第七幕:真久郎、感涙に咽ぶのこと
今回のクライマックスは卒業式。
凜の小学生時代が終わります。
夏休み中に引っ越してきてからわずか半年余り。
一応の区切りがつきます。
それでは「第七幕:真久郎、感涙に咽ぶのこと(Don’t Dream It’s Over / (They Long to Be) Close to You / Slipping Through My Fingers)」お楽しみください。
Don’t Dream It’s Over
一月二十日、水曜日。
予定では優香は今日が試験日で、午後には結果が出るはずだ。
昼休みの終わり近く、その優香からメールが入った。
『もうダメだ。おしまいだ』
文面はいつも通りだが何か不穏なものを感じる。真久郎は電話をかけてみた。
「何があった」
『もうダメだ。おしまいだ』
優香がメールと同じことを言う。
「なんなんだよ」
『誰も私に賛成してくれない(泣)』
意味が分からない。
昼休みの残りはあと五分。既に食堂は空に近い。時間を気にしながらも問い質してみると、どうやら試験は終わったらしい。
試験が終わって採点を待つ間、当然ながら他の受講生たちと答え合わせをする。
その時に、優香の答えに賛同してくれるものがいない=優香だけが回答を間違えている=優香の不合格確定=という論理らしい。
何を今更。しかし試験の後とはそういうものだ。
真久郎も学生時代を懐かしく思い出す。
「まあ何とかなるよ。ジタバタすんなって」
『もー! 他人事だと思って!』
やたら突っかかって来る優香だった。
こちらS市の試験会場。
午前中の最後の講義を終えた後、五肢択一で四十問・百分間の筆記試験が行われた。
解答用紙は即座に県警本部に運ばれ、採点がなされる。その日のうちに合否が判明するのだ。
十三時二十分。
受講生たちはごく自然に試験会場に戻った。
そこかしこでヒソヒソと囁きが交わされる。
六十名のうち、何人が合格できるのか。
八割正解で合格だからそれほどハードルは高くないはずだが、今の優香には自信というものが残っていない。
ドアが開き、顔つき厳めしい試験官が入って来た。
室内の空気がピリリと緊張する。
教壇に立った試験官は無表情のまま封筒から書類を一枚取り出した。
「只今から合格者を発表する。合格者は四十七名」
空気が変わった。緊張と言う言葉では表現し切れない、異様な感情。みな一様に両手を組んでいる。
「合格者の受験番号を発表する。二番。三番。五番……」
番号を飛ばされたものはがっくりと崩れ落ち、あるいは呆然と表情を失い、呼ばれたものは口を開けて視線を挙げる。
「七番。九番。十番……」
これからのものは……五十一番の優香を含め、下を向いて祈っていた。いったい誰に祈っているのだろうか。
「十一番。十二番。十四番……」
そして番号が後ろのものほど、読み上げられる都度合格者の人数を指折り数えている。
「二十五番。二十七番。二十八番……」
合格者は四十七名。もし自分の番が来る前にその人数に達してしまったら……。
……優香にはそんな余裕すらなかったが。
「三十三番。三十四番。三十六番……」
発表が続く。
「四十番。四十三番。四十四番……」
爪が白くなるほど指に力を込め、俯いたまま震えている優香。目を開けることさえ出来ない。
「四十七番。四十九番。五十番……」
次……。次の番号が読み上げられるまでの一秒間が、永遠のように感じられた。
「五十一番。五十三番。五十四番……」
それ以降のことは覚えていない。呼吸すら忘れていたからだ。
十三時五十三分。優香からメールが来た。
『合格したあああああああああああ!』
真久郎はスマホの画面をチラ見して口もとを緩めた。直後、凜からもメールが来た。
『お姉ちゃん合格したって』
なんだ、あいつ凜にも報告してんのかよ——吹き出しそうになる。
主査が睨んでいなければ本当に笑いだしていたかも知れない。
明日二十一日は通常勤務だと、優香は出発前に言っていた。と言うことは今日中に帰ってくるはずなのだが、何時到着だろう。
真久郎からの問い合わせのメールに返信が来たのは家で夕食を取っている最中だった。
『二十一時十八分発に乗る』
顔を見合わせる兄妹。
凜が即座に検索し、K駅到着が零時を過ぎることを告げた。
「こんな夜中に帰って来てそのまま仕事かよ……」
「お姉ちゃん可哀そう……」
「もうそんな会社辞めちゃえばいいのにな。どうせ俺が養うんだし」
「だよねー」
「早く食べちゃいな。そんでさっさと風呂入って歯磨きして寝ること」
「えー?」
「兄ちゃん、お姉ちゃんを迎えに行かなきゃならんからな。その前に寝てくれ」
「やだー! 僕も行くー!」
「ダメだよ。明日お前学校だろうが。夜更かし禁止!」
「やだやだ! お姉ちゃん今日頑張ったんだよ? 僕だっておめでとう言いたい!」
凜の我侭を持て余す真久郎だったが、でも思うのだ。
小学生を夜の夜中に連れ回すなど言語道断。
しかしその小学生を独り家に残して外出するのは如何なものか、と。
真久郎は遊びに行くわけではない。
だが万が一の時にそれは理由にならないだろう。
うーん……と唸り、やがて真久郎は決断した。
「仕方ない、連れて行ってやる」
「ホント? やったー!」
「ただし直ぐに寝る準備をすること。早めに駅に行くから、車の中で少しでも睡眠を取れ。いいな?」
「うん!」
使い終わった食器を食洗器(年末に買った配管工事が要らないカートリッジ式のやつ・六回払い)にぶち込み、凜がシャワーを浴びている間に明日の弁当と夕食の下拵えを済ませる。
凜の髪を乾かしてやり、凜が着替えている間に車の準備をする。
真久郎の愛車は軽ワゴン。貨物車仕様で後部座席を畳めば大人が足を伸ばして寝ることができる。
そこにシュラフを敷いたのだ。凜に少しでも睡眠を取らせるために。まあどうせ興奮して寝るはずはないだろうけどな!
