第三幕:真久郎、保護者になるのこと
いつもお読みいただきありがとうございます。
第三幕では、凜の新しい学校生活が本格的に始まります。
友達はできるのか。ちゃんと馴染めるのか。
そして「保護者」になった真久郎は、兄として何を思うのか。
今回は少し視野が広がり、家庭の外での凜、学校での凜、そして周囲から見た高山家も描かれていきます。
にぎやかで微笑ましく、それでいて少しずつ変わっていく三人の関係。
どうぞ楽しんでいただければ幸いです。
Here Comes the Sun
九月一日、朝。今日は凜の初登校日。
もちろん真久郎も有休を取って同伴する。
「「行ってきまーす」」
「行ってらっしゃい」
玄関を出て振り返ると優香が手を振っている。優香は休日ではないが、出勤時間が遅いので見送る側だ。
(うーん、主婦って感じ♡)
ハートマークを付けて悦に入る優香であった。まあお弁当は相変わらず真久郎に作ってもらっているわけだが。
プラタナスが並ぶ市道を二人並んで歩く。水色のランドセルを背負った凜は、真久郎の手をしっかりと握っていた。
「へえ、消防署があるよ」
「火事になっても安心だね!」
「いや安心じゃねえよ(笑)」
「お、ドラッグストア発見!」
「何買うの?」
「そりゃ薬だろ。あとビール」
「お兄ちゃんそればっか」
坂を降り切り左へ曲がる。
更に十分ほど歩くとカーブの向こうに市立柏木小学校の校舎が見えてきた。その背景には湖が広がる。
凜の足が目に見えて遅くなった。
「緊張してる?」
「……うん」
「怖い?」
「……」
「そりゃ怖いよなあ。転校なんて初めてだもんなあ」
凜の手に力が入った。
「でもまあ、学校なんてどこも同じさ。校舎があって、先生がいて、授業があって、クラスメイトがいて、良いやつばかりじゃないけど悪いやつばかりでもない」
「……うん、知ってる」
「それから宿題もある」
「噓だ! 兄ちゃんは僕を騙そうとしている!」
「お前なあ(笑)」
凜なりに緊張を解そうと必死なのだろう。痛々しく、いじらしい。
校門をくぐり、来客用玄関を通って職員室に入った。一番手前にいた女性教師が胡散臭そうにこっちを見たが、その斜め向かいに座っていた三十代前半と思しき男性教師が直ぐに立ち上がった。
「高山さんですね。六年五組担任の前野です。お待ちしておりました」
真久郎は思わず背筋を伸ばした。
理由は全く分からない。だがこの先生の前では姿勢を正したくなる。
「お世話になります、これが凜です。せっ……俺は兄の高山真久郎です」
あー危ねえ、拙者と言ってしまうところだった。凜の背中を押して挨拶を促す。
「高山凜です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。事情はお父様から伺っていますので、何も心配はありませんよ」
丁寧で柔らかな物腰に、凜の緊張も解けたようだ。口元が少しだけ緩んでいる。
前野は真久郎に向き直った。
「来月……十月末には修学旅行があります。資料は後でお渡ししますね」
「ありがとうございます」
「他に気になる事があれば、何でも相談してください。おと……じゃなくて、ええっと……真久郎さん」
照れ笑いをする前野先生。
お父さんと言いそうになったのだろうか。ちょっとした言い間違いだったようだが、名前を呼ばれたことで先生への好感度が爆上がりした気がする。
その後教頭先生に挨拶をして、三人は職員室を出た。
「さあ高山さん、行きましょう」
前野先生と共に教室に向かう凜。その背中を見送る真久郎。
不安がいっぱいだ。自分自身経験したことなない『転校』を、ただでさえ不安定な凜に強いるのだ。
だがあの先生になら預けておけるとも思うのだった。
カラリと戸を開けて、前野先生に続いて教室に入る。転校生だ……という囁きがさざ波のように広がる。凜の表情が思わず硬くなる。
