第五十二話 不和
きっかけは幼稚園の頃。
母親から買ってもらった絵本だった。
毎晩のように読んでほしいとねだり、母は困りながらもベッドで眠るまでの間付き合ってくれた。
内容は理解できるはずもない。意味不明な言葉の羅列が身体に溶け込む、その感覚がたまらなく心地よかっただけだった。
いつしか自分でも読めるようになると、母親が「上手だね」と褒めてくれた。
それからだ。
自分も、いつしか絵本の中のキャラクターになって演じることを覚えたのは。
誰かになれる――それは普通ではありえない体験だ。
ありとあらゆる他人の人生に介入する喜び。絶対に訪れることのない世界線や時間軸。喜劇も悲劇も、例え作り物だとしても脳内のイメージではなく体感することができる。
至福だ。
中学生になると、益々演劇というものにのめり込み、表現者として高みを目指すようになった。
プロの舞台や俳優の演技を分析。状況に応じての目線や声の出し方といった細かな部分まで真似し、自分に吸収した。
役を理解し、よりその登場人物のパーソナリティに近づく。その時間だけは、月村綾音という窮屈な人間から逸脱し、どこまでも羽ばたいていけた。
――そう、自分にないものを彼等は持っている。
ドラマが故に、どんなストーリーであろうと中身は激しいものなのだ。
月村綾音の人生よりも陳腐な脚本などありはしないのだから。
◇ ◇ ◇
熱を冷ます。
役に入り込みすぎると、身体は熱暴走を起こしたように過剰に火照りを帯びる。陽が沈んだばかりの夜風は、その熱を逃がしてくれるには最適だった。
学校から徒歩十分の距離にある月村の自宅。密集した住宅地に建つ一軒家は小さいながらも立派だった。裕福ではないにしろ、安定した生活。父親が公務員というのが大きいことは、月村もよく理解していた。
平々凡々。
デザイン性のない積み木のような家を見る度、月村の心はいつも現実に引き戻される。普通に暮らしていけるだけ親には感謝すべきなのだろうが、個性が死んだような空間は年齢を重ねるほどに息苦しさを増していた。
「ただいま」
感情を置き去りにしたかのような声と共に、玄関のドアを閉める。
静かな音に気付いたのか、リビングの方からそそくさと廊下を歩く人影に、月村は一瞥する。
「おかえりなさい。今日も遅かったのね」
やや不機嫌そうに言いながら、その女性――月村奏は濡れた手をエプロンで拭く。
本来誰にでもある艶を消したかのような、輝きが失われた三つ編みの黒髪。昔から細かったが、老いてさらに貧相な身体つき。美人だった過去は自身で捨て去ったように、皺が目立つようになってきている。
月村は、自分の母からすぐに目をそらし、革靴を脱ぐ。
「ご飯出来るわよ」
「シャワー浴びてからでもいいでしょ? 汗かいてるから」
開け放たれたリビングからは、煮込み料理の匂いが香ってくる。レシピ本を見てそのまま作ったものだろう。下手でもなく、興味がないわけではない。教科書通りという考えしか頭にないのだ。
素っ気なく言って、自室のある二階へと上がろうとする月村。母親の冷ややかな声が飛んだのは、その直後だ。
「また部活じゃないでしょうね?」
「…………」
月村の足が止まる。
鬱陶しさを全面に嘆息を吐く彼女は、影に潜むような声で言った。
「本番が近いの。これからも遅くなるから」
「――あなた、まだ続けてたの?」
睨む母親。月村は視線を合わさない。
「演劇部なんてしている場合じゃないでしょって何度も言ってるわよね? 勉学に響くから」
月村はうんざりと肩を落とす。
「……成績は落としてないわ」
「今は大丈夫でも、受験があるの。両立なんか出来やしないんだから、とっとと辞めて勉強に集中しないと間に合わなくなるわよ」
「……分かってる」
「分かってないでしょ。これだけお父さんも私も口酸っぱく言っても聞いてないんだから」
何度繰り返した会話か。苛々が増していく。
しかし、その感情は直接表現するべきではない。滲み出た発露が、母親から隠すように握った拳の震えとなる。
「いい? あなたは生まれつき身体が弱いの。なのにあなたは、たかだか部活なんかにうつつを抜かして……。遊びで体調を崩して進路に影響が出たらどうするの」
「遊びだなんて、私は……!」
激昂。反論しようとする月村を遮り、母親は冷ややかに言う。
「あなたには身体が弱いからこそ、いい大学に進学して、安定した職に就くのが一番なの。そうすればストレスも少ないし、安心して暮らせるでしょ」
奥歯を強く噛み締める月村。
好きでこんな病気がちな身体に生まれたわけじゃない――そうぶつけたくても、相手は自分を産んでくれた母親。言葉をぐっとこらえるが、頭は煮えたぎりそうだった。
「お父さんが必死に働いているのも、あなたを大学に行かせるためなのよ。それだけじゃお金が足りないから、私もパートを始めるつもりだし」
父は公務員だけあって安定した収入に、職場が地元とあって休日も固定。両親にとっては娘である彼女にもその道に進むのが一番だと決めつけている。
だが、月村にとってそれは単なる押し付け。敷いたレールに乗って生きろという人形遊びにしか、月村には感じられなかった。
「もう高校二年生なんだから、受験に集中すること。まったく……少しは私たちの気持ちも分かって頂戴」
「…………」
頬に手を当て、心底落胆したような溜息を吐く月村奏。
確信犯のように神経を逆撫でしてくる、母親のその態度。自分によく似た相貌が、茹で上がった脳のせいで醜い悪魔のように歪んで映ってしょうがない。
「私は……」
「え、何?」
演劇部の仲間の顔が浮かぶ。共に笑い、ときには意見をぶつけ合う、最高のあの時間。
対して、この現実。あまりに一定過ぎる、時のリズム。自由を排除した思考、その上で成り立つ将来の束縛。
「あのね、私はあなたの為を想って言っているのよ。今度、退部届を一緒に書きましょうか。持って帰ってらっしゃい」
「…………ッ!」
――ああ、もうだめだ。
我慢の限界とばかりに、月村は会話を打ち切った。そっぽを向き、何事かを叫ぶ母親を無視して、足早に自室へと逃げ込むことにした。
「あぁ、もう!」
勢いよくドアを閉めた月村は、持っていた鞄をベッドに叩きつけた。
動悸が激しい。怒りに身を任すだけで、立ちくらみがする。
たったそれだけで。
「嫌い、嫌い、嫌い……!」
口うるさい両親。鬱陶しさももちろんあるが、何より許せないのは自分自身だ。
本心を口に出せない自分。結局は言いなりになっている自分。ちょっとのことで体調を崩す自分。腹立たしくて、自己嫌悪で一杯になる。
そのまま自分もベッドに飛び込み、投げつけた拍子に開いた鞄の中を漁る。
手に取ったのは、演劇部の台本だ。
月村はページをめくり、ラストのシーンに目を通す。
姫騎士が世界を救い、未来へと進んでいくハッピーエンド。
「あなたが羨ましい……」
気丈で誇り高く、決して挫けない。どんな障害があろうとも。そんな姫騎士に、月村は唇を噛んだ。
「それに比べて私は……」
本当に好きなもの、やりたいこと。そんな単純なことすら身近な両親に告白できずにいる。
ベッドのシーツを強く握り締め、月村は掠れた声で言葉を吐き出した。
「私も思いっきり翼を広げたいよ……」
ぼやけた視界は、眼鏡を取ったからではなかった。頬を伝う水滴は、セーラー服の袖に大きな水たまりを作ってしまっていた。