「準備はいいか?」
玄関から声を掛けると、リビングから凜が飛び出してきた。
いつものパステルブルーのダウンジャケットにデニム。
車庫に行くとスライドドアを開けてシュラフに潜り込もうとしたので、慌てて助手席に座らせる。
「じゃあ行くぞ」
この後のことは長々と描写する必要もあるまい。
二十一時頃に駅前に着いたが、案の定凜はシュラフの中で大騒ぎして眠るどころではなかった。
日付が変わって一時少し前、大きなキャリーケースを引いた優香が駅舎から姿を見せ、二人は車を降りて労いつつ迎え入れた。
そして翌朝は三人とも寝不足だった。
二十一日、木曜日。
昼休み、真久郎は半分眠りながら食堂で弁当を食べ、今は食後のコーヒーを啜っている。
その対面に誰かが座った。
「よう高山、久しぶり」
同期の大石だった。
産業振興部商業労政課所属。市内企業の経営相談や雇用対策なんかを担当している男だ。
「おう」
「なんだ、眠そうだな?」
「昨夜ちょっとな」
「カノジョと頑張り過ぎたか?」
「アホかい!」
「ははは、冗談冗談」
大石は軽く笑うと、咳払いをして周囲の様子を窺った。
間もなく午後の勤務時間と言うこともあり、食堂は閑散としている。近くのテーブルには誰もいない。
「お前の彼女、旭光堂勤務だったよな?」
「ああ」
「その旭光堂な、危ないかも知れん」
「なに?」
声を潜めて大石は続ける。
「仕入れの代金を何か月も支払っていないらしい。業者が何社か相談に来ている」
「お前、それって……」
更に突っ込んだ話を聞きたかったが、昼休み終了を告げるチャイムが鳴り、大石が席を立った。
「おい、結局どうなんだよ」
「噂だよ、う・わ・さ! 他言無用な」
席に戻ったものの、真久郎が仕事に集中できようはずもない(眠気はどこかへ消えてしまったが)
もしも本当に百貨店が潰れたらどうなるのか。
優香の所属は株式会社ジオン・H県支社・県東営業所・旭光堂百貨店防災センター派遣隊。
百貨店に雇用されているわけではないので直ちに失業はしない。
しかしK市内には施設警備を使うような大規模施設は数えるほどしかない。ジオンが請け負う物件は他にどれだけあるのか。
他にもあったとして、旭光堂であぶれた人員(駐車場要因も含めれば三十名近くいると聞いている)を吸収し切れないのではないか。
もしそれで整理解雇にでもなったら……その時は正式に結婚を申し込もう。遅かれ早かれ結婚はするつもりなのだから。
優香には専業主婦になって欲しい。その方が凜のためにもいいはずだ。
こんな雑念がぐるぐる巡って、その日一日、真久郎はデータの入力を何度もやり直す羽目になった。
同日同時刻。
旭光堂防災センターに、清水営業所長が現れた。
何やらA4の封筒を携えている。
「風見隊員は?」
「休憩中です」
隊長の白田が答える。
自分の名前が呼ばれたのを聞きつけ、優香が休憩室から出てきた。
「あー風見さん、これあげる」
無造作に差し出されたクリアファイル。
中はH県警備業協会から支社に宛てたメールを印刷したもので、優香を施設二級の特別講習講師に推薦したいというものだった。
去年施設二級を受けた時の記憶が蘇った。
学科の講義や実技訓練の時の、講師たちの姿を思い浮かべる。
あんなことが自分に出来るものだろうか。
「指導教持ってれば受けられるんだわ。俺は交通二級受けて落ちたけどさ」
清水が笑いながら言った。
「研修は今年の五月ね。受かったら支社に栄転もあり得るよ。こっちにいたら不便だからね」
栄転……だと?
