第六幕:真久郎、心が揺れるのこと
いつもお読みいただきありがとうございます。
第六幕をお届けします。
季節は冬。今回は凜のお誕生日ということで、兄と妹、それから優香の三人で少しだけ特別な休日を過ごします。
……とはいえ、この家族らしく、のんびり笑ってばかりでは終わりません。
少しずつ変わっていく関係と、変わらない想い。
そんな一日を楽しんでいただければ幸いです。
Take On Me
「凜、お前来週誕生日だなあ」
唐突に、真久郎が言った。十二月一日の晩ご飯の時のこと。
「なに、突然」
「何って、お祝いしなきゃだろ」
「プレゼント? 予算は?」
「いや、そういう即物的な話ではなくてですね(笑)」
「まっくんねえ、凜ちゃんとデートしたいんですって(笑)」
「そうじゃねえよ(笑)」
今日のメニューは鶏もも肉の唐揚げ。なんと、優香が作ったものだ。この四カ月近くで、優香の料理の腕は相当に上がっていた。
焦がして作り直すことも(ほぼ)なくなったし、味付けも凜好みだ。
「お姉ちゃんが働いてる姿、見た事ないだろ?」
優香が施設警備員として勤務する旭光堂百貨店。そこの名物・オープンカフェでスイーツタイムをするのだと真久郎は言った。
「今度の日曜なら、私そこ十四時台に巡回するから」
「まあお話とかはできないけどな」
「凄い……めっちゃ楽しみ!」
凜の瞳が輝いた。
十二月六日、日曜日。
外はもう、すっかり冬の匂いだった。
出発はお昼ご飯を食べてからの予定だが、凜は朝からソワソワ落ち着かない。
「お兄ちゃん。髪、変じゃない? 寝癖取れてる?」
「おう。珍しいな、お前がそんなこと気にするとか」
「珍しくないよぉ」
いざ出発と言う時に、凜は外で待ち合わせをしたいと言い出した。
「なんで?」
真久郎が訊いても理由を言わない。ただ一緒に家を出るのは嫌だと言うばかりだ。
(まあ難しいお年頃だからな)
真久郎もそれ以上は追及せず、素直に玄関を出て指定の待ち合わせ場所・花時計の上の公園を目指した。自宅からは僅か五分の距離。
歩いている途中でメールの着信音が鳴る。
『着いたら自撮り送って』
やれやれ、疑り深い事よ。ベンチに腰掛け、言われた通りに画像を送信する。
(凜のやつ、いったいどうしたんだ?)
その頃。
自宅では凜がクローゼットの奥を漁っていた。
探しているのは、先月初めに小春ちゃんたちが買ってくれた水色のスカート。使う気も無くて、ずっとしまい込んでいたやつ。
ずうっと取っておいた、一番大事な時がついに来たのだ。今日穿かないでいつ穿くと言うのか。
スマホの着信音が鳴った。お兄ちゃん、間違いなく待ち合わせ場所に着いてる。急がなきゃ。
リビングで、スタンドミラーの前に立つ。
(う~ん、似合わねえ……。まるっきり女子じゃん……)
お店で試着した時より丈が短く感じる。やっぱりやめておこうか。スカートを脱ぎかけたが……。
いやいや、今日はこれで行くって決めたんだから!
意を決し、お姉ちゃんから贈られたパステルブルーのダウンジャケットを羽織る。お兄ちゃんには『すぐ行く』と返信して玄関を飛び出した。
寒い!
外に出た瞬間の感想がこれ。さすがに十二月にもなって素足はきつい。
パンストを穿けば良いのだが、凜にその辺りの知識は無いのだ。せめて優香お姉ちゃんに相談していれば……。
(そう言えば……「いんなー」だっけ? 買ってもらえば良かったかな。でも何に使うのか聞かれたら答えられないし)
裾をひらひらさせながら駆け足、四分後には公園に着いた。蔦の絡まる入口のアーチをくぐると、オブジェの横のベンチに座ってコーヒーを飲むお兄ちゃんが見えた。
お兄ちゃんは一瞬こっちに目を向けて……すぐスマホに目を落とした。
(あれ?)
