第7話 ことば箱、だいたい厄介なものを吐く
匿名発言箱は、翌日の昼に設置された。
正式名称は「ことば箱」。
場所は北棟サロン前の小机。
白い布を敷き、その上に小さな木箱を置く。側面にはクラリスの丁寧な字で、こう書かれていた。
『名前を書けない言葉を入れてください。
ただし、誰かを傷つけるための刃にはしないでください。』
良い文だ。
良い文なのだが、私は箱を見た瞬間に嫌な予感がした。
匿名。
箱。
言葉。
この三つを組み合わせると、人類はだいたいろくなことをしない。
前世でいうところの目安箱、投書箱、匿名掲示板、質問箱。名前を隠した途端、人間は急に自分の中の地下室を換気し始める。換気だけならいいが、たまに有毒ガスが出る。困った生き物である。
「本当に設置するのですね」
私は箱の前で言った。
リリアナは頷いた。
「はい」
顔は緊張している。
だが、逃げるつもりはなさそうだった。
「名乗れない人も、言葉を出せるようにしたいので」
「出した言葉の扱いが難しいわ」
「分かっています」
「本当に?」
リリアナは少し困った顔で笑った。
「分かっていないかもしれません。でも、分からないから、会で扱います」
また強くなった。
この子は、怯えながらちゃんと進む。
最初に壁際で震えていた男爵令嬢は、もういないわけではない。
まだいる。
だが、その隣に、代表として立つリリアナが生まれつつある。
人間は変わるとき、過去の自分を捨てるのではなく、増えるのかもしれない。
面倒だ。
だが少し、よい。
クラリスが箱の横に説明紙を貼る。
マチルダは投函された紙を保管するための封筒を用意している。
エステルは腕を組み、少し厳しい顔で周囲を見ている。
セシルは扇を片手に、いかにも興味なさそうな顔をしているが、実際には一番箱を見ている。
レオンハルトは少し離れた柱のそば。
記録係でもないのに記録している。
もはや生態である。
「レオンハルト様」
「はい」
「匿名箱まで記録するおつもりですか」
「運用の観察です」
「匿名性は守られるべきでは?」
「誰が入れたかは記録していません」
「では何を」
「設置時刻、人の流れ、投函数、投函前後の表情変化」
「気持ち悪いですね」
「よく言われます」
「直す気は?」
「努力中です」
彼は淡々と言う。
努力中という言葉の便利さよ。
前世でも「検討します」「善処します」「努力します」はだいたい何もしない時の布だった。人間は言葉で現実に毛布をかけるのがうまい。
昼休みの間、ことば箱の前には何人かの令嬢が立ち止まった。
見て、通り過ぎる。
戻ってくる。
紙を持っているのに入れない。
友人と小声で話す。
結局、入れる。
入れたあと、逃げるように去る。
箱はただ置かれているだけなのに、その周囲には妙な重力があった。
名前を書けない言葉。
それは、たぶん名前を書けない人間の一部だ。
箱に入れる時、人は自分の何かを切り取っている。
軽く扱うべきではない。
だが、重く扱いすぎても潰れる。
人の言葉の重さというものは、本当に厄介だ。羽のように軽く投げられるくせに、刺さると石より重い。
放課後。
第三回茶話会の前に、ことば箱が開けられた。
北棟サロンには、三十四人の令嬢が集まっていた。
増えている。
また増えている。
三十四人。
もはや小さな学年集会である。
そろそろ教師が本格的に関与しないとまずい。いや、関与するとまた権威が乗る。何をしても面倒が増える。組織とは、問題を解決するために別の問題を生成する装置なのかもしれない。
前方の机に、ことば箱が置かれている。
リリアナが箱を開けた。
中には、紙片が十七枚。
初日にしては多い。
クラリスが一枚ずつ取り出し、マチルダが番号を振る。
レオンハルトの提案で、名前や筆跡が見えすぎないよう、読み上げ前に一度紙を裏返して番号だけ付けることになっていた。
あの男、こういうところでは役に立つ。
腹立たしいが。
「では、読み上げます」
リリアナの声は少し緊張していた。
一枚目。
『私は白百合会に入りたい。でも、友人が上級貴族の方々を怖がっていて、入ると裏切り者と思われそうで怖いです。』
