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第二幕:真久郎、引っ越しをするのこと

2幕同時投稿の第2幕です。

  How Deep Is Your Love


 月曜の朝。いつもより早起きした真久郎は弁当の準備に取り掛かった。言うまでも無く凜と彼自身の二人分だ。


(一人分も二人分も、手間はそう変わらんからな)


 ぶつぶつ呟きながら手早く作業を進める真久郎。市役所の食堂は安いが、それでも弁当の方がなお安上がりだ。

 実家からの支援があるとは言え節約は心掛けねばならぬ。給料日前で飯代も出せないなどという事態は自分一人だからこそ許されるものだ。


 凜に侘しい思いをさせてはならぬ。


 疲れているのだろう、凜はまだ起きて来ない。しかしあと二十分で真久郎も出発しなければならない。


(朝飯の作り置きもせにゃならんかな?)


 そう思っているところへ凜が梯子階段を降りてきた。後ろ向きに降りて来る凜の、いかにも女の子らしさを湛えた丸いお尻に一瞬だけ視線が釘付けになり、慌てて目を逸らす。


「おう、お早う寝坊助(ねぼすけ)

「おはよ~」

「すぐ朝飯作るからな、待ってな」

「うん……おしっこ~」


 凜がトイレに入っている間に手早く目玉焼きとトーストを作る。牛乳は冷たいままでよかろう。

 水を流す音とともに凜が出て来た。まだ眠そうだ。そのままロフトに戻りかけるのを食い止めて席に着かせた。


「兄ちゃんもう仕事行くからな。朝ごはん食べろよ」

「う~」

「弁当とおやつは冷蔵庫の中。使った食器は流し台に置いとけ。あと顔はちゃんと洗えよ。ドアは鍵を掛けてな、呼び鈴が鳴っても開けるなよ。応対しなくていい。何かあったらすぐメールでも電話でも寄越せ。じゃあ行ってくるからな」

「ふぁ~い」


 聞いているんだかいないんだか。凜を独りにするのは身を斬られるよりも辛い。その思いを一擲して真久郎は靴を履く。

 振り返ると凜は半分眠ったままもそもそとトーストを食べていた。



 その日、真久郎は一日中仕事が手に着かなかった。

 無事でいるだろうか。弁当とおやつはちゃんと食べたろうか。退屈していないだろうか。

 全年齢の漫画ライブラリーは開放してあるが、未成年者閲覧禁止の方は封印を解かれたりしていないだろうか。


 ポケットの中で携帯電話が振動する。凜からのメールだ。


『おやつ食べていい?』


 トイレに行く振りをして返信を送る。


『食べ過ぎるなよ』


『おべんとうおいしい』

『良かった』


『牛乳飲んでいい?』

『いいよ』


『まんがよんでる』

『どれ読んでる?』

『ふううんじたち』


 ……よりにもよってそれか。あれはかなり高年齢層向けのはずだが。


『おもしろいか?』


 今度は返信が来ない。おかしいな……不安が膨らむ。

 五分ほど経ってから二通続けて着信があった。


『トイレいってた』

『そこそこ』


 初日は無事にやっているようだ。安堵する真久郎だった。


 昼休みには不動産会社のサイトを見て転居先を探した。

 けっこう条件が厳しいのだ。


 まず何と言っても凜が通う小学校の学区内でなければならない。実家の支援があるとは言え、家賃が高過ぎるのは困る。車通勤の自分はともかく、優香の通勤に不便があってもいけない。

 その上で最低でも2DKの物件を探さなければならないのだ。


 根性で候補を三つほど見つけ、内見の予約を入れた。今週木曜日は優香が公休になっているので、凜と一緒に行ってもらおう。その場で優香にメールを入れると了解の返信が来た。


 十七時ジャストに退勤のカードタッチ。『これから帰る』とメールを送って全速力で帰途に就く。

 何だかいつもより赤信号率が高い。しかも停止時間も長い気がする。

 十七時二十五分、駐車場着。二十七分、玄関を開錠。ドアを開ける……と、チェーンが掛かっていた。


(凜のやつ、用心深いな。えらい偉い)


 呼び鈴を押してチェーンを外してもらう。


「お帰りー!」


 即座に凜が抱き着いて来た。


「おーい、離してくれんと兄ちゃん歩けんぞ(笑)」


 笑いながら抱擁し髪を撫でてやると、凜は真久郎の手をぐいぐい引っ張る。この辺は実家にいた時から変わらない。


「ちゃんと留守番できてたんだな。偉いなあ」


 部屋を見回しながら真久郎が言う。食器は全て片付けてある。誉められてニコニコ顔の凜。なんて可愛いんだろう!