凜を見たわけではないのだろうか?
寒空の下、ただ座って待っているなんて苦行が過ぎる。真久郎は自販機でホットのペットボトルコーヒーを買い、手を温めながら少しずつ飲む。
凜から『すぐ行く』の返信が来た。あと五分か、十分か。
なんとなく人の気配を感じて、入口の方に目を向けた。女の子が一人入って来た。
(違った……)
じろじろ見て通報でもされたら敵わん。直ぐに目を逸らしてスマホを取り出す。まだかとメールを送ろうとしたら、目の前に立つ者がいた。
最初に目に入ったのは輝くような素の太ももと水色のスカート。間違いなくさっき見た女の子だ。
(なんだ? 女の子の知り合いなんかいないぞ? まさか……)
チカンエンザイと言う単語が脳内を駆け巡った。恐る恐る顔を上げると……。
「お兄ちゃん、お待たせ」
「……。……凜?」
こいつ、こんなかわいい服持ってた? ジャケットは見覚えあるが、スカートは?
ぽかんと口を開けて、まじまじと見る。
お兄ちゃんが何も言わないので、凜は不安になって来た。
「や、やっぱり変?……かな?」
その一言でハッと気づく。
「いや、変じゃない」
真久郎、喉がカラカラに乾いて来て、コーヒーをひと口だけ飲んだ。
「その……凄く……似合ってる」
「良かった」
凜はほんの少し口許を緩めた。真久郎は立ち上がってペットボトルを回収ボックスに放り込み、凜を促した。
「じゃあ行こうか。お姉ちゃんが待ってるからな」
そして花時計の横を通る階段に向かって歩き出した。冷たい海風から凜を守るように、二歩だけ先に立って。
ここの階段は大変に長い。高低差二十メートル超、階段の段数は百段に及ぶ。
中央に手すりが設置され、利用者は何となく右側通行をする慣習となっていた。
登りの人と時たますれ違いながら降りて行く。階段には勾配が急な部分もあって、時折市民から苦情が入ることもある。
丁度その急勾配に差し掛かった時だ。
「ひゃあ!」
突風が吹き抜け、凜のスカートが盛大に舞い上がった。もともと夏用で生地が薄いうえ、全円のスカートでは一溜りもない。
慌てて裾を押さえようとした凜はバランスを崩し、転びそうになった。
「危ねえ!」
真久郎が辛うじて凜の手を掴み、転倒は免れた。いや本当に、真久郎の左手が手すりを掴み損ねていたら、二人揃って転げ落ちていたかも知れない。
それほど危機一髪だった。
なんとか体勢を立て直したものの、二人とも動悸が収まらない。しばらくは抱き合ったままその場から動けなかった。
「大丈夫ですか?」
通りすがりの老紳士から声を掛けられるほどだった。
「あーびっくりした。凜、もう手を離すなよ」
「……うん」
凜の手に、ギュッと力が入った。
坂を降りたらロータリー交差点を越え、橋を渡る。そこからJR駅までがK市の表通り、メインの繁華街だ。優香の勤務先・旭光堂百貨店はその中心にある。
尤もこの繁華街もバブル以降は衰退の一途を辿っており、特に駅裏に開発の重点が移ってからは次第にシャッター街になりつつある。
それでもクリスマスムードはそんな憂鬱を忘れさせてくれた。
気が付けば階段からずっと手を繋いで歩いている。手を離すなと言ったのは真久郎なのだから当然なのだが、手汗に気付かれるのが嫌で振り解こうとしたら逆に腕にしがみ付かれた。
(幸せそうだなあ)
真久郎の肩に頭を付けて、クスクス笑っている凜。
その姿を見ているだけで、真久郎も妙に満たされて来る。
旭光堂百貨店の店内は華やかに装飾が施されていた。
「凄いな。お前の誕生祝いの飾りつけ」
「何言ってんのお兄ちゃん」