ふむ。
まともだ。
二枚目。
『兄に、白百合会は男嫌いの集まりなのかと聞かれました。違うと答えたかったけれど、うまく言えませんでした。』
出た。
典型的な誤読である。
女性が集まって自分たちの困りごとを話し始めると、すぐ「男嫌いか」と言われる。前世でも散々見た。人類、他人の自立を自分への攻撃と誤読しがち。自意識が肥大したクラゲである。
三枚目。
『私は、エリシア様に一度でいいから名前を呼ばれたいです。』
私は無言で顔を覆った。
会場の空気が変な方向に揺れた。
クラリスが真剣な顔で記録しようとしている。
「それは記録しなくていい」
「匿名の声ですので」
「これは会の議題ではありません」
「ですが、名前を呼ばれたいという承認欲求の問題として」
「分類しないで」
レオンハルトが小さく言った。
「承認欲求、対象集中型」
「あなたも分類しないで」
リリアナが少し赤い顔で咳払いした。
「これは、個別のお願いとして扱います」
「扱わなくていいわ」
四枚目。
『白百合会は正しいことを言っていると思います。でも、白百合会に入っている子たちが、最近少し誇らしげに見えて苦手です。』
部屋が静まった。
来た。
これは大事だ。
そして痛い。
白百合会の参加者たちが、互いに顔を見合わせる。
エステルが口を開いた。
「分かります」
全員が彼女を見る。
「私たちは、最近少し誇らしくなっていたと思います」
彼女は淡々と言った。
「少なくとも私はそうです。自分たちは声を上げている。まだ入っていない子たちは、怖がっているだけ。そう思いかけていました」
マチルダが頷く。
「私も、少しありました。会計として役目をいただいて、役に立てている気がして、それが嬉しくて」
クラリスも小さく手を上げる。
「私も……記録を任されていることが、とても嬉しいです。だから、記録される側ではなく、記録する側にいることに、少し誇りを持っていました」
リリアナは紙を見つめた。
「私もです」
声が小さい。
「代表と呼ばれるようになって、怖いけれど、嬉しかったです。前よりも、誰かが私の話を聞いてくれるようになって」
彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「その嬉しさが、誰かには誇らしげに見えたのかもしれません」
良い。
痛いが、良い。
白百合会は、自分たちが新しい上位者になる可能性を、少なくとも見ようとしている。
セシルが扇を閉じた。
「誇りを持つこと自体は悪ではありませんわ」
彼女が言うと、数人がそちらを見る。
「問題は、その誇りを使って他人を見下すことです」
そこで彼女は、少し笑った。
「まあ、私が言うと説得力がありすぎて嫌ですけれど」
何人かが笑った。
セシルも少しだけ肩の力を抜く。
「白百合会に入っているから正しい。入っていないから遅れている。そう思った瞬間、私たちは以前の私と同じ場所に立ちます」
以前の私。
彼女はそう言った。
それは自分の過去を、会の警告として差し出す言葉だった。
勇気がいる。
そして、少し痛々しい。
私は黙って聞いていた。
出番はない。
出番がないことを、今日は少しだけ喜べた。
五枚目。
『白百合会に入った友人が、最近私のことを「まだ自分の言葉を持てていない」と言いました。悲しかったです。』
空気が、さらに重くなった。
リリアナの顔が青くなる。
クラリスのペンが止まる。
エステルが眉をひそめた。
これは、もう具体的な被害だ。
「自分の言葉を持つ」という白百合会の理念が、他者を測る物差しになっている。
理念は、すぐ物差しになる。
物差しになると、人を叩ける。
人類は本当に、棒状のものを持つとすぐ殴る。
「これは」
リリアナは慎重に言った。
「白百合会の言葉が、誰かを傷つけた例です」
エステルが頷く。
「理念の使い方を決める必要があります」
「使い方」
「はい。自分の言葉を持つ、というのは、他人にあなたは持てていないと言うための言葉ではない、と明記すべきです」
マチルダが紙に書く。
