第七十一話 目覚めの少女
跳ねるように、月村綾音は飛び起きた。
ひんやりとした真っ暗な部屋。
視線を動かしてみる。アキメネスの自室だとようやく思い出した頃には、たっぷりと数分経っていた。
視線を下げると、少女が穏やかな顔で眠っていた。
アキメネスだ。
少女のあどけなさと美が完成する大人――その狭間の短い期間特有の愛らしさ。ベッドの上の彼女は、まるで職人の手で丹精に作られた人形のように儚げな麗しさがあった。
(そっか、私……)
正直、緊張しっぱなしで記憶さえ無いお披露目式の後。月村は、アキメネスが心配で彼女の部屋に戻っていた。
夜通し看病するつもりだったが、いつの間にか眠りこけていたらしい。腕が痺れて、背中も痛い。
「アキメネス……」
まぶたにかかった前髪を、指先ですくう。
アキメネスの意識はまだ戻らない。
魔女グリームニル。
彼女に力を奪われた影響がどれほどなのか。
もしかして、このまま目覚めないのだろうか。
また声が聞きたい。
不思議だ。どうして、こんなにも彼女に惹かれるのだろう。
(私にも、あなたのような人々を癒す力があれば――)
アキメネスの額にあてたタオルは、すっかり乾いてしまっている。
交換しなきゃ、と月村が立ち上がろうとした、その瞬間。
「――ッ!?」
ズシリという重苦しい不快感が襲ってきた。心臓を握り潰されそうな圧迫感。そして、呼吸さえ奪われる感覚。
「これって――!」
全身にまとわりつく、もう思い出したくない気味悪さ。
月村は窓を開けて、顔を出した。
里の方角。月村の視界には何も映らない。しかし、肌で感じる。
どす黒い瘴気が里を満たしている。
「グリームニル……!」
まさか、あそこにあの魔女がいるのか。
でも、どうして。グリームニルの狙いは代々の巫女のはず。アキメネスを探して里を襲ったのか。それとも巫女だけでは飽き足らず、里の人たちの力までをも吸収しようとしているのか。
「ど、どうしよう……」
助けに行くべきだろうか。
里にはグラネがいる。頼りになる女性だが、グリームニルの力は災厄そのもの。脅威でしかない相手に、かなうはずもない。というより、既に一度負けているようなものなのだ。グラネも傷も癒えていないだろうし、他の里の人間も、戦う力なんて持ち合わせていない。
月村は自身の手のひらを見つめた。
グリームニルとの戦いで、発現したあの力。また都合よく使えるだろうか。試しに集中してみたが、なにも生まれない。
どうしようもないもどかしさ。唇を噛み締める。
「……あれは、私と似た魔力を感じる」
背中越しに聞こえた、微かな声。たった一日しか経っていない。けれど彼女が反応してくれることを、自分の人生でこれほど切望したことはない。
瞬間、外で起きている危機など忘れて、月村は振り返る。
「アキメネス!」
アキメネスはベッドの上で上半身を起こしていた。治療のために衣服を脱いでいたのだが、彼女はまったく気にする様子もなく静かに呼吸を繰り返している。
「よかった……」
安堵する月村は、彼女に寄り添って手を握る。
「具合はどう? 苦しくない?」
「綾音……」
あまりにゆっくりと、アキメネスは月村の方に顔を向ける。ゆらめく茫洋とした瞳に月村は一瞬驚くが、彼女を安心させるように何度も頷く。意識の覚醒が間もないために、まだ思考が働いていないのだろう。
「あなたが……助けてくれたの?」
「あの魔女のこと? う、うん。私とグラネさんでどうにか追い払えたんだ」
「魔女……」
考えに耽るように、アキメネスはシーツの上に視線を落とした。
「グリームニル。あの人は自らをそう名乗ってた。聞き覚えは?」
無言で首を横に振るアキメネス。
当然だろう。あの魔女は歴史の裏に潜んでいた怪物だ。儀式の日にしかその姿を現さない。そして存在を目にした巫女は全員殺されている。アキメネスを除いて。
「あの人は私の力が目的みたいだった。いきなり襲い掛かられて、捕まって……。後は……あまり覚えてない……」
ぐったりと、アキメネスは手で額を覆った。月村は彼女の反対の手をさらに強く握りしめながら、意を決して言う。
「ねえ、アキメネス」
「なに?」
「今から言うことを、落ち着いて聞いてね」
アキメネスは目を丸くして、軽く首を傾げた。心に傷を負う恐怖の体験をしたばかりだというのに、子どもっぽい仕草はいかにも無垢な彼女らしい。
だが、告げなければならない。彼女のためにも。今後のこの世界のためにも。
「儀式によって巫女が犠牲になるなんて、まやかしだったんだよ」
「…………え?」
濡れた瞳がわずかに揺れた。
「どういう……こと?」
月村は、アキメネスの腕を自分の胸にそっと手繰り寄せた。慈しむように抱きしめて。
「世界を太陽から守るために、巫女は十年に一度結界を張り直す。そして、その代償として巫女は自分の命を捧げ、次の巫女に託す。それが、連綿と紡いできた尊ぶ歴史――そうよね?」
「うん。それが常識だって、グラネから教えられてきたよ?」
「それは間違いだった。ううん、正確にはそういう風に見えているだけだったの。その裏に、巧妙に覆い隠されていた真実があった――それこそ魔術のようにね」