ジョークが滑った後の凜の真顔は、真久郎でもちょっとビビる。
腕時計を見ると、只今十三時二十二分。少し店内を見て回って、それから行けば丁度いい頃合いだ。
「なんか欲しいものないのか?」
小学六年生の妹(しかも元弟)に何を贈れば喜んでもらえるかなんて、朴念仁の真久郎に判るはずもない。直球で尋ねるしかないのだ。
「えー? 特にないよー」
こういう答えもまた寂しい。
(昔はあれが欲しいこれが欲しいと言ってくれたのに)
遠慮しているわけではないのだろう。これもまた成長の証なのか……。
腕を組んだり手を繋いだりして店内を漫ろ歩く。
十三時五十九分、優香から『巡回開始』のメールが来た。そろそろ喫茶店に行くか。
十四時五分。オープンカフェは約半数の客の入りだった。ここは南玄関を覆うバルコニーの下の空間だ。冬場は厚手の透明なビニールで風除けがなされてブライトヒーターも複数台設置されている。
真久郎は一番奥のヒーターに近い席に凜を座らせた。何しろ脚が寒そうだったから。
ケーキセットを二つ注文した。凜はチョコレート、真久郎はレアチーズケーキ。最近甘味が苦手になって来た真久郎は、ひと口だけ食べて残りを凜に譲った。
美味しそうにケーキを口に運ぶ凜。
この笑顔をいつまでも見つめていたかった。
十四時三十六分。二杯目のコーヒーを飲み干した頃、入口に警備員が姿を現した。
優香だった。
制帽のみ女子用だが男物の制服をピシッと着こなし、真っ白な手袋と相まって実に凛々しく見える。
口元には三分の微笑み。油断なく周囲を窺いながらゆっくりと、しかし颯爽と歩く。
一瞬真久郎たちと目が合い、優香は笑顔で目礼した。
優香は一分足らずで去って行ったが、その後ろ姿がビルの角を曲がって見えなくなるまで、真久郎はいつまでも見送っていた。
真久郎の顔が、ようやく正面に戻った。
凜と目が合う。
「どうだい?」
カップを持ってニヤリと笑う。
「お姉ちゃん、かっこいいだろ?」
三つ目のケーキの最後の一口を口に運び、凜もにっこりと笑った。
「うん……お姉ちゃん、すごいね」
BYE BYE LOVE
翌日、月曜の朝の五組の教室。
挨拶を交わすクラスメイトの賑やかさの中、藤田くんだけがどんよりと曇っている。
原因は、昨日見たあの光景。
藤田くんは昨日、家族で街に出かけた。レストランでご飯を食べて、クリスマスプレゼントの下見をして、大変に楽しかったのだが、その帰り道のことだ。
交差点に近づいたところで気が付いた。
ずっと前の方で高山が信号待ちをしている。
こっちに横顔を見せて。
それはいい。それはいいんだ。でも……。
あのスカート、六人で遊んだ時に買ってたやつ。
すごく似合って、可愛かった。俺もお金を出したかったけど断られたやつ。
もう一度見たくて学校に穿いて来てくれるのを楽しみに待っていたのに、まだ一度も見ていない。
それなのに。
あの男は誰だ?
高山と腕を組んで。
その高山は楽しそうに、幸せそうに寄り添っている。
(あいつのためにあのスカート穿いたのかよ)
(高山に彼氏がいるなんて聞いてないよ)
(しかもあんな大人……何者だよ、あいつ)
世界が崩れていくようだった。
もう少しで声を掛けられる距離と言うところで信号が変わり、二人が歩き出した。そこでようやく思い出した。
あれ、高山のお兄さんだ。
この前遊びに行ったときに会ったじゃないか。
後姿を見送る。
(よかった、彼氏とかじゃなかった)
悪戯の真犯人がバレなかった時くらい安堵する藤田くん。でも……。
あれって、兄妹がすることなのか?