「皆さんに、新しい仲間を紹介します」
先生が凜の名前を黒板に大書した。小学生では習わない漢字に、更にざわめきが大きくなる。
「たかやま・りんです。Q県のS市から来ました、よろしくお願いします」
か細く震える声で挨拶する凜。
「それじゃあ高山さんの席はあそこ、林さんの隣です」
林さんと呼ばれた女子児童が手を挙げた。真っ黒い髪を白いリボンでサイドテールに纏めた、快活そうな少女。
凜が席に着くと林さんが顔を寄せて来た。
「あたし小春。林小春」
「よ……よろしく……」
小春が歯を見せて微笑み、更に顔を寄せて来る。
「凜ちゃん、すごくきれい。触ってもいい?」
言った時には既に髪を撫でていた。
「林さーん。そういうのは後にしてねー。そろそろ体育館に移動するよー」
前野先生が笑いながら言った時、丁度チャイムが鳴った。
始業式の後は新学期恒例・宿題提出の時間。当然だが転校生である凜には出すものがない。
「えー? 凜ちゃん宿題無し? ずるーい!」
「林さん、そういう時は『羨ましい』って言うんだよ」
素っ頓狂な声を上げる小春に、前野先生も苦笑している。
解散になり、小春ちゃんの案内で児童用の玄関で靴ロッカーに上靴を入れた。
「凜ちゃんのお家はどこ?」
「富士見町だよ」
「あー、反対方向だー」
残念そうに肩を落とす小春ちゃん。でもすぐに顔を上げた。
「遊びに行ってもいい?」
「お兄ちゃんが良いって言ったらね」
「お兄ちゃん? お母さんじゃなく?」
「うん。僕、お兄ちゃんと暮らしてるから」
「ぼく?」
「あ……わたし……」
凜の慌てる顔を見て、小春が噴き出した。
「変なの(笑)でもそのままがいいよ。なんか似合ってる感じ」
「そう?」
校門の前で手を振って別れ、凜は走り出した。ランドセルがカタカタ音を立てる。
早く家に帰りたい。帰ってお兄ちゃんに今日あったことを話さなきゃ。『友達が出来たよ』って言わなきゃ。
I’m Still Standing
コーヒーを啜りながら、真久郎は何度も何度も腕時計を見る。
もうそろそろ凜が帰ってもいい頃合いだ。
凜……上手くやれているだろうか。
先生については全く心配ない。
新しいクラスメイトに馴染めるだろうか。敵意を向けられてはいないだろうか。
ネットで見聞する最悪の事態ばかりが浮かんでしまう。
ドアを開ける音がした。弾かれるように立ち上がる真久郎。
「ただいまーっ!」
靴を脱ぎ散らかし、駆け込んで来る凜。
「ともだちできたーっ!」
ランドセルを降ろすこともなく真久郎に抱き着いて来る。
「そうかー、良かったなあ!」
弟の……じゃなかった、妹のお日さまのような笑顔。愛おしくてならない。力いっぱい抱きしめて、その髪に顔を埋めた。
凜は真久郎の腰に脚を絡めてしがみ付いた。
「ちょちょちょちょちょ、やめろって兄ちゃん腰壊れる!」
「え~?」
「お前もう重たいんだから、足技禁止!」
「ぶーぶーぶー」
実家にいた頃は必ずこうだったのに。不満顔の凜だった。
二学期が始まって一週間が過ぎた。
凜は毎朝飛び出すように学校へ向かっている。
友達を家に連れて来てもいるようだ。
凜の帰宅が十五時頃、真久郎の帰宅は十七時半過ぎ。その隙間時間を利用しているらしい。
買い置きのお菓子の減りが早いのと、凜が片付け忘れたコップを見て気が付いた次第だ。
「お兄ちゃん、これ」
その日帰宅した真久郎に、凜がプリントを差し出した。
「お、家庭訪問とな?」
日程を見ると、都合よく優香の公休日と重なっている。
(有給取り過ぎって言われてるからなあ。今回は優香に任せてしまおうか……)
しかし、である。
実家にいた頃は授業参観に行かせてもらえなかった。家庭訪問の時は家を締め出された。
真久郎は凜の世話をしていても、保護者として振舞うことを許されなかった。
大チャンス到来なのである!
(有給取得は労働者の権利だ、何を恥じる必要がある!)