あのパワハラ課長代理のク○野郎を見返してやれると言うことか。
しかし転勤と言うことになれば、当然引っ越しをしなければならない。
まっくんは何と言うだろう。公務員に対して「退職して私について来い」とも言えないし。
それでもあの課長代理の上に立てると言うのは、優香にとって斯くも魅力的な条件だった。
思わず「判りました、やります!」と即答してしまうほどには。
(They Long to Be) Close to You
二月も二週目に入り、六年五組の教室は常にそわそわと浮ついている。
原因は言うまでもなくバレンタインデー。
六年生ともなれば、そろそろこの行事も遊びでは済まなくなってくる。
ここ柏木小学校の公式ルールでは、学校へのチョコレート持ち込みは禁止。
特に義理チョコや友チョコの配布は固く禁じられている。
だが本命チョコのみ黙認。これが慣例だった。
藤田くん、那須原くん、幽谷くん。
この三人は(三人だけじゃないけど)高山さんの一挙手一投足に注目している。
同時に他の二人が抜け駆けしないように監視しているのだから、気疲れもしようというものだ。
今日も今日とて、教室の片隅で凜をチラチラ見ながら内緒話に励んでいる。
「俺だよ」
「ンなわけ無いって」
藤田くんが言い、那須原くんが即座に否定する。
「僕だって可能性あるよ」
幽谷くんの発言は無視された。
「じゃあ賭けるか?」
藤田くんが二人を挑発した。
「おう。もらえなかった奴がもらえたやつにジュース一本奢りな」
いったい議題は何なのだろうか。言うまでもなく『凜からチョコレートを貰うのは誰か』だ。
「大体さ。お前ら二人、高山と何にもないじゃねーか」
また藤田くんが挑発に出る。
「このヤロー、ちょっと修学旅行の時に手を繋いだだけで調子に乗りやがって!」
「僕、結構高山さんからメール来るよ? お薦めの漫画とか紹介したり」
「おまっ、いつの間にそんな抜け駆けを!」
危うく掴み合いになりかけたその時、トイレから戻った林さんが通り掛った。
「あんたら解ってる? 今年のバレンタインは日曜だからね?」
重苦しい沈黙が三人を覆った。どれくらい重苦しいかと言うと、真夏に真綿の掛布団を三枚重ねにしたくらいの……まあ、呼吸が苦しくなる程度の重さだ。
黒板の横にかかっているカレンダー。
二月十三日は青文字、十四日は赤文字。
何度見返しても、それは黒文字になってはくれなかった(当たり前だ)
スマホのカレンダーも、やはり十四日は日曜日だった(当たり前だ)
掛け時計の秒針がゆっくりと一回りした頃、漸く彼らの脳みそが事実を認識した。
そして三人は力尽き、床に崩れ落ちた。
最初に立ち上がったのは藤田くんだ。
(十四日だ……問題は十四日なんだ)
その日に高山に会えればチャンスはある!
「高山!」
抜け駆け禁止同盟もなんのその、藤田くんは縋りつくように凜に呼び掛けた。
「今度の土日って何か予定ある? ゲームしようぜ!」
振り返る凜。
「あー、その日はお兄ちゃんと予定あるから無理」
一切の忖度も無く、凜は藤田くんの希望をばっさりと切って捨てた。
今度こそ、三人は真っ白に燃え尽きて灰と化した。
温風ヒーターの風が、その灰をどこかへ吹き流して行った。
火曜日、凜はこっそりチョコレートの手作りに挑戦し、大失敗した。
一回目は真っ白になり、二回目は何故か固まってくれず、三度目の正直は時間が足りず(お兄ちゃんが帰ってくる前に片づけなければ!)断念しなければならなかった。
夜、お風呂で優香お姉ちゃんに相談したけれど、お姉ちゃんもお菓子作りは未経験——と言うか、一度失敗してから手を出していないそうだ。
「お店で買おうよ。お金ならお姉ちゃんが出すから……」
「それじゃ意味無いよオ……」
凜の目に涙が浮かんだ。
そうなのだ。
凜にとって、女の子になってから初めてのバレンタインデー。
生まれて初めて、チョコレートを贈る側になったのだから。
お風呂から上がった後、小春ちゃんに連絡を取ってみた。
「チョコ作れる?」
『お母さんができるよー』
「教えてください<m(_ _)m>」
『明日ならOKだって』
少し時間をおいてから返信が来た。きっと確認を取ってくれたのだろう。
それを見た優香の目が輝いた。
「凜ちゃん、私も教えてもらえるかなあ?」
二月十日、水曜日。優香の公休日でもある。
放課後、凜は優香お姉ちゃんと連れ立って小春ちゃんの家にお邪魔した。
呼び鈴を押すと即座にドアが開いた。小春ちゃん、ドアの前で待機していたのかな?
「いらっしゃいませー!」
リビングに入ると小春ちゃんのお母さんが迎えてくれた。そして縁ちゃんも。
「寒かったでしょ? 温かいお茶をどうぞ」
「ゆかりん、六時間目振りー」
「二人とも酷いよ、こんな素敵なイベント内緒にするなんて」
「ゴメンごめん、隠してたわけじゃないんだけど(笑)」
そしてお母さん、縁ちゃんの視線が優香に集まる。
昨日のうちに優香が参加することは伝えてあるけれど、それでもこの「誰?」みたいな無言のプレッシャーには耐えがたい。早く自己紹介しなきゃ。
「は、初めまして。風見優香です。本日は御日柄も良く……」
「僕のお兄ちゃんのお嫁さんです!」
テンパり過ぎて支離滅裂になった優香、凜ちゃんのフォローのおかげで緊張が解れた。GJだよ、凜ちゃん。
「あらー。素敵なお兄さんには素敵なお嫁さんがいらっしゃるものねえ」
「あ、あは、あははー。いえ、そんな大したものでは(笑)」
お茶会の間中、縁ちゃんは優香を見つめていた。
その視線に気づいた優香が小首を傾げると、縁ちゃんが言った。
「お姉さんと高山ちゃんってそっくりですね」
びっくりしたのは凜だ。思わず優香と顔を見合わせた。
本当の姉妹じゃないのに似てるなんてことある?
