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第7話 ことば箱、だいたい厄介なものを吐く

 匿名発言箱は、翌日の昼に設置された。


 正式名称は「ことば箱」。


 場所は北棟サロン前の小机。


 白い布を敷き、その上に小さな木箱を置く。側面にはクラリスの丁寧な字で、こう書かれていた。


『名前を書けない言葉を入れてください。

 ただし、誰かを傷つけるための刃にはしないでください。』


 良い文だ。


 良い文なのだが、私は箱を見た瞬間に嫌な予感がした。


 匿名。


 箱。


 言葉。


 この三つを組み合わせると、人類はだいたいろくなことをしない。


 前世でいうところの目安箱、投書箱、匿名掲示板、質問箱。名前を隠した途端、人間は急に自分の中の地下室を換気し始める。換気だけならいいが、たまに有毒ガスが出る。困った生き物である。


「本当に設置するのですね」


 私は箱の前で言った。


 リリアナは頷いた。


「はい」


 顔は緊張している。


 だが、逃げるつもりはなさそうだった。


「名乗れない人も、言葉を出せるようにしたいので」


「出した言葉の扱いが難しいわ」


「分かっています」


「本当に?」


 リリアナは少し困った顔で笑った。


「分かっていないかもしれません。でも、分からないから、会で扱います」


 また強くなった。


 この子は、怯えながらちゃんと進む。


 最初に壁際で震えていた男爵令嬢は、もういないわけではない。


 まだいる。


 だが、その隣に、代表として立つリリアナが生まれつつある。


 人間は変わるとき、過去の自分を捨てるのではなく、増えるのかもしれない。


 面倒だ。


 だが少し、よい。


 クラリスが箱の横に説明紙を貼る。


 マチルダは投函された紙を保管するための封筒を用意している。


 エステルは腕を組み、少し厳しい顔で周囲を見ている。


 セシルは扇を片手に、いかにも興味なさそうな顔をしているが、実際には一番箱を見ている。


 レオンハルトは少し離れた柱のそば。


 記録係でもないのに記録している。


 もはや生態である。


「レオンハルト様」


「はい」


「匿名箱まで記録するおつもりですか」


「運用の観察です」


「匿名性は守られるべきでは?」


「誰が入れたかは記録していません」


「では何を」


「設置時刻、人の流れ、投函数、投函前後の表情変化」


「気持ち悪いですね」


「よく言われます」


「直す気は?」


「努力中です」


 彼は淡々と言う。


 努力中という言葉の便利さよ。


 前世でも「検討します」「善処します」「努力します」はだいたい何もしない時の布だった。人間は言葉で現実に毛布をかけるのがうまい。


 昼休みの間、ことば箱の前には何人かの令嬢が立ち止まった。


 見て、通り過ぎる。


 戻ってくる。


 紙を持っているのに入れない。


 友人と小声で話す。


 結局、入れる。


 入れたあと、逃げるように去る。


 箱はただ置かれているだけなのに、その周囲には妙な重力があった。


 名前を書けない言葉。


 それは、たぶん名前を書けない人間の一部だ。


 箱に入れる時、人は自分の何かを切り取っている。


 軽く扱うべきではない。


 だが、重く扱いすぎても潰れる。


 人の言葉の重さというものは、本当に厄介だ。羽のように軽く投げられるくせに、刺さると石より重い。


 放課後。


 第三回茶話会の前に、ことば箱が開けられた。


 北棟サロンには、三十四人の令嬢が集まっていた。


 増えている。


 また増えている。


 三十四人。


 もはや小さな学年集会である。


 そろそろ教師が本格的に関与しないとまずい。いや、関与するとまた権威が乗る。何をしても面倒が増える。組織とは、問題を解決するために別の問題を生成する装置なのかもしれない。


