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第一幕:真久郎、義弟を引き取るのこと

前書き

本作は「弟として育った存在が、実は妹だった」という設定から始まる、ちょっと変わった家族の物語です。

ジャンルとしてはラブコメ寄りですが、ドタバタだけでなく、

・家族としての距離感

・性別とアイデンティティ

・「守りたい」という気持ちの形

なども丁寧に描いていけたらと思っています。

重すぎず、でも軽すぎない――そんなバランスを目指しました。


まずは第一幕・第二幕、二人と一人の「始まり」をお楽しみください。


※本作は所謂TSFではなく、性分化疾患と言う設定を扱いますが、専門的な作品ではなくあくまで物語として描いています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークしていただけるととても励みになります。


  Bad day


 スマホのアラームが鳴り、その男は目を覚ました。


 彼の名は高山(たかやま)真久郎(しんくろう)。初見でしばしば『まくろう』と読まれることに嫌気が差している。

 先月の誕生日で二十五歳を迎えたしがない地方公務員だ。地元の三流大学を卒業後は実家を遠く離れ、ここH県K市郊外の築四十年の安アパート(それでもロフト付きのワンルーム)に独り住んでいる。

 昨夜の酔いが微かに残る、冴えない頭で考える。今日は八月の第三土曜日。昼には義弟の(りん)が訪ねて来る予定だった。就職以来、二年以上会っていない弟の顔を思い浮かべた。


 凜に初めて会ったのは中学三年の春。

 長年男やもめをやっていた父が突然再婚すると言い出して驚愕。お相手が二十六歳と聞いて更に驚愕。二歳の連れ子がいると聞いて更に更に驚愕。


 どんな人たちなのか、家族としてやっていけるのかという不安は会ってみたら跡形もなく消し飛んだ。

 かすみさんは親父の職場の同僚(部下?)で、取り立てて美人ではないが母性の塊のような女性。

 息子の凜くんは人懐っこく、すぐに俺の膝によじ登ってきた。あまりに可愛くて、最初は女の子だと思っていた。『ずっと憧れていた妹ができるなんて嬉しいなあ』と言ったら『いいえ弟ですよ(笑)』と……。

 妹でなかったのはほんの少し残念だったが可愛いのでヨシ!


 それ以来、凜が俺の生活の全てだったな、と真久郎は思う。

 熱中していた部活(剣道部)もほぼ退部、すべての誘惑を振り切って帰宅部に入部した。全速力で家に帰り、凜と遊ぶ。ご飯を食べさせ、風呂に入れ、もう一度遊び、寝かしつける。


 かすみさんは助かると言っていたが、別に人助けじゃない。凜の世話が楽しかっただけだ。

 凜は真久郎を『おにいちゃんおにいちゃん』と慕って後について歩き、抱き上げてやれば幸せそうにしがみついてくる。泣き虫で甘えん坊だが、お調子者で明るく笑う子だった。


 幼稚園の頃だったか、凜の口癖は『おとなになったらおにいちゃんのおよめさんになる』だった。その都度兄弟だからお嫁さんにはなれないんだよと言って泣かせてしまったな。

 小学校の運動会や学芸会は(当時既に大学生だったので)講義をサボってでも馳せ参じた。授業参観にも行きたかったがこれは親父に阻止された。少しは自重しろだってさ。


 かすみさんもいい人だった。母というよりは姉と呼びたい年齢差だったが、継子である真久郎のことも我が子として扱ってくれた。試験の成績が良ければ喜んでくれたし悪いことをすればキチンと叱ってくれたし、筆おろsゲフンゲフン、母を知らない真久郎に母の愛というものを教えてくれた。


 就職が決まり家を出ることになった時、かすみさんは寂しくなると言って泣いてくれた。凜に至っては『行かないで』と大泣きだった。


 真久郎とて本当は独り暮らしなどしたくなかった。だが彼の成績で内定を貰えたのは一箇所だけ。選択肢は無かった。

 凜を連れて行きたいとさえ思った。盆暮れ正月GWには必ず帰るからと言って宥めたが、結局約束を果たしていない。


 帰らなかった理由は交際相手にあると言ってよかろう。

 風見(かざみ)優香(ゆうか)——同じ学部の一年後輩。

 長期休暇には真久郎の部屋に泊まり込み、卒業後は彼を追ってわざわざこの街まで来て就職した。交際は順調で、今は具体的に結婚を考えている。その優香と過ごす時間が楽しくて、ついつい実家を疎かにしてしまっていた。