「そうかなあ? 全然似てないと思うけど」
「いや顔とかじゃなくて雰囲気と言うか……姿勢が凄くいいところとか」
「ちょっと立ってみてよ」
小春のリクエストで、凜と優香が並んで立つ。かかとを揃え、背筋と膝をピンと伸ばして胸を張り、やや顎を引いた立ち姿は、確かに血縁を越えて共通する何かを感じさせる。
「職業柄……ですかねえ」
「お姉ちゃんがカッコいいのは認めるけど、僕そんなに似てる?」
凜の疑問に三人が即座に答えた。
「「「そっくり!」」」
お茶会が終わり、小春ママ主催・手作りチョコレート講習会が始まった。
キッチンのテーブルにはたくさんのステンレス・ボウル。
ゴムベラに包丁とまな板、デジタルの計量器。
シリコン製のハート型もあるし、チョコペンもある。
その横にあるのは温度計だろうか。
「まず道具の水気は完全に拭き取ってね。水滴が残っていると上手く固まらなかったり分離しちゃったりするから」
小春ママのこの一言で、凜は自分の失敗の原因を知った。
大騒ぎしながら工程が進んでいく。
「高山ちゃんは誰にあげるの? 藤田?」
「なんでそこで藤田くんが出て来るのさ。お兄ちゃんに決まってんじゃん!」
「縁ちゃん馬鹿なこと聞いたね」
「で? 二人は誰にあげるの?」
「ん~?」
「ひみつ~(笑)」
「なにそれずるい。僕にばっかり言わせて」
「月曜日ね」
「そうそう。月曜に教えてあげる(笑)」
「あ、優香さん。湯煎は五十度以下でね。テンパリングが重要だからね」
「テンパ……ああ、温度管理ですね。了解しました」
このやり取りを横で聞いて、凜は自分の失敗の原因(二つ目)を理解した。
「味見しよ、味見!」
小春ちゃんが大はしゃぎしている。
お互いにひと匙ずつ口に運び、もっともらしく品評し……。
「高山ちゃん、もうちょっと砂糖入れた方が良くない?」
「あ、これでいいんだ。お兄ちゃんあんまり甘いの好きじゃないから」
(え? そうなの?)
驚いたのは優香だ。
今までそんなこと聞いたことも無い。市販のチョコレートは喜んで食べてくれたし、和菓子も好きだし、てっきり甘党だと思っていた。
ここは顔に出さず、既定方針を貫くべき……。
優香はそう判断した。
クッキングシートの上に型を置いて、チョコレートを流し込んで、冷蔵庫に入れる。
「じゃあ固まるまでゆっくり待ちましょうか」
ママがお茶とケーキの準備に取り掛かった。
色といい艶といい、実に見事なチョコレートが完成した。
やはり我流自己流でやるより、指導のよろしきを得ることが成功の秘訣だ。お兄ちゃんの言葉が耳に甦った。
チョコペンでメッセージを書き入れる。
『お兄ちゃん大好き』
書き込むところを見られたくないと思っていたが、ママさんが段ボールでパーテーションを作ってくれていた。
流石、気遣いは一流だね!
そしてラッピング。
これもママさんが予め用意してくれたものの中からチョイス。
十四日、日曜日。
運命の朝が来た。
お姉ちゃんと一緒に渡すことは既に打ち合わせ済みだ。
じゃないと恥ずかし過ぎて渡せる気がしない。凜からお願いして、お姉ちゃんが出勤する前に渡すことにしてある。
お姉ちゃんが帰ってから渡せばいいと思った?
それじゃあ凜の神経が耐えられない。秘密を抱えたままお兄ちゃんと二人きりで過ごすなんて絶対無理!
