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第6話 白百合会、白百合を否定する

 臨時茶話会は、その日の昼休みに開かれた。


 場所は北棟サロン。


 昨日まで紅茶と焼き菓子の香りがしていた部屋は、今日は妙に冷えていた。


 原因は分かっている。


 掲示板に貼られていた紙。


『白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす』


 あれは、白百合会の言葉ではない。


 だが、白百合会の名を使っていた。


 それだけで十分だった。


 人間は、誰が言ったかよりも、どの看板の下に貼られていたかで判断する。実に雑である。だが、その雑さで評判も派閥も戦争も動く。文明、根本設計から不安すぎる。


 サロンには、白百合会の参加者がほぼ全員集まっていた。


 リリアナ。


 クラリス。


 マチルダ。


 エステル。


 セシル。


 その他、下級貴族令嬢たち。


 そして後方に、私。


 その隣にレオンハルト。


 扉近くにアルヴィン。


 王太子は、やはり来た。


 噂を聞いて、学生会として状況確認に来たらしい。


 便利な名目である。


 だが、今日のアルヴィンは少し緊張していた。


 自分が出すぎれば、白百合会が王太子派の団体に見える。


 それが分かっているのだろう。


 だから扉近くに立ち、前には出ない。


 怒る練習の次は、出しゃばらない練習である。


 王太子教育、妙な方向に進んでいる。


「では」


 リリアナが、中央に立った。


 顔色は悪い。


 手も震えている。


 だが、彼女は立っている。


「臨時茶話会を始めます」


 誰も拍手しなかった。


 空気が重すぎた。


 クラリスは書記席でノートを開いている。


 マチルダは別紙を用意している。


 レオンハルトは手元の紙に何かを書き留めていた。


 私は黙っていた。


 黙る。


 今日こそ、黙る。


 私が前に出れば、この会は一瞬で私のものになる。


 公爵令嬢。


 白百合の君。


 悪役から悔い改めた救済者。


 そんな都合のいい役を、周囲は私に着せたがっている。


 私も、少しだけ着たがっている。


 それが一番まずい。


「今朝、掲示板に貼られていた紙について話します」


 リリアナは言った。


「白百合会に参加しない令嬢を、弱き者を踏む側と見なす。そう書かれていました」


 令嬢たちの間にざわめきが起こる。


 怒り。


 不安。


 羞恥。


 疑念。


 この中の誰かが貼ったのか。

 外部の誰かが貼ったのか。

 上級貴族側の罠なのか。

 それとも、白百合会を支持する者の暴走なのか。


 分からない。


 分からないから、不安が人の顔を探し始める。


 不安は犯人を欲しがる。


 犯人がいれば、安心できるからだ。


 人類は混沌より悪人を好む。悪人は殴れるが、混沌は殴れないので。まったく雑な精神構造である。


「まず、確認したいです」


 リリアナは紙を持ち上げた。


 貼り紙は、剥がされたあとも彼女の手で震えている。


「この言葉は、白百合会の言葉ではありません」


 何人かが頷いた。


 だが、エステルが手を上げた。


「言葉ではなくとも、そう思っている者はいるかもしれません」


 部屋が静まる。


 鋭い。


 嫌なところを突く。


 しかし必要な問いだ。


 リリアナは少し息を呑んだ。


「そう、ですね」


 エステルは続ける。


「貼った者が外部の人間だとしても、この文が広がったのは、白百合会がすでに正しい側に見え始めているからです」


 正しい側。


 その言葉が、部屋の空気を刺した。


 白百合会は、下級令嬢の互助会だった。


 自分の言葉を持つための場だった。


 困りごとを記録する場だった。


 だが、そこに「正しさ」が乗った。


 弱い者を踏むな。

 自分の言葉を持て。

 身分で人を軽んじるな。


 どれも間違っていない。


 間違っていないから危ない。


 間違った言葉より、正しい言葉のほうが、人を殴る道具になりやすい。正しさは棍棒に向いている。人類はすぐ振り回す。やめろ。


「私は」


 エステルは言った。


「この貼り紙を見て、嫌だと思いました。でも同時に、少しだけ、気持ちが分かってしまいました」


 何人かが顔を上げる。


「これまで踏まれてきた側が、自分たちの側に来ない者を責めたくなる気持ちです」


 部屋が重くなる。


 リリアナは黙った。


 クラリスのペンがゆっくり動いている。


