第3話 剣より帳簿が必要だった
その夜、私は宿の帳簿を整理した。
帳面の数字を目で追い、親指で石板の縁をなぞる。私が疑問に思った箇所だけが、声になる前に石板へ流れ込む。
返答は、意識の底に置かれる。
『宿泊税項目と水路維持費項目に重複の可能性』
私はその部分に印をつけた。
ただし、アーカイヴがすべてを解くわけではない。
何が宿泊税で、何が馬小屋の使用料で、どの日に祭りがあり、どの日に商隊がまとめて泊まったのかは、マルタに聞かなければならなかった。
「この日の肉代だけ高いですね」
「ああ、その日は王都の騎士団が泊まった。連中、夜中に追加で肉を焼けと言いやがって」
「ここは宿泊客が十二人なのに、朝食が二十人分になっています」
「馬丁が外で寝たんだよ。飯だけ食わせた」
「この水路税とは?」
「町の水路を維持するための税だ。宿と粉屋と染物屋が多めに払う。けど、最近は水車が止まってるのに税だけ取られるって、みんな怒ってる」
水路。
私はその言葉を帳面の端に書いた。
翌朝、整理した帳簿をマルタに見せると、彼女は目を丸くした。
「三月分が一晩で?」
「途中までです。ですが、大きな差額の原因は二つあります。一つは騎士団の追加食費が宿泊税の欄に混ざっていること。もう一つは、水路税が二重に請求されています」
「二重?」
「宿泊税の請求書にも、水路維持費が入っています。それとは別に、町役場から水路税の請求が来ています」
マルタの顔が険しくなった。
「役場の連中、またやらかしたね」
「故意かどうかは、これだけではわかりません」
「故意じゃなくても困るんだよ。こっちは銅貨一枚で客と喧嘩してるんだから」
彼女は帳簿を抱え、私の腕をつかんだ。
「来な」
「どこへ?」
「町役場だよ。あんたが説明した方が早い」
こうして私は、ルカに来て二日目で町役場に連れていかれた。
町役場は、古い石造りの建物だった。
中には紙の束、壊れた棚、欠けたインク壺、乾いた泥のついた長靴が並んでいる。王都の整った事務室とはまるで違う。
窓口にいた若い役人は、マルタを見るなり顔を引きつらせた。
「ま、マルタさん。今日は何の件で」
「水路税だよ。二重取りしてるじゃないか」
「そんなはずは」
「あるから来たんだよ。説明はこの子がする」
急に押し出され、私は帳簿を開いた。
若い役人の名はノリスといった。
彼は最初、明らかに私を疑っていた。よそ者の若い女が町の税に口を出すなど、面倒の匂いしかしなかったのだろう。
けれど、数字を一つずつ示すと、彼の顔色が変わった。
「この請求書、古い様式です」
ノリスは棚から別の束を取り出した。
「今年の春に、宿泊税と水路税を分けることになったんです。ですが、旧様式の紙が残っていて……いや、待てよ。これ、誰が出したんだ?」
彼は紙をめくり、頭を抱えた。
「水路係の書記が亡くなってから、引き継ぎがめちゃくちゃで」
「書記が?」
「冬に流行り病で。水門の開閉記録、水路税、修繕予定、全部その人が見ていました。今は町長と私で何とかしていますが、正直、追いついていません」
マルタが鼻を鳴らした。
「追いついてないで済むなら、こっちは商売が潰れるよ」
ノリスは言い返せなかった。
私は机の上に積まれた水路関係の帳面を見た。
古い地図。水門の開閉表。畑ごとの水の割り当て。水車の修理費。粉屋からの苦情。染物屋からの苦情。農家からの嘆願書。
「少し見てもいいですか」
私が言うと、ノリスは驚いたように顔を上げた。
「わかるんですか?」
「わかるかどうかは、見てからです」
私は帳面を一冊開いた。
石板が、胸元で微かに熱を持つ。
『水路記録の不整合を検出』
(箇所は?)
