第四幕:真久郎、凜の成長を見守るのこと
初めて凜の部屋に男子が入って、一緒に遊んで。
その後は修学旅行編です。
集団行動
思いがけず二人切り
男子と女子
枕投げ
夜更かし
恋バナ
何も起きないはずがなく――いや、たぶんそんなに大したことは起きません。
今回は男子組視点多めでお送りします。
Devil In Her Heart
凜に連れられ、坂道を歩く少年二人。相互にくどいほど『抜け駆け禁止』を念押しする。
「どうしたの?」
「い、いや、別に……」
「なんでもないよ……」
あからさまに挙動不審な二人だった。
表通りから少しだけ引っ込んだところにある、なんと言うこともない二階建ての賃貸マンション。その一階右端のドアの前。二人の緊張はじわじわと高まりつつあった。
「ちょっと二人とも。さっきから変だよ? 何か悪いものでも食べた?」
凜はベルトに装着されたキーケースから鍵を取り出し、玄関を解錠する。それを見て二人は気づいた。
(高山の家、いま誰もいないんだ……)
(もしかして、女子と二人きり?)←いや、相棒がいるから『二人きり』ではない。
ギギィ……と重々しい音を立てて(←幻聴です)ドアが開く。案の定、中には人の気配がない。
「お邪魔します……」
そんな必要はないのに、ついつい声が小さくなる。
「ほら二人とも、早く上がって上がって」
いきなり凜に手を掴まれ、中に引っ張り込まれた。
「こっちこっち」
これでは脱いだ靴を揃える暇もない。
「あ、玄関の鍵掛けといてくれる?」
「お、おう……」
なんということでしょう! 男子の中に女子一人の状況で、藤田くんは密室を作る手伝いをしてしまったのです!
(いや、鍵掛けないと不用心だし)
(だよね? 別に悪いことしてないよね?)
心の中で言い訳する二人。まるでテレパシーだ。
廊下の先の扉を開けると、下へ向かう階段が現れた。
「え? なにこれ、ここ一階だよな?」
「そうだよ。僕の部屋、地下室なんだ」
「スゲー!」
「秘密基地みてー!」
「僕もそれ言った(笑)」
階段室の灯りを点け、ぞろぞろと降りていく。下の扉を開けるとそこが凜の部屋だ。真っ暗かと予想していたがそうでもなかった。壁の天井近いところに明り取りの細い窓がある。コスモスっぽい赤い花が揺れているのが見えた。
信じられないほど静かな部屋だった。外からの音が一切聞こえてこない。天井の小さな換気扇の音がやけに耳に響く。
背後で扉が閉まる音がした。その音で、藤田くんも那須原くんも気が付いた。
いま俺たちって、女子のプライベート空間にいるんだ。他の男子はこんな経験してないはずだ……。
生まれて初めて入った、女の子の部屋。
(なんていい匂い……これが……女の子の匂い……)
(シャンプー? 柔軟剤? 我が家には無い匂い……)
我を忘れて深呼吸を繰り返す少年たち。
遠慮がちに見回すと、奥のほうにベッド。朝抜け出したままらしく乱雑に丸まった毛布に、脱ぎっ放しのパジャマ。その下から大きなウサギのぬいぐるみが顔を見せていた。
床には漫画が何冊も放置されて、足の踏み場が辛うじて確保されている。
(なんだか俺たちの部屋みたい……)
ハンガーラックにはブルゾンとジーンズ、ブラウスやカーディガンが幾つか。
プラ製衣装ケースの、半透明の引き出しから透けて見える青い縞模様は……もしかして、パ、パ、パ……。
(おい悠真!)
那須原くんにベンケイを蹴られ、藤田くんは無言で悲鳴を上げた。
(ジロジロ見るな、失礼だろ!)
(ご、ごめんなさい……)
しかし二人とも目は血走り、口の中はカラカラだった。
(どうしよう。逃げ場がない)
(お父さんとかお母さんとか帰って来たら何て言い訳するんだ?)