「おはよー!」
高山が教室に入って来た。一瞬あのスカート姿を期待したのだけれど。
高山が穿いているのはいつものデニムだった。
「おはよう、藤田くん」
「……お、おはよう」
「どしたの、元気ないよ」
「そんなことねえよ」
「今日のドッジ、相手どこだっけ?」
「え? ああ、二組」
「よっしゃ、負けねー!」
林が高山を連れて行ったので、藤田くんは正直言ってホッとした。
これ以上話していたら、きっと昨日のことを訊いてしまったに違いないから。
給食の時間。今日の配膳係はアヤちゃん、ハタテちゃん、そして藤田くん。
トレーを持った高山が藤田くんの前に立った。既にパンと牛乳、ホッケのフライとフルーツゼリーが乗っており、あとはメインディッシュのチキンクリームシチューをよそうだけだ。
「藤田くん、多めお願い」
「えこひいきはしねえよ」
言いつつも溢れんばかりにシチューを盛る藤田くん。
高山は嬉しそうに席に戻って行った。
「つぎー」
「わたし少な目で」
「お代わり残しとけよー」
適当におしゃべりしながら、次から次へと『お客さま』を捌いていく。
列が途切れ、三人も自分の分をよそい始めた。その時だ。
「あ、そうだ。ハタテさ、高山んちの話聞いた?」
何気なくアヤちゃんが口を開いた。藤田くんの全細胞が『タカヤマ』に反応する。
「高山って、お兄さんと血が繋がってないらしいよ」
「へえ。マジで?」
「うん。うちの母さんが懇談会で聞いたって」
「じゃあ結婚とかも出来んじゃん(笑)」
「お兄さんカッコいいもんねー、羨ましい(笑)」
ハタテちゃんがケラケラ笑い出した。
藤田くんの手から、お玉が落ちてシチューの中に沈んだ。
「あーあ、何やってんのよ藤田ァ!」
楽しみにしていたクリームシチュー。その味が藤田くんには分からなかった。
昼休みのチャイムが鳴った。
周りが椅子を引く音、笑い声、移動する足音。
教室はいつも通り騒がしい。
——結婚できる。
さっきの言葉だけが頭の中で妙に鮮明に残っていた。
「ドッジ行くよー!」
気が付くと、高山がもう教室の外で手を振っていた。
二面ある校庭のドッジ・コートでは既に一組と四組が試合を始めており、二組が藤田くんたちの到着を待ち構えていた。
「遅えぞ!」
非難を浴びながら配置につく。今日は藤田くんも凜も内野スタートだった。
開始早々、凜のアタックが決まる。続けざまに二人が外野に押し出された。今日の凜は絶好調だ。
「やっほーい!」
ギャラリーからも歓声が上がった。
「藤田ーっ! 後ろ、後ろーッ!」
「え?」
凜ばかり見ていたせいだろうか。藤田くんはボールが二組外野に回った事に気づかなかった。
振り向いた時にはボールが目の前にあって、思わず顔を庇って上げた腕にボールが当たった。そのまま顔面で受けていればセーフだったのに。
「藤田アーウト!」
二組チームが歓喜する。
その後も藤田くんは精彩を欠き、二組の勝ちで終わるまで何も出来なかった。
「藤田ァ、何やってんだよォ」
「悪い……」
とぼとぼと皆の後に続いて教室に戻る藤田くん。先を行っていた凜が、くるりと振り向いた。
「藤田くん……」
「え……な、なに?」
「今日は調子悪かったね」
凜が、藤田くんの頭をナデナデした。
藤田くんは思わずその手を払い除けたが、高山の驚く顔を見て咄嗟に頭を下げた。
「ご、ごめん!」
「……こっちこそごめん。次がんばろ?」
凜はいつもの笑顔で藤田くんと肩を組んだ。
那須原くんと幽谷くんから同盟違反を責められつつも、凜と並んだまま歩きながら気づいたことがある。
(高山はいつも通りだ)