 前方の机に、ことば箱が置かれている。


 リリアナが箱を開けた。


 中には、紙片が十七枚。


 初日にしては多い。


 クラリスが一枚ずつ取り出し、マチルダが番号を振る。


 レオンハルトの提案で、名前や筆跡が見えすぎないよう、読み上げ前に一度紙を裏返して番号だけ付けることになっていた。


 あの男、こういうところでは役に立つ。


 腹立たしいが。


「では、読み上げます」


 リリアナの声は少し緊張していた。


 一枚目。


『私は白百合会に入りたい。でも、友人が上級貴族の方々を怖がっていて、入ると裏切り者と思われそうで怖いです。』


 ふむ。


 まともだ。


 二枚目。


『兄に、白百合会は男嫌いの集まりなのかと聞かれました。違うと答えたかったけれど、うまく言えませんでした。』


 出た。


 典型的な誤読である。


 女性が集まって自分たちの困りごとを話し始めると、すぐ「男嫌いか」と言われる。前世でも散々見た。人類、他人の自立を自分への攻撃と誤読しがち。自意識が肥大したクラゲである。


 三枚目。


『私は、エリシア様に一度でいいから名前を呼ばれたいです。』


 私は無言で顔を覆った。


 会場の空気が変な方向に揺れた。


 クラリスが真剣な顔で記録しようとしている。


「それは記録しなくていい」


「匿名の声ですので」


「これは会の議題ではありません」


「ですが、名前を呼ばれたいという承認欲求の問題として」


「分類しないで」


 レオンハルトが小さく言った。


「承認欲求、対象集中型」


「あなたも分類しないで」


 リリアナが少し赤い顔で咳払いした。


「これは、個別のお願いとして扱います」


「扱わなくていいわ」


 四枚目。


『白百合会は正しいことを言っていると思います。でも、白百合会に入っている子たちが、最近少し誇らしげに見えて苦手です。』


 部屋が静まった。


 来た。


 これは大事だ。


 そして痛い。


 白百合会の参加者たちが、互いに顔を見合わせる。


 エステルが口を開いた。


「分かります」


 全員が彼女を見る。


「私たちは、最近少し誇らしくなっていたと思います」


 彼女は淡々と言った。


「少なくとも私はそうです。自分たちは声を上げている。まだ入っていない子たちは、怖がっているだけ。そう思いかけていました」


 マチルダが頷く。


「私も、少しありました。会計として役目をいただいて、役に立てている気がして、それが嬉しくて」


 クラリスも小さく手を上げる。


「私も……記録を任されていることが、とても嬉しいです。だから、記録される側ではなく、記録する側にいることに、少し誇りを持っていました」


 リリアナは紙を見つめた。


「私もです」


 声が小さい。


「代表と呼ばれるようになって、怖いけれど、嬉しかったです。前よりも、誰かが私の話を聞いてくれるようになって」


 彼女は少しだけ唇を噛んだ。


「その嬉しさが、誰かには誇らしげに見えたのかもしれません」


 良い。


 痛いが、良い。


 白百合会は、自分たちが新しい上位者になる可能性を、少なくとも見ようとしている。


 セシルが扇を閉じた。


「誇りを持つこと自体は悪ではありませんわ」


 彼女が言うと、数人がそちらを見る。


「問題は、その誇りを使って他人を見下すことです」


 そこで彼女は、少し笑った。


「まあ、私が言うと説得力がありすぎて嫌ですけれど」


 何人かが笑った。


 セシルも少しだけ肩の力を抜く。


「白百合会に入っているから正しい。入っていないから遅れている。そう思った瞬間、私たちは以前の私と同じ場所に立ちます」


 以前の私。


 彼女はそう言った。


 それは自分の過去を、会の警告として差し出す言葉だった。


 勇気がいる。


 そして、少し痛々しい。


 私は黙って聞いていた。


 出番はない。


 出番がないことを、今日は少しだけ喜べた。


 五枚目。


『白百合会に入った友人が、最近私のことを「まだ自分の言葉を持てていない」と言いました。悲しかったです。』


 空気が、さらに重くなった。


 リリアナの顔が青くなる。


 クラリスのペンが止まる。


 エステルが眉をひそめた。


 これは、もう具体的な被害だ。


 「自分の言葉を持つ」という白百合会の理念が、他者を測る物差しになっている。


 理念は、すぐ物差しになる。


 物差しになると、人を叩ける。


 人類は本当に、棒状のものを持つとすぐ殴る。