「腹減ったろう? 直ぐ晩飯作るから待ってな」

「まだ大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ一休みしてよ。コーヒー入れてあげる!」


(こいつも大人になったなあ)


 いそいそとカップを用意する凜の背中を見つめながら、真久郎は感慨に耽った。

 凜が入れてくれたインスタントコーヒーはかなり濃い目で、砂糖の量も多かった。しかし真久郎にとっては世界一美味しいコーヒーだった。


 晩ご飯を済ませ、一息入れたところで優香とビデオ通話が始まった。一日一回は凜を見ないと禁断症状の発作を起こす優香が電話を掛けて来るのだ。


『凜ちゃんと二人でお出かけなんて、木曜日が楽しみだよお』


 優香は半分泣いている。真久郎は苦笑せざるを得ない。


「遊びに行くんじゃないんですけどー?」

『いいじゃん、実質デートでしょ。ねえ凜ちゃ~ん』

「女同士でもデートっていうの?」


 凜が素朴な疑問を口にする。その言葉に、女の子としての自覚が出て来たのかと真久郎は思ったがどうなのだろう。


『言うのよ凜ちゃん』


 自信満々に答える優香だった。


 通話が終わると(優香はまだまだ話し足りないようだったが)もう二十一時。


「凜、シャワー浴びちゃいな」


 音が響いてうるさいと言うので、このアパートでは二十二時以降のシャワー、洗濯機と掃除機の使用を控えるよう管理会社から通達が来ている。


「は~い」


 凜の返事を確認して真久郎はロフトへ退避した。

 昨夜と同じように、水音が始まってからビールでも飲もうと下に戻る。冷蔵庫から五百の缶を取り出し、食卓を兼ねるPCデスクの前の椅子に腰掛けようとして気付いた。

 そこら中に服が脱ぎ散らかされている。


「凜、脱ぎっ放しにすんじゃないよ!(怒)」


 一応声は掛けたが聞こえたかどうか。缶を机に置き、ため息をついて拾い上げ、洗濯機に放り込む。

 今度こそビールを飲めると思ったら、椅子の上には凜のパンツ。どうやら拾いこぼしたらしい。やれやれと呟きながら取り上げ、洗濯機の底の方へ押し込んだ。


 この癖も弟時代と変わらない。今後はこれじゃあいかんだろう。出て来たらとっくりと意見してやらねばならん……と思っていたが、そんなことはすっかり忘れて交代で自分もシャワーを浴び、シュラフに潜り込んでしまった。


 そう、シュラフだ。

 土曜、日曜と、真久郎はシュラフを使った。凜が眠るベッドの隣で、シュラフを使って寝たのだ。理由は前回述べたとおりである。

 しかし。


 深夜、鼻腔をくすぐる様な良い匂いにふと目を覚ます。

 いつの間にか凜がシュラフに潜り込んで、真久郎の腕枕で寝ている。幸せそうに、すやすやと寝息を立てて。


『凜ちゃんが可哀そうでしょ』

『不安なんだよ。しばらくは一緒に。ね?』


 優香の科白が脳裏に蘇る。

 思うところはいろいろあるが、これを振り解けるほど真久郎は冷淡な人間ではなかった。


(そのうち飽きるだろうし、まあいいか)