建国記念の日も土曜日も、お兄ちゃんが不審がるほど凜の態度はおかしかったのだ。
昨日の夜のうちに、朝ご飯をいつもより三十分早くしてとお姉ちゃんからお願いしてある。
「まっくんまっくん」
食器を片付けようとした真久郎の前に、優香が瞳を輝かせながら立ち上がった。
凜も隣に並んでいる。こちらは緊張に顔を強張らせて。
「はい、バレンタインチョコ。手作りだよ~」
「へえ! もう手作りなんかしないって言ってたのに?」
「頑張ったんだよ。ねえ凜ちゃん」
直立不動だった凜が、優香に促されておずおずとチョコレートを差し出す。
赤地に小さくキャラクターがあしらわれた包装紙に、作り付けではないリボンが掛けられたチョコレート。
「おお、なんか……凄いな(語彙力)」
真久郎が嬉しそうにチョコレートを見つめる。
凜は息を止め、真っ赤な顔で俯いた。
「ゆうかりんもありがとな。大切に食べるよ」
真久郎は優香に礼を言った後、凜の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「凜からも貰えるとは思わなかったよ。なんか食べるの勿体ないな(笑)」
「ちゃんと食べてよ。本命なんだから」
「うん。食べる食べる(笑)」
「お兄ちゃんの好みに合わせてビターチョコにしたんだから!」
「マジかよ、開けていい?」
「開けて開けて!」
真久郎がリボンを解き、包装紙を剥がし、紙箱の蓋に手を掛ける。
その瞬間を、Tシャツの裾を握りしめて見守る凜。
(メッセージに気付いて!)
蓋を開けた真久郎は一瞬目を見開いたが、直ぐに優しく微笑んだ。
「マジでもったいないけど……頂きます」
チョコレートを割って、ひとかけらを口に運ぶ。目を閉じて、じっくりと味わっている。
「美味い」
続けて優香のチョコにも手を付ける。
「おお、こっちはミルクたっぷりだなあ」
「どお? 甘すぎない?」
優香も不安いっぱいだった。
「大丈夫だ、問題ない」
「良かった~」
真久郎は、こちらを斜めに見ている凜に気が付いた。
「なんだ、お前も食べたいのか? ほれ」
凜のチョコをひとかけら取って口に放り込んでやる。
「苦い……」
小春ちゃんの家で味見した時はもうちょっと甘かったはずなのに。
どうしてかなぁ……。
優香の出勤を二人で見送り、その後はいつも通りの兄妹の休日。
本当に何もない、いつも通りの日曜日だった。
翌十五日、月曜日の朝。
藤田くんを始めとする男子たちは、未練がましく女子の動向を気にしている。
(一日遅れのバレンタインがあってもいいはずだ)
だが女子達に目立った動きはない。
「おはよー!」
高山が入って来た。チョコレートらしきものは持っていない。いや、ランドセルの中にあるのでは?
藤田くんがおはようと言うより早く、林と八雲が素早く高山に駆け寄った。
手に持っているのは……紛う事なきバレンタインチョコ!
「はい、凜ちゃん。ハッピーバレンタイン!」
「わたしからも……」
凜は訳が分からず瞬きを繰り返している。
「チョコ? 僕に?」
小春ちゃんと縁ちゃんは、顔を見合わせて楽しそうに笑っている。
「そう。本命チョコ」
「友チョコじゃないよ、本命だよ」
一方で凜は混乱の極みだ。去年まではお母さん以外からもらったことがない。
女になってから受け取ることになるなんて。
しかも、本命?
凜の顔がみるみる赤くなる。
「ぼ、僕……女子なんだけど……」
「知ってるよー」
あまりにも即答だった。
凜はしばらく固まっていたが、やがて恐る恐る二人からチョコレートを受け取った。
「あ……ありがとう」
なんだか、お腹の奥がむずむずする。
昨日、僕はお兄ちゃんに本命チョコを渡した(空振りっぽいけど)
そして今日、自分が本命チョコを貰っている。
なんだか世界がひっくり返ったみたいだ。
藤田くんたちもまた混乱している。
高山がチョコを受け取ってる! しかも本命だって……。
男子たちの間には、先週を上回る敗北感が押し寄せた。
その日の教室は一日中お通夜のようで、前野先生も原因が分からず目を白黒させていたと言う。
Slipping Through My Fingers
小学六年生は、バレンタインデーを過ぎると急に慌ただしくなる。
卒業と進学に備えて為すべきことがたくさん出て来る。
二月十七日、新入生説明会があった。進学先である湖畔中学校の体育館で、時間は十五時から。
例によって優香は休みが合わず、年度末が近い真久郎も業務多忙で丸一日休みを取ることは躊躇われた。
「午後から一時抜けさせていただきます。用が済んだら戻りますんで」
例によって主査は渋い顔をしたが、同年代の子を持つ係長が助け舟を出してくれたので事なきを得た。
十四時半、柏木小学校の正門前で凜を拾い中学校に向かう。
駐車スペースがすんなり見つかったのはラッキーだった。
時間に余裕があるのでちょっとだけ校舎を外側から見学する。
「なんか……大きいね」
小学校より大きく、威圧感さえある校舎。
雪が積もる校庭では野球部員だろうか、男子生徒が列を作ってランニングをしている。顔の見分けがつかない距離なのに、掛け声ははっきり響いて来る。
「中学生って……凄いんだね」
凜は少しだけ怯えているようだ。
十四時四十五分。そろそろ会場に入るとするか。
体育館はおよそ五分の入り。
席は決まっていないようなので一番前の右端に並んで座った。
ヒーターは最大出力のようだが、体育館を十分暖められるほどではない。
(油断した……もっと厚着してくりゃ良かった)
凜はそうでもないようだが、真久郎は震え上がっている。だが、それを顔に出したりはしない。しないのだ!