覚悟を決めた真久郎は翌日、渋い顔をする主査に堂々と休暇申請書を提出した。
そして九月の第三木曜日。高山家のリビングは緊張の極みに達していた。
「ねえまっくん、わたし変じゃない? 髪とか服とか」
「だ、大丈夫……だと思う、多分」
「多分じゃダメでしょ、はっきりしてよ」
「俺そんなの分からないよ」
「もー。二人とも何やってるの」
保護者二人が慌てふためいているせいか、凜は却って落ち着いている。来客用の座布団を置き、カップボードからコーヒーカップを用意し、この日のために自分で選んだお菓子を皿に開け……。
十三時五十八分、呼び鈴が鳴った。
「はーい!」
凜が飛び出し、優香が立ち上がる。
前野先生が凜に手を引かれて姿を現し、真久郎も立ち上がって腿に手を置き深々と頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました」
前野先生は優香を見て目を瞬いている。
「どうぞお掛けください」
舌っ足らずなよそ行き口調で先生を上座に案内する凜。キッチンでコーヒーサーバーからコーヒーをカップに注ぎ、先生、真久郎、優香の順にテーブルに置く。
(ふむ、出来ておる喃……)
前野先生にだけは失礼があってはならない。予行演習をしておいてよかった……胸を撫で下ろす真久郎だった。
「改めまして、本日はようこそおいで下さいました。せ……私の婚約者で、風見優香です」
真久郎が優香を紹介し、二人の挨拶が交わされた。前野先生が本題に入った。
「お忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます。今日はご挨拶を兼ねて、凜さんの学校での様子をお伝えできればと思いまして」
「恐れ入ります」
「凜さんはすっかりクラスに馴染んでいますよ。私としても頼もしい限りです」
真久郎の肩から力が抜け、ほう……と大きく息を吐いた。先生が話を続ける。
「初めのうちは少し緊張していたようですが、隣の席の林さんがよく話し掛けていまして」
「ああ……小春ちゃんですね。名前は凜から伺っております」
「はい。二人はいつでも一緒ですよ。本当に仲良しです」
先生の言葉に真久郎は心から安堵した。そんなに仲のいい友達が出来るなんて、前の学校でもなかったことじゃないだろうか?
少なくとも、凜が友達を自宅に連れて来たという記憶がない。自分も一度会ってみたいものだと真久郎は思う。
「凜さんはしっかり者ですよ。女子を守って、男子と喧嘩できる程度にはね」
「喧嘩? 喧嘩してんのお前?」
「え? ケンカじゃないよ! 男子が悪戯やめないから注意しただけだもん!」
凜の慌てぶりに、大人たち三人の表情も緩んだ。
「時に、凜さんのご家庭での生活リズムは安定していますか?」
先生が初めて質問を挟んだ。
「はい。規則正しい生活を送っている…とは思います。しかし何と言うか……」
真久郎はやや自信なさ気に言った。
「俺自身、女の子の生活習慣には疎いですし、その点優香に頼り切りなんですが、実質共働きですのでなんとも……」
「でしょうね。お力になれず、歯痒く思っています。しかし学校での凜さんは大変落ち着いていて、無理をしているようには感じません。今のところ……」
少し間が開いて、先生は優香に視線を向けた。
「優香さんのお仕事をお聞きしてもよろしいですか?」
「はい? あ、あの、施設警備員をしています。百貨店で……」
「それは……大変でしょう?」
「日勤専門ですし、残業は無いですから。休みが平日だけで不定期なのが困りますけど」
「ああ……それは……」
「でも出勤時間が遅いので朝は凜を見送れますし、休みの日は帰りを待っていられるので、それだけが救いです」
