第五十三話 夢
日常のちょっとした試練は、ゴールデンウイーク前日に起こった。
放課後のこと。学生たちはいよいよ待ちに待った連休だということで、浮かれ気分に正門をくぐって帰宅していく。
誰もが連休中の具体的な計画を話し合う、賑やかな下校風景。穏やかな風も相まって、陽気な空気が広がっていた。
そんな中。
響里は楽しげな彼等とは真逆に、足取りは非常に重かった。
表情は強張ったまま、妙に歩き方がぎこちない。下り坂だというのに、いつ転んでもおかしくないほど視点は定まっていなかった。
(ど、どうしよう……)
変な緊張。渇く喉に、唾を飲み込む。
視線だけを横にずらすと、そこには眼鏡をかけた美少女。両肩に乗ったおさげ髪は少し野暮ったいものの、飾らない清楚さは同年代の女子と比べても大人びた美しさがある。
クラスメイトの月村綾音だ。
彼女と二人っきりの下校。その経験はこれまで一度もない。
一緒に帰るにしても、大概は芝原と陽ノ下を交えてが常。その友人たちも用事があり、この日はいない。残酷な仕打ちと恨めしい気持ちもあるが、共に病院にいる異界の関係者のお見舞いとなればやむ無しだった。
(き、気まずい……! なにか……わ、話題でもあれば……!)
これもまた困りもので、四人でいるときの会話の中心は芝原と陽ノ下だ。響里と月村は大体聞き役。グループ内はこの関係性で上手く回っていた。
(い、いや、意識しすぎるのもダメだ。自然に……自然に……!)
普段から物静かな月村は、あまり自身のことを多く語らない。親友である陽ノ下はともかく、芝原や他のクラスメイトと壁を作っている雰囲気は多少あった。
それに病欠から復帰してまだ日が浅く、転入したての響里が彼女のことをよく知らないのも気まずい要因ではある。
「――響里くん」
そんな響里の悶々とした状況を知ってか知らずか、坂を下りたところで月村は足を止めた。
「う、うん?」
低くささやくような声で自分の名を呼ばれ、響里はびくりと反応してしまう。月村は鞄を両手で握ったまま、俯いている。伏目がちに、物憂げな表情で。
「このあと……時間ある?」
「う、うん。予定はこれといってないけど……」
思いがけない誘いに、一瞬躊躇したが頷く響里。月村は安堵したかのように、ほんの少し唇の端を持ち上げた。
「よかった。じゃあ、少し付き合ってほしいんだけど」
学校から離れて学生の姿もなくなると、人気のない閑静な住宅地に月村は進んでいった。道中も会話らしい会話もなく、ただ響里は付いていくだけ。響里の家とは離れているため、来たことのない場所に戸惑いつつ、到着したのは小さな公園だった。
「ここ?」
「うん。あそこにベンチがあるから座ろっか」
夕方とあって、小さな子どもたちが母親を伴い、遊具で楽しそうに遊んでいる。大きめな広場はボール遊びには最適で、ランドセルを地面に放って野球に熱中する小学生もいた。
響里たちは敷地内の端に置かれたプラスチック製の長椅子に腰を下ろす。
「こうして二人っきりで話すの、何気に初めてだよね」
「……そうだね」
「もしかして、緊張してる?」
「い、いや、そんなことない……よ?」
思わずぎこちない返答になってしまった。引き攣った響里の表情を見て、月村は吹き出す。
「いいよ、別に。私ってさ、堅物に見られてるのか、皆遠慮がちに接するんだ」
「そんなこと……」
「澪はさ、そこらへん上手なんだ。他人の心にスッと入り込むというか」
「あー、そうかも。芝原くんも同じかも」
「だよね。あの二人似てる」
互いに顔を見合わせて、クスクス笑う。
「でも、あれで澪も本当の友達って私ぐらいなの。ちょっと強引なところもあるけど、仲良くしてくれたら嬉しいな」
「うん。すごく助かってるよ。陽ノ下さんや芝原くんがいたおかげで、すぐにこっちの生活に馴染めることが出来たし」
「なら良かった。でも、都会の暮らしに比べたらここは退屈じゃない?」
「そんなことないよ」
きっぱりと、響里は否定した。
「ここは穏やかで過ごしやすいよ。なんだか懐かしい空気でさ、時間の流れが丁度いいっていうか」
「……時間の流れ?」
僅かに眉を寄せる月村。
「向こうは目まぐるしくてさ。いつも何かに追われてる気がしてた。心が休まらないっていうか」
響里は目を細めて、遠くの方で遊ぶ子供たちに目を向ける。都会では、ああやって無邪気に子どもが外で遊ぶような微笑ましさはあまりない。殺伐とまでは言わないが、閉塞感のようなものは感じていた。