 そんな感じで火曜と水曜が過ぎた。

 水曜の夜にまた優香が来た。明日は休みだからお泊り。これが習慣なのだ。


「凜ちゃ~ん。明日はお部屋探しデートだよお。楽しみだねえ」


 凜を抱きしめてしつこく頬ずりする優香。凜は飼い主を煩がる猫のように虚無顔だ。

 この二人を見ていると飽きない。楽しい夜になるだろう。明日の朝は安心して出かけられるだろう。


 そして木曜日。

 今日は優香と凜が内見に行っている。決まれば土日には転居を完了させる予定だ。

 トラックを使うほど大きな家具は持っていないし、そもそも必要最小限の暮らしをしているので、自家用車(軽ワゴン)で何往復かすれば運送業者を使わなくても十分運べる。


 優香は自分の休みを利用して後から引っ越してくる段取りになっている。

 その優香から画像が送信されてくる。もちろん内見中の室内の画像だが、いちいち記念撮影になっているのは何故だ。

 ……ま、楽しそうだからいいか。


 昼休みにまたビデオ通話。人気のない裏庭に移動し、念の為にイヤホンを使用する。


『お兄ちゃんここ! ここがいい!』


 凜の元気な声が響いた。

 そこは富士見町の物件だった。小学校にも近いし家賃もそれほど高くない。


『地下室あるよ! 秘密基地みたい!』


 大はしゃぎの凜に、不動産屋の営業さんも苦笑している。


『凜ちゃんがこの有様だからさあ。ここに決めていい?』


 真久郎は返答に詰まった。


 実を言うと、そこは出来れば避けたいと思っていたのだ。一階のLDKに半地下のメゾネットという構造で、俺たちと凜の生活空間を分けるのが難しい。

 凜には地下室を宛がって(喜んでいるみたいだし)俺たちは上で過ごせば何とかなるとしても、リビングにベッドを置くと言うのは如何なものか。

 優香はソファーベッドを持っていたはずだからそれを使って、布団は毎日上げてしまえば何とかなるか?

 衝立で仕切ると言う手もあるかな……。


 これだけの思考を僅か〇・一秒で完了し、真久郎は答えた。


「凜が良いならそれで良いよー」


 後は営業さんと真久郎のやり取り。退勤後に契約に行くことで話が付いた。


 十七時過ぎ、ショッピングモールの駐車場で二人を拾い、不動産屋に向かう。


「あれからずっと何してたんだ?」


 真久郎が訊くと、二人は笑い出した。


「ひみつー!」

「楽しかったねー、凜ちゃん♡」


 後部座席で更に笑い転げる二人。その姿はすっかり仲良し姉妹だった。


 不動産屋に着き、契約書に署名を済ませる。

 俺たちはこれで本当の家族になるんだな。そんな感動が真久郎の心を満たした。


「よし、記念に寿司でも食いに行くか!」

「わ~い! お寿司! おすし!」

「いいの~? 給料日前でしょ?」

「回転寿司なら何とかなるさ(笑)」


 凜が語る秘密基地への妄想。

 優香が考える家具の配置。

 全てが楽しかった。


(余計な心配はしなくていい。この三人でなら何とかなる、大丈夫……大丈夫……)


 笑いながら真久郎は右にウインカーを上げた。


 寿司を食べ終わり、ほろ酔いの優香をアパートへ送り届けた。

 別れ際、抱き合って名残を惜しむ優香と凜。その凜に気付かれないように、真久郎は優香の耳元に口を寄せた。


「次は婚姻届け。な?」


 目を丸くして立ちすくむ優香を置き去りに、真久郎は凜を引きずって車に乗り込んだ。


 自宅に帰り着いた時はもう二十二時を回っていた。


「よし、今日はもう寝よう。ほら凜、歯磨きしなさいよ」

「あ~い」


 明日の食事の下準備を終え、ロフトに上がる。もう眠っただろうと思っていた凜はまだ起きていた。

 目が合うと、毛布を跳ね除けて自分の隣をポンポンと叩く。


(やれやれ、仕方ない)


 真久郎は曖昧な笑みを浮かべ、凜の隣に体を横たえて毛布を被った。

 凜が含み笑いをしながら抱き着いて来た。腕枕をしてやると、髪から汗の匂いが立ち上って来た。


(やっぱり風呂に入れた方が良かったか?)


 少しだけ迷ったが、決して不快な匂いではない。実家にいた時にもこう言うことはよくあった。

 真久郎はそっと凜の背中に手を回した。


(こいつはやっぱり弟だ。体は変わったとは言え……)


 無理に距離感を変えない方が良い。こっちが変に意識すれば、凜へのプレッシャーになるのではないか。

 無為自然——学生時代に読んだ老子の一節が浮かんだ。自然に変わって行くのを待つことにしよう。




  The Night Before


 金曜の朝。


「じゃあ行ってくるよ」

「行ってらっしゃ~い」


 ごく普通のやり取り。ごく普通の家族。

 妹の名前は凜。お兄さんの名前は真久郎。ごく普通の二人は、ごく普通の同居をしました。ただひとつ違っていたのは、妹は(元)弟だったのです!


 妙なナレーションが頭をよぎった気がしたが、真久郎には何のことか判らなかった。


 時々届く凜からのメールを適度にあしらいつつ仕事をこなす。凜も新生活に馴染みつつあるようで、コンビニへ行ったと報告が入った。

 牛乳を飲み干したので買いに行ったらしい。万が一に備えて多少の現金は持たせてある。それを使ったのだ。


(そんなことしなくてもいいのに)


 にやける真久郎をじろりと主査が睨む。


(いけねえいけねえ……真面目にやらねば)