「お姉ちゃんがお家にいてくれるとぼkわたしもすっごく嬉しいんだ」
また一人称を間違えて、慌てて訂正する凜。真久郎が小さく噴き出し、凜がムッとして睨みつける。優香は笑いを堪えている。
先生はそんな三人を微笑ましく見守っていた。
さて、そろそろ次の家に向かわねばならない。前野先生は立ち上がりながら言った。
「学校での凜さんは大変自然な笑顔を見せてくれます。これはご家庭が安心できる場所だという証拠です。今日お宅を訪問出来て、私も嬉しく思います」
「来月は授業参観もありますし、そのあとは修学旅行です。楽しみですね」
玄関先で、見送る凜に先生が言った。更に耳元に顔を寄せて何か囁くと、凜の顔がそれこそ太陽のように明るく輝いた。
ドアが閉まり、真久郎と優香は一気に緊張が解けて崩れ落ちるように座り込む。
「だあーーーーっキンチョーしたーっ!」
なんとも情けない姿を晒す真久郎。優香も床に突っ伏している。
「こんなに緊張したのいつ振りだ? 面接以来か?」
「クレーマーの方が増しだよォ(泣)」
「もー。しっかりしてよ二人とも」
「そう言えば、先生最後になんて言ってたんだ?」
冷めたコーヒーの代わりに凜が持って来たカルピス。そのグラスに手を伸ばしながら、真久郎は思い出したように訊いた。
「え? ひみつ」
「なんだよそれ。気になるから教えろよ」
凜は嬉しそうに、にやにや笑っている。
「お兄ちゃんがね、お侍さんみたいでカッコいいって」
凜の言葉に咽る真久郎。優香はそっちの方で自慢気に腕を組んでいた。
さて、翌日の教室でのこと。
「凜ちゃん凜ちゃん。昨日家庭訪問だったでしょ? どうだった?」
「どうって?」
「先生なんか言ってた?」
「んー? ンフフフフフ(笑)」
「凜ちゃん……キモい……」
前野先生の言葉……お兄さんはお侍さんみたいにカッコいい。この言葉が脳内で反響し、笑いが止まらなくなる。
「おーい高山ー。今日のドッジ、俺らのチームに入れよなー!」
会話に割り込んできたのは藤田悠真くん。昼休みに発生するドッジボール・クラス対抗戦に命を懸ける、熱いやつ。今日は四組との因縁の対決なのだ。高山という有力な新戦力を逃すわけにはいかない。
「ちょっと藤田! 凜ちゃん今あたしと話してんだけど?」
「いいじゃんかよ、大事な話なんだよ!」
「だからっていきなり割り込まないで! 空気読んでよ!」
「うるせーよダセえリボン付けやがって!」
「何をーっ!」
小春の目に涙が滲んだ。
凜は知っている。そのリボンは小春の誕生日にお母さんから贈られたものだ。小春はお母さんが大好きなのだ。
リボンに手を伸ばそうとする藤田くんの真正面に、凜は立ち塞がった。弾みで藤田くんの手の甲が凜の右の頬にかなり強めにヒットしたが、凜は全く動じなかった。
女子では二番目に背の高い凜。だが身長以上に、今日の凜には異様な迫力がある。
「な、なんだよぉ」
藤田くんは気圧されて、思わず一歩下がってしまった。
「リボンがどうとか、今関係ある?」
怒るでもなく、叫ぶでもなく、泣くでもなく、真顔で正論を述べる凜は先生よりも恐ろしい。
「ご、ごめんなさい」
ちびりそうになって退散する藤田くん。なお昼休みのドッジボールには律儀に参加する凜であった。
「びっくりしたー」
藤田くんが立ち去った後、小春は混乱して凜に抱き着いた。
「凜ちゃん、なんでそんなにカッコいいの?」
「カッコいい? 僕が?」
「うん。カッコいい。とってもきれいで、守ってあげたいって思ってたけど、凜ちゃんはカッコいい」
「ふふっ」
六時間目が終わっての帰りがけ、前野先生が凜を呼び止めた。
「高山さん。良い顔をするようになりましたね」