席が埋まり、定刻になり、大量の資料が配られた。
凜も目を丸くしている。
パラパラとめくると、制服と体操服の購入申込書があった。
(そうか……そうだよな)
真久郎には制服姿の凜が上手く想像できない。どうしても学ランになってしまう。
プリントの中には記入・提出を要するものも多い。
(こりゃあ帰ってからが本番だなあ)
なんだかんだで説明が終わり、凜を家に送って真久郎は職場に戻る。
十六時十分。
(中途半端だなあ。早退にすりゃ良かった)
しかし今更だ。残りの時間を真面目に勤め上げ、十七時に退勤。
帰宅し玄関を開けると凜が跳び付いて来た。
翌日、公休の優香に頼んで制服の注文に行ってもらった。
昨日説明会会場で会った小春ちゃんのお母さんから、急いだ方がいいと言われたからだ。
なんでも小春ちゃんのお兄さんの時にはのんびり構えていたところ、受け取りが卒業式の前日になると言う綱渡りを演じてしまったそうだ。
市内には何カ所か制服を受け付けてくれる店はあるが、優香が選んだのは旭光堂百貨店。
警備を所轄するマネージャに事情を話したところ、最優先でやってもらえるように売り場のマネージャに頼んであげると言われたのだった。
「しかし意外だなあ。風見さん、お子さんいたんだね」
「失礼ですね(笑)妹ですよ(笑)」
九階特設会場に着いた二人は、これまた顔見知りの女性店員からこっそりバックヤードに案内された。
順番待ちの列を飛ばして採寸してくれると言う。
在庫商品が山積みされた長台車が並ぶ通路に、パーテーションを使って設置された凜専用の試着コーナー。
ジャンパースカートの制服(試着用)を着て、スタンドミラーの前に立った凜が顔を顰めてただ一言。
「う~ん、まるで女子」
優香は堪え切れず噴き出してその場にうずくまったが、事情を知らない採寸担当のお姉さんはキョトンとしている。
しかし流石は接客のプロ、そんなアクシデントに動じることもなく伝票に記入を進めていく。
仕上がり予定は二十六日と言うことになった。
「私、仕事帰りに受け取れるわ」
優香が言ったが、念の為に確認する。
「それとも凜ちゃん、自分で取りに来たい?」
激しく首を左右に振る凜。今度は店員さんも噴き出した。
そして二十六日が来た。
凜は朝からそわそわしている。
真久郎が帰宅しても部屋から出て来なかった。
おやつにも手を付けていなかった。
夕食の支度をしている間も、ずっと落ち着きなく動き回っている。
言うまでもなく、真久郎にも理由は解っている。
「楽しみだなあ、制服」
「……全然」
「なんだよ、素直じゃないなあ」
「……」
(難しいお年頃だな。俺の時はどうだったかな)
あまり干渉しても煩がられるだけだろう。真久郎は黙って夕食の支度を続けた。
玄関のドアが開いた。優香の声が——と思ったら凜がすっ飛んで行った。
「おかえりーっ!」
「ただいまーっ♡」
二人連れ添ってリビングに入って来る。凜の手にはもちろん制服が入った箱。
真久郎も懐かしさを覚えた。
「晩ご飯食べたらさっそく着てみようか」
「うん!」
どうやら凜の調子が元に戻ったようだ。
安心して味噌汁の仕上げに掛かる真久郎だった。
食事が終わると凜と優香が地下へ降りて行った。
真久郎は食洗器のスイッチを入れてのんびりと待つだけだ。そして——。
「まっくーん、おいでー!」
優香の声が響く。
(なんだ、上に来るんじゃないのか)
だが凜の気持ちも分かる。恥ずかしくて自分からは来られないのだろう。
真久郎は弾むような足取りで階段を降りていく。
ドアを開ける。
部屋の真ん中で振り返った、制服姿のJC(今回は敢えてこう呼ぶ)が恥ずかしそうに口もとを手で覆う。
ザ・ワールド! 真久郎の、時が止まった。
クローゼットにDIO様でも隠れているのだろうか。
真久郎の腕時計の秒針がゆっくりと(体感で五分くらいかけて)一周した。
「お兄ちゃん……」
凜が不安そうに眉根を寄せた。
「なんか言ってよ。やっぱり……変?」
まだ声が出て来ない真久郎に、優香が呆れて声を掛けた。
「ちょっとまっくん。早よ再起動」
優香のデコピンでようやく真久郎の時が動き出した。
「で? どーよ、妹ちゃんの制服姿は」
「あ……ああ」
何も言えなかった。私服のスカートを見た時にも増して、女の子らしい姿。
白いブラウスに臙脂色ストレートエンドのボウタイ。
紺色のジャンパースカートを所在無げに弄る凜——否が応でも認めざるを得ない。
これは——俺の目の前にいるのは、確かに「少女」で「妹」なのだ——と。
そして三月十五日、月曜日。
ここK市の公立小学校では、県内で一番早い卒業式が行われる。
この日ばかりは優香も有給を取った。
課長代理から季節変更権を行使すると一方的に通告されたが、優香は労働基準監督署を味方につけて今日を捥ぎ取ったのだ。
朝六時。
真久郎はいつも通りだが、優香は一時間以上も早起きだ。
朝ご飯が終わったら凜に制服を着せ、念入りに髪を整えてやる。
自分たちもフォーマルスーツを着込み、優香はいつもよりメイクに余念がない。
七時半。
三人揃って家を出る。凜を真ん中にして、坂道を下って行く。
この道を初めて凜と歩いたのが九月。つい昨日のことのようにも、何年も前のことのようにも思える。
七時四十五分。
校門を過ぎ、凜は正面玄関へ。真久郎と優香は受付のため来賓用玄関へ。
教室に向かう途中、小春ちゃんと縁ちゃんが後ろから声を掛けてきた。
「凜ちゃんおはよー!」
「わお! 二人とも大人っぽーい!」
「高山ちゃんこそ!」
教室に入った凜は別世界に迷い込んだような感覚が脊髄を走り抜け、一瞬だけ足を止めた。
(あ……あれ?)