(いや別にやましいことはしてないけど)
(でも、何だかすごく悪いことしてる気がする……)
凜はランドセルを学習机の横に掛け、カーディガンを脱いだ。
「あー、まだまだ暑いねー」
そんなことを言いながら何の躊躇いもなくブラウスのボタンを外し始める。
「わーっ!」
「ストップ! ストオォォォォプ!!」
「なに?」
ブラウスを脱ぎ捨て、黒のキャミソール姿で凜が振り向いた。藤田くんと那須原くんは手で顔を覆いつつも指の隙間からしっかり見ている。
「何やってんの、二人とも」
「なにって」
「いきなり脱ぐなよ、恥ずかしいだろ!」
「ただの部屋着だよ(笑)二人は暑くないの?」
「え?」
「あ……ちょっとだけ……暑いです」
「じゃあ脱げば? はいハンガー」
笑顔とともに手渡されたプラスチックのハンガーを少しの間弄んでいたが、やがてもそもそとブルゾンを脱ぐ。凜は二人のブルゾンを受け取って自分のカーディガンとまとめてラックに掛けた。
それを見ていると、藤田くんも那須原くんも、まるで自分自身が凜と密着しているかのような気分になってしまう。
高山はキャミソール一枚。俺たちはTシャツ一枚。
(落ち着け、別に変じゃない)
(ちょっと前までは学校でもこの格好だったじゃないか)
必死になって自分に言い聞かせるけれど、どうしても『そこから先の姿』への妄想が止まってくれない。
「ちょっと待ってね、ソフト探すから」
凜は机の下に頭を突っ込んでゲームソフトを探し始めた。
「あれ? おっかしいなー、ここにしまったはずなのに」
デニムに包まれたお尻が左右に揺れる。
(こいつ……誘ってんのかよ……)
(おい悠真、お前変な気起こすなよ?)
(ハァ? 起こしてねーし! お前だよそれは!)
(嘘つくなよ、高山のお尻ばっかり見てるくせに!)
(お前こそ!)
声は出さず、テレパシーで口論する二人だった。
「あったー!」
凜がゲームソフトのディスクを掲げて振り返る。
「整理整頓しなさいっていっつもお兄ちゃんに怒られるんだよねー(笑)」
その瞬間に二人は直立不動になる。
「何やってんの? いつにも増して変だよ、二人とも」
「キ、キノセイダヨー」
(だいたいお前のせいだから!)
藤田くんも那須原くんも、口に出せない思いを噛み締めてその場を取り繕うしかない。
「じゃあ行こうか」
「行くってどこへ?」
「リビング。ここテレビ無いからさ」
この密室から解放される。ホッと安堵すると同時に名残惜しい気もする。部屋を出る前に、二人は凜にも相棒にも内緒でもう一度、最後の深呼吸をしたのだった。
そして先に階段を登る凜(の主にお尻)を見上げる二人。
「どうしたのー? 早くおいでよー、おやつもあるよー」
「……」
「……」
「高山って……いいよな……」
「ああ……いいよな……」
さて一方で、何とかサービス残業をさせようという主査のプレッシャーを跳ね返して定時退勤した真久郎。今日は珍しく渋滞に巻き込まれ、車庫着が二十分遅くなった。時計の針は六時に近い。
(急がないと飯の支度が……)
下拵えは昨日の晩に済ませてあるとは言え、空腹の凜を待たせる訳には行かぬ。鍵を探すのに手間取り、苛ついてしまう。
「ただいまー」
ドアを開けて気が付いた。子供サイズだが明らかに男物のスニーカーが二足並んでいる。
奥からは独特なゲーム音楽と効果音、そして凜を含む子供たちの歓声。いつもなら「おかえりなさい」と言って飛びついてくる凜が、出迎える様子もない。
(珍しいな。ゲームに夢中で時間を忘れてるのか)
何はともあれ凜の友達とあれば挨拶の一つもせねばならぬ。しかし小春ちゃんではなく、男子二人とは。何か不穏なものを感じる。
そっと扉を開けてリビングを覗くと、モニター画面と三人の背中が見えた。声は掛けず、しばらく観察してみる。
凜が真ん中でコントローラーを握り、男子二人は両脇から寄り添うように密着している。画面を見るより、凜の横顔を見る時間の方が長い気がする。
(おいおいおい、ちょっと近くないか?)