 セシルは腕を組み、目を伏せている。


 彼女には、痛い言葉だろう。


 踏む側だったから。


 そして、踏む側に回る快感を知っているから。


「エステルさん」


 リリアナが口を開いた。


「あなたは、その気持ちをどうしたらいいと思いますか」


 よい返しだった。


 裁かない。


 封じない。


 問い返す。


 エステルは少し驚いた顔をした。


「……分かりません」


「私も、分かりません」


 リリアナは言った。


「でも、分からないままにしておくと、たぶん誰かを傷つけます」


 彼女は貼り紙を見た。


「この紙の言葉は、私たちの会に参加していない人を、勝手に敵にしています」


 敵。


 その言葉に、何人かが肩を震わせる。


「私は、それが怖いです」


 リリアナの声は震えている。


「私たちは、誰かに無視されたり、見下されたり、踏まれたりしてきました。だから、自分たちはそうしたくない。そう思っていました。でも、この紙は、私たちも同じことができるのだと教えています」


 セシルが小さく息を吐いた。


 彼女の顔は苦かった。


「踏む側が変わっただけ、ということですわね」


 昨日、彼女が言った言葉だ。


 リリアナは頷いた。


「はい」


「なら、踏まないためにはどうしますの?」


 セシルの声は意地悪ではなかった。


 本当に聞いている。


 彼女自身も知りたいのだ。


 踏む快感を知っている人間が、どうやって踏まないでいるのか。


 リリアナは答えに詰まる。


 部屋が静まる。


 私は口を開きそうになる。


 言える。


 いくらでも言える。


 「正しさを持つ者ほど、自分の足元を疑いなさい」とか。


 「誰かを敵にした瞬間、救いは選別になります」とか。


 「白百合は旗ではなく、花であるべきです」とか。


 うわ、全部言いそう。


 全部それっぽい。


 全部語録化されそう。


 黙れ。


 私は膝の上で手を握った。


 爪が掌に食い込む。


 その時、マチルダが手を上げた。


「仕組みを作るのは、どうでしょう」


 レオンハルトの眉がわずかに動いた。


 仕組み。


 彼の好物である。


 だが、今はマチルダの言葉だ。


「気持ちだけで、踏まないようにするのは難しいと思います」


 マチルダは言った。


「私たちは皆、自分が正しいと思った時ほど、間違いに気づきにくいから」


 よい。


 非常によい。


 私は心の中で頷いた。


 口には出さない。


「だから、白百合会の名前を使った掲示や発言をする時は、一人で決めない。代表、書記、会計、それから参加者から二人。最低五人で確認することにしてはどうでしょう」


 クラリスが書き始める。


「五人確認制……」


「それと」


 マチルダは続けた。


「白百合会に参加していない人を責める言葉は、白百合会として使わない、と規則に書く」


 エステルが言う。


「でも、それでは会の外から攻撃された時に弱くありませんか」


「攻撃には反論します。でも、会に参加していないこと自体を罪にはしない」


 マチルダは少し不安そうに言った。


「そういうことです」


 エステルはしばらく考えた。


「……賛成します」


 少しずつ、頷く者が増える。


 リリアナがほっとした表情をした。


「では、規則案として記録します」


 クラリスが書く。


 レオンハルトが、珍しく何も言わない。


 私は横目で見た。


 彼は少しだけ、満足そうだった。


 自分が仕組みを押しつけたのではなく、会の中から仕組みが出た。


 それが嬉しいのだろう。


 分かりにくいが。


「もう一つ」


 セシルが手を上げた。


 全員がそちらを見る。


 侯爵令嬢の発言は、やはり空気を変える。


 リリアナは少し緊張しながら頷いた。


「どうぞ、セシル様」


「この貼り紙の文面ですが」


 セシルは紙を扇で指した。


「下品ですわ」


 部屋が止まった。


 私は少しだけ目を閉じた。


 出た。


 セシルらしい角度。


「内容以前に、言葉が下品です。白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす。まるで脅迫状ですわ。仮に正しいことを言っていたとしても、これでは品位がありません」


 何人かがぽかんとしている。


 だがセシルは真剣だった。


「誤解なさらないで。私は、上品な言葉なら人を傷つけてもよいとは言いません。むしろ、私たち上級貴族はそれをやってきました。美しい言い回しで相手を刺す。礼儀の形で見下す。微笑みながら排除する」


