episode9
体を引きずり、扉の前で泣き崩れていたアタシは、はっと我に返った。
「あれ?アタシ、どうして……」
自分の赤く染まった指先を見つめた。爪が割れて痛い。
泣いている理由も、指先の怪我の理由も思い出せない。
アタシの隣にいたウレンも、はらはらと涙を流していた。
「なんで、泣いてるのだ……?」
「分からない……でも、どうしてだか胸が苦しいの……」
アタシはただ訳も分からずに涙を流し続けた。
胸の中に石を詰め込まれたかのように、重苦しくて辛い。
でも、何一つ思い出すことができなかった。
♢♢♢
魔物の襲撃から三カ月が経った。
あの規模の戦いで、奇跡的に死者は少なかった。
皆、一様に口を揃えて、「雪の結晶が降り注ぐのを見た。誰かに名前を呼ばれたような気がした」と話していた。
長らく宮長不在の巨蟹宮にはそろそろ宮長を置いて欲しい。
人手不足だなんて言ってるけれど、おかげでアタシの仕事が山積みじゃない。
「あーあ、当分恋人も結婚もできなさそう」
がらんとした宮長室で、一人愚痴を吐いた。
「なんでアタシ、巨蟹宮に入ったんだっけ……」
師匠のアーシュさんがいる宮にだってスカウトされたのに、なんでわざわざ人気のない巨蟹宮に入宮したのか、その理由がさっぱり思い出せなかった。
まあ、もう二十年も前のことだったから、忘れてたって仕方がないけれど。
宮長の立派な椅子に座って、くるりと回ってみる。
天井をぼんやりと見上げると、頬に雫が伝った。――まただ。
あの日以来、理由もないのに涙がでる。
一度カウンセリングを受けた方がいいのかしら。
そっと涙を拭い、書類を取り出した。
♢♢♢
月日は流れ、アタシは五十歳になった。
巨蟹宮の宮長代理として、仕事漬けの日々を送っている。
コンコン、と控えめにノックする音。
「どうぞ」
「宮長代理、少しお時間よろしいですか?」
小さかった見習いの少女は、立派な魔法使いとなって巨蟹宮に入宮してくれた。
『どうして巨蟹宮にしたの?こういっちゃあれなんだけど、うち人気もないし変人ばっかよ』
『守るための魔法を研究したいです。あと、誰かに背中を押されたような気がして……』
入宮した日に交わした会話を思い出し懐かしく思っていると、彼女は一冊の古びたノートを差し出してきた。
「これは……?」
「私が研修中に使っていたノートです。この間私物の整理をしていたら出てきたんですけど、気になることがあって……」
パラ、と中身をめくる。
子どもの字で書きなぐったような形跡に、ふっと微笑ましくなった。
「懐かしいわね。気になることって?」
「このページなんです。これ、研修中に誰かが書いてくださったと思うんですけど、誰だったのか全く思い出せなくて……でも読めないから気になってしまって」
その字を見た瞬間、雷を打たれたような衝撃が走った。
知っている。アタシは、この字を見たことがある。
震える手でノートを閉じ、平静を装って微笑んだ。
「……このノート、借りていいかしら?必ず返すから」
「え?それはもちろん構いませんよ。……なんとなく、リリーボレアさんならわかるんじゃないかなって気がしたんです」
その日の仕事は手につかず、やかましく震える心臓を必死に抑えて定時に自室に引き上げた。
♢♢♢
その夜、自室のダイニングでノートを広げた。
蛇が這っているような読みづらい字だ。
これを書いたのは、誰?