「会の心得に入れますか」
クラリスが言う。
「心得……」
また文書が増える。
だが、必要かもしれない。
いや、文書化すれば安全というわけではない。
しかし、言葉を使うなら、その扱い方も言葉にしておく必要がある。
面倒だ。
言葉は、言葉でしか手入れできない。火を火で消すようなものだ。人間はもう少し扱いやすい道具を発明するべきだった。
六枚目。
『セシル様が白百合会にいるのが怖いです。昔、私の友人が泣かされました。謝ったら終わりなのですか。』
部屋が凍った。
セシルの顔から血の気が引いた。
この紙は、重い。
匿名だからこそ、出た言葉だ。
セシルは何も言わなかった。
扇を閉じた手が、白くなるほど力を込めている。
リリアナも言葉に詰まる。
私は、喉が動きかけた。
言うな。
これはセシルの問題だ。
だが、彼女を守りたいと思った。
同時に、この匿名の声も守らなければならないと思った。
どちらも正しい。
どちらも痛い。
こういう時、簡単な正解はない。
人類はよく「話し合えば分かる」と言うが、話し合った結果、分からないことがはっきりする場合もある。そういう面倒な現実を、なぜか標語は省略する。
セシルが、ゆっくり立ち上がった。
「終わりではありませんわ」
声は震えていなかった。
だが、硬かった。
「私は謝っておりませんもの」
部屋がざわめく。
彼女は続けた。
「エリシア様には、少し話しました。リリアナ様にも、入会時に自分が醜いことを言いました。でも、私が傷つけた方々に、一人一人謝ったわけではありません」
セシルは紙を見つめた。
「謝ったら終わりなのか、と問われるなら、答えは、終わりではない、ですわ。謝っても終わりません。謝らなければ、なお終わりません」
彼女は深く息を吸う。
「私は、白百合会にいる資格があるのか、正直分かりません」
その言葉に、リリアナが顔を上げる。
「でも、ここにいたいと思っています。ここで、自分が踏んできたものを見たい。見たくありませんけれど、見たいのです」
セシルは少しだけ笑った。
苦い笑み。
「だから、この紙を書いた方には、怖いままで構わないと伝えたいです。私を許さなくていい。私がいるのが嫌なら、その言葉も箱に入れてほしい」
クラリスが泣きそうな顔で記録している。
セシルは最後に、こう言った。
「私は、終わらせに来たのではありません。始めに来ました。自分がしたことを見ることを」
沈黙。
誰もすぐには言えなかった。
リリアナが立ち上がる。
「セシル様」
「何ですの」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありませんわ」
「はい。でも、ありがとうございます」
セシルは顔を赤くした。
「あなた、本当に腹立たしいくらい素直ですわね」
「すみません」
「謝らなくていいと何度言えば」
少しだけ空気が緩んだ。
私は息を吐いた。
よく言った。
そう言いたかった。
だが、言わなかった。
代わりに、ただセシルを見た。
彼女は一瞬こちらを見て、ふんと顔を逸らした。
伝わったらしい。
腹の立つほど勘がいい。
七枚目。
『王太子殿下が白百合会を見ているのはなぜですか。男子生徒がいると話しにくいです。』
今度はアルヴィンが固まった。
部屋中の視線が、扉近くの王太子に向かう。
私は思わず笑いそうになった。
耐えた。
王太子、匿名箱に刺される。
なかなかよい光景である。権力者には定期的にこういう針が必要だ。空気が抜ける。
アルヴィンは少し気まずそうに前へ出た。
「もっともな意見だ」
彼は言った。
ちゃんと認めた。
「私は学生会として状況を確認しているつもりだった。しかし、私がいることで話しにくい者がいるなら、それは考えるべきだ」
リリアナが緊張した顔で聞いている。
アルヴィンは続けた。
「今後、白百合会から要請があった場合を除き、私は会合には出席しない。必要な連絡は、代表から学生会に文書で出してほしい」
潔い。
少し驚いた。
以前のアルヴィンなら、「正しい監督」を理由に残ったかもしれない。