『第三水門の開閉時刻。記録上は閉鎖。水量記録上は開放状態』
私は顔を上げた。
「第三水門は、今も使っていますか?」
ノリスが瞬きをした。
「使っています。北畑へ水を回す水門です」
「記録では閉めている時間帯にも、水が流れています。故障しているかもしれません」
「そんな報告は」
「現場を見ないとわかりません」
マルタが腕を組む。
「行けばいいじゃないか」
午後、私たちは第三水門へ向かった。
町の北側、畑へ続く細い水路。
そこに古い木製の水門があった。苔がつき、金具は錆び、隙間から水が漏れている。閉じているはずなのに、細い流れが止まっていなかった。
ノリスが膝をついて確認する。
「本当だ……閉まっていない」
近くにいた農夫が、鍬を担いで近づいてきた。
「そりゃ閉まらねえよ。春からずっとだ」
ノリスが振り返る。
「なぜ報告しなかったんですか!」
「したさ。三回した。役場に紙も出した。返事がないから、もう諦めたんだ」
ノリスは黙った。
私は水門の下を見た。
泥と枝が詰まり、板が最後まで下りなくなっている。
「完全な修理でなくても、詰まりを取って板の角度を変えれば、一時的には改善します」
農夫が私を見る。
「あんた誰だ?」
「昨日ルカに来ました。書記官です」
「昨日来たよそ者が、なんで水門の話をしてる」
もっともな疑問だった。
私が答えに詰まると、マルタが代わりに言った。
「少なくとも役場の紙束よりは役に立ってるよ」
農夫は笑った。
「そりゃ違いねえ」
その日の夕方、第三水門の泥を取り除く作業が始まった。
農夫二人、ノリス、宿の下働きの少年、それからなぜかマルタまで来た。私は作業そのものはほとんどできない。だから、板の動きと水量を記録し、アーカイヴに問いながら水門を閉める角度を調整した。
完全ではない。
けれど、水漏れは半分以下になった。
翌朝、町役場に行くと、ノリスが眠そうな顔で待っていた。
「町長が会いたいそうです」
「私に?」
「はい。あと、昨日の農夫たちが、あなたなら水路記録を読めるんじゃないかと」
「私は宿代を稼ぎたいだけなのですが」
「日当は出します。高くはありませんが」
「やります」
また即答してしまった。
町長は、白い髭の老人だった。名をグレンという。
彼は町役場の奥の部屋で、古い水路地図を広げていた。
「王都から来た書記官だそうだな」
「今は正式な所属が曖昧です」
「曖昧?」
「パーティーからは外されましたが、軍務局への正式な帰任命令は受け取っていません」
町長は愉快そうに眉を上げた。
「では、今は自由な書記官というわけだ」
「自由というより、宙ぶらりんです」
「なら、十日だけルカに吊るされてくれ」
私は思わず言葉を失った。
町長は水路地図を指で叩いた。
「この町は昔、街道と水で栄えた。だが北西街道の通行量が減り、若い者は王都へ出て、水路を見る者も減った。前の書記が死んでからは、何がどこまで壊れているのかもわからん」
「私にできるのは、記録の整理と現地確認くらいです」
「それが一番足りておらん」
町長は、まっすぐ私を見た。
「十日でいい。水路記録を読み直し、優先して直す場所を出してくれ。直す人手と金は、こちらで考える」
私は石板に触れた。
(受けるべき?)
『受諾を推奨。宿泊費、食費、社会的信用、長期的安全性が上昇』
私は町長に向き直った。
「お受けします」
こうして私は、ルカの臨時書記になった。
肩書きは小さい。
仕事は多い。
初日から、紙束と泥にまみれた。
朝は役場で記録を整理し、昼は水路を歩き、夕方は農家や粉屋や染物屋から話を聞く。夜は青麦亭の隅で帳面を広げ、石板に問いを投げる。
第一水門と第三水門、どちらを先に直すべきか。
そう考えながら、私は石板に親指を置いた。
(第一水門と第三水門、優先順位)
『目的関数を指定してください』
(目的関数?)
