25.
「うおおおおおぉぉぉぉっっっっっ」
動物の咆哮のような、獣の雄叫びのような声。黒いなにかに絡め取られ、全身を拘束されて、妖魔は叫んでいた。紐のような、布のような黒い物は、遥か空の高みから妖魔を捕らえていた。
「どりゃああああああっっっ」
金属が弾き合う鋭い音がして、妖魔と私達の間に割って入ったのは、他でもないアンドリューだった。
「クリス、無事かっ」
学院の制服姿の彼の手には、大きな両刃の剣があった。アンドリューは私とトレイシーを庇うように剣を構える。
「これはこれは」
両腕ごと、胴体を黒いそれで縛られているというのに、妖魔の顔は狂喜に満ちていた。
「餌が自ら飛び込んでくるとは、私は運がいい」
異様に赤い唇を舐める舌が、不自然に蠢いて見える。肩から飛び出しているのは、太く巨大な荊。それが、先ほどの金属音の正体で、アンドリューの剣が弾いたのは、その荊なのだろう。まるで鞭のように、風切り音を上げながら、しなり、路面を叩いている。
「クリス、立てるか。立てるなら、逃げろ」
逃げるって、どうやって。
アンドリューは、どうするの。
そのどちらも、言葉に出来なかった。逃げなくてはいけないことは、解っている。ここにいても、妖魔に殺されるだけだ。けれど、アンドリューは。彼だって、剣を持っているとはいえ、戦えるわけがない。だって。
妖精に、妖精は殺せない。
妖魔とて、元々は妖精なのだ。
妖精は、他の妖精を傷付けることはしない。妖精により守護された者も同様で、この大陸に住む人間はすべからく妖精に守られ、ともに生きている。その中で最も妖精に近い存在が、妖精職人だ。
つまり、私達は妖魔を手にかけることが出来ないのだ。
万が一、他の妖精を傷付けた人間は、妖精の守護を失い、妖精の呪いを受けると言われている。人でもなく獣でもなくなり、混沌の中で無限の苦しみを味わうのだと。
妖精を傷付けるということは、この世界で最も忌むべき行いなのだ。
妖魔は、その禁忌をたやすく破る。
けれど人は、妖魔を傷付けることも殺すことも出来ず、ただその場から退けることしか出来ない。
「逃がしませんよ。忌々しい、人間ども。おとなしく、餌になりなさい」
荊が大きく振り上げられ、こちらへとめがけて伸びて来る。あの荊も妖魔の一部なのだとしたら、それを傷付けることは出来ないはず。このままだと、アンドリューは。駄目だ、そんなの。絶対に、駄目だ。
「アンドリュー」
しかし、荊は振り下ろされることもなく、アンドリューも私達も、傷付けられることはなかった。
空気を震わせる音がして、どさり、となにかが落ちる音がした。アンドリューのその前に、切り落とされた荊が、のたうち回っていた。
「ああああああああっっ、ああああああっ」
妖魔が、苦しみ、悶えている。地の底から響くような、雄叫び。切り落とされ、先端を失った荊が、音を立てながら前後左右にその身をしならせていた。ギリギリと音を立てそうな勢いで妖魔を締め上げている黒いなにかが、あの荊を切り落としたのだろうか。
「アンディッ、無事かっ」
遠くから剣を手にしたメーレ卿と、“鍵”と呼ばれる人達が駆けてくるのが見える。
「おのれぇっ、黒騎士めがっ」
吠えるように、妖魔は吐き捨てた。彼らは、妖魔を取り囲むと、アンドリュー同様に剣を構える。妖魔は、髪を振り乱し、苦悶に満ちた表情でこちらを睨めつけていた。
「おのれ、おのれ、おのれっ、無力な人間どもが。私に傷を付けるとはっ」
黒いそれは、情け容赦なく妖魔を締め付け、そして、体から生えた荊を切り刻んでいく。その度に、妖魔は耳を塞ぎたくなるような、おぞましい悲鳴を上げた。
「覚えていろ、貴様ら、必ず殺してやるっ」
妖魔がそう叫んだ瞬間、風が吹き荒れた。それはさながら、妖魔を中心とした竜巻だった。風に飛ばされまいと、私はトレイシーの手を掴み、もう片方の手で石畳に爪を立てる。“鍵”の誰かが飛ばされ、アンドリューも地面へと投げ出された。屋根が壊れる音やガラスが割れる音、なにかが遠くへと飛ばされる音が聞こえる。とてつもなく長く感じた、けれどほんのわずかの後。
そこには、土が露わになった地面と、半壊した店の軒先、そして傷を負った私達だけが残されていた。
妖魔の姿も、あの黒いなにかも、跡形もなく消えていた。
馬車?
おもむろに見上げた空に、黒塗りの馬車のような物が見えた、気がした。