「これは」


 リリアナは慎重に言った。


「白百合会の言葉が、誰かを傷つけた例です」


 エステルが頷く。


「理念の使い方を決める必要があります」


「使い方」


「はい。自分の言葉を持つ、というのは、他人にあなたは持てていないと言うための言葉ではない、と明記すべきです」


 マチルダが紙に書く。


「会の心得に入れますか」


 クラリスが言う。


「心得……」


 また文書が増える。


 だが、必要かもしれない。


 いや、文書化すれば安全というわけではない。


 しかし、言葉を使うなら、その扱い方も言葉にしておく必要がある。


 面倒だ。


 言葉は、言葉でしか手入れできない。火を火で消すようなものだ。人間はもう少し扱いやすい道具を発明するべきだった。


 六枚目。


『セシル様が白百合会にいるのが怖いです。昔、私の友人が泣かされました。謝ったら終わりなのですか。』


 部屋が凍った。


 セシルの顔から血の気が引いた。


 この紙は、重い。


 匿名だからこそ、出た言葉だ。


 セシルは何も言わなかった。


 扇を閉じた手が、白くなるほど力を込めている。


 リリアナも言葉に詰まる。


 私は、喉が動きかけた。


 言うな。


 これはセシルの問題だ。


 だが、彼女を守りたいと思った。


 同時に、この匿名の声も守らなければならないと思った。


 どちらも正しい。


 どちらも痛い。


 こういう時、簡単な正解はない。


 人類はよく「話し合えば分かる」と言うが、話し合った結果、分からないことがはっきりする場合もある。そういう面倒な現実を、なぜか標語は省略する。


 セシルが、ゆっくり立ち上がった。


「終わりではありませんわ」


 声は震えていなかった。


 だが、硬かった。


「私は謝っておりませんもの」


 部屋がざわめく。


 彼女は続けた。


「エリシア様には、少し話しました。リリアナ様にも、入会時に自分が醜いことを言いました。でも、私が傷つけた方々に、一人一人謝ったわけではありません」


 セシルは紙を見つめた。


「謝ったら終わりなのか、と問われるなら、答えは、終わりではない、ですわ。謝っても終わりません。謝らなければ、なお終わりません」


 彼女は深く息を吸う。


「私は、白百合会にいる資格があるのか、正直分かりません」


 その言葉に、リリアナが顔を上げる。


「でも、ここにいたいと思っています。ここで、自分が踏んできたものを見たい。見たくありませんけれど、見たいのです」


 セシルは少しだけ笑った。


 苦い笑み。


「だから、この紙を書いた方には、怖いままで構わないと伝えたいです。私を許さなくていい。私がいるのが嫌なら、その言葉も箱に入れてほしい」


 クラリスが泣きそうな顔で記録している。


 セシルは最後に、こう言った。


「私は、終わらせに来たのではありません。始めに来ました。自分がしたことを見ることを」


 沈黙。


 誰もすぐには言えなかった。


 リリアナが立ち上がる。


「セシル様」


「何ですの」


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありませんわ」


「はい。でも、ありがとうございます」


 セシルは顔を赤くした。


「あなた、本当に腹立たしいくらい素直ですわね」


「すみません」


「謝らなくていいと何度言えば」


 少しだけ空気が緩んだ。


 私は息を吐いた。


 よく言った。


 そう言いたかった。


 だが、言わなかった。


 代わりに、ただセシルを見た。


 彼女は一瞬こちらを見て、ふんと顔を逸らした。


 伝わったらしい。


 腹の立つほど勘がいい。


 七枚目。


『王太子殿下が白百合会を見ているのはなぜですか。男子生徒がいると話しにくいです。』


 今度はアルヴィンが固まった。


 部屋中の視線が、扉近くの王太子に向かう。


 私は思わず笑いそうになった。


 耐えた。


 王太子、匿名箱に刺される。


 なかなかよい光景である。権力者には定期的にこういう針が必要だ。空気が抜ける。


 アルヴィンは少し気まずそうに前へ出た。


「もっともな意見だ」


 彼は言った。


 ちゃんと認めた。


「私は学生会として状況を確認しているつもりだった。しかし、私がいることで話しにくい者がいるなら、それは考えるべきだ」


 リリアナが緊張した顔で聞いている。


 アルヴィンは続けた。


