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聖傑  作者: 如月誠
第四章 雪月華編
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第五十七話 魔の手に堕ちる少女

 衝動的に家を飛び出した月村は、あてもなく町を彷徨っていた。


 ――どうしてこんなことになったんだろう。


 もう記憶が定かではない。自分を見失うほどに、怒りが限界を超えてしまった。激昂が何もかも狂わせ、どこをどう歩いたのかさえ覚えていない。

 気付いた頃には学校とは真反対の河川敷に辿り着いていた。


「痛ッ……」


 苦痛に顔を歪ませた月村がしゃがみ込む。知らぬ間に膝をどこかで打ち付けていたらしく、ほんのりと血が滴っていた。涙を流し過ぎて枯れた瞳が、またじわりと熱を帯びてくる。


(最悪……)


 もう歩く気力さえなくなった月村は、河川敷の緩やかな斜面に腰を下ろした。乱暴に衣類やらお菓子を詰め込んだ大きなリュックを投げて、抱えた膝に顔を埋める。

 胸が張り裂けそうなくらいに痛い。心に淀んだ黒い渦のようなものが、いつまでも沈殿しているようで息をするのも苦しかった。

 幾度となく吐いた溜息。数時間前に味わった嫌な記憶がいつまでも反芻する。





 ――あら、こんな朝早くにどこに行くの?



 それはまるで、自分を監視しているのではと思えるようなタイミングで。

 気付かれないよう細心の注意を払っていた。自室からの階段を静かに降りて、そっと靴を履き替える。どんな小さな物音でさえ許されない。けど玄関さえ開けてしまえば、もうこちらのもの。その時点で気づかれても姿さえ見えなければ、後でどうとでも言い訳が作れる。

 そう考えていたのに。

 あの人は、さも当然のようにリビングから顔を出してきた。

 言葉が出なかった。どこまで娘の行動に過敏なのか、と。

 月村奏という女は、昔、どこかの監獄で見張り役でもやっていたのか。そう疑わずにはいられないほどの神経質さ。

 だが向こうは、あくまで偶然出くわしたかのような口調で首を傾げてきた。



 ――学生服? これから学校に行くの?



「……ええ」



 ――何をしに? 勉強かしら? なら自室でいいじゃない。



 見つかってしまったその動揺が、月村の計画を狂わせた。帰ってきたら、どのみち問いただされる。図書室で勉強してただの、休日に出勤している教師に訊きたいことがあってとか、嘘を並べ立てるつもりだった。

 けれど、真っ白になった思考では何もかも吹き飛んでしまっていた。


「演劇部の練習があるの。公演が近いし、主役の私が行かなきゃ始まらないの」


 ああ、ほら。母の形相がみるみる変わっていく。

 私もバカだ。なんでホントのことを言っちゃうかな。本気の部活だから、意志を曲げたくなかったんだろうけど。



 ――何を言ってるの! 



 癇癪を起したかのように、奏が叫ぶ。



 ――貴重な休日に部活ですって? 許しませんよ、そんなこと! 戻って受験勉強してなさい!



 判を押したかのような、予定調和の言葉。またか、とさえもう思わない。月村は感情を消した表情で母親を見つめる。



 ――あなたがそうやって遊んでいる間に、他の子とどれだけ差が広がると思ってるの。さあ、部屋に戻りなさい!



 月村から強引に鞄を奪おうとする奏。ぐん、と腕が引きちぎれそうな痛みが襲う。それでも月村は鞄から手を離さず、無理やり振り払った。


「嫌よ」


 冷淡に月村は突き放す。

 聞き分けのない娘だと感じているのだろう。不健康に青白い顔が、さらに赤みが増してくる。肩を震わせ、奏は金切り声を上げる。



 ――どうして親の言うことが聞けないの!? 一体いつからそんな悪い子になったの!!



 鼓膜を破りそうな奏の声は、恐らく近所中に聞こえていたに違いない。

 ここまで冷静さを失った母親を見るのはいつ以来だろうか。否、記憶をどれだけ遡っても一度もなかった。



 ――いい? 部活なんて無意味なの。しかも演劇部? あんなもの、馬鹿な人間がやる茶番なのよ。適当に考えた本に書かれたものを覚えて喋るだけでしょう。何の価値もない!