だが今は、自分が圧になっている可能性を認めた。
彼は変わっている。
私なしでも。
胸の奥が、また少し痛い。
だが、今度は痛みだけではなかった。
誇らしさ。
いや、これは危険な言葉か。
人の成長を自分の手柄のように感じるのは、かなり危ない。
私はその感覚をそっと脇に置く。
置いたつもりだ。
たぶん。
八枚目。
『レオンハルト様の記録が怖いです。』
レオンハルトが、完全に止まった。
今度は本当に止まった。
ペン先が紙の上で固まっている。
私は口元を押さえた。
笑ってはいけない。
だが、これは仕方ない。
正直、私も怖い。
リリアナが困った顔でレオンハルトを見る。
「レオンハルト様……」
彼は眼鏡を押し上げた。
「妥当な指摘です」
声はいつも通りだ。
しかし、少し硬い。
「私の記録行為は、対象者に監視されている感覚を与える可能性があります」
「可能性ではなく、実際に怖がられていますわね」
セシルが容赦なく言う。
「その通りです」
レオンハルトは認めた。
「今後、白百合会の会合を記録する場合は、会から正式に依頼された範囲に限ります。私的観察は控えます」
私は思わず彼を見た。
控える。
この男が。
天変地異か。
「エリシア嬢」
「はい」
「今、失礼なことを考えましたね」
「記録しないなら証拠はありません」
「表情に出ています」
「それは困りました」
部屋に小さな笑いが起きる。
レオンハルトは少しだけ目を伏せた。
彼はたぶん、笑われることに慣れていない。
嘲笑ではなく、軽い笑い。
その中にいる自分に、慣れていない。
記録する側だった彼が、記録される側、見られる側に立たされている。
それはきっと不快だ。
でも必要だ。
「レオンハルト様」
クラリスが手を上げた。
「もしよろしければ、記録方法について、私に教えていただけませんか」
レオンハルトが彼女を見る。
「あなたに?」
「はい。ただし、白百合会の記録として必要な範囲で。人を怖がらせない記録の仕方を学びたいです」
彼は少し黙った。
それから頷いた。
「分かりました」
クラリスの顔が明るくなる。
まずい。
書記令嬢と管理貴公子の師弟関係が始まろうとしている。
紙が増える。
確実に増える。
だが、悪くはない。
たぶん。
九枚目。
『白百合会ができてから、エリシア様が遠くなった気がします。寂しいです。』
空気が、妙に柔らかく重くなった。
私は固まった。
誰だ。
いや、誰でもいい。
この言葉は、私に刺さった。
白百合会が私から離れようとするほど、私も距離を取ろうとしている。
それを、誰かが寂しいと感じている。
そして私は、その寂しさに反応してしまう。
嬉しい。
最低だ。
寂しがられるのが嬉しい。
誰かが私を必要としている証拠のように感じる。
私は本当に、救いがたい。
リリアナが紙を持ったまま、私を見る。
クラリスも。
マチルダも。
エステルも。
セシルも。
全員が、何かを待っている。
これは、答えるべきか。
でも、私が答えると。
いや。
これは私宛ての言葉だ。
逃げてはいけない。
私はゆっくり立ち上がった。
「私も寂しいです」
部屋が静まる。
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
「白百合会が私から離れて、自分たちの言葉を持ち始めることは、とても良いことです。私はそれを望んでいます」
私は少し息を吸う。
「でも、望んでいることと、寂しくないことは別です」
リリアナの目が揺れる。
クラリスがペンを持ったまま、書くのをためらっている。
私は続けた。
「私は、皆様に慕われるのが嬉しい。頼られるのが嬉しい。けれど、その嬉しさに甘えれば、私は皆様を私のそばに置きたくなるかもしれない」
言葉が重い。
自分で言っていて、胸が苦しい。
「だから、私は少し離れます」
部屋の空気が揺れた。
「見捨てるためではありません。皆様が、私の顔色ではなく、互いの顔と、自分自身の言葉を見るためです」
私は紙を見る。
「寂しいと言ってくれた方。ありがとうございます。私も寂しいです。だから、寂しいまま、少し離れる練習をしましょう」