昨日まで色とりどりだった世界が、今日は黒と紺に染め上げられている。
「よう、高山」
声を掛けて来たのは藤田くん。那須原くんと幽谷くんも一緒だ。
凜はしばらく声が出なかった。
こんな時に突破口を開くのは決まって小春ちゃんだ。
「よー藤田ァ、学ラン似合わねーなあ!」
「うるせー(笑)」
大はしゃぎする小春ちゃんたちの横で、凜は急に大人になった(ように見える)藤田くんに見蕩れてしまっていた。
「ん? 何か顔についてる?」
その藤田くんの一言で我に返る。
「いやあ。藤田くん、カッコいいなあって」
途端に赤面する藤田くん。周囲が一気にざわつき、那須原くんたちは鬼の形相で肘やら拳やらを藤田くんの脇腹に撃ち込んでいる。
だが凜は別の事を考えていた。
(そっかぁ……)
本来なら……本来なら凜も真っ黒な学ランを着て『向こう側』に並んでいたのかも知れない。
なのに今、僕は紺色のジャンパースカートの裾を揺らしてこっちにいる。
不思議だった。
違和感はあるのに、嫌ではない。
嫌ではないのに、違和感がある。
藤田くんたちから離れて教室を見回す。
黒板には、前野先生からの『卒業おめでとう』のメッセージ。
その前で早くも思い思いに自撮りの記念撮影が始まっている。
凜たち六人も参加することにした。
全員中学でも一緒だけどクラスも同じとは限らないし、何よりこの教室は今日が最後なのだ。
八時。
前野先生がコサージュと卒業証書ホルダーの入った段ボール箱を持って教室に入って来た。
「はいみんな、おはようございます。各自これを受け取って左胸に付けてね」
「「「は~い」」」
八時十五分。
最後の朝の会が始まった。
八時三十分。
体育館の保護者席は既に埋まっている。真久郎たちは一番後ろの席に着いた。
あちらこちらで保護者同士の挨拶が交わされていた。
「あらー優香さんご無沙汰」
声を掛けて来たのは小春ちゃんのお母さん。
真久郎はPTA活動を通してそれなりに面識があるが、優香とも顔見知りとは知らなんだ。
竹田さんグループも深々とお辞儀してくる。
やがて引き戸がガラガラと音を立てて開き、エルガーの「威風堂々」のピアノ伴奏に合わせて卒業生が入場してきた。
まさに威風堂々の行進だ。
期せずして保護者一同は起立し、盛大な拍手を送った。
凜は五組、入場は最後。じりじりしながら待つ真久郎を、優香は面白そうに眺める。
前野先生に続き、五組が入って来た。女子では二番目に背の高い凜はやはり目立つ。
制服姿は既に見ているが、胸のコサージュが如何にも『卒業』を演出している。
その姿を目にした途端、真久郎は拍手ができなくなった。
両目からあふれる涙と、嗚咽を抑えるのが精一杯だった。
優香がそっとハンカチを差し出し、それを引っ手繰るように受け取ると、天井を仰いだり俯いたり実に忙しい。
(なんでこんなに涙が出るんだか……カッコ悪い)
最後列で良かった。どうか凜に気付かれませんように。
「えー、只今より、令和八年度、柏木小学校卒業証書授与式を開会します!」
教頭の杉田先生が開会を宣言する。
国家と校歌の斉唱があり、卒業証書が授与され、校長やら来賓やらの祝辞、在校生代表の挨拶、卒業生代表の答辞と続き……。
最後の合唱は「天使たちの歌」だった。真久郎もかつて卒業式で歌った、一番好きなやつだ。
これで涙が止まらない方がどうかしている。
声を上げなかっただけマシと思って頂きたい。
十一時。
卒業生は教室に戻り、最後の……本当に最後の帰りの会。
前野先生が教壇に立った。朝より少しだけ掠れた『卒業おめでとう』の文字を背景に。
三分の一くらいはもう泣いているが、凜にはちょっと実感が湧かなかった。
追い出されると言うか、逃げ出すようにここへ来て半年と少し。
仲の良い友達は出来たし、その友達もほぼ全員進学先が同じ。『悲しい』という感情が出て来ない。
先生は、不思議なくらい何も言わずに皆を順に見つめている。
やがてクラス全体を静寂が覆った。
「えー……なんと言うか」
ようやく先生が口を開いた。
「皆さんとは五年生の時から一緒でしたね」
いつも淀みなくしゃべる先生が、珍しく言葉を探しているようだった。
「先生、毎年この日になると思うんだけど……」
一旦言葉を切って息を吐く。
本当に珍しい。
「初めて会った時、皆さんはまだ子供でした」