 先週のことだ。親父から珍しくも葉書が届いた。内容は簡潔に『凜をそっちに住まわせてくれ。転校手続きは済ませた。詳細は手紙に書いて持たせる』だった。

 唐突な話に驚き、電話して理由を問い質したが『詳細は手紙で』の一点張り。諦めざるを得なかった。訳が分からないが、また凜と暮らせるのは単純に嬉しい。


 優香にもこの件を知らせたが、『将来の義弟(おとうと)なんだから』と喜んでくれた。

 優香も凜と仲良しなのだ。『二人の時間が少し減っちゃうかも』とは言われたが……。


 不安はある。六年生のこの時期にわざわざ転校させる理由は何だ? しかも他県の学校に、実家を出してまで。

 何か嫌な予感がする……。

 気分をすっきりさせようと思い真久郎はコーヒーを淹れた。平日はインスタントだが、休日はちょっと贅沢にレギュラーが真久郎の習慣だった。


 人心地着けて部屋の掃除の仕上げに取り掛かる。最愛の弟を迎えるのだ、歓迎の準備をせねばならぬ。特に十八歳未満閲覧禁止な本とDVDは厳重に封印せねばならぬ。


 掃除が終わった頃にようやく腹が減ってきた。

 昼食兼用の朝食を摂りながらスマホを眺めると、親父からのメールが届いていた。凜は十一時十八分に駅に着くそうだ。もう間もなくだ。こりゃあ余裕がないぞ。


 それにしても、タクシー代は持たせたから出迎えは不要とはどういうことだ。親父かかすみさんが付き添うんじゃないのか?

 小学生の息子をたった一人で放り出したのか?

 いくらなんでも無責任じゃないか。虐待と言っていいレヴェルだぞ……(後日判明した事実:両親はちゃんと付き添っていた。駅で凜をタクシーに乗せ、涙ながらに見送ったそうだ)


 部屋の片づけを続けながら到着を待つ。ドアチャイムが鳴り、真久郎は喜び勇んでドアを開けた。そこに立っていたのは、小さなキャリーケースを携えた女の子だった。凜によく似ていた。


 真久郎は混乱している。


 最後に見た凜は小学三年生、九歳の時だ。あれから二年以上が経っているから、顔立ちもそれだけ大人びたことだろう。この子、確かに凜の面影はある。だが……。

 全体的に丸みを帯びた、女の子らしいボディーライン。何より、ポロシャツの上からでも分かる胸のふくらみ。


「ど……どなた?」


 狼狽える真久郎に、その少女はぎこちなく微笑んだ。その少女は両手でキャリーケースの把手を握りしめ、爪が白くなっていた。まるでそれを手放したら存在まで失ってしまうかのように。


「お兄ちゃん、お久しぶり。お世話になります」


 その声は震えていた。真久郎が凜の声を聴き間違えるはずはなかった。その少女は封筒を差し出した。


 親父殿の手紙はとりとめがなく、非常に読みづらいので以下の通り要約してお伝えする。


・凜は性分化疾患(46,XX DSD)だった。生物学的には完全に女性である(診断書添付あり)