「そうですか?」
「はい。昨日より、少しだけ。背筋も伸びて、大きく見えますよ、存在感が」
凜は誇らしそうに歯を見せた。
「お兄ちゃんに報告します!」
一礼し、駆け出す。
「あーっ、廊下は走らないでー!」
前野先生の叫びも届かず、廊下の向こうにいる小春目指して。
「小春ちゃん、今日うちに来るでしょ?」
「えー? たまにはウチにおいでよー」
「おーい高山ー、明日もドッジなー!」
賑やかな声が遠ざかって行くのを静かな笑顔で見送る前野先生。
「さて、授業参観の計画でも立てますか。真久郎さん、来てくれるといいけど」
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十月最初の火曜日。待ちに待った(←主に真久郎にとって)参観日。
優香は休みを合わせることが出来ず、涙を呑んで参加を見送った。
プリントによれば授業は五時間目、十三時三十分から。受付があると言うので早めに家を出た。沿道のプラタナスの葉が褐色になり始めていた。
正面玄関前で記帳し、受け取った名札を首にかける。他に数人、立ち話をする保護者の姿が見えたが、知り合いなどいない(いるはずのない)真久郎はそのまま六年五組の教室に向かった。
時計を見ると十三時二十四分。昼休みが終わっておらず、子どもらの大半はまだ席に戻っていない。
(あちゃー、やらかした……)
なぜあのママさんたちがあの場に留まっていたのかを今更ながら理解する。
子どもらの他意の無い好奇の目に晒され(心の中で)頭を抱える真久郎。とは言え来てしまったものは仕方がない。恥を忍んで教室後ろの隅に立った。
真正面を見据え、直立不動。
この時期職場ではワイシャツ姿の真久郎だが、今日は気合を入れてネイビーのスーツ姿だ。
「あっ」
凜の声が聞こえてそっちを向く。サイドテールの女の子と一緒に凜が入って来るところだった。
「ちょっと! 早過ぎィ!」
凜が通りすがりにしかめっ面で囁いた。
一緒にいた子……あれが小春ちゃんだろうか。時折こちらに目を向けている。
チャイムが鳴った。懐かしい響きだ。
扉が開いて前野先生が入って来た。一瞬目が合い、笑顔を交わす。
「きりーつ! れー! ちゃくせーき!」
日直の声が響く。これまた懐かしさに胸がいっぱいになる。
教科は国語だった。順に朗読をする。真久郎が初めて聞く内容だが『さなぎたちの教室』という作品らしい。
(あー。朗読苦手だったなあ)
感傷に浸る真久郎。教室後ろの扉が開いて、三々五々他の保護者が入って来る。
授業開始十分で三十人ほどにもなっただろうか。一人残らずアラフォーと思しきお母さんだ。彼女たちは一様に胡散臭そうな視線を真久郎に向けている。
(あれ誰?)
(貴女ご存知?)
(若過ぎない?)
(父親じゃないでしょ)
(聖犯罪者よ、きっと)
(通報した方が良くない?)
真久郎は凜の一挙手一投足に夢中で、自分に向けられる視線にも無責任かつ無礼な囁きにも全く気付いていない。
朗読が終わった。
「ではここで主人公の気持ちを考えてみましょう。皆さんはどう思いますか?」
前野先生の質問に、凜も含めて何人かが手を挙げる。
「はい、高山さん早かった。どう思いましたか?」
指名を受けた凜が立ち上がり、ちらりとこっちを見た。
(なんだよ緊張してるのか? そういうのいいから、落ち着いて発表しなさいよ)
ハラハラドキドキ、全く心臓に悪い。しかし、凜は予想していたより遥かに堂々としていた。
「アゲハチョウと同じように自分を作り替えようとしたと思います」
教室の後ろが一瞬静かになった。
凜は着席する前、もう一度こちらを見た。
(どう? 僕もカッコいいでしょ?)