凜はゲームに夢中になると画面の動きに合わせて体が揺れる質だ。真久郎には、少年たちがそれを利用して体の接触を楽しんでいるように見えた。
むかっ腹を立て、よほど怒鳴り込んでやろうとも思ったのだが……。
(まあオトコノコだもんな。そうなるよな……)
(だいたい、俺の思い込みかも知らんし)
(それに、下手に怒ったりしてママさんたちとトラブるのも怖いし)
(今後の対応については優香と協議しよう)
なんだかお役人みたいな発想をしてしまう真久郎だった。
とは言えいつまでも突っ立っている訳にもいかず、取り敢えずリビングに入る。
「ただいまー」
その時の少年たちの反応と来たら。飛び上がらんばかりに(いや実際に飛び上がって)凜と距離を取り、正座したのだった。
「あ、お兄ちゃんお帰りなさい」
「ど、どーも、ふふふ藤田です怪しいものじゃないです」
「那須原です。高山さんのクラスメイトです」
「いらっしゃい。会うのは初めてだよね?」
二人のテンパり様にちょっと笑って、真久郎は自己紹介した。
「兄の真久郎です。妹と仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ……」
「お腹減ってない? 何か作ろうか?」
「え? わっ、もうこんな時間!」
「はい! いいえ、もう帰らないと親に怒られるんで!」
真久郎には追い返そうと言う意図はなかったのだけれど、二人は慌ただしく立ち上がり、玄関に向かった。
「あーっ。二人とも、ブルゾン忘れてる!」
凜が下から二人のブルゾンを持って来た。
「す、済まねえ高山」
「また明日! 学校で!」
転がるように出て行く二人を、真久郎も唖然として見送るばかりだ。
「あのね、凜」
「ん?」
「女の子一人の部屋に男の子を上げるのって、兄ちゃんはどうかなって思うよ」
「そう?」
(あ……これまるっきり男子の反応じゃん……)
その夜のこと。
「今日さ。凜のやつ、男子を家に呼んでたんだよ」
「ほー。やるじゃん凜ちゃん」
「褒めてる場合かよ。家ン中で、男子二人と女の子一人だぞ?」
「まっくん考え過ぎ。凜ちゃんしっかりしてるから、相手はちゃんと選んでるよ」
「そうかなあ」
「そうだよ(便乗)凜ちゃん楽しそうだったんでしょ?」
「それは……まあ」
「だったら問題ないよ」
「でも玄関に鍵掛けてたんだぞ?」
「そりゃいつものことじゃん」
「それは……まあ」
「凜のやつ、無防備過ぎるよ。自分の部屋にまで入れたり、ぴったりくっついたり」
「お兄ちゃんヤキモチか(笑)だから友達できたんでしょ」
「そう言う問題じゃない」
「そうかなあ?」
「そうだよ(便乗)」
「もっと凜ちゃんを信じてあげて。いつまでも籠の鳥にはできないんだし、いつかは巣立っていくんだから」
この言葉に真久郎は黙り込んだ。言いたいことは山ほどあるのに、そのすべてが言葉になってくれなかった。
Wake Me Up
十月最後の水曜の夜。
高山家の地下室では凜が修学旅行の準備の最終段階に入っている。真久郎と優香も手伝うが、学校が用意してくれたチェックリストがあるので大助かりだ。
「えーっと……着替え、OK。ジャージ、OK。洗面用具、OK……」
「結構大荷物だな。俺の出張用のバッグ貸してやろうか?」
「ええ? やだよ、ダサいもん」
お子様の素直なご意見が大人のハートを鋭く抉る。だがこれしきの事で参るような真久郎ではない。吐血(心理描写)しながらも立ち上がる。
「ポケットティッシュは?」
「入れた」
「少なくない?」
「平気だよー」
「凜ちゃん、これこれ」
優香が小さなポーチを差し出した。中身はもちろんアレだ。
「まだ時期じゃないよー」
「突然来る事もあるから、念のためにね」
「あ~い……ちょ! お兄ちゃん、見ちゃダメ!」
「あ、済まん……」
「もー! 一人で出来るから! あっち行って!」
「いや、しかしだな……」
「まっくん。ここは退散しよう、私たちが口を出す場面じゃないよ」
「いや、しかしだな……」
引きずられるように出て行く真久郎。その(カッコいいお侍さんとはとても思えない)姿を見送り、凜は準備を再開した。
翌朝、木曜日。六年五組の教室は大騒ぎだ。前野先生がいくら注意しても聞きやしない。班ごとに座り、持参のお菓子を見せ合ったりしおりを読み返したり、自由行動への妄想を爆発させたり。
(やれやれ、ロックコンサートでもここまで騒がしくないですね)
先生も苦笑するしかない。しかし時間が迫っている。やむを得ず、前野先生は裏技を用いることにした。