・何らかの原因で外性器が男児のそれに酷似しており、そのため男として出生届が提出された。

・小学四年生の五月(真久郎が実家を出た直後)腹部の強い痛みを訴えたため虫垂炎を疑われCT検査を受けたが、その際子宮と卵巣の存在が判明した。

・親父殿の判断で学校側には事実を告げず、卒業まではそのまま男子として通学させることにした。

・しかし第二次性徴が進むにつれ隠蔽は困難となり、今年六月の修学旅行の入浴の際大騒ぎとなったため、本人の希望を容れて転校を決意した。

・自分の手には負えないので後は任せる。

・適合手術と戸籍の性別変更、転校の手続きは終わっている。

・住民票の移動は真久郎において実施されたい。

・今後の生活に関しては金銭面を含め可能な限り支援する。云々


 文面を漸く理解し終えて、真久郎の目が点になった。スマホを取り、優香にただ一言『でんわくれ』とメッセージを送る。直ぐに着信が来た。


『もしもし。凜くん着いたの?』

「……」

『もしもし?』

「あ……ありのまま今起こったことを話すぜ。弟が来たと思ったら妹だった。な……何を言ってるのかわからねーと思うが」

『落ち着け。仕事終わったらすぐ行くから待っとけ』


 通話を終えた真久郎は頭を抱えた。凜や優香に対してではない。親父の対応の、あまりの拙劣さに対してだ。

 確かに、凜の性格では『実は女の子でした。今日から女子なのでよろしく(๑>؂•̀๑)ゞ』という訳には行くまい。

 それは分かる。分かるのだが……。ならば女の子と判明した時点でこっちに寄越してくれれば良かったではないか。

 二年以上も対応を遅らせて何の得があると言うのだ。


 水泳の授業では男水着チャレンジを強いられたのだろう。

 宿泊研修や修学旅行での入浴の時、どれほど恥ずかしい思いに耐えたのだろう。明るく快活だった瞳は今、暗く深い悲しみに沈んでいる。


 かすみさんもかすみさんだ。実の息子が苦しんでいるのに何もしてやれなかったのか?

 親父の言いなりだったのか?


 憤懣やるかたない。弟のあまりの不憫さに腹が立ち、涙が滲み、表情が険しくなる。それを自分への怒りと感じたのだろうか。凜が泣き出してしまった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。僕、こんなになっちゃって……」


 真久郎は慌てて凜を抱きしめた。可愛い弟を泣かすなんて、天地人とも許さぬ大罪だ。


「ごめんなぁ、怖かったかい? 凜を怒ってなんかいないよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。お前は少しも悪くないからな」

「でも、でも」

「ここへ来たからには心配はいらないよ。何があっても兄ちゃんが守ってやるからな」


 凜が洟を啜りながら真久郎にしがみつき、そして二人はそのまま号泣したのである。なんと麗しき兄弟愛(フィラデルフィア)であろうか。




  A Hard Day’s Night


 ひとしきり泣くと、いくらか気分も落ち着いてきた。凜の表情も心なしか明るくなったように見える。


「なあ凜、お腹減ってないか?」

「うん。少し」

「よーし。じゃあ兄ちゃんが美味い炒飯作ってやるからな。少しだけ待ってな」

「うん」


 今は手早く済ませるために炒飯だが、真久郎の料理の手腕は極めて高い。はっきり言って優香よりもずっと高い。全ては凜に美味しい手料理を食べさせたいと努力した結果だった。