その笑顔が語っていた。
児童たちはこれにて解散だが、保護者はこの後懇談会がある。プリントによれば任意参加ということだ。
(出来れば早く帰って凜と話をしたいんだが……)
しかし公然と保護者面が出来るのだ。これは参加せねばならぬ。
下校前の児童たちにも手伝ってもらって机を並べ替える。ママさんたちが誰も動こうとしないので、やむを得ず真久郎と前野先生が中心になって指示を出す。凜も積極的に動いてくれた。
(懇談会ってこういうものなのか? 初参加だから分からん……)
口には出せない疑問が浮かぶ。
資料を用意するとかで前野先生が席を外すと、四人のママさんが真久郎に近付いてきた。前二人後ろ二人の方陣を組み、気のせいかも知れないが他の保護者を押し退けるような、あるいは他の保護者をして遠慮せしめるかのような威圧感がある。
前衛の二人がじろじろと真久郎の名札を眺めた。
「ふーん。あんた高山さんて言うの?」
「四月にはいなかったわよね? いつ来たの?」
随分無礼なおばちゃん達だな……そんな本音は一切表情に出さず、礼儀正しさを保つ真久郎である。
凜の今後のためにもママ友たちと無用な波風を立てる訳にもいかない。無難に、無難に。
「初めまして、高山真久郎です。夏休み中に越して来ましてね。よろしくお願いします」
「へえええー。お若いお父さんねえ」
「いえ、兄ですよ。ちょいと事情がありましてね、私が保護者なんです。な?」
真久郎が凜の肩を抱き寄せると、『ええ~っ?』とどよめきが走った。後衛の二人が前衛を押し退けて前に出た。
「学生さん?」
「いいわよねえ、昼間からご自由で。羨ましいわぁ」
「有給を取ったんですよ」
相手の名札が目に入る。竹田さんに本条さんか。真久郎は苦笑するしかない。
「なんだ、働いてるの? まあ最近はアルバイトでも有休が付くらしいけど」
「ウチでも平気で有給取ろうとするのよ。迷惑だわー」
「で、どこで働いているの? コンビニ?」
「市役所です。都市整備部道路河川課という……まあペーペーの一般職ですが」
おばちゃんたちの表情が微妙に変わった気がしたが、何がどう変わったのか、真久郎の語彙力では説明不可能だった。
「あ、あ、あああああらあらあら……お若いのにご立派ですこと……」
おほほほほ……と口に手を当てて笑う。流石に真久郎でも彼女らが動揺している事だけは判る。
何故だか気まずい沈黙が場を満たした。
(なんなんだよコレ……。なんか言ってくれよ、怖えーよ)
気まずさに耐えられなくなった真久郎が口を開きかけた時、前野先生が戻って来た。
「お待たせしました。では資料をお配りしますね。子どもたちはもう下校しなさいよー」
助かった……と胸を撫で下ろす真久郎だった。
「なあ凜」
他の人に聞かれないように小声で話し掛ける。
「俺、なんか変なこと言ったか? なんか微妙な空気になっちまったぞ」
「えー? コドモに分かるわけないじゃん……」
あっちの方では真久郎に聞かれないように竹田さんたちが自分の息子に鬼の形相で言い聞かせているところだった。
「あんた、高山さんとは仲良くするのよ! 喧嘩なんかしたら承知しないからね!」
「えー? なんでー?」
「……なんでもよ!」
何が何だか分からないまま懇談会が終わり、前野先生に挨拶して帰路に就く。
数人のママさんからお茶に誘われたがそちらは丁重にお断りした。例の四人組は異様に丁寧に頭を下げていた。
疲れ果てて帰り着くと凜が迎えてくれた。
「ただいまー」
「お帰り、お兄ちゃん。どうだった?」
「どうもこうも、わけがわからないよ。でも凜の姿を見られてよかったな。堂々と発表できてたもんな」
「あ、そう?」
「おう。立派だったぞ」
「ふ、普通だと思うけど……」