誰かがクスッと笑い、凜も釣られて微笑んだ。
「でも、今はもうみんなちゃんと中学生の顔をしています。制服を着ているからというだけではなく」
凜はじっと先生の顔を見つめた。
「みんな本当によく頑張りました」
前野先生の視線が教室をゆっくり巡る。
「楽しかったことも、悲しかったことも、先生はたぶん全部忘れないと思います」
「先生は、いつかみんなの思い出になってしまうかも知れない」
「でも、それでいいんです」
「皆さんは前だけを見て、中学校へ行ってください」
そして最後に、少しだけ柔らかく笑った。
「卒業おめでとうございます。先生は皆さんの担任になれて幸せでした」
全員が立ち上がり、万雷の拍手。先生は洟を啜り「さあ、行きましょう」と言った。
十一時二十分。
正面玄関前、門出の送り。
既に保護者の移動は終わっている。号泣しっ放しの真久郎は注目の的で、優香は申し訳なさそうに隣に佇んでいた。
玄関が開放され、在校生が並んで作る花道を通って卒業生が出てきた。
あちこちで記念撮影が始まり、ごった返している。『卒業証書授与式』看板の前が一番の混雑だ。
さて、凜はどこにいるのか。真久郎が使い物にならないので、優香が凜を探した。
一分で凜の姿を捉える。施設警備で身に着けた、不審者検索技術の応用だった。
「凜ちゃん!」
「お姉ちゃん!」
一緒にいた小春ちゃんと縁ちゃんも手を振っている。
「なにお兄ちゃん、泣きすぎ(笑)」
「だってくぁwせdrftgyふじこlpygfdsvghjkl」
「何言ってるのか判んないんですけどー(笑)」
「もうずっとこんな感じ。よっぽど嬉しいんだね」
「お兄さん、意外ですねー」
小春ちゃんが目を丸くしていた。
縁ちゃんは初めて見る『高山家』を物珍しげに観察している。
「やあ真久郎さん、お久しぶりです」
そこへやって来たのは前野先生だ。
「あっ、先生。ご無沙汰しております」
瞬時に真久郎が応接モードに切り替わった。ただ、涙が乾かないうちはまともに顔を上げられない。
「真久郎さん」
前野先生は真っ直ぐ真久郎を見ている。
「この半年間、本っ当にお疲れさまでしたね。PTAにもご協力いただいて、頼もしい限りでした」
目を真っ赤に泣き腫らし、鼻水も垂れ流したままの顔を上げる真久郎。
その真久郎に、慈父のように声を掛ける前野先生。
「高山さん……凜さんは転校したばかりの頃、本当に緊張していました」
「でも学校では一度も挫けなかった」
「ちゃんと前を向いて、友達を作って、笑顔で今日まで来られました」
どこまでも穏やかな、前野先生の笑顔。
「それはきっと、真久郎さんが安心できる家庭を作っていたからです」
一度は止まった真久郎の涙が、また流れ出した。
「保護者って、正解が見えなくて大変でしょう?」
「でも、真久郎さんはちゃんと凜さんを守っていましたよ」
真久郎は、また顔を伏せて手放しで泣き始めた。——凜と優香が恥ずかしくなるほどの大声で。
前野先生はもう一度微笑み、今度は凜の目を見た。
「高山さんも、本当によく頑張りましたね。初めは怖かったでしょう?」
凜が白い歯を見せて微笑む。
「でも高山さんは、自分で考えて、自分が信じた通りに行動して、必要とあらば男子ともケンカして、でも譲るところはきちんと譲って、クラスの皆を引っ張ってくれましたね」
「先生はそんな高山さんを、カッコいいと思って見ていましたよ——たとえ血は繋がっていなくても、兄妹なんだなって」
先生の言葉を聞いていた凜は、お腹を締め付けられるような気持ちになった。
鼻の奥がツンと痛んで、笑顔を作れなくなった。
初めて、卒業を寂しいと思った。
あっちの方で、他の子が前野先生を呼んでいる。
「優香さんも、本当に一所懸命でしたよね。凜さんは、優香さんの作るご飯をいつも学校で自慢していましたよ」
「じゃあ、私はもう行きますね。お元気で」
立ち去る前野先生を見送る。
真久郎と優香は深々と頭を下げた。
まだ咲かない北国の桜が、早春の風に揺れていた。
(続く)
如何でしたでしょうか。
凜は一歩大人に近づき、真久郎は苦労が少しだけ報われ、優香も自分の将来を真剣に考え始めました。
この先この不思議な家族がどのような道を選ぶのか。
それは中学生編で明らかになる予定です。
筆者も楽しみにしています。