「今後、白百合会から要請があった場合を除き、私は会合には出席しない。必要な連絡は、代表から学生会に文書で出してほしい」


 潔い。


 少し驚いた。


 以前のアルヴィンなら、「正しい監督」を理由に残ったかもしれない。


 だが今は、自分が圧になっている可能性を認めた。


 彼は変わっている。


 私なしでも。


 胸の奥が、また少し痛い。


 だが、今度は痛みだけではなかった。


 誇らしさ。


 いや、これは危険な言葉か。


 人の成長を自分の手柄のように感じるのは、かなり危ない。


 私はその感覚をそっと脇に置く。


 置いたつもりだ。


 たぶん。


 八枚目。


『レオンハルト様の記録が怖いです。』


 レオンハルトが、完全に止まった。


 今度は本当に止まった。


 ペン先が紙の上で固まっている。


 私は口元を押さえた。


 笑ってはいけない。


 だが、これは仕方ない。


 正直、私も怖い。


 リリアナが困った顔でレオンハルトを見る。


「レオンハルト様……」


 彼は眼鏡を押し上げた。


「妥当な指摘です」


 声はいつも通りだ。


 しかし、少し硬い。


「私の記録行為は、対象者に監視されている感覚を与える可能性があります」


「可能性ではなく、実際に怖がられていますわね」


 セシルが容赦なく言う。


「その通りです」


 レオンハルトは認めた。


「今後、白百合会の会合を記録する場合は、会から正式に依頼された範囲に限ります。私的観察は控えます」


 私は思わず彼を見た。


 控える。


 この男が。


 天変地異か。


「エリシア嬢」


「はい」


「今、失礼なことを考えましたね」


「記録しないなら証拠はありません」


「表情に出ています」


「それは困りました」


 部屋に小さな笑いが起きる。


 レオンハルトは少しだけ目を伏せた。


 彼はたぶん、笑われることに慣れていない。


 嘲笑ではなく、軽い笑い。


 その中にいる自分に、慣れていない。


 記録する側だった彼が、記録される側、見られる側に立たされている。


 それはきっと不快だ。


 でも必要だ。


「レオンハルト様」


 クラリスが手を上げた。


「もしよろしければ、記録方法について、私に教えていただけませんか」


 レオンハルトが彼女を見る。


「あなたに?」


「はい。ただし、白百合会の記録として必要な範囲で。人を怖がらせない記録の仕方を学びたいです」


 彼は少し黙った。


 それから頷いた。


「分かりました」


 クラリスの顔が明るくなる。


 まずい。


 書記令嬢と管理貴公子の師弟関係が始まろうとしている。


 紙が増える。


 確実に増える。


 だが、悪くはない。


 たぶん。


 九枚目。


『白百合会ができてから、エリシア様が遠くなった気がします。寂しいです。』


 空気が、妙に柔らかく重くなった。


 私は固まった。


 誰だ。


 いや、誰でもいい。


 この言葉は、私に刺さった。


 白百合会が私から離れようとするほど、私も距離を取ろうとしている。


 それを、誰かが寂しいと感じている。


 そして私は、その寂しさに反応してしまう。


 嬉しい。


 最低だ。


 寂しがられるのが嬉しい。


 誰かが私を必要としている証拠のように感じる。


 私は本当に、救いがたい。


 リリアナが紙を持ったまま、私を見る。


 クラリスも。


 マチルダも。


 エステルも。


 セシルも。


 全員が、何かを待っている。


 これは、答えるべきか。


 でも、私が答えると。


 いや。


 これは私宛ての言葉だ。


 逃げてはいけない。


 私はゆっくり立ち上がった。


「私も寂しいです」


 部屋が静まる。


 自分の声が、思ったより低く聞こえた。


「白百合会が私から離れて、自分たちの言葉を持ち始めることは、とても良いことです。私はそれを望んでいます」


 私は少し息を吸う。


「でも、望んでいることと、寂しくないことは別です」


 リリアナの目が揺れる。


 クラリスがペンを持ったまま、書くのをためらっている。


 私は続けた。


「私は、皆様に慕われるのが嬉しい。頼られるのが嬉しい。けれど、その嬉しさに甘えれば、私は皆様を私のそばに置きたくなるかもしれない」


 言葉が重い。


 自分で言っていて、胸が苦しい。


「だから、私は少し離れます」


 部屋の空気が揺れた。