 経緯はどうあれ、これからは自分が凜を食わせて行くのだと思うと腕が鳴り、心が躍る。


 優香がこちらに到着するのは十九時に近いだろう、それまでは凜のケアに全力だ。聞きたいことは山ほどあるが、尋問になってはならない。凜が話したくなるまで待つのだ。


 食べ終わった凜は半分目を閉じ、舟を漕ぎ始めた。


「疲れてるだろ? お昼寝しようか」


 急角度の梯子階段を登り、ロフトの寝床に案内した。セミダブルの厚めのマットレスを二重に敷いたものだ。シーツとタオルケットは取り換えたばかりだから臭くはないはずだ。


「じゃあ兄ちゃんおやつの準備してるからな。出来たら起こすから……」


 真久郎が立ち上がろうとしたが、凜はシャツの裾を掴んで離さない。


「どうした? 何か欲しいものでもあるのか?」


 凜は答えず、寂しそうな目で見つめるばかりだった。以前の凜はこうではなかった。真久郎には遠慮なく何でも言ってくれた。たった二年でこんなにも変わってしまうとは。


 だが俺は高山真久郎、凜の兄だ。言わんとすることは解っている。これは添い寝の要求だ。


「じゃあちょっとだけだぞ?」


 真久郎もベッドに潜り込んだ。凜が初めて笑顔を見せ、胸に顔を寄せてきた。そっと抱き締めてみる。思えば、実家にいた時はほぼ毎晩一緒に寝ていたな。

 この歳で妹と添い寝というのもどうかと思うが、さっきまでは弟だったのだ。急に距離感を変えたら却って傷つけるかも知れない。


「お兄ちゃん……」

「ん?」

「小さい頃にさ。僕がお兄ちゃんのお嫁さんになるって言ってたの、覚えてる?」

「……ああ、覚えてるよ」

「……」


 何を言い出すのかと思ったが、凜はそれきり口を噤み、そのまま寝落ちしてしまった。

 凜が言いたいのは、つまり……そういうことなのだろう。今はそれが可能なのだ。スマホで『義妹 結婚 法律』と検索してみると(年齢さえ除けば)なんの問題もないことが判明してしまった。

 複雑な想いを抱えつつ、真久郎は凜を起こさぬようにベッドを抜け出し、三時のおやつの準備に取り掛かった。


「凜、起きて」


 ほっぺをつんつんして凜を起こす。


「んにゅ……」


 寝起きの凜はやっぱり可愛い。しかもなんだか可愛さが五割増し(当社比)なんだが?


「おやつ食べようぜ。パンケーキ焼いたぞ」


 三時のおやつのパンケーキ、添えられたウインナーコーヒーも真久郎のお手製だ。凜の表情がパッと明るくなった。これだよ。この笑顔を見たくて俺は生きているんだ。

 凜にはずっと笑顔で居て欲しい。守りたい、この笑顔。


 その後は優香の到着を待ちながらゲームなどして過ごした。近所の案内もしてやった。


 十八時になるかならないかで優香が来た。予想より一時間近く早かった。

 優香の職業は施設警備員。東京本社の大手警備会社のH県支社に所属、大型商業施設で日勤を専門に防災センター業務に従事している。残業は無し、休みが不定期なのが難点だが給料は良い(あくまでも「警備員にしては」の水準で)

 優香の勤務時間は十時から十八時まで。退勤してすぐに着替えてもここに来るには四十五分は掛かるはずだが。


「少し早めに上がらせてもらったよ。まっくんの態度があまりにも不審過ぎて不安になったからさー」

「それは済まなかった」

「いいわよ、もう。それより弟が妹ってどういうことよ」


 父の手紙を見せながら要点を掻い摘んで話すと、優香は目を潤ませ凜を抱きしめた。


「凜くん、辛かったねえ。大変だったよねえ。もう大丈夫よ、お姉ちゃんたちが付いてるからねえ」


 二人の仲が良好で本当に良かったと、真久郎は安堵した。これなら当面はなんとかなるだろう。


「明日はさ、凜くんの服とか買いに行こうよ。他にもいろいろ必要なものあるでしょ?」

「それは助かる。女の子に必要なものは俺には分からん」

「頼りないお兄ちゃんだなあ」

「済まん。妹を持つのは初めてなんだ」

「ふふふ。お姉ちゃんに任せなさい」


 優香は休みの前の夜は必ず泊まりに来る。今日もその日なのだった。凜に会いたいと言って休みを合わせたのだ。

 三人での夕食は外食にしようかとも思っていた。しかし近場には碌な店がない。長旅で疲れているであろう凜をこれ以上連れ回すのも気の毒だ。

 結局ピザのデリバリーで済ませた。


 二十時を回った頃だった。


「風呂はどうする? やめとくか?」


 真久郎が凜に言った。

 三点ユニットバスだし部屋自体も狭い。身内とはいえ男がいる空間で女の子を入浴させるのは如何なものか(優香は平気で入るけれど)