言った。
言ってしまった。
これは語録になる。
だが、これは必要だったと思う。
たぶん。
クラリスがゆっくりペンを動かした。
今回は止めなかった。
十枚目以降も読まれた。
内容はさまざまだった。
『白百合会の会費が高くならないか不安です。』
これはマチルダが即座に「全会計を公開します」と答えた。
『婚約者に白百合会をやめろと言われたらどうすればいいですか。』
これは大きな議題として次回に回された。
『リリアナ様の話し方が好きです。』
リリアナが真っ赤になった。
『セシル様が怖いけど、今日少し格好よかったです。』
セシルが扇で顔を隠した。
『クラリス様の記録を読みたいです。』
クラリスが嬉しさと恐怖で震えた。
『マチルダ様に帳簿の読み方を教えてほしいです。』
マチルダが目を丸くしたあと、静かに頷いた。
箱は、厄介だった。
だが、必要だった。
名前を書けない言葉は、会の隙間から漏れていたものだった。
その隙間を見ないまま進めば、白百合会はきっと自分たちの正しさに酔った。
ことば箱は、それを少し冷ました。
匿名の声は危険だ。
でも、名乗れる者の声だけで組織を作るのも危険だ。
名乗れる強さを持つ者だけが、発言権を得るからだ。
人間社会は、何を選んでも別の危険が出てくる。まるで湿った部屋のカビである。一箇所拭くと別の壁に出る。
茶話会の最後、リリアナは言った。
「今日、ことば箱から出た言葉は、嬉しいものも、怖いものも、痛いものもありました」
彼女は箱を見る。
「でも、どれも、なかったことにはしたくありません」
リリアナは参加者たちを見回した。
「ただし、箱に入った言葉がすべて正しいわけでもありません。匿名だから守られる言葉もあります。でも、匿名だからこそ、人を傷つける言葉も出ます」
彼女は少しだけ、私を見た。
すぐに目を戻した。
「だから、私たちは言葉をそのまま信じるのではなく、その言葉がどこから来たのか、何を怖がっているのか、何を欲しがっているのかを考えたいです」
強くなった。
本当に。
私は少し泣きそうだった。
泣かない。
公爵令嬢だから。
いや、また意地だ。
その日の会合は、予定より長引いた。
終わる頃には夕方になっていた。
サロンの窓から差し込む光は、薄い金色だった。
令嬢たちが帰っていく。
リリアナは最後まで残り、ことば箱を片付けていた。
私は手伝おうとして、一瞬止まった。
手伝うべきか。
見守るべきか。
またそんなことで悩む。
面倒くさい。
自立を尊重することと、ただ手伝わないことは違う。
私は箱を持った。
「手伝います」
リリアナが驚いた顔をした。
「よろしいのですか?」
「ええ。代表の仕事を奪うつもりはありません。ただ、箱を運ぶ手は二つより四つのほうが便利です」
リリアナは少し笑った。
「ありがとうございます」
私たちは二人で箱を棚にしまった。
ただそれだけ。
だが、少し穏やかな時間だった。
「エリシア様」
「何?」
「私、今日、少しだけエリシア様から離れられた気がしました」
「ええ」
「でも、こうして一緒に箱を運んでいると、離れることと、遠ざかることは違うのかもしれないと思いました」
私は彼女を見る。
リリアナは恥ずかしそうに笑った。
「うまく言えませんけれど」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「とてもよく分かります」
離れることと、遠ざかることは違う。
よい言葉だ。
彼女の言葉だ。
私はそれを胸の中にしまった。
その夜。
クラリスの議事録には、こう書かれた。
『ことば箱、初回開封。
匿名の言葉は、会の外から来るものだと思っていた。
でも実際には、会の中にある言いにくさも入っていた。
怖かった。
嬉しい言葉もあった。
痛い言葉もあった。
セシル様は、謝ったら終わりではないと言った。
アルヴィン殿下は、出席を控えると言った。
レオンハルト様は、記録が怖いと言われて、記録の仕方を変えると言った。
エリシア様は、寂しいまま離れる練習をしようと言った。
