌な予感だった。
さっきの画面。
あの字幕。
邪魔する人には、気をつけて。
レンは窓の外へ視線を向けた。
道路の先は黒く濡れている。
街の灯りは少しずつ減り、山の影が近づいていた。
誰も喋らなくなる。
その沈黙が、いつもより少しだけ重かった。
【回収資料:匿名掲示板ログ】
スレッド名:『KJ-017見て静かな場所行こうとしてる奴、多すぎない?』
投稿214:
「最近、あの動画見た奴を狙ってる連中がいるらしいよ」
投稿215:
「何それ?」
投稿216:
「消えようとしてる人間を車に乗せて、どっか連れてくって話」
投稿217:
「どうせ、都市伝説だろ?」
投稿218:
「いや、俺見たんだ。国道二十号のコンビニで、若い男が連れてかれてた」
投稿219:
「それ、普通に犯罪じゃん。通報したの?」
投稿220:
「いや、それがさ。自分から車に乗ってるように見えたんだよ。だから、その時は通報できなくてさ」
投稿221:
「騙されてるんじゃない、それ。一番ヤバいやつじゃん」
投稿222:
「なあ、動画のコメント欄に変なコメがあったんだが……」
投稿223:
「何? 晒してみ?」
投稿224:
「『邪魔する人がいる』って」
投稿225:
「なんだよそれ? 誰がコメントしてるの?」
投稿226:
「@quiet_room」
【動画コメント欄 抽出】
@quiet_room
「静かな場所へ行こうとしている人を、邪魔しないでね」
返信欄:
「どういうこと?」
「誰か邪魔してるの?」
「見つければいい?」
「助けた方がいい?」
「何をすればいいの?」
@quiet_room
「あなたが正しいと思うことをしてね」