リビングのテーブルには凜が淹れたコーヒーと買い置きのチョコレート。真久郎はスーツを脱いで部屋着のジャージに着替える。
「小春ちゃんがさ、お兄ちゃんのこと『カッコいい』って」
「ほお。隣にいた子だろ? こっち見てたよな」
「うん。『チラチラ見てたでしょ?』って聞いたら『見てないよ』って言うから『嘘つけ絶対見てたゾ』って」
「いや……。そういうのいいから……」
小学生の癖にだいぶ毒されているようだ。ネット閲覧は規制する必要があるかな……。
「でもまあ、今度土曜か日曜か、俺がいる時に連れておいで。お礼も言いたいし」
「やだー(笑)小春ちゃんにお兄ちゃん取られちゃうよー(笑)」
「何言ってんだかよ(笑)」
夕食の支度が済んだ頃、優香が帰宅した。凜が玄関にすっ飛んでいく。
「優香お姉ちゃん、おかえりー!」
「ただいま! 凜ちゃんテンション高いなー」
「あのねあのね、お兄ちゃんったらねー!」
「こら、余計なこと言うんじゃねー(笑)」
賑やかな、高山家のいつもの団欒の光景。
凜が階下に降り、夜も更けた頃。真久郎と優香が静かに会話する。
「どうだった? 初参観日」
真久郎は黙っていた。微笑むような、あるいは不機嫌にも見えるような、複雑な表情だった。優香はその横顔をじっと見つめている。
「……行って良かったとは思うよ。凜の知らない一面も見られたしな。でもさ」
「でも?」
「懇談会なんか行かなきゃよかった。もう尋問だよ。取り調べだよ。おばちゃんたちと交流なんて俺には無理!」
「ぶふっ(笑)」
優香が噴き出す。
「俺には保護者なんて向いてないのかなー」
「そんなことないって。まっくんは立派にやってるよ、わたしよりずっと」
「そうかな……。かなり舐められてた気がするけどな。」
「まあそれは……年齢的な?」
確かに、他の保護者より十歳以上若いのだ。仕方がないことなのかも知れない。
「ボスママみたいのとは喧嘩せずに済んだけどな」
「それで十分だよ、多分」
「多分かよ(笑)」
灯を消して二人は横になった。真久郎に腕枕してもらうと、優香は本当に安心する。
「学校始まってから、凜ちゃん夜中に泣かなくなったね」
「そうだな。その代わり土日は俺から離れないけどな」
「あらあらまあ」
「もう寝ようぜ。明日も早いんだし」
さて、翌日。
ここのところ頻繁に有休を取っている真久郎は仕事が溜まっている。来年度へ向けた予算編成の準備が主だが、今の真久郎には言われたことを熟すのが精いっぱいだ。
「高山くん、これ頼む。最優先でな」
真久郎のデスクに、ドカンと書類の山が増えた。今までが日本アルプスなら今度のはヒマラヤ級だ。これで真久郎は最優先の書類を三セット抱えたことになる。
今追加されたのは、入札参加資格審査申請書と各種証明書やら何やらの一式。市のHPからダウンロードした書式に必要事項を手書きで記入し提出する。それを真久郎たちが一つ一つ手作業で入力して行くのだから非効率極まりない。
(早く電子化してくれ!)
現場末端の悲鳴は、上層部には決して届かないのだ。
うんざりしながら一冊目のファイルをぱらぱらとめくる。
(K建設株式会社か……。市内じゃ最大手だっけ?)
代表取締役・竹田剛毅。
専務取締役・本条輝夫。
入力しながらどこかで見た名前だとも思うが、それ以上思考が深まらない。
資本金……年商……従業員数……。
虚ろな目で、機械的な作業を繰り返す。今は思考に費やすエネルギーすら惜しい。
時々凜からメールが来る。
(おいおい、授業中じゃないのかよ)
休み時間を利用しているのならいいのだけれど。特に重要な要件でなければ今はスルー。昼休みにまとめて返信しよう。
(緊急以外の連絡は禁止すべきかな?)