「高山さん、移動しますので先頭に立ってください」
凜は女子A班の班長なので、凜が立って廊下に向かうとまず同班の小春と八雲縁が即座に後を追った。次いで凜たちの班と一緒に行動することになっている男子A班の藤田くん(班長)と那須原くん、幽谷響くんが続く。これが切掛けとなって水が流れるようにクラス全体の移動が始まった。
正面玄関前で整列、点呼、観光バスに乗ってJR駅まで。車内は既にお祭り騒ぎだ。
駅に着いて、バスから降りたらまた整列と点呼、そして移動。新幹線が通っていないこの地方では最大の駅舎。唯一の特急停車駅だ。
ほとんどの児童が駅舎に入ったことさえない。こういう地方では自家用車が移動手段の主力であり、独りで(でもないけれど)特急に乗って引っ越してきた凜はそれだけで英雄扱い。
ボックス席の背もたれを動かして向かい合わせに座ることが出来るなんて、知っているのは凜くらいだった。
席の奪い合いが始まる。
凜の隣を狙っているのは小春だけではなかった。縁は言うまでも無く、藤田くん、那須原くんに加え今期初登場の幽谷くんも参戦している。他の班からもチョッカイを出すものが現れる始末だ。
結局勝者は小春だったわけだが。
発車メロディーが鳴る。ガタンと車両が揺れると、凜は胸の奥かお腹の底が締め付けられるような、奇妙な感覚に襲われた。
楽しいのに、何か大切なものを忘れてきたような、もうお家に帰れなくなるみたいな……。
こっちへ来るときに特急に乗った時も凄く寂しくて泣きそうになったけど、あの時ともまた違う感覚。
それを『旅愁』と呼ぶことを、凜はまだ知らない。
もの凄い速さで景色が流れる。地平線まで見えそうな畑と、その向こうに霞む青い山並み。しかし子供たちの興味は窓の外ではなく、手元のカードゲームとお菓子に注がれている。
何時間経ったのか知らないけれど、車掌さんの『ご乗車ありがとうございました』のアナウンスが流れ、誰かが『もう着いたの?』と声を上げた。
K駅よりはるかに大きな大都会の駅舎。ホームも高架になっていて、列車を降りたら改札までは長いエスカレーターに乗る。
北口のバスターミナルでまた観光バスに乗った。最初の施設見学はH県歴史資料館。昔のお城跡に作られた、遊園地並みに大きな施設だった。
お兄ちゃんの影響で歴史好きな凜には絶対に外せないスポットだ。
正門前にバスが止まり、整列し、幅広いお堀にかかった石橋を渡って場内に入る。ここは日本庭園もまた名物なのだ。
館内には石器や土器から始まり、年代を追って展示物が並ぶ。
「ねえ凜ちゃん、早く行こうよ」
「うん、もうちょっと。もうちょっとだけ……」
小春と縁が急かすが、凜は展示の説明文を読むのに夢中でついつい遅れがちになる。
古墳時代、飛鳥時代、奈良、平安……。
鎌倉時代から室町時代になると急に資料が増える。凜の足が更に遅くなる。
江戸時代のコーナーに来た。この土地ゆかりの武将の肖像画がある。
(お兄ちゃんに似てるかも)
お兄ちゃんがひげを伸ばしたらこんな感じになりそう……。笑いそうになるのを必死に我慢する。
「おい高山、何やってんだ」
「あ、藤田くん」
「もうみんな行っちゃったぞ。俺たちだけだ」
「わっ、ごめん!」
慌てて走り出して係の人から注意されてしまった。『出口』の表示を見つけて通路を曲がり、ゲートをくぐって建物の外に出た。
ロープで仕切られた遊歩道を歩き、お堀を渡り……。しかし二人の目に入ったのは、まったく見覚えのない小さな駐車場。
そこはがら空きで観光客も歩いていない。もちろん観光バスも止まっていないし先生もクラスのみんなもいない。
「あれ? なんで?」
皆とはぐれてしまったようだ。風に揺れる木々の音が殊更大きく聞こえた。
藤田くんはちらりと凜の横顔を窺ったが……真っ青で、目には既に涙が浮かんでいる。
「ごめん。僕……」
「いや気にすんな。俺が何とかする」
カッコつけてみたものの、藤田くんも内心では泣きそうだった。
(泣くなよ俺。女子の前で泣くなんて恥ずかしいどころじゃねえぞ)
しかしどうすりゃいいんだ……。誰かに聞こうにも、本当に人っ子一人いないじゃないか。
この局面でスマホのマップアプリを思い出せたのは幸運だ。自分を褒めてやりたい藤田くんだった。しかし、である。
(あ……あれ?)
そう。マップで現在位置が判っても、他の皆がどこにいるかは判らないのだ。バス用駐車場さえ判らない。お堀の横ってことだけは覚えているが。
(堀に沿って歩けば辿り着けるか?)
(でもどっちに行けばいいんだ。右か、左か……)
(確率は二分の一。よし、こっちだ!)