『何を最大化しますか。収穫量、税収、苦情件数の低下、水車稼働率、町長支持率、管理者の雇用継続率』
最後の項目だけ妙に生々しい。
食堂の隅では、宿の下働きの少年が、残ったパンの端をこっそり袋に入れている。妹に持って帰るのだと、昨日マルタが言っていた。
町の子どもたちは痩せていた。
飢えて死ぬほどではない。けれど、十分に食べている顔ではない。
私は石板に触れたまま、胸の内で問いを置いた。
(子どもが夜にお腹を空かせて泣かないこと)
『定量化困難』
(なら、近い数字でいい。冬までの食糧不足を一番減らす)
『条件を再設定。推奨、第三水門の応急修理、南畑への夜間給水、粉屋水車の稼働時間制限、貯蔵庫の換気改善』
翌日、私は町長に報告した。
「最初に直すべきは第三水門です」
町長は意外そうな顔をした。
「第一水門ではなく?」
「第一水門は目立ちます。でも、水量記録を見る限り、実際の損失は第三水門の方が大きいです。第一水門は大修理が必要ですが、第三水門は泥をさらって板を替えれば効果が出ます」
粉屋が不満そうに言った。
「うちの水車はどうなる。水が来なければ粉が挽けん」
「水車は一日中回すのではなく、時間を決めてください。今は水が少ない時間にも無理に回して、水圧を落としています。午前と夕方に集中させれば、挽ける量は大きく減りません」
染物屋が手を上げた。
「染め場の水は?」
「昼の二刻だけ確保します。その代わり、排水を畑側へ戻さないでください。染料が混ざっています」
「それは昔からだ」
「昔より水量が減っています。同じことをしても、今は畑への影響が大きいです」
会議は荒れた。
粉屋は怒り、染物屋は文句を言い、農夫はもっと水をよこせと叫んだ。ノリスは青い顔で議事録を取り、町長は何度も机を叩いた。
私は、声を張るのが得意ではない。
勇者パーティーでも、強い言葉を使う者たちの中で、いつも発言を飲み込んでいた。
けれど、この日は違った。
「全員に今まで通り水を配ることはできません」
部屋が少し静かになった。
「水が足りないからです。記録上も、現地でも、足りません。だから順番を決める必要があります。誰か一人に我慢させるのではなく、全員が少しずつ損をして、町全体の損を減らします」
粉屋が睨む。
「よそ者が偉そうに」
「はい。私はよそ者です。だから、誰の親戚でもありません。誰に借りもありません。数字と現場だけで言っています」
沈黙が落ちた。
町長が、ゆっくり頷いた。
「十日だけ、この娘の案でやる」
そうして、ルカの水路は十日だけ組み替えられた。
結果は、五日で出た。
南畑の土が湿り、粉屋の生産量は思ったほど落ちず、染物屋の排水で枯れかけていた豆畑が少し持ち直した。第三水門の応急修理は安く済み、余った銅貨で貯蔵庫の換気口を増やせた。
十日目、町長は私に言った。
「もう十日、頼めるか」
私は石板に触れた。
『受諾を推奨』
「お受けします」
それから一月、私はルカに残った。
生活は地味だった。
朝、青麦亭で硬いパンとスープを食べる。役場で記録を整理する。水路を歩く。農夫に怒鳴られる。粉屋に睨まれる。染物屋に言い訳される。子どもに石板を覗かれる。夜、マルタに帳簿の計算を頼まれる。
勇者パーティーにいたころより、ずっと忙しい。
けれど、不思議と息はしやすかった。
誰かの顔色を見て、必要な危険を黙る必要がない。
予測を伝えて、臆病者と笑われることもない。
間違えれば怒られるが、直せば感謝される。
それは、私にとって新しい感覚だった。
ある日、王都から来た商人が青麦亭で噂を話していた。
「勇者様の遠征、ずいぶん遅れているらしいぞ」
私は食器を拭いていた手を止めた。
「遅れている?」
商人は私が元勇者パーティーだとは知らない。
だから気軽に続けた。
「北の森を抜けようとして道に迷ったとか。補給隊が別の街道へ行ったとか。剣聖様が膝を痛めて、二日動けなかったとか」
私は石板に触れた。
『予測範囲内』
胸の奥が少し痛んだ。
ざまあみろ、とは思えなかった。
でも、戻りたいとも思わなかった。
私がいなくても、彼らは大丈夫だと信じたかった。
私がいなければ困ると、どこかで思い知らせたかった。
その二つの感情は、同じ胸の中に同時にあった。