(俺が気にし過ぎなのかも知れない)
(忘れよう、昨日のことは……)
凜が教室に戻った時には既に小春が席に着いていた。確か応援してくれていたはずだけど。
「ねえねえ凜ちゃん」
「んー?」
「今日の藤田、なんか変だったよね?」
「そお? スランプなんでしょ?」
「……そう……かな」
「そうだよ。あ、先生来たよ」
五時間目の授業中、小春は藤田くんを観察したけど、やっぱりどこか変だと思った。
放課後、藤田くんは理科室の掃除当番だった。小春も含めて全部で四人。その小春がごみを捨てに行くことになったが、大変そうなので藤田くんも手伝うことにした。
大きなゴミ袋が三つ。そのうちの二つを藤田くんが持つ。
(林のやつ、高山と仲良かったよな)
(あのこと、聞いてみようかな)
(ダメダメ、忘れるって決めたんだから)
(でも、もし本当だったら……)
校舎の角を曲がるとゴミ置き場が見える。誰の姿も見えず、不気味なほど静かだった。
「なあ、林……」
「ん?」
「お前聞いたことある?」
「何が?」
「その……高山、お兄さんと血が繋がってないから結婚できるって」
「ハア?」
小春の目がまん丸になった。
「誰が言ったの、それ」
「いや……ちょっと噂って言うか」
一瞬キョトンとした後、小春は噴き出した。
「何それ。昼ドラかよ」
「それでさ、高山のやつ、お兄さんのことが好きなんじゃないかって」
小春はじっと目を伏せて何かを考えているようだった。藤田くんにはその沈黙が例えようも無く怖かった。
ごみ袋をゴミ置き場に収納し、扉を閉じた時にようやく林が口を利いた。
「あのさア、義理でも兄妹だよ? ンなわけないって」
「お、おう」
「無責任な噂は信じちゃダメだよ。凜ちゃんが傷ついたらどうすんの?」
「あ……ああ。そうだな」
掃除が終わり、小春はランドセルを取りに教室に向かった。
誰もいないと思っていたのに、ドアを開けると凜ちゃんがいた。
(あ……)
小春は息を呑んだが、背筋を伸ばしてノートを見つめるその姿はいつもと変わらない。
凜ちゃんが気付いて顔を上げた。
「小春ちゃん、今日もウチ来るでしょ?」
「ぅえ? あ、えーと、今日はうちにしない? お母さんが会いたがってるし」
「うん!」
凜ちゃんが小春の手を取る。
お泊り会以来、凜ちゃんは自分と手を繋ぐのを躊躇わなくなった。藤田たちと同じ距離で接してもらえている。
(まあ一緒にお風呂入ったし、チューもしたしな)
だけど、凜ちゃんの屈託のない横顔を見ていると、胸がざわついて来る。
自分が見たあの光景。
玄関で……キッチンで……。
あれはいったい何だったんだろう。
どう見ても恋人同士だったけど。
I’ll Follow the Sun
凜を迎え、三人で過ごす初めての年末年始。
十二月に入ってから、優香はずっと休み無しだった。
本来の百貨店での勤務だけでなく、イベントその他の臨時警備にも駆り出される。世間一般が浮かれ騒ぐとき、のんびり休む時こそ警備会社の書き入れ時なのだ。
そして大晦日の夜。優香も明日だけは休みなので夜更かしOK。
実を言うと元日も神社の雑踏警備に引っ張られそうになったのだが、全力で拒否したのだ。
「おーい、蕎麦できたぞー」
「やったー!」
「まっくんのお蕎麦ー!」
リビングに満ちる、幸せの笑顔。
年越し蕎麦を食べ終わり、除夜の鐘を聞きながら新年を待つ。
「そう言えば最近は除夜の鐘に苦情入れる基地外がいるんだってな」
「信じられないよねー。凜ちゃんどう思う? あれ?」
「……」
そして凜は(やっぱりとお思いでしょうが)テーブルに突っ伏して寝落ちしている。