「行くぞ高山!」
意を決し、藤田くんは凜の手を引いて右へ向かって歩き出した。その時、藤田くんのスマホが鳴り出した。前野先生からだった。
「はい、藤田です!」
いきおい声が明るくなる。
「はい、一緒にいます。えーっと、なんかめっちゃ小さい駐車場で……あ、第三駐車場って看板がありました! はい、はい、わかりました!」
通話を終了した藤田くんは、凜の肩を掴んで揺さぶるように言った。
「先生が迎えに来てくれるってよ! 良かったな!」
必死に頷こうとして、振るえる凜。安心したら感情の堰が壊れてしまったのだろうか。本格的に泣き出してしまった。
「泣くなよお~。もう大丈夫だって」
「だって……僕のせいで……」
「いやお前のせいじゃねーから。男子は女子を守るもんだって父ちゃんも言ってたし」
「ごめん……本当にごめん……」
「だから謝るなって」
左側の小道から先生が迎えに来たのが十分後。
「やあ、心配しましたよ。高山さんの電話は繋がらないし、二人が一緒にいてくれて助かりました。さあ、帰りましょう」
藤田くんが向かおうとしていたのとは反対方向に歩き出す。大人の急ぎ足なら僅か十分の道のりだが、子供連れでは皆と合流するのに十五分掛かった。
(助かった……)
大袈裟でなく藤田くんは安堵した。この広い堀の周りを一周するところだったのだから。
五組のバスだけが残っていて、車内で待っていたクラスメイトが降りて来た。口々に抱えていた不安と再会の喜びを表しながら。
(みんなに迷惑かけちゃった)
落ち込んでいる凜の前に、小春と縁が立つ。少し遅れて那須原くんと幽谷くんも。
「ねえ凜ちゃん、藤田ぁ」
小春が顔を覗き込んでくる。涙を見られたくなくて目を逸らした。
「あんたら、なんで手ぇ繋いでるの?」
「「え?」」
二人とも言われて初めて気が付いた。凜の左手と藤田くんの右手が、しっかりと繋がっているではないか!
瞬時に手を後ろに回し知らん顔する二人だったが、そんなことでは治まらないのが那須原くんだ。
「悠真ーっ! てめーまた抜け駆けしやがってー!」
「わーっ! 不可抗力! 不可抗力だから!」
皆が囃し立て、腹を抱えて笑っている。次の見学先へ向かうバスの中、皆の話題は当然コイバナになったのだった。
どっとはらい。
その後は大通公園でお弁当を食べて、青少年科学館見学ではプラネタリウムを見て、午後四時過ぎにホテルに着いた。
凜はその時になって初めて、自分の携帯にも先生からの着信があったことに気が付いた。マナーモードにしていたせいだった。
部屋割りは一部屋二班六名が基準。女子A班とB班は『百合の間』だった。
荷物を整理したら入浴の時間。クラスごとに時間帯が決まっているからあまりのんびりは出来ない。部屋に用意されていたお風呂セットを持って地下の大浴場に向かう。
出発前、凜は前野先生から『先生たちはお風呂については特に何も言いません。高山さんの思うとおりに行動してください』と言われている。『もしどうしても困ったら、その時は言ってください。対応しますから』とも。
トラウマが甦る。
六月。たった四か月前、以前の小学校での修学旅行で、僕はまだ男子だった。だから男湯に入った。そこで女の子であることがバレて大騒ぎになってしまった。
いまは正真正銘の女子だから、女湯に入るしかないんだけど……。
エレベーターの扉が開いた。いかにも温泉らしい、硫黄の匂いが漂っている。
「凜ちゃん、どうしたの? あ、みんな先に行っててー!」
足が竦んで動けなくなった凜に、小春が顔を寄せて来た。
小春と目が合う。目を伏せる。
「小春ちゃん。僕ね……」
言っていいのかどうか、凜には判断が付かない。お風呂はやめて、先生に相談しようか……でも……。
「怒らないで聞いてくれる? 僕ね、こっちに来る前は男子だったんだ」
「え?」
「あ……。男の子として育てられてたってこと……」
咄嗟に半分だけ噓をついてしまった。小春ちゃん、目を丸くしている。怒るかな。それとも笑われるかな。
「だから、女湯に入るの恥ずかしくって……」