「見捨てるためではありません。皆様が、私の顔色ではなく、互いの顔と、自分自身の言葉を見るためです」


 私は紙を見る。


「寂しいと言ってくれた方。ありがとうございます。私も寂しいです。だから、寂しいまま、少し離れる練習をしましょう」


 言った。


 言ってしまった。


 これは語録になる。


 だが、これは必要だったと思う。


 たぶん。


 クラリスがゆっくりペンを動かした。


 今回は止めなかった。


 十枚目以降も読まれた。


 内容はさまざまだった。


『白百合会の会費が高くならないか不安です。』


 これはマチルダが即座に「全会計を公開します」と答えた。


『婚約者に白百合会をやめろと言われたらどうすればいいですか。』


 これは大きな議題として次回に回された。


『リリアナ様の話し方が好きです。』


 リリアナが真っ赤になった。


『セシル様が怖いけど、今日少し格好よかったです。』


 セシルが扇で顔を隠した。


『クラリス様の記録を読みたいです。』


 クラリスが嬉しさと恐怖で震えた。


『マチルダ様に帳簿の読み方を教えてほしいです。』


 マチルダが目を丸くしたあと、静かに頷いた。


 箱は、厄介だった。


 だが、必要だった。


 名前を書けない言葉は、会の隙間から漏れていたものだった。


 その隙間を見ないまま進めば、白百合会はきっと自分たちの正しさに酔った。


 ことば箱は、それを少し冷ました。


 匿名の声は危険だ。


 でも、名乗れる者の声だけで組織を作るのも危険だ。


 名乗れる強さを持つ者だけが、発言権を得るからだ。


 人間社会は、何を選んでも別の危険が出てくる。まるで湿った部屋のカビである。一箇所拭くと別の壁に出る。


 茶話会の最後、リリアナは言った。


「今日、ことば箱から出た言葉は、嬉しいものも、怖いものも、痛いものもありました」


 彼女は箱を見る。


「でも、どれも、なかったことにはしたくありません」


 リリアナは参加者たちを見回した。


「ただし、箱に入った言葉がすべて正しいわけでもありません。匿名だから守られる言葉もあります。でも、匿名だからこそ、人を傷つける言葉も出ます」


 彼女は少しだけ、私を見た。


 すぐに目を戻した。


「だから、私たちは言葉をそのまま信じるのではなく、その言葉がどこから来たのか、何を怖がっているのか、何を欲しがっているのかを考えたいです」


 強くなった。


 本当に。


 私は少し泣きそうだった。


 泣かない。


 公爵令嬢だから。


 いや、また意地だ。


 その日の会合は、予定より長引いた。


 終わる頃には夕方になっていた。


 サロンの窓から差し込む光は、薄い金色だった。


 令嬢たちが帰っていく。


 リリアナは最後まで残り、ことば箱を片付けていた。


 私は手伝おうとして、一瞬止まった。


 手伝うべきか。


 見守るべきか。


 またそんなことで悩む。


 面倒くさい。


 自立を尊重することと、ただ手伝わないことは違う。


 私は箱を持った。


「手伝います」


 リリアナが驚いた顔をした。


「よろしいのですか?」


「ええ。代表の仕事を奪うつもりはありません。ただ、箱を運ぶ手は二つより四つのほうが便利です」


 リリアナは少し笑った。


「ありがとうございます」


 私たちは二人で箱を棚にしまった。


 ただそれだけ。


 だが、少し穏やかな時間だった。


「エリシア様」


「何?」


「私、今日、少しだけエリシア様から離れられた気がしました」


「ええ」


「でも、こうして一緒に箱を運んでいると、離れることと、遠ざかることは違うのかもしれないと思いました」


 私は彼女を見る。


 リリアナは恥ずかしそうに笑った。


「うまく言えませんけれど」


「いいえ」


 私は微笑んだ。


「とてもよく分かります」


 離れることと、遠ざかることは違う。


 よい言葉だ。


 彼女の言葉だ。


 私はそれを胸の中にしまった。


 その夜。


 クラリスの議事録には、こう書かれた。


『ことば箱、初回開封。

 匿名の言葉は、会の外から来るものだと思っていた。

 でも実際には、会の中にある言いにくさも入っていた。

 怖かった。

 嬉しい言葉もあった。

 痛い言葉もあった。

 セシル様は、謝ったら終わりではないと言った。

 アルヴィン殿下は、出席を控えると言った。

 レオンハルト様は、記録が怖いと言われて、記録の仕方を変えると言った。

 エリシア様は、寂しいまま離れる練習をしようと言った。