 彼女の声が少し低くなる。


「私もそうでした」


 部屋が静かになる。


「だからこそ、言葉の品位は大事です。品位とは、相手を黙らせる飾りではなく、自分がどこまで相手を人として扱っているかの形です」


 セシルは少し顔を赤くした。


「……今のは、少しエリシア様のようでしたわね。腹立たしい」


 何人かが小さく笑った。


 空気が少し緩む。


 私は内心で頭を抱えた。


 やめろ。


 私の影響がこんなところに出ている。


 だが、セシルの言葉だった。


 踏む快感を知る彼女が、自分の言葉で「品位」を語った。


 以前なら、品位は人を見下すための道具だった。


 今は、踏みすぎないための手すりになりつつある。


 これは、良い変化だ。


 そして私は、やはり少し嬉しかった。


「では」


 リリアナがまとめる。


「白百合会として、声明を出します」


 声明。


 出た。


 ついに声明である。


 組織化の階段を一段ずつ登っている。次は議長選挙とか会報とか印章とか言い出すのではないか。

「内容は三つ」


 リリアナは指を立てた。


「一つ。今朝の貼り紙は、白百合会のものではないこと」


 クラリスが書く。


「二つ。白百合会に参加しないことは、誰かを踏む側であることを意味しないこと」


 マチルダが頷く。


「三つ。白百合会は、参加の有無にかかわらず、誰かを身分や所属で見下す言葉に反対すること」


 エステルが手を上げた。


「四つ目を加えてください」


「どうぞ」


「もし白百合会の名を使って誰かが他者を傷つけた場合、会はそれを止めること」


 少し強い。


 だが、必要だ。


 リリアナは頷く。


「加えます」


 クラリスが書く。


 そのペン先は、以前のように私の言葉を写しているだけではなかった。


 会の言葉を作っている。


 それが少し眩しい。


 私は目を逸らさなかった。


「声明を誰が出すか」


 レオンハルトが初めて口を開いた。


 全員が見る。


 彼は淡々と続けた。


「エリシア嬢が出せば効果は高い。しかし会の自立性は下がる。王太子殿下が出せば抑止力はあるが、政治的意味が強すぎる。代表一人が出せば責任が集中する。連名が妥当でしょう」


 セシルが言う。


「代表、書記、会計、参加者代表。そして私」


 全員が彼女を見る。


 セシルは扇を開いた。


「何ですの」


 リリアナが驚いたように言う。


「セシル様も?」


「私が入ることで、上級貴族令嬢すべてが敵ではないと示せます。加えて、私が以前踏む側だったことは皆様ご存じでしょう。ならば、私が署名する意味はあります」


 彼女は少しだけ顎を上げた。


「それに、どうせ私はもう半分ほど裏切り者扱いですわ」


 強がっている。


 だが、その強がりは必要な鎧だった。


 リリアナはしばらくセシルを見た。


 そして、深く頷いた。


「お願いします」


「ええ」


 セシルは短く答えた。


 その瞬間、白百合会はまた一歩変わった。


 下級令嬢の会から、身分をまたいだ会へ。


 ただし、それは美しい和解ではない。


 恐怖もある。

 疑いもある。

 過去の加害も消えない。


 それでも、同じ紙に署名する。


 現実の変化など、たぶんその程度の不完全さでしか始まらない。


 美しい物語にするには、汚れが多すぎる。


 だからこそ、少し信用できる。


 声明文は、三十分かけて作られた。


 最初の案はクラリスが書いた。


 それをリリアナが読み、マチルダが分かりにくい表現を直し、エステルが弱すぎる箇所を強め、セシルが下品な表現を削り、レオンハルトが誤解されやすい文を指摘した。


 私は何も言わなかった。


 いや、一度だけ言いそうになった。


 「白百合は誰かを選別する花ではありません」と。


 危なかった。


 口から出かけた瞬間、私は紅茶を飲んだ。


 熱かった。


 舌を少し火傷した。


 だが、語録が一つ減った。


 代償としては軽い。舌には悪いが、歴史には良い。


 完成した声明は、こうだった。


『令嬢相互研鑽会、通称白百合会より。


 本日掲示板に貼られた「白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす」との文書は、当会によるものではありません。