いろいろと迷う。
保護者とは責任重大なのだな。何故以前の自分が保護者たることを許されなかったのか、解る気がしてきた。
「高山くーん、終わったー?」
冗談を言わないでくれ、午前中どころか一日で終わる量ではないのだ。今日は残業だろうか。
また着信。
(勘弁してくれ)
文句を言いつつもメールチェックのためトイレ休憩に席を立つ。万が一にも緊急事態だったら一大事ではないか……と言い訳しながら。
『お兄ちゃんがカッコいいってゆかりちゃんが言ってた』
(新しい名前が出てきたな。交友関係が広がっているのか)
『男子が優しくなった気がする』
(そうかそうか。凜は可愛いからな。そりゃモテるだろうな。悪い虫が付かなきゃいいがな)
保護者の苦労と喜び。二つを同時に噛み締める真久郎。これを優香にも味わわせてやりたい。
一方の凜はと言えば、今は中休み。
トイレから戻ったら藤田くんとその相棒、那須原大翔くんが向かい合って熱心にゲームをしている。二人の手にある携帯ゲーム機は凜も持っているやつだった。
問題は何をプレイしているのかということだけど。
「何やってんの?」
凜はなんの躊躇いもなく藤田くんの背後から画面を覗き込んだ。
「わっ!」
突然背中に押し付けられた柔らかさと温かさ、そしていい匂い。藤田くんは驚きのあまり余計なボタンを押してしまい『ピチューン!』と音がして残機がゼロになった。
「あ……ごめん……」
状況に気づいて凜が謝るが、当の藤田くんはゲームオーバーへの文句を言うどころか頭がルナティックにオーバーヒート状態だ。
「ちょ! 凜ちゃん近い近い近い!」
小春ちゃんが慌てて凜の襟首を掴んで引き剝がす。
「痛い痛い痛い!」
凜が悲鳴を上げると他の女子たちが立ち上がった。
「ちょっと男子ー! 何やってんのー!」
あまりにも理不尽な非難にその場を逃げ出す藤田くんと那須原くん。その後姿を見送りながら凜は思った。
(あれ、間違いなく西方Conceptだった。仲間見つけた!)
昼休みのドッジが終わった後、早速話題を持ち掛けてみる。周りには聞こえないように、出来る限り小さな声で。
「ねえねえ藤田くん、那須原くん。さっきのアレ、西方……だよね?」
「え? 高山、お前西方知ってんの?」
藤田くんも囁くような小声で答えた。
「うん。兄貴が好きだからね。二人はどこまで?」
「『セイレーンの船』まで。高山は?」
「この前最新作が入った。兄貴がクリアしたから僕も始めるとこ」
二人の喉がゴクリ……と鳴った。何を考えているか、言わなくても解る。
「うち……来る?」
「いいの?」
「いいよ。いつ来れる?」
「できるだけ早く。……今日でもいい?」
「いいよ。じゃあ放課後また」
「おう!」
がっしりと腕を組み、盟約を交わす。そして二人はまたもや女子から追われる羽目になった。腕を組んだだけなのに、理不尽だ!
そして午後。藤田くんも那須原くんも授業は上の空よそ見して、消しゴム落とすわシャーペン落とすわ教科書落とすわノート落とすわ、前野先生も呆れ果てて何も言わなくなってしまった。
二人の心に浮かぶのはただ一つ。俺たちは今日、女子の部屋に入る! じゃなかった、新作のゲームが出来る!
五時間目が終わった休み時間、二人はひそひそと内緒話。
「なあ大翔、お土産持ってくか?」
「放課後すぐ行くのにどこで買う気?」
「家に入る時、なんて言えばいい?」
「そりゃ『お邪魔します』でしょ?」
「家の人に会ったらなんて挨拶する?」
「初めましてって言って、名前言えばいいだろ」
「トイレ借りても大丈夫?」
「借りずに済むように学校で済ませてから行こう」
「……」
「……」
「……あとさ」
「なに?」
「……」
「……」
「抜け駆けすんなよ?」
「俺のセリフだよ!」
「……」
「……」
「それにしても……」
「……」
「高山って……いいよな……」
「ああ……いいよな……」
今日も凜ちゃんを誘おうとした小春ちゃんだったが、なんと男子二人に先を越されていた。何とか食い込もうとしたが、男子を交えた知らないゲームに参加する度胸はなかった。
それにしても凜ちゃん、無防備過ぎない?
お兄さん、今日はお仕事だよね?
それなのに男子を二人も家に入れちゃうの?
凜ちゃんの身に何かあったらあたしのせいだ!
(続く)
第三幕までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は凜の初登校、家庭訪問、授業参観と、“家の外の世界”が大きく動き出した回になりました。
新しい友達、小春ちゃん。
少し騒がしくて憎めない男子たち。
そして、兄として保護者として奮闘する真久郎。
家の中では見えなかった凜の姿や、真久郎の知らない一面も少しずつ見えてきたのではないでしょうか。
また、周囲との関わりが増えたことで、三人だけで完結していた関係にも少しずつ変化の兆しが生まれています。
そしてラスト――凜の家に男子二人が来ることに。
平和にゲーム会となるのか。
それとも波乱の予感か。
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