リリアナ代表は、言葉をそのまま信じるのではなく、その言葉が何を怖がり、何を欲しがっているか考えたいと言った。
今日、私は初めて、記録することが怖いと思った。
でも、怖い記録ほど、たぶん必要なのだと思う。』
私はそれを読んで、静かに頷いた。
そして、最後の余白にクラリス自身が書いた一文を見つけた。
『いつか、エリシア様のお言葉ではなく、私たちの言葉だけでこのノートが埋まる日が来るかもしれない。
その時、私はこのノートの最初のページを、どう読むのだろう。』
私は、何も言えなかった。
ページを戻す。
一ページ目には、まだ残っている。
『白百合の君のお言葉』
その文字は、以前ほど眩しく見えなかった。
少し古い。
少し恥ずかしい。
でも、確かに始まりだった。
始まりは、いつも少し恥ずかしい。
人間の成長記録など、だいたい黒歴史と紙一重である。
翌朝。
学園の廊下を歩いていると、レオンハルトが横に並んだ。
「エリシア嬢」
「何ですか」
「記録に関して、相談があります」
「あなたが相談」
「はい」
「珍しいですね」
「必要性を認めました」
少し不機嫌そうだった。
その顔が少し面白い。
「クラリス嬢に記録方法を教えるにあたり、私の既存の方法では問題があります」
「監視のように見えるから?」
「はい」
「よく認めましたね」
「匿名の指摘は有効でした」
彼は淡々と言う。
だが、その声には少しだけ悔しさがあった。
「人を記録する時、私は対象を安定させようとします。矛盾を減らし、分類し、予測しやすくする」
「でしょうね」
「しかし、昨日のことば箱を見て分かりました。人間は矛盾したまま記録される必要がある」
私は彼を見た。
「それは、かなり大きな気づきでは?」
「不快です」
「でしょうね」
「矛盾したまま残すと、整理できません」
「人間なので」
「その言い方も不快です」
「便利なので」
彼はため息をついた。
レオンハルトがため息をついた。
珍しい。
記録したい。
いや、やめておこう。人の悪癖を真似るとろくなことがない。
「つまり、あなたはクラリスさんに、人間を分類する記録ではなく、人間の矛盾を残す記録を教えたいのですね」
「そうです」
「良いと思います」
「方法が分かりません」
素直だ。
この男が「分かりません」と言った。
明日は槍が降るかもしれない。いや、異世界だから本当に降りかねない。予言めいたことは控えよう。
「では、クラリスさんと一緒に考えればよろしいのでは?」
彼は私を見る。
「私が教えるのではなく?」
「ええ」
「非効率です」
「最近、それを少し受け入れ始めたのでは?」
レオンハルトは沈黙した。
そして、不本意そうに頷いた。
「……分かりました」
「よろしい」
「あなたは本当に、私の管理能力を削りますね」
「あなたが人間になる手助けをしているのです」
「私は元から人間です」
「帳簿寄りでした」
「失礼です」
「事実です」
彼は少しだけ笑った。
いや、たぶん笑った。
口元が一ミリ程度動いた。
分かりにくい。
その日の午後。
白百合会の噂は、また変化していた。
「白百合会は、参加しない人を敵にしないらしい」
「匿名の意見も扱うんだって」
「セシル様、自分を怖いと言われても怒らなかったらしい」
「王太子殿下、出席を控えるって」
「レオンハルト様も記録を控えるとか」
噂は、少しずつ柔らかくなっていた。
だが、同時に別の噂も聞こえた。
「白百合会に入ると、自分の醜さを告白させられるらしい」
「怖い会ね」
「でも、少し興味あるわ」
やめろ。
興味本位で来るな。
自分の醜さを告白する会ではない。
いや、している気もする。
人間の活動というものは、外から見るとだいたい変な宗教に見える。特に真面目にやっているほど怪しい。困ったことだ。
私は廊下の窓に映る自分を見た。
白百合の君。
お姉様。
救済者。
隠れた聖女。
いろんな呼び名が、私の知らないところで増えている気がする。
私は、そのどれでもない。
そう言い切りたい。
だが、それらの呼び名に、少しずつ自分が引っ張られているのも事実だ。