 と言って銭湯に行くと言うのも……。


「ええー? 汗掻いたし、このまま寝るの()だあ」


 凜が答える。そのトーンに昔の感覚が戻っているような気がして真久郎は少し嬉しくなった。


「そうか。じゃあ凜、先に済ませちゃいな。俺は最後でいいから」

「あ~い」


 素直な凜。

 しかし十畳半+四畳半ロフトと言う安アパートに脱衣場などない。浴室の扉が閉まるまで真久郎はロフトに退避せざるを得なかった。


「上がる前に言えよー」


 一応声掛けしてから下で優香と一緒にビールを飲み始める。


 しばらくして水音が止まった。そろそろかな? 真久郎が立ち上がるより先に浴室の扉が勢いよく開いた。

 弟時代そのままにすっぽんぽんの凜が飛び出して来て、真久郎はビールを噴き出し、優香は真っ赤な顔でバスタオルを被せたのだった。


 さて、消灯時刻である。真久郎はロフト収納からシュラフを取り出した。車中泊用にと去年買ったものだ。


「おれ下で寝るわ」


 冬用の毛布を二つ折りにして、その上で寝ればフローリングの床でも痛くはあるまい。


「三人一緒は流石にきついねぇ」


 優香が仕方ないと言う顔で肯く。しかし。


「やだあ。お兄ちゃんと一緒がいい~」


 凜が泣き出してしまった。

 昼寝の時は添い寝してやったが、あれはあくまでも凜を落ち着かせるための一時的措置だ。

 ここは断固断るべきだと真久郎は判断した。

 しかし、である。


「ちょとまっくん、上おいでよ。凜ちゃんが可哀そうでしょ」


 優香はそう言うと耳元でそっとささやいた。


「不安なんだよ。しばらくは一緒に。ね?」


 こう言われてはやむを得ない。真久郎はロフトに上がり、毛布とシュラフをセミダブルの隣に敷いた。


「これでいいよな? 兄ちゃん、隣にいるからな?」


 凜は少し不満そうだったが、やがて納得したのか諦めたのか、大人しく毛布の下に潜り込んだ。


 嵐のような一日がやっと終わる。

 What a hard day’s night. なんと手強い一日だったことだろう……。

 真久郎は思いを巡らす。

 弟を引き取ることになった。

 その弟が妹になってしまった。

 あと二週間ほどで二学期が始まる。俺も学校に挨拶に行かねばならんのだろうな。

 そんなことを思い巡らせながら優香の腕枕で眠る凜を見つめているうち、いつしか彼も眠りに落ちていた。




  Stand by Me


 翌日、ショッピングモール(優香の勤務先ではない)に行った。人口十五万程度の地方都市、休日の商業施設はそれなりに賑わっている。

 正直なところ真久郎はこういう騒がしい場所が苦手だ。人が多い。やたらと明るい。目的もなく歩く集団が多すぎる。


 だが今日は違う。

 凜の生活を整えると言う明確な目的があるのだ。凜も自身の当面必要なものは持って来ているとは言え、キャリーケースに入る分だけでは到底足りない。


「まずは服からだね。女の子用の服が全くないもんね。学校用、普段着、部屋着、それから……一着くらいはお出かけ用も欲しいな」


 優香が指折り数えながら言う。

 真久郎には女の子のファッションが分からない。優香にお任せするしかない。

 凜は少し緊張した様子で、真久郎の半歩後ろに立っていた。


「凜ちゃん、今日は全部新調しちゃおうね。お姉ちゃんがちゃんと選んであげるから」


 優香が凜の手を引いて歩き出した。真久郎はカートを押して付いて行くだけだ。仲睦まじい二人の後姿を見ているだけで、彼の表情も緩んでくる。

 最初に入ったのはキッズとジュニアを扱う店だった。


「凜ちゃん、これはどう?」


 差し出されたのは、袖がフリルになったTシャツと夏らしいキュロット。


「いきなりスカートはハードル高そうだし、まずはこの辺から行ってみようよ」

「……かわいい……けど、僕には似合わないかも」

「『僕』禁止。これからは『私』 OK?」

「……わ、私」


 このやり取りを聞いて、真久郎はなんとも複雑な気持ちになった。

 確かに凜は法律上もう女の子で、学校にも女子として通うことになるのだから、それらしい振る舞いを身に付ける必要はある。

 そのための訓練だと思えばよいのだろうが、あまり厳しいことは言わないで欲しい……。


「ほら凜ちゃん、試着試着」


 凜がカーテンの向こうに消える。

 しばらくして出てきた姿を見て、真久郎は(優香も)思わず息を呑んだ。


「?」

「!」


 真久郎と優香は世界一短い会話を交わし、がっちりと握手した。

 少し照れたように視線を逸らす凜は、もう完全に『女の子』だった。

 こんな感じで次から次へと服を選んでいく。通学用、普段着、部屋着、そして少しフォーマルなものも。凜は自分の希望を言わない。いきおい優香と真久郎の好みが反映されることになる。

 山盛りのカートを見て、優香が眉根を寄せた。


「あらら。ちょっと調子に乗った? 予算は大丈夫?」

「構うもんか、どうせ親父に請求じゃ(笑)」

「……ですってよ、凜ちゃん。悪いお兄さんだねえ(笑)」


 凜の頬にも少しだけ笑みが浮かんだ。


 そして真久郎の足が止まる。そこは下着売り場だった。


「まっくんはここまでねえ」

「兄ちゃん流石に照れるから(笑)ゆうかりん後は任せた(笑)」


 大の男が女性下着の真っただ中に突入なんて恥ずかし過ぎる。ただ、恥ずかしがっているのは真久郎だけではなかった。


「凜ちゃん。気持ちは分かるけど、慣れてね。あなたはもう『女の子』なんだから」


 優香に手を取られ、まるで虜囚のように下着売り場に入って行く(元)弟の背中を、真久郎は複雑な想いで見送った。

 華やかなランジェリー群を横目に、居心地の悪さを噛み締めつつ試着室に入る凜を眺める。うっかり思い浮かべてしまったそのあられもない姿を、頭を振って脳内から追い出した。


