第六十六話 イレギュラー
館の内部はまさに台風が通り過ぎたように荒れ果てていた。
巨大な魔力の余波。爆煙が充満し、火花なのか小さな閃光が散っている。円形に造られた壁には深い亀裂が入り、柱へと浸食。そもそも設計段階で巫女の力を想定した上での耐久面さえも軽く凌駕するほどの威力の痕跡が広がっていた。
そんな異次元の魔力を生み出したのは、一人の少女。
アキメネス・ユル・ベオーク。
最後の一滴まで力を振り絞って強大な魔術を展開させた彼女は、掲げた両手をゆっくりと下した。
「終わったんだね……」
達成感を滲ませてアキメネスは呟いた。笑みには疲労の色。汗がぽたりと床に落ちる。そこには魔法陣が描いてあった。
これは儀式の際、補助的な役割を果たすものだ。命を削るような魔力の放出。どれだけの長い期間厳しい修練を重ねようと、高出力の魔法は精細さを欠く。緊張のような精神的な部分もあるだろう。技術的に未熟であれば、暴発する可能性だってある。失敗は許されない。
歴史を紡がなければいけないという至上命題。焼け焦げて消えかかった線は、しっかりと機能しているという証だった。
「よかった、うまくいって……」
がくり、とアキメネスの身体が沈む。
そのまま倒れこむように仰向けになって、アキメネスは天井を見上げた。大理石の床は、極度に温度が下がったせいもあるだろう。背中越しに、ひんやりと冷たさを寄越して気持ちよかった。
丸く切り取られた空をぼんやり眺めながら、アキメネスは満足げ目を細めた。薄く何重にも重なった層の雲は、さながら丹念に織り込まれた絹のヴェールのよう。そこから、ふわふわとした雪が舞い落ちて彼女の元にまで届く。
やがて、薄い膜がゆっくりと空を遮った。ドーム部分は魔法によるシールドであり、儀式のときだけ開閉する仕組みになっていた。
「あ、そっか。引継ぎしなきゃ……」
ふと思い出し、アキメネスは上半身を起こす。そのまま立ち上がろうとしたが、膝が震えて力が入らない。体内にある魔力を全て出し切った代償だろう。意識も朦朧としていた。
時間が迫っているのだろうか。
「……あれ?」
しかし、アキメネスはふとした疑問にぶち当たる。
「でも、どうやってやるんだろう?」
アキメネスは小首を傾げつつ、こんなときにでも間延びした声を出した。
巫女には結界を張り直す他に、もう一つ重要な役目がある。結界は十年しか維持できない。その寿命を迎えれば、また世界は終焉の危機が訪れてしまう。そうならない為に、次の世代にバトンを渡さなければいけないのだが。
その継承の方法が、アキメネスは分からないのだ。
(そんなこと考えもしなかったな。儀式のことばっかりで、きっとどうにかなるんだろうなとしか思っていなかったから)
アキメネスは物心ついたころから既に巫女だった。
先代の巫女とも関わりは一切ない。身寄りのない赤子が、いきなり巫女の資格を受け継いだのだ。その後は祈り子の里に引き取られ、家族のように育てられた。グラネは特に姉のように付き添ってくれたが、魔術は指導してくれても、継承をどうするのかまでは教えてくれなかった。
巫女は儀式の館でその生涯を終える。誰にも看取られることなく。だから、次の巫女に秘術を託す現場を見ることはないのだ。
「……まさか私が死んでから行われるのかな? 勝手に」
疲労感はかなりあるが、ようやく立ち上がれるところまで回復した。試しに、魔法を放とうと手を伸ばしてみる。「えいっ」と可愛らしい声で集中するが、やはりもう体内には魔力は残っていないらしい。
「う~ん……」
小さな顎先に手を当てて、また首を傾げる。
何も起きない。考えていくうちに時間はどんどん過ぎていく。
「……あれ?」
眉根を寄せたアキメネスは、これまでになく低い声音を発した。
身体の異変に気付いたのだ。それを確かめるように、胸に手を当て、心臓の鼓動に耳を澄ませる。
「どうして? 私……」
言い知れぬ不安が波のように押し寄せてくる。
早鐘のように脈打つ鼓動。血流は巡ってどこまでも循環している。あれだけ苦しかった呼吸も落ち着いている。意識は鮮明に、思考も明瞭だ。
「死ぬんじゃない……の?」
困惑の呟きに対し、答えてくれる者など無論いない。
儀式の行った後は、必ず死が訪れる。それだけは歴史で繰り返されてきた事実だ。だからこそ、こうしてバトンを受け取った自分があるのだから。
――しかし。
感じていたのは命の灯が消える寸前の衰弱ではなく。
単純な魔力の枯渇による疲労のみ。身も蓋もない言い方をすれば、健康そのものだった。
「どういう……こと?」
何かしらのアクシデントだろうか。異常事態ならば、一度相談してみた方がいいのかもしれない――そう考えたアキメネスは、館の外に出ようとした。
その直後。
急激に、室内の温度が下がった気がした。
アキメネスが行った術式が正常に機能しているからではない。重苦しく、呼吸すらままならないような、寒気。血流が収縮し、行き場を無くした血液が足元からすべて抜け落ちるような感覚があった。
アキメネスが初めて覚えた戦慄という感情。恐らくは魔力を持たない者であれば知覚できない邪気が溢れている。館の出口まで来ていたアキメネスは勢いよく振り返った。
「なに……!?」
淀んだ瘴気。そして、部屋の中央――直前まで立っていた魔法陣の辺りに歪みが発生していた。どす黒く、爆ぜる雷を伴う暗黒の空間。覗くのもおぞましい、巨大な深淵だ。
(とてつもない力……! どこからこんな……)
息を呑むアキメネス。魔力の出所を探るも、うまく探知できない。ブラックホールのような闇の渦から漏れ出る瘴気が邪魔をしているのか。発生源である何かを掴み切れない。
しかし、それは至極当然だった。
(違う……! これは時空そのものを切り裂いて……!)