 そして退勤。本日は帰ったらすぐ荷造りに取り掛からねばならぬ。日曜の夜以来少しずつ進めては来たが、土日で引っ越しを済ませるにはぼやぼやしていられない。

 夜のうちに積めるだけ車に荷物を積んだ。明日は朝イチで出発だ。


「凜も早く寝ろよ。明日は早いぞ」


 夕食を終えたらすぐ入浴させた。

 脱ぎ散らかす癖は直っていないが、もう真久郎も順応してしまって、いちいちロフトに退避などしない。

 それでも一応配慮と言うか、台所仕事に取り掛かって背中を向けるようにはしている。

 そして昨日と同じように添い寝。凜はそれが当然と思っているようだ。


(これでいいんだろうか……)


 戸惑いつつも、凜の請求を拒否できない真久郎だった。


 土曜の朝。


「それじゃあ、出発進行!」

「お~!」


 荷物を満載すると軽自動車でもハンドルが重くなる。約二十分かけて新居に到着、早速荷物を運び込んだ。この分ならあと二往復か三往復で済むのではないか。

 凜も一所懸命に手伝ってくれているし、もしかしたら今日中に終わるかも知れない。


 ただ床面積が広いだけでなく収納も大きいし、ウナギの寝床のように細長い旧居に比べて体感的にずっと広々としている。日曜日をここで凜とゆっくり過ごせたら……きっと楽しいだろうなあ。


 昼ご飯は(晩ご飯も)コンビニ弁当で済ませ、一休みしたらまた搬送。とにかく今日のうちに運べるだけ運んでしまおう。

 二十一時半、四回目の搬送で最後の荷物を運び終えた。旧居は二階+ロフトなので階段の上り下りがきつかった!

 膝が笑っている。最後に寝具一式を搬入したところで真久郎は力尽きた。


「もー無理! 今日は終わり!」


 地下室に広げたマットレスに仰向けに倒れる真久郎。そこへ凜が飛び込んでボディ・プレスを仕掛ける。


「グエー死んだンゴ」


 そこからプロレスごっこが始まり(これは実家にいた時からの習慣みたいなもの)凜がきゃーきゃー言いながら飛び掛かって来る。

 六分三十秒、ウエート差を利用した真久郎のピンフォールで勝負が着いた。


「どうだ、参ったか(笑)」


 しかし体を起こした真久郎は、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。

 真っ赤な顔で息を荒げ、しどけなく横たわる凜の姿。


「もお~。手加減してよ、お兄ちゃん……」


(やらかした! こいつはもう弟じゃないんだ……)


「済まん、痛かったか? もう寝よう。さ、歯磨きして」


 きまり悪さを誤魔化すように凜を追い立てる真久郎。凜を地下で寝かせ、自分はシュラフを使って一階で寝る——真久郎はそのつもりだった。


「じゃあ俺は上で寝るから。何かあったら呼べよ」


 そう言って階段に足を掛けたところで、背後から小さな声がした。


「……やだ」


 振り向くと、凜が毛布を握りしめたまま立っている。


「寂しいよ。一緒じゃなきゃ嫌だ……」


 新しい家。見慣れない天井。地下室という閉ざされた空間。昼間はあれほどはしゃいでいたのに、夜になって急に現実味が出てきたのだろう。

 真久郎は小さく息を吐いた。


「しょうがねーなあ。じゃあ俺が下で寝るからお前は上で……」

()だあ。それじゃ一緒じゃん」

「何がだよ」

「寂しいのが……」

「……OK、わかったよ」


 真久郎は『降参』のポーズを取ってシュラフを地下に戻し、マットレスの横に敷いた。


「ほら。俺はここ。これならいいだろ?」


 凜は渋々と言う感じで自分の毛布に(くる)まったが、じっと真久郎を見ている。そして手を伸ばして真久郎のトレーナーの袖を掴み、くすんと洟を鳴らした。


「わかったわかった。解りましたよ、もう!」


 瞳一杯に涙を浮かべ、縋って来る凜。止むを得ず……本当に止むを得ず、真久郎は凜の隣で横になった。しかし眠れる気がしない。

 凜の体温も、呼吸も、心拍も、そして汗の匂いも、昨日より大きく、強く感じる。抱き締めたい欲望と突き放したい衝動がせめぎ合う。

 明日の夜にはまた優香が泊まりに来る。それまでは……それまでは何とか……!



