第六十一話 世界構築
――それは、無。
意識と無意識の狭間。
何も見えるはずもなく、何も聞こえることもない。
永遠の虚無が、時という概念すら失われて静かにあるだけ。
死ではなく。停止でもなく。
そもそも始まってすらいないだけなのだ。
青白くゆらめく魂は、辺獄の出発点として誕生する。
そこから肉体を得て、意志を繋ぎ、やがて一つの生命を形成した。
――月村綾音として。
おだやかな光を纏った少女は、膝を抱えて無の海をたゆたう。
何かを思い、何かを考えたわけではない。
けれど、局所的な辺獄として徐々に機能し始め、太陽を、空を、海を、大地を創り上げた。
そこから必要なものだけを物質として配置。筆もなく描かれた絵が動き出し、既定の生活を繰り返す。
――あるがままに。
世界は時間を得る。やがて静かに、その針を回し出した。
「綺麗……」
そんな吞気な感想が、月村の色素の薄い唇から零れ落ちた。
天鵞絨のような黒い空から舞い降る白い結晶。ぼんやりと見上げていた彼女の顔に一粒落ちて、すぐに雫へと変わる。
「…………」
肌を濡らす感触。月村は頬に滴る雫を拭おうともせず、ただただ永遠に降り続く雪の空に見惚れていた。
静けさに身を委ねながら。
突如、強い風が月村を襲った。ヘアゴムが千切れたのか、ほどけた黒髪が暴れる。突風は一瞬のうちに過ぎ去ったものの、彼女の身体は雪まみれになってしまう。
とにかく視界が悪い――月村は日常の癖で眼鏡を取り外し、制服の生地で拭こうとした。
「……あ」
月村の瞳が、みるみる見開かれていく。ごく自然に、何かを思い出したかのような薄い反応。ゆっくりと眼鏡をかけなおした月村は、その鮮明になった視界で、ぽつりと言葉を漏らす。
「……ここ、私の世界だ」
そう理解した途端、彼女の記憶が連鎖的によみがえってくる。
「私が望んで、イメージして。創り上げた箱庭なんだよね……」
月村は自分でも知らぬ間に、笑みを浮かべていた。
紫堂と名乗る男との出会い。失意にあった自分の心に付け込まれ、まんまと攫われてしまった。
あんなに簡単に口車に乗せられてしまうなんて。
月村は後悔の溜息を吐く。白い吐息は消えることなく、寒空にゆっくりとさらわれていく。
だが、紫堂に対して怒りが沸くことはなかった。彼の言葉が自分を癒してくれたのも、また事実。あのときだけは、例え偽物の優しさだったとしても必要だったのだ。
――さあ、君の楽園を創りたまえ。そうすれば、もう誰も月村綾音を縛らない。
脳裏にこびりついた紫堂の言葉が反芻する。
攫われた後の記憶がない。我ながら馬鹿だと思いつつも、無抵抗にその提案を受け入れた。決して思考を巡らせたわけではない。創造は、これまでの短い人生から築いた想いから形成される。
「それにしてもこれが私の世界? さみしいね」
自嘲する月村。
これだけの雪景色だというのに、まったく寒さを感じない。
自分だけが、この世界に取り残された感覚。異物のような。
――いや、違う。
世界に対して超越している存在……という自覚。
だからこその確信。
創造神である、と。
「でも、これからどうすれば……」
かといって、現時点で何かを望んだとしても都合よく道標が提示されるわけでもないらしい。
生まれたばかりの赤ん坊のような場所。誰にも邪魔されないというのは気楽だが、月村は困り果てながらとりあえず自分の世界を探検してみることにした。
方角も分かるわけなく、ただ真っ直ぐ歩く。足跡もすぐに雪で埋まり、どれぐらいの距離を進んだのかさえも掴めない。
やがて、なけなしの体力も底をつく。
「ははは……」
疲労困憊で膝をつく。腕や脚が雪に埋もれるも温度は感じないため、まるでそれが布団のように柔らかい。
「何でこうなっちゃうかなぁ……」
自分の世界でも、理不尽を味わう。
何も起きない。いいことなんかない。むしろただの夢なんじゃないかと思えてしまう。
「私なんて、やっぱり本質的に無個性ってことなんだよね……きっと」
空虚な景色。まさに己の写し絵だと突き付けられ、月村の全身から力が抜けた。
(このまま眠ってしまえば、いっそ楽になれるかな……)
そんな考えが頭をよぎる。
自棄すら覚え、目をつむろうとした――その矢先。
「……?」
はるか彼方に、建物のような影が見えた。
月村は目をこすり、改めて凝視してみる。
それは塔だった。灯台とも違う。暗がりで判然としないものの、円錐形であり、奇妙な歪みのあるアーティスティックな建造物がそびえたっていた。
「なに、あれ……」
そんなもの創造したかしら? と、こんな状況で吞気に首をかしげる月村。だが、変化に乏しかったこの空間でやっと見つけた希望の光。その塔から目を離せなかった月村は疲れを忘れたかのように立ち上がる。
そして導かれるまま、おぼつかない足取りでまた歩き始めた。