愕然とするアキメネス。金色の大きな瞳が揺れ動く。
ルーンガルドという異界において、魔力を持つ者と持たざる者の差異は驚くべき程にない。両者の決定的な違いは自然界に愛されているかどうか、だ。大気中のマナや大地に流れる地脈といったエネルギーを、母胎の段階から吸収できるかどうかである。
とはいえ、やはり素質の面は大きいし、そもそも自然が活性化しにくいルーンガルドでは魔法を扱えるまでに至る覚醒が起きない場合もある。それがこの世界で魔法使いがいない理由だ。
だが、今まさに目の前で起きている事象は、根本的に違う。
本来、この次元に存在しないはずの生命体が世界の壁を越えているということ。過去か、未来か。それともまったくの未知の領域から出没したのか。
(まさか、私が呼び寄せたの……? ここの空間そのものが魔力で構築されているから……)
雪華の巫女だけが入ることを許された儀式の館。その歴史は五百年以上にも及ぶ。巫女の魔力によって建造された分身であり、初代からアキメネスに至るまでに、積み重ねた濃密な魔力がそこには満ちている。
いわば、それもまた異次元の領域だ。あまりに強大な力が、何か得体のしれない異物との接続を可能にしたのかもしれない。
「やだ……」
後退りしようとしたアキメネスは、扉で背中をぶつけた。視線は縫い付けられ、館から出るという選択肢も思考から排除されていた。
ずるずると、闇の中から何かがせり出してくる。
長く、細く、そして白い。アキメネスにとって、それは日常に見慣れたもの。
腕だ。人間の右腕らしき物体が、まるでこちらを手招きするようにぬるりと這い出てきたのである。
ただし、それは通常の人間の大きさではない。アキメネスの何倍もあり、その腕全体を使えば少女の身体ぐらい締め付けるのは容易だろう。
胴体部分が姿を現す。厳かに光沢を放つ深紅のドレス。こんな状況かでなければ見惚れてしまうような豪奢な衣装は、その巨大さも相まって威圧感が凄まじい。
バケモノ――そう呼ぶにはあまりに妖艶。そして、最後に覗かせた顔に、アキメネスはごくりと唾を飲み込む。
仮面を被っていた。鉄製なのか定かではないが、銀色のあまりに無機質な意匠で目元だけが細く開いていた。奥に、鋭く怪しげな光を宿して。
『此度の巫女は、過去のどの器より遥かに優秀なようじゃな』
見た目通りの嫣然とした女性の声。仮面によってくぐもってはいるが、高圧的な響きが館内を押し潰す。
「だ、誰……⁉」
『其方が知る必要はない。今、ここで我の贄となるのだからな』
端的に、冷酷に。アキメネスの言葉を断つ。
床にまで届く長い濡羽色の髪が、風の煽りを受けたかのように広がる。深紅のドレスを着た巨大な女の右手が、アキメネスの方に伸びる。
突発的に噴出する魔力。それは、すべてを保護し浄化するアキメネスとは真逆。万物を呑み込み、喰らう――不浄であり、欲望にまみれた黒い波動だった。
「――ッ⁉」
アキメネスは瞬時に身をよじらせた。圧迫される強大な魔力を前にして、全身が硬直している。当然、対抗する魔力は失われている。アキメネスほどの術者であれば、外部の干渉に対する保護結界を無意識に体に纏っているものだが、それも皆無。
つまり――無防備。
深紅のドレスの女が放った凶悪な魔力は、まるで多頭の蛇のごとくアキメネスに絡みつく。肌に食い込み、皮膚へ浸食。アキメネスの体内を蝕み、血流を容赦なく犯していく。
「あ、あああぁぁぁぁぁあああああああああああ!」
アキメネスの絶叫が響き渡る。
『さあ、我にすべてを捧げよ。さすれば血の一滴、そして魂まで我の糧となろう。そのために其方はこれまで生きてきたのだからな』
深紅のドレスをまとった女の哄笑は、アキメネスの喘ぎさえも凌駕していた。
かつて経験したことのない苦痛。アキメネスは必死にもがこうとするが、指先一つ動かせない。脳内の細部まで気持ちの悪い物質が浸透しているのか、伝達系統が正常に働かない。
(やめ、やめて……)
悲痛な声は徐々に小さくなっていく。
自身を構成する細胞までをも奪われ、抜け落ちる感覚。急速にそれは行われ、抵抗する意志さえも失われていく。
自分自身が消えてしまう。判然としない思考。そして、核のようなものに手が届く感覚があった。
堕ちる――アキメネスの意識はそこで途絶えた。