演じていたはずのものが、私の中に根を下ろし始めている。
ネカマプレイ。
軽い言葉だった。
だが、演技は見られ続けると役割になる。
役割は求められ続けると人格に近づく。
人格に近づいた役割を脱ぐ時、人は少し皮膚を剥がされる。
たぶん、私はそれを恐れている。
放課後、帰りの馬車に乗る前。
ミーナが迎えに来ていた。
「お嬢様」
「何?」
「今日は、お疲れのようですね」
「少しだけ」
「白百合会のことでしょうか」
「ええ」
私は馬車の前で立ち止まった。
ミーナは、以前より私の顔をよく見るようになった。
ただ怯えて従う侍女ではなくなっている。
それは良いことだ。
やはり少し寂しい。
もう、この感覚にも慣れてきた。
嫌な慣れだ。
「ミーナ」
「はい」
「あなたは、私が変わってから寂しいことはありますか」
ミーナは驚いた顔をした。
「寂しい、ですか?」
「ええ」
彼女は少し考えた。
「……あります」
意外だった。
胸が少し痛む。
「以前のお嬢様は怖かったです。でも、とても分かりやすかったのです」
「最悪ですね」
「はい」
そこで頷くのか。
「今のお嬢様は、お優しくなりました。でも、時々、とても遠くを見ているように見えます」
「遠く?」
「はい。私たちを見てくださっているのに、同時に、何か別のものを見ているような」
前世。
ゲーム。
破滅フラグ。
原作ヒロイン。
役割。
物語。
私は確かに、この世界を見ながら、別の画面も見ている。
ミーナはそれを知らない。
でも、感じている。
この子は、思ったより鋭い。
「寂しいです」
ミーナは言った。
「でも、今のお嬢様のほうが、私は好きです」
胸が、変なふうに締まった。
「……そう」
「はい」
「ありがとう」
ミーナは少し赤くなった。
「それに」
「それに?」
「以前のお嬢様は、私の淹れた紅茶を褒めてくださいませんでした」
「それは本当にごめんなさい」
「今のお嬢様は褒めてくださいます」
「ええ」
「なので、私は今のお嬢様のほうが好きです」
現金だ。
だが、それでいい。
人間の好意なんて、案外そういう小さなところに宿る。高尚な理念より、紅茶を褒める一言のほうが人を救う日もある。人類、単純なのか複雑なのかはっきりしてほしい。
その夜。
王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイがまた手紙を読んでいた。
白百合会のことば箱。
匿名の言葉。
エリシアが「寂しいまま離れる練習をしよう」と言ったこと。
レオンハルトが記録を控えると告げたこと。
アルヴィンが出席を控えると宣言したこと。
セシルが許さなくていいと言ったこと。
情報は、断片的だった。
だが、断片ほど物語にしやすい。
隙間を想像で埋められるからだ。
ミリアは机に向かい、日記を開いた。
『白百合の君は、周囲の人々を変えている。
王太子は彼女の前で謙虚になり、宰相候補は記録のあり方を改め、侯爵令嬢は己の罪を見つめるようになった。
彼女は中心に立つことを拒む。
しかし、拒むほどに中心となる。
これは、真の導き手の証ではないだろうか。』
彼女はペンを止める。
うっとりと笑う。
「私も早く、お会いしたい」
その声には、恋に似た熱があった。
だが恋ではない。
もっと厄介なものだ。
物語への欲望。
誰かを理解するのではなく、誰かを美しい筋書きに収めたい欲望。
ミリアは次の行を書いた。
『もし彼女が、自分は救済者ではないと言うなら、私はそれも含めて記録しよう。
救済者は、いつも自分が救済者であることを拒むものだから。』
最悪の解釈が、また一つ生まれた。
拒否すら証拠にされる。
否定すればするほど、肯定される。
信仰というものは、論理の皮をかぶった罠である。
ミリアは日記を閉じ、胸に抱いた。
「エリシア様。あなたの物語を、私はきっと見失いません」
見失っている。
すでに。
だが、その誤読はまだ、私のところには届かない。
言葉は歩く。
そして時々、こちらが知らないうちに、他人の中で檻になる。