「どうしよ。下に連れて行く?」
「いやあ。こいつ抱えて階段降りるのは危険過ぎ」
「だよねー。ここで寝かせてあげよう」
「俺はシュラフ使うから」
「うむ。……あ」
「なに?」
「明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
丁度日付が変わったところだった。
真久郎と優香は深々と頭を下げて挨拶し、暫くの間顔を見合わせ、やがてクスクスと笑い出した。夏のあの日からの記憶が蘇った。
いつの間に寝ていたのだろう。
カーテンを通して差し込む初日の出の明るさの中で目を覚ました凜は、自分がお姉ちゃんの胸に顔を埋めているのに気付いた。
お兄ちゃんは床でシュラフに包まっている。
テーブルの上には、凜が寝る前には無かったはずのビールの空き缶やウイスキーの瓶。
尿意を感じた凜は絡みつくお姉ちゃんの腕を外し、トイレに行った。
戻って来てもまだ二人は寝ている。
「兄ちゃん。お兄ちゃん」
お姉ちゃんを起こさない程度の声で真久郎を揺り起こす。
「うぇ? もう朝か。おはよう」
「お腹空いたー」
「ああ、もうこんな時間……ちょっと待て」
雑煮を温め始める真久郎。
「お姉ちゃん起こして。あと玄関からお節持って来て」
雑煮は真久郎の手作り、お節料理は旭光堂百貨店で優香の従業員割引を利用して購入したものだ。
寝ぼけ眼の優香を洗面所に送り込み、その間に食卓を整える。
三人の休日が揃うなんていつ振りだろう。
改めて新年の挨拶を交わし、残念ながら振袖は調達できなかったが精一杯の晴れ着で初詣。
出発に先立って凜には二人からお年玉を渡し、真久郎と優香はお互いにお年玉を交換した。
今年の初詣は八幡様にした。なんとなれば、優香の資格試験が目の前に控えているのだ。
最初の試験、警備員指導教育責任者は今月。施設警備一級は八月。いずれも県庁所在地で実施されるので泊りがけで行かなければならない。
「出発はいつだっけ?」
「十二日の夜。現場から直行」
「そりゃあキツいな」
「なんで前日休みにしてくれないのかなー」
「お前んとこ、大企業の割にけち臭いよな。有休もろくに取れないし」
「課長代理がク〇だからよ。あのパワハラ野郎、早く〇ねばいいのに」
「これこれ、新年早々汚い言葉を使っちゃいけません(笑)」
何はともあれ、合格祈願である。
優香の真剣な横顔。去年五月に施設二級の試験を受けた時にも勝る固い表情に、真久郎も試験の難易度を想像せざるを得なかった。
参拝を済ませたら、次はおみくじ。凜は大吉、真久郎は吉、優香は末吉。
「なんか……微妙だよね、末吉」
「吉とどっちがいいんだ?」
「お姉ちゃん、僕のと取り換えようか?」
気を取り直し、授与所へ行く。学業成就と、合格祈願と、道中の無事を願って交通安全と……。
「僕もお金出す!」
凜が自分の財布を取り出した。貰ったばかりのお年玉を使おうとしている。
「凜ちゃん凜ちゃん。気持ちは嬉しいけど、お年玉は自分のために使って」
「でも……」
「優香、いいじゃないか。受け取ってやれよ」
「う……うん」
お姉ちゃんの役に立てるのが嬉しいのだろう。凜の笑顔も明るかった。
自宅に帰り、普段着に着替えた優香はさっそく昼間からお酒を飲んで、だらしなく寝そべる。隙あらば凜を捉まえて添い寝強制だ。
「こんな日がずっと続けばいいのに~」
優香のお猪口に酒を注ぎながら、真久郎がぼそりといった。
「専業主婦になれば?」
しかし優香には聞こえなかったらしく、凜に頬ずりを繰り返している。
「こら~凜ちゃん、もっとお姉ちゃんに構え~」