 明り取りの細い窓から差し込む朝日と雀の鳴き声。

 新居で迎える初めての朝は、どうにも違和感を拭えない。ここが何処なのかが一瞬判らず軽くパニックになる。

 そして凜はしっかりと真久郎に抱き着いていた。


「おーい、起きろー」


 軽く揺さぶってやったが反応なし。いや、却って強くしがみ付いて来た。


(しょうがないやつだ……)


 真久郎は苦笑するしかない。このままでは朝飯の用意も出来ない。無理やり引っぺがすとようやく凜が目を覚ました。


「おはよう」


 声を掛けたが、凜もまた状況を把握できないのか周囲をきょろきょろと見まわしていた。


 朝食はたまごサラダとハム&レタスのサンドイッチにカフェオレ。言うまでもなく真久郎の手作りだ。


「おいし~い♡」


 幸せそうに食べ続ける凜を見ていると全ての疲れが吹き飛んでいくようだ。


「夜にはお姉ちゃんが来るからな。それまでに荷物を整理すること。OK?」

「は~い」


 荷解きと言っても、特に凜は大した量ではない。真久郎が使っていた寝具一式、三段の衣装ケース、キャリーケース、そしてぬいぐるみ。これだけだ(近々ハンガーラックが追加されることになっている)

 午前中いっぱいも掛からずに終わってしまった。これ幸いと兄の様子を偵察に行く。


 真久郎の方は結構苦労していた。

 旧居から持って来た、冷蔵庫を始めとする家電の類。カップボードと衣装ケース、本棚にスチール棚。漫画や小説、写真集。CDやDVD。


 明日以降は優香の荷物が加わるのだ。それを加味して配置しなければならない。

 棚とカップボードは空のまま仮置き、中身は最小限度のみ箱から出して使う。

 凜が頻繁に顔を出す。遊んでいるうちに時間が過ぎる。

 十時のおやつ、昼ごはん、三時のおやつ、そして……。


「うわ、もうこんな時間?」


 晩ご飯の支度をしなければならない。簡単に済ませたい気もするが、新居のキッチンの使い心地を本格的に試してみたい気もする。


「凜、食べたいものあるか?」


 凜はしばらく小首を傾げていたが、やがて答を出した。


「カレーライス! お兄ちゃんのカレーがいい!」

「よっしゃ、任しとけ!」


 ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、カレールウは買い置きがある。後は肉だけ買いに行けばいい。