 やがて会計を終えて真久郎と合流した二人。凜の恥ずかしそうな、しかしどこか嬉しそうな顔が印象に残った。

 後で払うから金額を教えてくれと言う真久郎に、優香は「これは私からのプレゼント」と言い張ったのだった。


「そろそろ飯にしようか」


 真久郎の一言で三人はフードコートへ向かった。途中、ドラッグストアの前で優香は凜の耳元に顔を寄せ、何かを囁いた。

 泣きそうな顔で頷く凜。

 真久郎は訝しんだが、やがて察した。昨夜凜の荷物を整理した時にちらりと見たアレ……。紙袋があったので手に取ったら、凜が真っ赤な顔でひったくったアレ……。

 おそらく、女の子専用のアレ……。


 ああ……本当に、俺にはもう『弟』はいないんだな。


 正午を少し過ぎたフードコートは満席だった。だが天佑神助と言うべきか、目の前に座っていた家族連れが丁度食べ終わって席を立ったのだ。

 素早く真久郎が座席を確保し、注文には優香と凜が向かう。


「俺海鮮丼頼むわ」

「了解」


 券売機の前に行く。


「まずは海鮮丼……と」


 先に真久郎の分を済ませる辺り、優香の愛情深さと積み重ねた時間を感じる。


「凜ちゃんはどうする?」

「……う~ん……お兄ちゃんと同じの」

「ふふっ、相変わらずお兄ちゃんっ子だなあ」


 恥ずかしそうに俯く凜と、思わず口元が緩む優香。


「わたしはどうしようかなあ。あ、海老ドリア美味しそう」


 食券をカウンターに持参、番号札を受け取り、二人は真久郎の元へ戻った。


 ピークを過ぎたのだろうか。三人の注文が届いた頃から徐々に空席が増え始め、食べ終わる頃には閑散とは言わないまでも、空席の方が多いほどになっていた。

 数十分前までの騒がしさが嘘のようだ。


 なんの前置きも無しに真久郎がぽつりと言った。


「実は引っ越そうと思っているんだよね」

「なによ。藪からスティックね」

「いやあ。凜と暮らすとなったらさ、今の部屋は狭すぎるわけよ」

「……それは……そうね。ロフト付きとは言えワンルームじゃねえ」

「兄妹とはいえプライバシーは必要だろ?」


 真久郎が凜に目を向けたが、視線を逸らされた。


「それでさ、もっと広い部屋を探そうと思っているわけよ」


 ニヤリと笑って言葉を続ける真久郎。


「……三人で住めるくらい広い部屋をさ」

「三人で?」


 目を丸くする優香。三人って……それってまさか……。


「なあ優香。俺一人じゃ、女の子になった凜を支えてやれる自信がない。……でも優香となら、凜を幸せにしてやれると思うんだ。三人で、本当の家族にならないか?」


 優香は答えなかった。答えられなかった。

 もしここに凜がおらず、二人きりの会話だったら快諾していたに違いない。

 あるいは凜がいたとしても、単に「結婚してくれ」であれば悩まなかっただろう。

 大学生の頃から、いずれ自分は真久郎と結婚するのだろうと漠然とではあるが考えていた。凜が義弟となることも含めて、それが自分の未来なのだと。


 しかし今この状況で、世間話のように言われるとは予想していなかった。

 断ると言う選択肢はない。今の気持ちを言葉に出来ずにいるのだ。

 困り果てた優香は凜を見た。凜は不安そうに優香を見つめていた。