小春は首を傾げ、視線を上に向け、下を向き、そして顔を上げてニッと白い歯を見せた。
「道理で。凜ちゃんカッコいいと思ったよ!」
凜の手を掴んでぐいぐい引っ張る。
「さ、行こ行こ!」
「え? ちょっと待って僕女湯は……」
「大丈夫だって、あたしがいるじゃん!」
脱衣場の引き戸の前で、小春はそっとささやいた。
「大丈夫だよ、誰にも言わないから。あたしたちだけの秘密」
そして凜は小春に連れられ、女の園デビューを果たしたのだった。めちゃくちゃ恥ずかしかったけど。
読者諸兄には申し訳ないが、大浴場では特に何もなかった。普通に髪と体を洗ってお湯に浸かっただけだ。
従ってサービスシーンもない。悪しからずご了承願いたい。
ホテルの浴衣に着替えて、大広間での夕食も楽しかった。お櫃からよそうご飯は家で食べるのよりはるかに美味しいし、固形燃料で煮る小さな鍋も珍しくて面白かった(凜は二回目だけど、だからと言って楽しさが薄れるわけではないのだ)
小春ちゃんが凜の隣に陣取って、何かと世話を焼いてくる。正面に座っていた縁ちゃんが「小春、近すぎ!」と焼きもちを焼くほどだ。
凜はあいまいに笑ってごまかすしかない。
凜と背中合わせに藤田くんたちが座っていた。凜の耳に『枕投げ頂上決戦』という単語が飛び込んで来た。凜の目が輝いた。
食事が終わり、それぞれの部屋に向かう。男子たちは歩きながら枕投げにおける最善の戦術を検討している。
「ねーねーねーねー、藤田くん藤田くん。枕投げやるんでしょ? 僕も! 僕もやる!」
凜の言葉に男子たちが沸き立った。
「おー、いいぞ!」
ドッジ最強の凜が加われば大幅な戦力増強だ。一方女子は大慌てだった。
「ダメだよ凜ちゃん、やめときなって!」
これに男子が抗議し、更に女子がむきになって制止する。
「ねえ藤田くん、なんとか言ってよ。那須原くんも」
いつも一緒にドッジをやっている仲だ。きっと僕を仲間に入れてくれるはずだ……。凜の縋りつくような期待は、だがあっさりと裏切られた。
「だめだよ」
たった一言、藤田くんの答えは簡潔だった。
「え? なんで?」
「なんでもだよ」
「えー? いいだろ藤田」
「そうだよ、ダメな理由あんのかよ」
那須原くんを除く全男子が反発するが、藤田くんの答えは変わらなかった。
「ダメなもんはダメ。それだけ」
そして藤田くんたちは自分たちのフロアに向かって立ち去った。呆然と立ち尽くす凜を置き去りにして。
『百合の間』に戻った凜たち女子A班とB班。実はホテルに着いてからはスマホと電気を使うゲームは禁止されていて(そもそもゲーム機は持って来ちゃいけないことになってるし)スマホの方はご丁寧にも先生に預けることになっていた。
暇を持て余すかと思っていたが、そんなことは全然なかった。トランプなんかのカードゲームは禁止じゃないし、おしゃべりしていれば時間はあっという間に過ぎる。
消灯時間になった。
明かりが消えて布団に入っても、おしゃべりだけは止められない。しかしその輪に入り切れていないものが一人。
言わずと知れた、我らが凜である。
女子歴が短過ぎて、次から次へと変遷する話題に追い付けないのだ。
(ひえ~。女子ってみんなこうなの? 集団になるとこうなっちゃうの?)
とんでもないカルチャーショックだった。
明日に備えてもう寝ようと誰かが言い出し、部屋が静かになる。三十分もすると皆の寝息が聞こえて来る。
凜も緊張から解放されたが、修学旅行の夜がそれだけで終わるはずがなかった。
「凜ちゃん凜ちゃん」
隣の布団から小春がそっと声をかけてきた。
「そっち行ってもいい?」
返事も待たず、含み笑いをしながら凜の布団に潜り込んでくる。
「わっ! ちょっと! ダメだよ小春ちゃん!」
「なんでー? あたしら女の子同士だよ?」
「ええ~」
暗闇の中でひそひそと交わされる会話。他の子たちが起きちゃうんじゃないか。凜は気が気じゃない。
「ふふ。あったかーい」
小春が抱き着いて胸に顔を埋めてきた。女の子ってこんなことして平気なの? もしかして小春ちゃん、僕をからかってる?