「それじゃ買い出し行こうか」

「うん!」


 スーパーマーケットまでは徒歩五分。車を使うまでもない。昨今はガソリン代も高騰していることだし……。

 児童公園を斜めに通り抜け、道路を横断したらもうスーパーの大看板が見える。

 肉を買うだけだからカゴも要らないだろう……と思ったら凜がカートを持ち出した。


「おいおい、どんだけ買うつもりだよ(笑)」


 一旦はカートを戻した真久郎だったが、結局買い置き用のおやつのためにカートを使う羽目になった。

 肉を選ぶ。普段なら安い肩肉の切り落とし辺りだが、今日はちょっとだけ奮発して牛バラのブロックを……。

 ふと思い出し、カレールウも買った。買い置きはある。あるのだが……あれは使えない。




  We Can Work It Out


 帰ったら即カレーに取り掛かる。


「凜もやってみる?」

「うん」


 玉ねぎのみじん切りは真久郎、凜にはじゃがいもと人参を任せることにした。


「皮は剝かなくていいから、たわしで良く洗ってな。切り方は分かるかな?」

「うん。お兄ちゃんのやり方見てたから」


 真久郎のカレーは特別製と言うわけではない。材料はそこらのスーパーの特売品だし、ルウだって市販のものだ。

 ほんの少し気を使っているのは、材料の分量を箱の裏に書いてあるレシピ通りにすることだ。

 あとは玉ねぎを可能な限り細かく刻むこと、たっぷりのバターできつね色になるまで炒めることくらいか。

 じゃがいもと人参も問題ないようだ。全てを鍋に放り込み、水を入れて弱火でじっくり煮込む。おっと、灰汁取りシートも忘れずに。


 十八時半、優香が来た。玄関の鍵が開いているので勝手に入って来る。これは以前からの習慣だ。ただし今日は大きなキャリーケースを持っている。

 彼女の荷物の、第一便だった。


「ただいま~」

「「おかえり~」」

「おお、今夜はカレーかあ!」


 丁度鍋にルウを入れたところだった。


「すぐ食べられるよ。タイミングばっちりじゃん(笑)」

「ああ~、まっくんのカレー大好き~」

「凜、皿とスプーン出して。あとサラダ手伝って」

「あ~い」

「わたしも手伝うよ」

「いいからいいから。お姉ちゃんは座ってて」


 並んで台所に立つ兄と妹。出来栄えの確認か、凜の視線が真久郎を向き、二人は笑顔を交わす。


「いや新婚さんかーい!」


 思わずツッコミを入れる優香だった。


「お待たせー」


 皿に盛られたカレーは、いつもより少し色が明るい。


「いただきまーす!」


 凜が真っ先にスプーンを入れる。


「んー! おいしい!」


 満面の笑み。ほっとしたように真久郎も頷く。


「レトルトじゃないカレーなんて久しぶり」


 優香は笑いながら一口運んだ。そこで、ほんのわずかに目を見開く。


「ああ済まん。バーモソトの甘口なんだわ」


 真久郎が優香の表情の変化に気付いた。


「凜、甘口じゃないと食べられないからな。辛口はしばらくお預けだ」

「ゴメンね、お兄ちゃん、お姉ちゃん……」

「あっ、あーっ、気にしないで。わたし甘口も好きだから!」


 曖昧に笑う真久郎。


「その代わり、具はちょっと贅沢してるぞ。牛バラだ」

「え、マジで⁉」


 優香の目が輝き、二口目を口に運ぶ。

 刺激の足りない、甘ったるいカレー。しかしその分味わいが深いとも言える。


「気に入ってもらえたかな?」

「気に入った! 気に入りましたよもう! 今日から甘口派に改宗するわ(笑)」


 今夜から優香は事実上この部屋の住人となる。次の休日、水曜日に業者を使って一気に荷運びを済ませる手はずになっていた。

 食事が終わってすぐ、真久郎の車で優香のソファーベッドだけを運ぶ。こうしないと優香と真久郎の寝床がない。

 そして就寝。二人とも明日は仕事なのだ。


 一階で真久郎と優香。凜は地下。

 一人では寂しがるのではないかと真久郎は冷や冷やしていたが、凜は聞き分けよく階下へと降りて行った。

 ホッとしてベッドに入る真久郎。優香が甘えて抱き着いて来る。この感覚も久しぶりな気がする。

 しかし下に凜がいる以上、それ以上の行為はお預けだ。それでも満たされる。優香も同じように感じていてくれれば嬉しいのだが。



 深夜、優香はある音に気付いて目を覚ました。

 施設警備員と言う職業柄だろうか、異常を示す物音には敏感なのだ。気のせいかと思ったが、耳を澄ますと確かに聞こえる。

 真久郎を起こさないようにそっとベッドを抜け出し、凜の部屋に降りて行く。

 ナツメ球のオレンジ色の灯の下、凜は膝を抱えてすすり泣いていた。肩を震わせ、しかし声は押し殺すように、静かに……。


「凜ちゃん」


 優香が声を掛けると凜はびくりとしてこちらに顔を向けた。暗い中でも涙が見える。寄り添うように隣に腰掛けた。


「怖くないよ。お姉ちゃんが一緒にいるから」


 凜は黙っていたが、しゃくり上げながら言った。


「お兄ちゃん……」

「わかった。待ってて」


(やっぱりか……)


 一抹の寂しさを抱えながら、優香は一階に戻って真久郎を起こす。


「凜ちゃんね、どうしてもまっくんと一緒がいいみたい」


 真久郎も事情を察し『済まない』と一言呟いて凜のもとへ向かった。

 カーテン越しに窓から差し込む月明かりと街灯の光。その中に、優香一人が取り残された。



 翌朝、月曜日。

 通勤距離が長くなった真久郎は七時十五分に家を出る。逆に優香は八時半でいい。

 優香が目を覚ますと真久郎は既に出勤して行った後、テーブルの上にはメモ用紙が置いてある。


『おはよう

  朝食と弁当が冷蔵庫にあるよ』


 たった二行、しかし愛のある達筆。

 優香が冷蔵庫を開けると階下から凜が顔を出した。


「おはようお姉ちゃん。朝ごはん一緒に食べよう!」


 どうやら優香が起きるまで待っていてくれたらしい。その子供らしい気遣いに嬉しくなる。


「おはよう凜ちゃん。あんまり時間もないし、ささっと食べちゃおう!」

「お兄ちゃんがね、『お弁当持って行って』って」


 そうか……今日からお昼もまっくんのご飯を食べられるんだ……。でも作ってもらってばかりじゃ女としてのプライドが……。

 よし、休日は私も主婦しよう! 殊勝に決意する優香だった。



 そんなわけで八月最後の水曜日。優香の引っ越しはすぐに終わった。家具や家電の類は真久郎のものがあるから運ぶ必要がない。リサイクルショップに電話して引き取ってもらった。大した金額にはならなかったが問題ない。