 優香に出来るのは、頷くことだけだった。


 食後のコーヒーを飲み終わり、優香が立ち上がった。


「まだ時間あるよね? せっかくだからゲームでもして行かない?」

「お、いいねえ。学生時代はよく行ったよな」

「ほら凜ちゃんも。久しぶりだよねえ」


 凜の瞳が輝き始めた。

 最初に選んだのはエアホッケー。真久郎と凜にとっては定番中の定番だ。

 左右に別れ立ち、コインが投入された。


「兄ちゃん、勝負だ!」

「手加減はせんぞ、若造」


 兄と弟……いや妹との、譲れない戦いが始まった。


 渇いた打撃音が響く。

 汗が飛び散る。

 圧倒的に真久郎の方が強い。

 必死に食い下がる凜の表情はやっぱり男の子だと優香も再認識した。


 いつの間にか人垣が出来ていて、ギャラリーからも声援が飛ぶ。

 結果は真久郎の三連勝。凜は悔し泣きをしている。


「ねえまっくん。もう少しこう何というか、手心というか……」

「痛くなければ覚えませぬ……じゃない。凜が本気なのに、手を抜いたら失礼でしょうが」

「いいもん、次は絶対勝つもん」


 口を尖らせて兄を睨みつける凜。敗れたりとは言え、闘志は衰えない。でも目尻に涙が溜まっていて、真久郎は思わず頭をくしゃくしゃに撫でた。


「よし、次はもっと本気でいくぞ。覚悟しとけよ、凜」


 再び凜に笑顔が戻った。


 ゲームコーナーと言えばUFOキャッチャー。ここには何十台も並んでいる。

 そのうちの一つに、大きな白いうさぎのキャラクターのぬいぐるみがあった。流行に疎い真久郎でも見覚えのあるやつだ。

 それが斜めに傾いでこちらを見上げるようにケースの側面に寄り掛かっている。


 凜の歩みが止まった。


「お? 欲しいのか?」

「ふぇ? あ……あの……」

「遠慮するなって。兄ちゃんに任せろ」


 凜の望みならば叶えてやらねばならぬ。両替をして配置に着く真久郎。気合十分である。

 が……。


 約五千円を費やしたところで心が折れた。


「わ……儂はもうダメじゃ……」

「お兄ちゃんしっかりして!」

「よくやったよ、まっくん。あんたの仇はわたしが討つ」


 しかし三十分後、優香もまた敢え無く討ち死にを遂げた。


「む……無念……」

「お姉ちゃ~ん(涙)」


 凜は健気にも涙を拭い、顔を上げた。


「お兄ちゃんとお姉ちゃんの仇は僕が討つ!」


 真久郎の手に残った百円玉を取り、ゲーム機に投入する。


「あ……取れた」


 一発であった。


「おお、お見事!」

「凜ちゃんやるじゃん!」


 いつの間にか復活していた真久郎と優香が拍手した。

 自分の身長の半分ほどもある大きなぬいぐるみをギュッと抱きしめ、含羞(はにか)む凜。

 妹に変わってもやっぱり可愛いなあ……と目を細める真久郎。

 その二人の仲睦まじさを羨ましく、また微笑ましく眺める優香。やはりわたし達は家族になるべきなんだと思わずにはいられない。


 ならば家族としての何かを残したい。それには……。


「よっしゃ。凜ちゃん、まっくん、プリクラ行こう!」

「なにィ!? あの男子禁制の聖域にか?」

「まっくん大げさ過ぎィ! わたしと凜ちゃんがいるから平気だって(笑)」

「お、おう……」