しばらくは(お年玉と引き換えに)耐えていた凜も、とうとう逃げ出して自分の部屋に立て籠もってしまった。
「僕、宿題やるから!」
「あ~、逃げられた~」
「そりゃあ酔っ払いからは逃げるわな(笑)」
二人きりの時間が流れる。さすがに姫初めというわけには行かないが、こういうまったりした時間は凜の修学旅行の時以来ではないか。
その時は二人ともハッスルしまくって……いやいや、そんなことはどうでもよろしい。
さっきの話題に戻ろうかとも思ったが、真久郎はそのまま黙って酒を飲み続けた。
試験のことで頭がいっぱいであろう優香を惑わせたくはなかった。
一月二日、朝。出勤する優香に弁当を手渡し、玄関で見送る真久郎。
ドアが閉まるのと、凜が起きて来るのがほぼ同時だった。
慌しかった年末や昨日に比べ、家の中のなんと静かなことか。
ソファーに並んで座り、お気に入りのDVDを流してはいるが、内容は殆ど頭に入って来ない。
凜は膝を抱えるようにして真久郎の腕にしがみ付いている。
(動きづらいなあ)
テーブルのコーヒーカップを取るのにも一苦労する。
思えば凜は、学校に通うようになってからずっとこの調子だ。夜泣きしなくなったとは言え、いつまでもこれじゃあいかんだろう。
「なあ凜」
「なに?」
「冬休み中はお友達と遊ばないのか? お年玉あるんだし」
「予定なんかないよ。それよりお兄ちゃんと一緒がいい」
「そうか……」
真久郎は言葉に詰まった。こうもストレートに言われたら、なんと返せばいいのだ。
「ねえお兄ちゃん」
なんだか凜がやたら甘ったるい声を出した。
「僕と二人じゃ、いや?」
「……いやなわけないだろ」
「良かった」
安心したように笑顔を見せ、凜は一層強くしがみ付いてくる。
(困った。どうすりゃいいんだ……)
とりあえず腕を振りほどき、代わりに頭を撫でてやる真久郎だった。
三箇日が終わり、凜を残しての出勤が始まる。三学期が始まるまであと四日。それまでは凜に留守番をさせなければならないのだ。
また不安な日々が始まる。
いや、大丈夫だ。凜はもう泣いてばかりの幼子じゃない。
不安を一擲して玄関を出る。来週には優香が八日間も家を空けるのだ。この程度で騒いでは居られぬ。
勤務中にも凜からのメールが届く。なんと言うこともない独り言みたいな内容。
しかしそれが安心材料になるのだ、主査の睨むような視線も気にならなかった。
十二日、朝。
凜も、真久郎も、玄関を出る時に、見送る優香にエールを送った。
「お姉ちゃん、がんばってね!」
「優香、お前なら出来る!」
それにしても寂しさが募る。二十日の深夜まで優香は帰れないのだ。
携帯電話があればいつでも繋がれる世の中ではあるが、同居人がこうも長い間不在というのは真久郎にも初めてのことだ。
(凜のやつ、大丈夫かな)
俺は大人だから耐えられるのは当然として、子供はどうだろうか。
また泣いたりしないだろうか。
十七時半過ぎ、真久郎が家に帰ると凜が飛びついてきた。もはや儀式のようなものだ。
しかし……妙だな。いつもと何かが違う。
「コーヒー淹れるね!」
キッチンに立つ凜と、違和感を解消できぬまま着替え始める真久郎。
真久郎の耳に、スプーン立てをひっくり返す派手な音が響いた。
「おい大丈夫か」
「あーん、やっちゃったー」
振り返ると凜がしゃがみ込んで散らばったスプーンやらフォークやらを拾い集めている。
そこで初めて真久郎が気付いた。
(凜、スカート穿いてる……)
先月旭光堂に行ったときに初めて見たやつ。それっきり見かけなかったが。
これ、指摘していい奴だろうか?