 瞬間。

 月村の中で音が消えた。一時的な思考停止。そして、灼熱が脳内を一気に駆け巡る。


「は……?」


 ()()()は今、何て言った?

 演劇というジャンルを。そして、それに関わる全ての人たちを侮辱したのか。

 何も知らないくせに。

 役者は、血の滲むような努力と長年の苦労がようやく技術となって観客に感動を与える――最高の表現者なのだ。

 それだけではない。裏方だっている。監督やスタイリスト、カメラマン。それぞれが最大限の仕事をして演者を支えている。

 ドラマや舞台は、全員が最高の作品を観る側に届けたいという想いが結集したものだ。

 それは学生の部活だって変わらない。小道具やセットは後輩たちが居残って必死に作ってくれている。ときには家まで持ち帰ってやっているのだ。自分たちはそれを知った上で彼らの努力に報いようと本番に挑むのだ。


 それを無意味? 無価値?


 喚き散らす奏の声は、月村に届かない。もはや雑音でしかないそれをかき消すかのように、月村は吼えた。


「――いい加減にして!」


 人生でこれほど叫んだことはない。理性もなく、ただ本能のままに。肉食獣のように、母へ牙を剥く。


「どうしてお母さんが私の人生を決定させるの!? 私はあなたの操り人形じゃないのよ!?」


 月村は持っていた鞄を強く叩きつける。


「二言目には私のためを想ってとか言うけど違うよね? 私、知ってるんだよ。お母さん、本当は教師になりたかったんでしょ? でも叶わなかった。おじいちゃんたちが裕福じゃなかったから大学には行けず、ずっと悔しかった。だから私に押し付けてるんだよね。金銭的な事情で潰された夢を逆恨みして、その無念を晴らそうとしてるだけなんでしょ!」


 唖然としながら、奏はよろよろと後退りする。

 これまでの母の言動は全て歪んだ願望。父も娘の将来は無難な職業をと言っているが、それは母に逆らえないからだ。本心は知らない。自己主張も出来ない人間の気持ちなんて知りたくもない。

 一気にまくし立てた月村は肩を上下させ、荒々しく呼吸を繰り返す。


「私は役者になりたいの! お父さんやお母さんみたいに地味な生活は送りたくなんかない。平々凡々とした未来なんて御免なのよ!」



 ――綾音……!



「大学にも行くつもりないから。高校を卒業したら東京に行く。上京して、演技の勉強をして、役者として生きていきたいのよ!」


 そのまま階段を駆け上がって自室に戻った月村は、リュックにありったけの荷物を詰め込んだ。何を入れたのか、感情が昂って覚えてもいない。

 そして、玄関をこじ開け外の世界に飛び出す。涙で濡れた視界はぼやけて何も映らない。

 牢獄と思っていた家からは母がまだ自分の名を呼んでいる。だが、もうどうでもいい。

 二度と戻ることはないのだから――。





「これからどうしようかな……」


 途方に暮れながら、月村は緩やかな水面を見つめていた。


「練習に行かなきゃ。みんな心配してるよね……」


 練習時間はとっくに始まっている。スマホはずっと鳴りっぱなしだ。

 部員たちからだろう。いや、それともあの毒親か。確かめる気力もない。

 恐らく奏は学校に連絡を取っていることだろう。部室に行かなければならないが、そこで捕まってしまう可能性は限りなく高い。

 それでも行くしかない。家庭の事情なんかで皆を失望させてはいけない。


「私、何やってんだろ……」


 ようやく立ち上がる月村は、疲れきった身体で斜面を上がる。

 部長や部員にはどう説明しようか。親から逃げ続けながら今度の舞台には立てるだろうか。自分はそれまでどこで暮らせば……。


 これからの不安が際限なく溢れて、心が重く沈む。


 もう嫌だな、こんな現実……。




「かろうじてその姿を保っていた月も、完全に輝光を失ったか」




 それは背後から。

 低音でよく通る男の声が、月村の背筋を撫でた。


「――ッ!?」


 驚いた月村が振り返った直後、足元が滑った。足場が傾いているために受け身が取れず、そのまま転がるように勢いよく落下――とはならなかった。

 腹部に鈍い衝撃。急制動をかけられたように月村の全身は浮いていた。


「う……」


 草むらに伏せた月村が痛みに耐えながらその瞳を開ける。傍らには人影の姿があった。

 どうやら何者かが落下を受け止めてくれたらしい。誰が――?