 リリアナ代表は、言葉をそのまま信じるのではなく、その言葉が何を怖がり、何を欲しがっているか考えたいと言った。

 今日、私は初めて、記録することが怖いと思った。

 でも、怖い記録ほど、たぶん必要なのだと思う。』


 私はそれを読んで、静かに頷いた。


 そして、最後の余白にクラリス自身が書いた一文を見つけた。


『いつか、エリシア様のお言葉ではなく、私たちの言葉だけでこのノートが埋まる日が来るかもしれない。

 その時、私はこのノートの最初のページを、どう読むのだろう。』


 私は、何も言えなかった。


 ページを戻す。


 一ページ目には、まだ残っている。


『白百合の君のお言葉』


 その文字は、以前ほど眩しく見えなかった。


 少し古い。


 少し恥ずかしい。


 でも、確かに始まりだった。


 始まりは、いつも少し恥ずかしい。


 人間の成長記録など、だいたい黒歴史と紙一重である。


 翌朝。


 学園の廊下を歩いていると、レオンハルトが横に並んだ。


「エリシア嬢」


「何ですか」


「記録に関して、相談があります」


「あなたが相談」


「はい」


「珍しいですね」


「必要性を認めました」


 少し不機嫌そうだった。


 その顔が少し面白い。


「クラリス嬢に記録方法を教えるにあたり、私の既存の方法では問題があります」


「監視のように見えるから?」


「はい」


「よく認めましたね」


「匿名の指摘は有効でした」


 彼は淡々と言う。


 だが、その声には少しだけ悔しさがあった。


「人を記録する時、私は対象を安定させようとします。矛盾を減らし、分類し、予測しやすくする」


「でしょうね」


「しかし、昨日のことば箱を見て分かりました。人間は矛盾したまま記録される必要がある」


 私は彼を見た。


「それは、かなり大きな気づきでは?」


「不快です」


「でしょうね」


「矛盾したまま残すと、整理できません」


「人間なので」


「その言い方も不快です」


「便利なので」


 彼はため息をついた。


 レオンハルトがため息をついた。


 珍しい。


 記録したい。


 いや、やめておこう。人の悪癖を真似るとろくなことがない。


「つまり、あなたはクラリスさんに、人間を分類する記録ではなく、人間の矛盾を残す記録を教えたいのですね」


「そうです」


「良いと思います」


「方法が分かりません」


 素直だ。


 この男が「分かりません」と言った。


 明日は槍が降るかもしれない。いや、異世界だから本当に降りかねない。予言めいたことは控えよう。


「では、クラリスさんと一緒に考えればよろしいのでは?」


 彼は私を見る。


「私が教えるのではなく?」


「ええ」


「非効率です」


「最近、それを少し受け入れ始めたのでは?」


 レオンハルトは沈黙した。


 そして、不本意そうに頷いた。


「……分かりました」


「よろしい」


「あなたは本当に、私の管理能力を削りますね」


「あなたが人間になる手助けをしているのです」


「私は元から人間です」


「帳簿寄りでした」


「失礼です」


「事実です」


 彼は少しだけ笑った。


 いや、たぶん笑った。


 口元が一ミリ程度動いた。


 分かりにくい。


 その日の午後。


 白百合会の噂は、また変化していた。


「白百合会は、参加しない人を敵にしないらしい」


「匿名の意見も扱うんだって」


「セシル様、自分を怖いと言われても怒らなかったらしい」


「王太子殿下、出席を控えるって」


「レオンハルト様も記録を控えるとか」


 噂は、少しずつ柔らかくなっていた。


 だが、同時に別の噂も聞こえた。


「白百合会に入ると、自分の醜さを告白させられるらしい」


「怖い会ね」


「でも、少し興味あるわ」


 やめろ。


 興味本位で来るな。


 自分の醜さを告白する会ではない。


 いや、している気もする。


 人間の活動というものは、外から見るとだいたい変な宗教に見える。特に真面目にやっているほど怪しい。困ったことだ。


 私は廊下の窓に映る自分を見た。


 白百合の君。


 お姉様。


 救済者。


 隠れた聖女。


 いろんな呼び名が、私の知らないところで増えている気がする。


 私は、そのどれでもない。


 そう言い切りたい。


 だが、それらの呼び名に、少しずつ自分が引っ張られているのも事実だ。


 演じていたはずのものが、私の中に根を下ろし始めている。