(うん。黙っておこう)
女の子なんだからスカートくらい穿くよな。何も不思議はない。
着替え終わって手伝おうと思ったらもう拾い終わっていた。
「お兄ちゃん座って座って。すぐお湯沸くよ」
ソファーから、凜の後姿を眺める。
もふもふのセーターにミニスカート、そしてエプロン。
(似合い過ぎだよなあ)
目の前に置かれたマグカップ。仕事に疲れ果てた真久郎へのご褒美だ。
「ねえお兄ちゃん」
凜が膝の間に座り込んでこっちを見上げてきた。
「な、なんだ?」
たじろぐ真久郎。
「今日、僕が晩ご飯作ってもいい?」
「お前、料理できたっけ?」
「ひどいなあ。少しくらいはできるよ、家庭科の調理実習だってやったし」
「そうか。じゃあお願いしようかな」
「じゃあお兄ちゃん、何食べたい?」
「そうだなあ……って、その前に何ができるんだ?」
「ええっと……ハンバーグ……くらいかな」
「なんだよ、選択肢なしかよ(笑)」
「しょーがないじゃん、初めてなんだし」
「それじゃあ任せた。今日さっそく頼めるか? いや、材料あるのか?」
「うん! ちゃんと買ってきた!」
またお年玉を使ったらしい。自分のために使えって言ったのに。
それはともかく、不格好なハンバーグは天にも昇る美味でありました(真久郎談)
食後、またソファーに並んで座り映画を見る二人。
真久郎のスマホにメールの着信があった。優香からだ。
「お姉ちゃん、着いたのかな?」
画面を開くと——
『お守り忘れた。もうダメだ、おしまいだ』
思わず顔を見合わせる真久郎と凜。
「まだ始まってもいないだろ」
「お姉ちゃんらしいよね(笑)」
返信を打ち始める真久郎に、画面を覗き込もうとした凜が寄り掛かって来る。
近い。
さっきから妙に近い。
いや、さっきからではない。帰って来てからずっとだ。
この距離——真久郎も覚えている。これが当然だった頃の——。
次の夜も凜は真久郎に寄り添って座り、もたれ掛かって来た。
真久郎がトイレに立ち、戻って来た時には膝を立てて漫画を読んでいた。
(スカート穿いてそんな恰好するなよ)
ため息を吐き、声を掛ける。
「凜、足を降ろせ」
凜はキョトンとしてこっちを見ている。
「足。降ろせ。見えてる」
手振りでもう一度命じると、ようやく膝を揃えて裾を抑えた。
十四日、凜は真久郎の膝に座ってゲームをしていた。
十五日、金曜日の夜。凜は真久郎の布団に潜り込んできた。
十六日、土曜の朝。凜はプロレスごっこを仕掛けて来た。腰が引けていた真久郎は七分三十秒、十字固めでギブアップした。
十七日、今日は優香も休日らしく、ほぼ一日中ビデオ通話していた。
その夜のこと。
「お兄ちゃん、お風呂入ろ」
「アホか。一人で入れ」
「え~。前は一緒に入ったじゃん」
確かに、実家にいた頃はいつも一緒に入浴して背中を流し合ったものだ。しかし……。
「前は前、今は今」
「ちぇ~」
「こら、ここで脱ぐんじゃない」
凜の後に真久郎が風呂に入る。案の定、凜が「背中流してあげる」と言って乱入を試みた。
鍵を掛けておいて本当に良かった。
そして就寝時刻、また凜が布団に潜り込んでくる。
不安そうな様子はない。実に楽しげだ。
俺が抱き締めているのは弟なのか、妹なのか。
凜の体温を感じながら、真久郎は考えるのをやめた。
(続く)
第六幕を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は誕生日のお出かけを軸に、家族として過ごす時間と、それぞれが抱えている小さな心の揺れを書いてみました。
派手な事件はありませんが、「こういう一日が積み重なって家族になっていくんだろうな」と感じていただけたなら、とても嬉しいです。
次回は、子どもたちの関係も、大人たちの関係も、少しずつ新しい局面へ進んでいきます。
引き続き、真久郎たちを見守っていただければ幸いです。
感想・ブックマーク・評価など、いつも大きな励みになっています。
本当にありがとうございます。