 後は衣類と雑貨と、小さな収納家具だけ。凜も手伝って、昼前には完了だ。


「凜ちゃん、ありがとね。お腹すいたでしょ? ご飯にしよう」


 二人仲良くお弁当の時間。職場で食べるのとはまた違って、しみじみと幸せを噛み締める優香。同じく幸せそうな凜を見ていると、優香の心も満たされて行く。


「今日の晩ご飯はお姉ちゃんが作るからね!」


 食べ終わった後、優香は宣言した。さっそく真久郎にメールを送って使っていい材料を確認している。凜の不安そうな顔に、優香は気づいたかどうか。


「今夜は肉じゃがにするよ~」


 持参したレシピ本を参考にキッチンに立つ優香。


「大丈夫? 手伝おうか?」

「平気へーき、凜ちゃんは楽しみに待ってるだけでいいんだよ~」


 凜がヘルプを申し出るが、優香はすっかりママ気取りだった。もう黙って見ているしかない。


 真久郎が帰宅した。


「おかえりー!」


 ドアが開く音に反応して即座に凜が駆け出し、腕を組んでリビングに入って来る。


「おお、いい匂いだなあ。これは期待値高いぞ」

「でしょー? 頑張ったもん(笑)」

「えらい偉い(笑)」


 リビングを見回す真久郎の目が、ある一点で止まった。

 真久郎のプラスチック製衣装ケースの隣に、見慣れない天然木のチェストが置かれている。大きさは一回り大きい程度なのに、存在感と言うか何というか、威厳が違う。


「何これ。ゆうかりんこんなの持ってたっけ?」

「買ったんだよ、今日のために」

「高かったろ?」

「うん、北欧製だからね。十二回払い(笑)」

「ヤムチャしやがって(笑)」


 真久郎がシャワーを浴びて、ラフな部屋着に着替えた頃にはテーブルの上に夕食が並んでいた。

 肉じゃがと塩鯖、千切りキャベツのサラダ。無駄に豪華にせず、いかにも家庭料理という素朴な感じが好ましいと真久郎は思った。


「ゆうかりん頑張ったじゃん。美味そう」

「でしょー? もっと褒めて(笑)」

「やったね。凄いね」

「お姉ちゃん偉い!」

「ふっふ~ん」


 せっかくの晩ご飯だ、冷める前に食べなければ。三人は食卓に着いた。

 最初の一口を口へ運ぶ真久郎と凜を、ドキドキしながら見つめる優香。

 二人が同時にじゃがいもを口に入れて……。


「美味しいな……」


 真久郎が笑顔を見せたが、凜は黙ったままだった。


「あれ? 凜ちゃん、お口に合わなかった?」

「ん? お、美味しいよ!」


 慌てたようにご飯を書き込む凜に、真久郎がコップの水を凜に差し出す。


「凜にはちょっと濃口過ぎたかな?」


 呆然としている優香。だが真久郎は笑顔だ。


「凜ってさ、薄味が好きなんだよね。子供にしちゃ珍しいだろ? 俺も凜の好みを掴むの苦労したよ」

「そうだったんだ……。ごめんね凜ちゃん。次からは気を付けるよ」

「ううん、大丈夫。僕、お姉ちゃんの味も好きだよ」


 その言葉に、優香は曖昧に笑って頷いた。

 何か気の利いた台詞を言おうとしたが、上手く言葉にならない。

 完食された凜の食器を見て、ため息を吐く。


(小学生に気を遣わせちゃった……)