お兄ちゃんとはまた違う、小春ちゃんの体温。柔らかい……。シャンプーの匂いが鼻をくすぐるよう。
追い出そうかとも思ったけれど、出来なかった。僕もお兄ちゃんに同じ事してたし。
今夜は眠れそうにないや。
Take Me Home, Country Roads
どこかで規則正しい電子音が鳴っている。夢うつつの中で、スマホのアラームとは異なるその音に耳を傾ける。
そして凜はようやく気付いた。あれは縁ちゃんの目覚まし時計の音。ああ、もう起きる時間だ……。
昨夜はあまり眠れなかった。もうすぐ眠りに落ちるってところで小春ちゃんがくっついて来て起こされて……。
朝食の時間は決まっているから、早くしないと間に合わない。朝はいつもお兄ちゃんに起こして貰ってるから、なかなか体が動かない。それでも気力を振り絞って、起き上がって布団の上に座る。
そして気が付く。浴衣の前が開けて、フルオープン……。
「ひゃっ」
慌てて胸元を掻き合わせる。さては小春ちゃんのいたずらだな? その小春ちゃんは、いつの間にか自分の布団に戻っていた。
その幸せそうな寝顔、ちょっとだけ腹が立ったので、鼻を摘まんでやった。
「起きろ~。いたずらしちゃうぞ~(笑)」
「……ぶはっ!」
小春のリアクションに凜が大笑いして、それをきっかけに他の4人も起き出した。
浴衣が着崩れて、一人残らずフルオープンだった。
(なんだ、小春ちゃんのいたずらじゃなかったんか)
お互いのあられもない姿にまた大笑い。昨日お風呂で見せ合っこした後だから、恥ずかしさはそれほど強くない。
(あれ? もしかして……)
浴衣で枕投げしたら当然こうなるよね……。女子の皆さんが僕を止めたのも、こうなるのが分かっていたから?
凜は藤田くんのことを思い出した。
(藤田くん……あれも僕への思いやりだったのかな……)
今日会ったらなんて言おう……。
朝食の時、青少年科学館での体験学習の時、お昼ご飯の時、自由行動の時……。藤田くんはずっと黙っていて、目も合わせてくれなかった。
(どうしよ。めっちゃ気まずい)
お兄ちゃんになら何でも遠慮なくわがまま言えるのに。早く仲直りしたい……凜もため息ばかりだ。
小春ちゃんはそんな凜の気持ちを知ってか知らずか、お土産選びに引っ張り回している。
「高山ちゃーん、林ちゃーん、そろそろ時間だよー」
縁ちゃんの声掛けで六人はホテルに向かった。速足で歩く藤田くんの背中を、凜はずっと見つめていた。
ロビーで集合写真の撮影。その時も藤田くんはさり気なく凜の反対側に並んだ。
駅への移動のバスでも那須原くんや幽谷くんとばかりお喋りして、凜の方を見ようともしない。
ここまで来ると、凜は却って腹が立ってきた。謝るとか、お礼を言うとか、そんなのどうでもいい。
帰りのJRの中で、必ず藤田くんこっちを向かせてやるんだ。
列車が動き始めた。
一号車の真ん中あたりのボックス席。男子A班が座って思い出話に花を咲かせて……はいなかった。並んで座る那須原くんと幽谷くんはそれなりに楽しそうだけれど、藤田くんは進行方向に背を向けた窓側の席で、一人頬杖ついてぼんやり外を眺めている。
(やっぱり枕投げに混ぜてやればよかったかなあ……)
今、藤田くんの脳内は凜のことでいっぱい。昨日の夜からの後悔がひと時も休まずグルグル回っている。
(でもさ。浴衣で枕投げしたら……見えちゃうだろ。俺たちだって最後は脱げてたし)
(俺だけならともかく、他のやつらに見せるなんて絶対嫌だし……)
(ちゃんと説明すればよかったかなあ)
(せっかく手を繋げたのになあ)
(あーあ。俺、完全に嫌われたなあ……)
この六フレーズが延々とリフレインしているわけだ。
(やっぱり枕投げに混ぜてやればよかったなあ……)
通路の方に人の気配がして、目を向けると凜が立っていた。前にも見たけど、真顔の凜はやっぱり怖い。
「ここ、いい?」
凜は一言だけ言って、返事も待たずに藤田くんの隣に座った。藤田くんの心拍数と血圧が跳ね上がった。
「はい。食べて」
凜がお土産に買ったらしいお菓子の箱を差し出した。那須原くんと幽谷くんはすぐに手を付けたけれど、藤田くんは手を出せなかった。
食べていいのかどうか分からなかった。
「ほれ」