その字を見つめると、また自然と涙が浮かび上がった。何が書かれているのか、分かる。読めてしまう。
『魔法は美しい。君の魔法生活が実りあるものになりますように』
ノートの字を震える指で、何度もなぞる。
白いページの余白には、次から次へと染みが広がった。
「うっ……ふぅっ……」
抑えきれない嗚咽は、胸をぎゅっと締め付ける。
今朝から机の上に出しっぱなしのレモンの蜂蜜付けの瓶に、アタシの泣き顔が映り込んだ。
この色を知っている。
だってずっと見てきたから。
ずっと、あなたの瞳にアタシを映して欲しかったから。
特徴的な、跳ね上がるようなKのサイン。
「カイ、ド……カイド……!!」
名前を口にした瞬間、記憶が雪崩のように襲い掛かった。
宮長は不在なんかじゃない。アタシの師匠はアーシュさんじゃない。
白んだ長い金髪に、檸檬色の瞳。
くたびれたよれよれのローブを羽織って、子どもみたいに目を輝かせて魔法を語る。
頼りなくてアタシが面倒見なきゃダメダメで。
あんなに行かないでって言ったのに、聞いてもらえなかった。
カイドはあの日――死んじゃったんだ。
「カイド、会いたい……カイドォ……!」
激しい慟哭。
振り絞るように、愛する人の名を呼んだ。
すると、吐く息が白く染まった。
冷ややかな冷気が部屋を包み、寒さで身を震わせた。
雪の結晶が、音もなく舞い落ちる。
掌に落ちた雪の花は、とても暖かかった。
「これは……?」
「リリー」
聞き覚えのある声がする。
「……え?」
振り返ると、そこに立っていたのは最期の日と変わらないカイドだった。
しばらく互いに茫然と見つめ合った。カイドは少し気まずそうに目線を逸らし、再び私に視線を向けた。
「名前を呼んでくれてありがとう、リリー。あの魔法、正直上手くいくとは思わなかったんだ。僕の命を対価に発動する術式だったから術者にも適用されるとは思ってなくて、そもそもみんな僕のことを忘れちゃうから名前を呼ばれることはないと思って」
「……カイドなの?」
「え?そうだよ。あれから何日経ったの?」
カイドはまるで昨日別れたかのような軽い口ぶりで聞き返してきた。
これはきっと夢だ。夢に決まってる。
だったらもう――何を言ってもいい。
「……十年よ」
アタシは低い声でぼそりと呟いた。立ち上がり、握りしめた拳を大きく振り上げ、カイドの胸に思いっきり叩きつけた。
「十年経ったわ!カイドのくせに!自分を犠牲にして格好つけてるんじゃないわよ!アタシがあの時どんな気持ちで……!」
思いっきり引っ叩いて、怒りたい。
彼のローブを爪が白くなるほどにきつく握った。
なのに、こんな状況でもアタシはカイドにまた会えたことが嬉しくて仕方が無かった。
「なんでアタシはこんな奴のことが好きなのよ!なんで何十年もアタシの心にはカイドしかいないのよ!アタシはいつまで……!!」
「ごめんねリリー、ごめん……」
背中からカイドの腕の温もりが伝わる。
彼の香りが鼻を突き抜けて、あっという間にあの頃の気持ちを蘇らせた。
彼の腰に、ぎゅっと自分の腕を回す。
「好きなのカイド。ずっと好きだったの。あんなことになるなら伝えればよかったって後悔してる……!」
目の奥が溶け落ちそうなくらいに熱い。
抱きしめられた腕に、力が増した。
「……もしまたあの日に戻っても、僕は同じ選択をするだろう」
顔を上げれば、カイドの瞳にはアタシだけが映っている。檸檬色の瞳が心許なくふるりと揺れ動いた。
「じゃあ、アタシがまた思い出すわ」
「リリーにはこんなおじさんじゃなくてもっといい人がいるよ」
「そんなの知ってるわよ。でもカイドの面倒を見れるのはアタシだけよ」
カイドの掌が、アタシの頬を包み込む。
少し躊躇するように触れるか触れないかの手触りで、宝物に触れるみたいに、優しく。
「……もう子ども扱いしなくていいの?」
「アタシもう五十よ」
カイドは目を細めてふっと笑った。
目尻に刻まれた皺を、指先でなぞる。
愛おしさがこみ上げてきて、また瞳に涙が浮かんだ。
「好きだよ、リリー」
額に一つ、口付けが落とされる。
涙を拭うように、頬に唇が滑る。
そして唇が輪郭を食むように重なった。
触れるだけの口付けは、柔らかくて蕩けそう。
夢見心地で恍惚としていると、アタシの足が浮いてカイドに抱きかかえられた。
「リリー、寝室はどこだい?」
「その右手の扉だけど……え?」
「ん?今からは大人の時間だよ……ね?」
扉がきいっと音を立て、軋んで閉じた。
もう二度とこないと思っていた、奇跡のような夜。
二人きりの夜を越えて、朝の光が柔らかく包み込むまで――繋がれた手は、解けなかった。