 ネカマプレイ。


 軽い言葉だった。


 だが、演技は見られ続けると役割になる。


 役割は求められ続けると人格に近づく。


 人格に近づいた役割を脱ぐ時、人は少し皮膚を剥がされる。


 たぶん、私はそれを恐れている。


 放課後、帰りの馬車に乗る前。


 ミーナが迎えに来ていた。


「お嬢様」


「何?」


「今日は、お疲れのようですね」


「少しだけ」


「白百合会のことでしょうか」


「ええ」


 私は馬車の前で立ち止まった。


 ミーナは、以前より私の顔をよく見るようになった。


 ただ怯えて従う侍女ではなくなっている。


 それは良いことだ。


 やはり少し寂しい。


 もう、この感覚にも慣れてきた。


 嫌な慣れだ。


「ミーナ」


「はい」


「あなたは、私が変わってから寂しいことはありますか」


 ミーナは驚いた顔をした。


「寂しい、ですか?」


「ええ」


 彼女は少し考えた。


「……あります」


 意外だった。


 胸が少し痛む。


「以前のお嬢様は怖かったです。でも、とても分かりやすかったのです」


「最悪ですね」


「はい」


 そこで頷くのか。


「今のお嬢様は、お優しくなりました。でも、時々、とても遠くを見ているように見えます」


「遠く?」


「はい。私たちを見てくださっているのに、同時に、何か別のものを見ているような」


 前世。


 ゲーム。


 破滅フラグ。


 原作ヒロイン。


 役割。


 物語。


 私は確かに、この世界を見ながら、別の画面も見ている。


 ミーナはそれを知らない。


 でも、感じている。


 この子は、思ったより鋭い。


「寂しいです」


 ミーナは言った。


「でも、今のお嬢様のほうが、私は好きです」


 胸が、変なふうに締まった。


「……そう」


「はい」


「ありがとう」


 ミーナは少し赤くなった。


「それに」


「それに?」


「以前のお嬢様は、私の淹れた紅茶を褒めてくださいませんでした」


「それは本当にごめんなさい」


「今のお嬢様は褒めてくださいます」


「ええ」


「なので、私は今のお嬢様のほうが好きです」


 現金だ。


 だが、それでいい。


 人間の好意なんて、案外そういう小さなところに宿る。高尚な理念より、紅茶を褒める一言のほうが人を救う日もある。人類、単純なのか複雑なのかはっきりしてほしい。


 その夜。


 王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイがまた手紙を読んでいた。


 白百合会のことば箱。


 匿名の言葉。


 エリシアが「寂しいまま離れる練習をしよう」と言ったこと。


 レオンハルトが記録を控えると告げたこと。


 アルヴィンが出席を控えると宣言したこと。


 セシルが許さなくていいと言ったこと。


 情報は、断片的だった。


 だが、断片ほど物語にしやすい。


 隙間を想像で埋められるからだ。


 ミリアは机に向かい、日記を開いた。


『白百合の君は、周囲の人々を変えている。

 王太子は彼女の前で謙虚になり、宰相候補は記録のあり方を改め、侯爵令嬢は己の罪を見つめるようになった。

 彼女は中心に立つことを拒む。

 しかし、拒むほどに中心となる。

 これは、真の導き手の証ではないだろうか。』


 彼女はペンを止める。


 うっとりと笑う。


「私も早く、お会いしたい」


 その声には、恋に似た熱があった。


 だが恋ではない。


 もっと厄介なものだ。


 物語への欲望。


 誰かを理解するのではなく、誰かを美しい筋書きに収めたい欲望。


 ミリアは次の行を書いた。


『もし彼女が、自分は救済者ではないと言うなら、私はそれも含めて記録しよう。

 救済者は、いつも自分が救済者であることを拒むものだから。』


 最悪の解釈が、また一つ生まれた。


 拒否すら証拠にされる。


 否定すればするほど、肯定される。


 信仰というものは、論理の皮をかぶった罠である。


 ミリアは日記を閉じ、胸に抱いた。


「エリシア様。あなたの物語を、私はきっと見失いません」


 見失っている。


 すでに。


 だが、その誤読はまだ、私のところには届かない。


 言葉は歩く。


 そして時々、こちらが知らないうちに、他人の中で檻になる。


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