凜が藤田くんの目の前に箱を突きつける。
「お、おう……」
ようやく藤田くんの手が伸びた。
(う~ん、気まずい……)
サツマイモっぽい銘菓に喉を詰まらせそうになりながら、凜には目を向けられずにいる藤田くん。
「あ、あのさ……」
昨日のことを謝ろうと思ったけれど、凜は那須原くんたちとのおしゃべりに夢中だった。
(う~ん、気まずい……)
会話に割り込めずに諦めた藤田くん、再び窓の外の観察に勤しむことにした。
三十分も過ぎただろうか。会話の声が途絶えたと思ったら、左腕に何やら温かい重さを感じた。藤田くんの顔の真横に、凜の横顔があった。肩に頭を乗せて、すっかり寝入っている。
正面の那須原くんと幽谷くんが凄い眼で睨んでいる。そのうちビーム砲でも発射するかも知れない。
(え? え? 何これ。何なのこれ)
藤田くんは現状を理解できなくて大混乱だ。ドサクサ妖精が(懐かしいね)大根持って飛び回る。藤田くんに出来るのは、硬直することだけだ。
たった一つ、『嫌われたわけじゃなかった』と言う感激を胸に秘めて。
凜が何か言ったような気がしてそっちを見たが、まだ眠っている。どうやら寝言だったようだ。凜の手の、お菓子の箱が落ちそうになっていた。
藤田くんはそっと手を伸ばし、凜には直接触れないように箱を取って窓際に置いた。
もう一度凜の横顔を眺め、少しだけ口許を緩めた(那須原くんと幽谷くんの視線はもう気にならなかった)
その時だ。
「そこ、あたしの席」
声の主は林だった。クソ生意気で好きになれないけど、高山と仲が良いから無碍にも出来ないやつ。
その視線が、『席を譲ってどこかへ行け』と言っている。
俺が先に座っていたのに……けれど、藤田くんは素直に従った。凜を起こさないように、凜がバランスを崩さないように、ゆっくりと立ち上がり、デッキに向かう。
途中縁が独りで座っていたのでそこへお邪魔することにした。縁は同情の眼差しを向けていた。
その後凜たちがどんな会話をしたのか、藤田くんは知らない。
列車がK駅に着き、バスで学校に戻り、解散になったのが十七時半過ぎ。
ヘロヘロになった凜が家に帰り着いたのが十八時。
優香お姉ちゃんがドアを開けて迎え入れてくれた。
「あれ? お姉ちゃん?」
そこで思い出した。今週の優香は今日、金曜日が公休だった。
「お帰り~。疲れたでしょ? 何か食べる?」
「はい、お土産。おやつ食べ過ぎたからお腹いっぱい~(笑)」
「あらありがとう(笑)じゃあお風呂入ってご飯食べて、早寝しよう。晩ご飯はもう準備できてるからね」
「うん!」
「荷物は明日にでも片付ければいいよ。お湯張りするね~」
「あ~い」
バッグを部屋において、部屋着に着替えて、洗濯物だけは持ってリビングに戻る。そうしたらお姉ちゃんがすり寄って来た。
「ねえねえ、修学旅行は楽しかった? 温泉入ったんでしょ?」
「ふぇ?」
凜の顔が見る見るうちに真っ赤に染まる。昨日の一件を思い出してしまったのだ。
「どうしたの?」
「ええっと……その……女の子と……お風呂入っちゃった///」
優香は床に転がって、腹を抱えて笑った。やっぱりこの子、中身はオトコノコだ(笑)
「じゃあさじゃあさ、今日はお姉ちゃんとお風呂入っちゃおうよ(笑)」
「ええ? やだよ、恥ずかしいもん」
「あら、中学でも高校でも修学旅行とか宿泊研修はあるのよ?」
「うぇ? それはそうだけど……」
「でしょ? だったら今のうちに慣れておかないと」
「でもぉ~」
「いいじゃん、減るもんじゃなし」
「お姉ちゃん……自分が入りたいだけでしょ?」
「はっはっはっ、ヴぁ~れたかあ~(笑)」
凜は渋々、優香はウキウキで浴室に向かう。
その姿を見送り、真久郎は(なんだよ、居たのかよお前!)ひと言『いいなあ』と呟いたのだった。
(続く)
修学旅行の「なんかよく分からないけど妙に気まずい空気」を書きたかった回でした。
男子側はまだ「恋」まで整理できていません。
でも「高山を雑に扱いたくない」という感覚だけは、たぶん本物です。
あと、小春ちゃんは作者的にもかなり頼れる子になってきました。
次回はショッピングモールでのグループデートとお泊り女子会(あくまでも予定)
よろしくお願いいたします。