 凜の一人称にも気が付かない優香だった。


 新居の浴室にはちゃんと脱衣場がある。今までのように凜に気を使って退避する必要もない。

 凜が風呂に入ると家の中が急に静かになった。

 微かにシャワーの水音が聞こえてくる。キッチンでは優香が黙々と食器を洗っている。皿洗いは真久郎がやると言ったのだが、優香が譲らなかったのだ。


「あんまり気に病むなよ」


 背後から声を掛けたが、優香は振り向きもしなかった。


「だってさ……」


 蛇口の水音に重なって、沈んだ声が返って来た。


「だってさ、レシピ本見て必死に作ったのに気に入ってもらえなかった。凜ちゃんに気ぃ遣わせちゃったじゃん……」

「そんなことないって。あいつ普通に食ってたじゃん。お残しもしなかったし」

「でもあの『おいしいよ』って言い方、絶対お世辞だった」


 流石に真久郎もこれは否定しなかった。


「まあ確かに、ちょっと濃かったかも知れないけどな」


 蛇口を閉め、ぐすんと鼻を鳴らす優香。笑いをこらえる真久郎。


「初めてにしては上出来だって。俺が保証するよ」

「ほんとに?」

「ほんとほんと。凜は好き嫌い多いんだぞ。不味いと思ったら、俺が作ったやつでも普通に残すからな?」

「えっ? そうなの?」

「そうだよ。だから完食って時点で合格だよ」


 優香が再び蛇口を開けて濯ぎを始めた。食器が触れ合う音も、水音も、心なしか先刻より弾んで聞こえる。


 しばらく水音だけが続いた。

 やがて優香が、小さく息を吐く。


「……そっか」

「それにさ、お姉ちゃんの味も好きって言ってたろ」

「……あれは優しいだけだよ」

「それでもだよ」


 真久郎は少し笑った。


「誉め言葉は素直に受け取るのが吉ってもんだぜ?」


 今度は優香が笑った。

 濯ぎを終え、水音が止まる。


「次は薄味に挑戦するよ」

「俺は濃いめが好きだから。ほどほどにオナシャス」

「知らんよ、凜ちゃん最優先だから(笑)」

「酷いな(笑)」


 浴室の扉が開く音がして、凜が飛び出してきた。

 雫が滴る髪にバスタオル一枚だけの姿。まあすっぽんぽんよりはマシだが……。


「こら凜ちゃん、パジャマ着なさいって言ったでしょ!」


 ほら、怒られた。優香ママはお前が思っているほど甘くはないのだぞ。

 パジャマは着たものの濡れた髪はそのままの凜。


「ほら、こっちおいで」


 真久郎が呼ぶと膝の間にちょこんと座る。その頭にバスタオルを被せ、ごしごしと拭いてやる。


「お兄ちゃん! もっと優しく!」

「喧しい、床まで濡らしやがって」


 ドライヤーを当て、ブラッシングをしてやり……。

 熱い風が、モーター音と共にシャンプーの甘い香りを部屋中に運んで来る。

 真久郎の大きな手が、慣れた手つきで凜の細くしなやかな髪を梳き上げて行く。


 優香はそんな二人を黙ってキッチンから眺めていた。その光景はあまりにも完成されていて、手に持った布巾を動かすことさえ忘れていた。

 自分は全く知らなかったが、この二人はずっと前からそうなのだろう。


(本当に新婚さんみたい……)


 言葉になるかならないか、ギリギリの感想が浮かぶ。


「はい、終わり」


 真久郎が手を離すと、凜がぱっと立ち上がった。


「お姉ちゃん」

「ん?」

「今日のご飯、美味しかったよ」


 ニコッと笑う。

 優香は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「ありがと。次は薄味にするね」

「うん」


 元気よく頷く凜。

 そして、少しだけ胸を張った。


「僕、薄味好きだから」

「知ってる知ってる」


 真久郎が苦笑した。


 優香、そして真久郎の順に入浴を済ませ、アイスクリームを食べたら後は歯を磨いて寝るだけ。

 新居で過ごした初めての休日。家族としての一日が終わる。優香は期待を込めて毛布の中に潜り込む。

 真久郎の腕枕は、慣れない家事で神経をすり減らした自分のご褒美タイムだ。

 だが……。


 また今夜も、静寂の中に地下からの啜り泣きが聞こえて来た。


「まっくん。まっくん」


 優香に起こされ、真久郎は大きくため息ついて起き上がる。

 二人とも知っている。こうなれば凜は『お兄ちゃん』という薬を処方されるまで止まらない。


「済まない。本当に……」


 階下へ降りて行く真久郎の背中を見つめる優香。

 あれは兄妹。まだ弟だった頃の距離感が残っているだけの、ただほんの少し余所より仲のいい兄妹……。

 ただそれだけの光景だ。


(……ほんとに、新婚さんみたい)


 小さく笑って、自分の布団へ戻る。

 その夜、優香はなかなか寝つけなかった。


  (続く)




ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第一幕・第二幕では「弟が本当は妹だった」という衝撃の再会から、三人での新しい生活のスタートまでを描きました。


凜の不安、真久郎の戸惑い、そして優香の優しさ。

それぞれの想いが少しずつ噛み合い始めた一方で——。


すでに“距離の近さ”に違和感を覚えた方もいるかもしれません。


この物語はここから「家族のままでいられるのか?」それとも「別の感情が芽生えてしまうのか?」という部分に踏み込んでいきます。

三人の関係がどう変わっていくのか、ぜひ今後も見守っていただけると嬉しいです。


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※『第3幕:真久郎、保護者になるのこと』は4/25投稿予定です。

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― 新着の感想 ―
大変引き込まれる物語でした。 まず「弟が来たと思ったら妹だった」という導入のインパクトが強烈で、一気に引き込まれます。 ただそれ以上に心を掴まれたのが、その後の“普通の生活”の描き方でした。料理や買い…
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