「そう……なんだ。私はここで生まれ育ったからかな。都会の方に憧れるけど」
「まぁ……そういった人は多いかもね」
「……? 響里くん、もしかして……前の生活でいい思い出が無かったとか?」
「……うん」
気のない相槌で、響里は力なく笑う。
苦しかった都会生活。しかし、それは環境のせいなんかじゃない。自分の心が弱かっただけ――引っ越してきて改めて響里は再確認できた。
響里の沈んだ声に、月村が怪訝そうに首を傾げた。あまり深く突っ込まれたくない事情なだけに、響里は強く首を振った。
「月村さんって、もしかして上京を考えてるとか?」
何気ない質問だった。
月村の瞳は目一杯見開かれ、燃えるような夕日と重なり、赤みを帯びる。
「どう……なのかな」
自問自答するかのように、響里から目をそらして、小さく唸る。
「そうかも、しれない。やりたいこと……が、あるから」
「へぇ! もし差し支えが無ければ、聞いてもいいかな?」
「え……」
純粋な興味から身を乗り出す響里。仰け反り気味に困惑する月村に、響里はふと我に返る。
「あーいや、ごめん。つい気になっただけだから。無理して言わなくてもいいけど」
「ううん。大丈夫」
月村は苦笑しながら、かぶりを振った。そのまま少し黙ってしまう。揃えた両手の指先を弄るのは、話すかどうか悩んでいるからだろう。彼女の視線の先――長く伸びた自身の影を見つめ、ぽつりと言った。
「私、演劇部に所属しているの」
「あ、それ、陽ノ下さんから聞いたよ。お芝居上手なんだってね」
「そんなことないよ。演じるのが好きなだけ。澪がきっと大げさに言ったんでしょ」
「そう……なのかな?」
「だって学生の演技だもん。それなりに、それっぽく、背伸びしてやってるだけだよ」
月村本人の謙遜もあるだろうが、彼女の演技を見たことのない響里には軽々しく否定も肯定もできない。ただ、部活動であったとしても何かに熱中できるのは羨ましいと響里は素直に思う。
「でも、できれば大人になってもお芝居ができたらいいなって思ってる。もっとたくさんのお客さんの前で役を演じてみたい」
「え、じゃあプロの女優さんになるってこと? すごい!」
「いやいや! そんな大層な話じゃなくて!」
慌てたようにバタバタと手を振る月村。
「有名になりたいわけじゃないの。舞台でもなんでもいい。とにかく、もっと色々な役を演じてみたいんだよ」
「へ~。だから、都会に行きたいのか」
「その方が窓口は広いし。劇団もいっぱいあるし、そこには多くの役者さんが活躍してる。そんな人たちをもっと見て、勉強したい。そして私も同じ土俵で勝負してみたいんだ」
響里は息を呑んだ。もっと大人しい性格と思っていたが、印象が変わった。
決然とした表情。力強い口調。熱い魂を、彼女は備えている。
「でも偉いな。俺なんか、将来のことなんか全然考えてないよ」
「今のところ夢物語だよ。ただ、そうできたらいいなって思い描いているだけ」
そして、月村は大きく息を吐く。
よほど思い詰めていたのだろうか。先ほどまでの張り詰めた雰囲気が消えている。
大きく伸びをした彼女は、清々しい笑みを浮かべた。
「実はこれ、澪にも言ったことがなくって」
「え。じゃあ、なおさら聞いてよかったのかな」
改めて響里の方を見る。白磁の陶器のような血色の薄い肌。少し冷たく感じる猫のような瞳は、吸い込まれそうなほどに美しい。
「不思議だよね。けど、響里くんなら茶化さないって思えたんだよ」
「も、もちろん。馬鹿になんかしないよ」
頬が熱くなるのを感じながら、響里は跳ねるように立ち上がった。
「も、もうすぐ日が暮れるね」
「うん」
公園の外灯が、太陽が沈むと同時に灯った。遠くの方からチャイムの音楽が流れてきた。さほど長く話していたつもりはなかったのだが、十八時の合図。遊んでいた子ども達も一斉に帰っていく。
「……もっと話したかったな」
「俺で良ければいつでも」
「うん。聞きたいことまだあるし。また今度にでも」
「都会の情報なら、まあ……出来る範囲で答えるよ」
「無理しなくていいよ。でも……そっか」
ごめんね、と月村は謝りつつ、響里にも聞き取れないほど小さな呟きを漏らす。
「私たちって……真逆だね……」
月村の表情に影が差すも、響里がそれに気づくことはなかった。