「え……」
「すべての元凶は、あの魔女グリームニル。儀式を完遂したタイミングを見計らい、衰弱した巫女の命を奪っていた。強大で特別な力を吸収して自分のものとするために」
絶句。
驚愕するアキメネスに構わず、月村は魔女グリームニルの言葉をそのまま伝えた。
歴代の巫女は全員彼女に殺されていたこと。巫女の継承も、次世代に繋ぐ想いの残滓であったこと。次こそは魔女グリームニルをどうにかしてほしい、その淡い希望と抵抗でしかなかったことまで全部。
あれだけ悪質な女のことだ。ブラフである可能性も高い。
しかしそう信じきれないのも、彼女の口ぶりもまた、世界の真相に対する嘆きと怒りがない交ぜになっている気がしてならなかったからだ。
「そうだったんだ……」
最初こそ愕然と聞いていたアキメネスも、思い当たる節があるのか記憶探りながら声を絞り出す。
「……うん。確かに術を発動した後、辛くはあったけど本当にそれだけ。死にそうだなんて、感じなかった。おかしいなとは思ったんだ」
「グリームニルにとっても巫女の力は脅威なはず。十年間、毎回虎視眈々と狙ってるんだと思う。卑劣だよ」
「でも……何のためなのかな?」
弱々しい月村はかぶりを振った。
「あの人は復讐だって。誰に対してとか、何に対してかまでは言ってなかったけど」
「復讐……」
アキメネスは呟きながら、視線をさまよわせる。
「きっと、私たちには知らない悲しい部分を、あの人は見ちゃったのかもしれないね」
「アキメネス……?」
アキメネスは妙に呑気な感想を呟く。
というより、理解が過ぎる気がする。自分が襲われたというのに。
「あなた、殺されかけたんだよ? あの怪物に。復讐が目的だからって、まさか同情するの?」
「違うの。ちゃんと憎くて悔しい感情もある。けど、それ以上に」
「それ以上に?」
「どこか私に似ているような気がしてるんだ。具体的にどこが、とは言いにくいんだけど」
アキメネスが目を覚ました直後にも、彼女は同じことを言っていた。訝し気な視線を月村は向ける。
「魔力の波長っていうのかな。グラネたちからは感じたことないんだけど、あの魔女からも雪月の波動を一瞬だけど感じ取ったの」
巫女だけが持つ特殊な感性というやつだろうか。
グリームニルは次元の壁を操っていた。月村からしてみれば、どちらかといえば自身と同一的な存在に近しいと感じていた。この世界の創作者である月村と、それとは別の世界から来たグリームニル。
突飛な発想だが、正直否定したくてもグリームニルに月村の魂もまた、惹きつけられているものがある。
月村綾音。
アキメネス。
そして、グリームニル。
非常に抽象的だが、アキメネスの言葉が理解できるところも月村にとってはもどかしい。
「けど、グリームニルを放ってはおけないよ。あいつはまたアキメネスを狙ってくる。現時点でそれだけは間違いない」
月村は、改めて自身に言い聞かせるように言った。
アキメネスを守る――それだけは月村にとって明確な責務だ。
「里の方角に、今、グリームニルっぽい瘴気が漂ってるのは気づいてる?」
「うん。行かなきゃ」
「だめ。アキメネスはまだ起きたばっかりでしょ。身体も弱ってるのに、戦えるわけないじゃない」
ベッドから立ち上がろうとするアキメネスの肩を掴む。あまりに軽すぎる身体を月村は痛々しく思いながら、そっと押し戻す。
「私は大丈夫だよ。それよりもみんなが危険」
アキメネスが月村の手に触れる。しかし、頑なに月村は肩から手を離さない。
「あなたを行かせるわけにはいかない。今度こそ死んじゃう」
「目的はどうあれ、グリームニルって人を私は知らなきゃならない。この世界で悲しみを背負ってるならどうにかしてあげたいし、憎いなら倒して恨みを潰してあげなきゃいけない。それは私にしかできないことだと思う」
「救うっていうの? 殺されそうになった相手を?」
「変な正義感とかじゃないよ。いままで犠牲になってきた先輩たちのこともある。決して許しちゃいけない存在。罪は贖ってほしいし、そのためには私がこの負の連鎖を断ち切らなきゃいけない」
普段はおっとりと、ふわふわした印象の彼女だが、アキメネスは責任感がとてつもなく強い。巫女という死が約束された立場でも、あるがままに受け入れていただけではなく、その根底にあるのはこの世界で生きる人々が平穏無事に過ごすためだ。
(本当に、この子は……)
月のように煌々と輝く瞳。一切の不安もない、曇りない彼女の視線を真っ向から浴びては、月村は呆れた溜息を吐くしかなかった。
「それに、私が危なかったら綾音が守ってくれるんでしょ?」
にっこりと笑うアキメネス。どうしようもなく愛らしい彼女の笑顔に、月村は頭を抱えて苦笑する。
「もちろん。そうするしかないでしょ」
月村は今一度、手のひらに目をやった。
力が発現するか否か、確信は持てない。無理かもしれない。けれど、これでもう逃げられなくなった。
魔女グリームニル。どうにかして彼女を倒す――今、できる選択肢はそこだけに絞られた。