「――ッ!?」


 確かめようと顔を上げた月村が、声にならない悲鳴を上げた。

 立っていたのは、昨夜帰宅途中に出会った不気味なスーツの男。視線を合わせるだけで正気を失ってしまいそうな空虚な瞳が、月村を捉えている。


「あ……あ……」

「これで理解しただろう、月村綾音君。現世など執着するに値しない、と」


 男はシニカルな笑みを浮かべ、教えてもいない彼女の名を呼ぶ。


「な、んで……」

「私は紫堂尚嗣。昨晩は邪魔な横やりが入ったが、結果として君が絶望を自覚する時間が取れたのは大きかった」


 助けを呼ばないと。月村の脳内では警報が最大級に鳴り続けていた。

 しかし、上手く声が出せない。喉元に張り付いた恐怖が、言葉を奪っている。

 加えて、妙な違和感。

 周囲に人がいない。さっきまでは確かに、この辺りを散歩している大人が何人もいたはずだ。だが、誰一人として消えている。

 まるでこの空間から拒絶させられたかのように。


「息苦しかっただろう、潰れそうだっただろう。鬼畜のような肉親に耐え、よくここまで心が持ったものだ」


 紫堂の目尻が下がる。月村との目線を合わせるように彼はしゃがみ込むと、一転して穏やかな語調に変化する。


「……もう疲れただろう?」

「そんな……こ……」


 狼狽えながら、弱々しく首を振る月村。

 おかしい。こんな見ず知らずの男の言葉なんて、入り込む余地なんてないはずなのに。

 心は否定している。けど、そのもっと奥深く。魂は、彼の優しさを受け入れたがっている。


「君の慟哭が聞こえたのだ。内なる無垢な月村綾音という本来の君が、どうしようもなく助けを欲していた」

「やめて! そんな適当なこと言わないで……!」

「これ以上の虚勢はやめるんだ。私は本当の意味でお前の理解者になってあげられる」

「……!」


 あれだけ激しかった動悸が、どうしてか次第に落ち着きを取り戻してくる。

 そして、感情というものがすっぽり抜け落ちるように、月村から生気が失われていく。


「……あんなもの」


 薄く赤みを失った唇が、そっと開く。


「あんなもの、消えてしまえばいい


 抑揚のない声で紡がれた本心。月村のその言葉に、紫堂の笑みが深くなる。


「母なんて……父なんて……。もう邪魔なだけ……」

「壊したいか。君を縛り付ける……そのしがらみ、全てを」


 月村は、人形のように頷く。


「だけど、どうすれば……」

「解放するのだ。全てをさらけ出し、本能のままに振舞うのだ。君の居場所は私が用意してあげよう」


 月村の目の前に、紫堂が手を差し伸べる。


「そこでは君は何だってできる。そう、何者にもなることが可能なのだ」


 月村の瞳がゆっくりと瞠目する。

 どこかで望んでいたその言葉。それが胸の奥深くにまで刺さり、じわりじわりと染み込んでいく。

 月村は泥にまみれた右手を紫堂の手に乗せた。


「さあ行こうか、月村綾音君。楽園が君を待っている」


 紫堂に引かれるようにして、月村は力なく立ち上がる。最中、脳裏に浮かぶ一人の少女。

 太陽のように眩しい彼女は、正しく自分の憧れだった。あんな風に他人を笑顔にさせるような人間になりたいと思っていた。でも、その夢も叶いそうにない。



(――これから私は、全てを壊す)



 だからこそ、あの子にだけは予め謝罪だけはしたかった。

 たった一人の親友だから。

 ごめんね、もう会えないんだ……と。





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