 とはいえ照れ臭いものは照れ臭いのである。優香に引きずられるようにプリ機に向かう真久郎。


「凜ちゃんだってお兄ちゃんと一緒に写りたいよねえ?」

「え? あー……。うん……」


 狭いブースの中に大人二人と子供一人、大きなぬいぐるみ一つがギューギュー詰め。

 凜を中心に真久郎と優香が寄り添い、肩を抱く。傍から見れば間違いなく幸せな家族だ。


 だがその時の真久郎は内心の焦りが尋常ではなかった。

 凜の身体の柔らかさと体温の高さ。

 顔を寄せた時に鼻をくすぐった甘い匂い。

 昨日は全く意識していなかった『異性として魅力的な凜』に気付いてしまったのだ。


 シャッター音が響く。

 画面に撮影された三人の姿が映る。


「何これ。目ぇデッカい!」


 驚愕する真久郎を置き去りに、凜と優香はすまし顔でタッチペンを取った。


「これね、色々落書きできるんだよ」

「ほら、まっくん何か書きなよ」

「俺はいいや。二人に任せた」


 凜も随分手馴れているようだ。友達とでも遊んでいたのだろうか。昔から可愛いものが好きな子だったし、かすみさんと行っていたのかも知れないし……。


 真久郎と自分を大きなハートで囲む……いや、囲もうとした凜だったが、一瞬だけ優香の方に目を向けて、そのハートを消した。

 優香はそれに気づいたかどうか。


 シールが完成した。


「これ……宝物にする」


 満足そうに微笑む凜に、真久郎も恥を忍んででも来てよかったと思う。


「それにしてもまっくん、今日は凜ちゃんばかり見てたよねー。ゆうかりん寂しい……」

「何を仰いますやら。お前だって凜のことばっかりだったじゃん(笑)」

「はっはっはっ。凜ちゃん可愛いからね。仕方ないね。そろそろ帰ろうか。凜ちゃんも疲れたんじゃない?」

「おっ、そうだな」


 足早に駐車場に向かう『新しい家族』

 その後ろ姿は、どこから見ても幸せそのものだ。


 狭いアパートに戻ると現実が押し寄せて来る。正直なところ、真久郎も疲労困憊だ。

 夕食は買ってきた弁当で済ませ、二十一時前には優香が帰宅して行った。


 兄と妹、二人きりの時間が来る。引っ越すまではこの『妹』と二人の生活が続くのだ。理性を保たねばならぬ。俺は凜の保護者なのだから。


「今夜は早めに寝ような。疲れたろ?」

「うん。でも楽しかった。お兄ちゃんのとこに来れて良かった」

「そうか。兄ちゃんも凜が来てくれて嬉しいよ」


 凜の笑顔。

 早く寝かしつけて、食事の作り置きに取り掛かりたい。明日からは凜に留守番をさせなければならないのだ。それを思うと気が重い。


 俺たちはこれからどうなって行くのだろうか。


  (続く)




2話同時投稿です。

「第2幕:真久郎、引っ越しをするのこと」に続きます。

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― 新着の感想 ―
まず設定の使い方が非常に巧みだと感じました。単なる「実は女の子だった」あるいはTSFというラッキースケベ的なコメディに走るのではなく、性分化疾患(DSD)というデリケートな背景を軸に据えることで、凜が…
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