 当会は、参加の有無によって誰かを裁く場ではありません。


 当会は、身分、家格、所属、財産、婚約の有無によって、誰かを軽んじる言葉と振る舞いに反対します。


 また、当会の名を用いて他者を脅し、排除し、見下す行為を認めません。


 私たちは、誰かの上に立つためではなく、それぞれが自分の言葉を持つために集まります。


 令嬢相互研鑽会代表 リリアナ・ベル

 書記 クラリス・メイフィールド

 会計 マチルダ・ロウ

 参加者代表 エステル・クレイン

 参加者代表 セシル・バルディア』


 良い文だった。


 少し硬い。


 少し不器用。


 でも、彼女たちの言葉だった。


 私の言葉ではない。


 それが何よりよかった。


 クラリスがこちらを見た。


「エリシア様」


「何?」


「確認を」


「しません」


 クラリスが少し驚く。


「ですが」


「これは、あなたたちの声明です。私が直せば、私の言葉になります」


 クラリスは紙を見た。


 リリアナも黙っている。


 私は続けた。


「誤字だけは見ます」


 レオンハルトが咳払いした。


「誤字は私が確認しました」


「それはそれで腹が立ちますね」


「ありません」


「でしょうね」


 声明は掲示板に貼られた。


 昼休みの終わり頃。


 多くの生徒が集まっていた。


 リリアナの手は震えていた。


 クラリスが横に立つ。


 マチルダが紙と糊を持つ。


 エステルが周囲を見回す。


 セシルが少し離れて、腕を組んで立っている。


 私はさらに後ろに立った。


 アルヴィンはその反対側。


 レオンハルトは、掲示板から少し離れた柱のそば。


 声明が貼られる。


 ざわめきが起きる。


「白百合会が否定した」


「参加しない者を敵とは見なさないって」


「セシル様の名前がある」


「侯爵家のセシル様が?」


「王太子殿下は?」


「名前がない」


「エリシア様も?」


「ない」


 そう。


 ない。


 私の名前も、アルヴィンの名前も、レオンハルトの名前もない。


 そのことに、私は少し安心した。


 そして、少しだけ胸が痛んだ。


 名前がないことが寂しい。


 なんて面倒くさい心だろう。


 まったく。


 人類の心臓には、自己愛が細い根を張りすぎている。引っこ抜くと出血するので、扱いづらい。


 その時、一人の男子生徒が声を上げた。


「綺麗事だな」


 空気が止まる。


 彼は伯爵家の次男だったはずだ。


 名前は、ギルバート・オーウェン。


 白百合会の噂を面白がっていた一人。


 彼は周囲の男子生徒たちと一緒に笑った。


「自分の言葉を持つ? 令嬢たちが集まって茶を飲みながら不満を言うことがか?」


 リリアナの顔が強張る。


 クラリスがノートを抱きしめる。


 セシルの眉が跳ねる。


 私は前に出そうになった。


 出るな。


 出るな。


 だが、これは侮辱だ。


 白百合会を。


 彼女たちを。


 私は足に力を入れた。


 その時、リリアナが一歩前に出た。


「はい」


 ギルバートが眉を上げる。


「はい?」


「私たちは、茶を飲みながら不満を言っています」


 周囲が静まる。


 リリアナの声は震えていた。


 しかし、続いた。


「でも、今まで不満を言うこともできませんでした。何に困っているか、名前をつけることもできませんでした。だから、まずはそこから始めています」


 ギルバートは少し笑った。


「それで世界が変わると?」


「まだ、変わりません」


 リリアナは言った。


「でも、私たちが何も感じていないことには、もうできません」


 その言葉に、空気が変わった。


 私の言葉ではない。


 リリアナの言葉だ。


 ギルバートは少し苛立ったように笑う。


「随分と強くなったものだな、男爵令嬢風情が」


 その言葉に、セシルが動いた。


 扇を閉じる音が、廊下に響く。


「ギルバート様」


 セシルの声は冷たかった。


「今のお言葉、撤回なさい」


 ギルバートは顔をしかめる。


「セシル嬢。あなたもずいぶん変わられた。下級貴族の味方ですか?」


「いいえ」


 セシルは微笑んだ。


 美しい微笑みだった。


 そして、とても怖い。


「品のない言葉の敵です」


 周囲が息を呑む。


 セシルは続けた。


「男爵令嬢風情、ですか。伯爵家の次男ともあろう方が、家格を笠に着るにしても語彙が粗雑ですわね。もう少し磨いてからおいでになって」


 強い。


 強すぎる。


 そして煽りの質が高い。


 さすが元加害側。武器の扱いがうまい。今はその刃を別方向に向けているだけで、危険物であることに変わりはない。


 ギルバートの顔が赤くなる。


「何だと」


「聞こえませんでしたか? 語彙が粗雑です、と申し上げました」


「君は」


「それとも、内容を撤回なさいますか?」


 セシルは一歩も引かない。


 リリアナが少し慌てた。


「セ、セシル様」


「分かっていますわ」


 セシルは小さく言った。


 そして、深呼吸した。


 怒りを飲み込むように。


「訂正します。ギルバート様、あなたの今の言葉は、私たちが反対すると声明に書いた、身分によって誰かを軽んじる言葉です。白百合会は、それを認めません」


 リリアナの目が見開かれる。


 セシルは続けた。


「撤回を求めます」


 今度は、煽りではなかった。


 会の言葉だった。


 ギルバートは周囲を見た。


 思ったよりも味方が少ないことに気づいたのだろう。


 そこにはアルヴィンもいた。


 ただし王太子は何も言わない。


 見ているだけ。


 それが逆に圧になる。


 王族の沈黙は便利だ。本人が喋らなくても周囲が勝手に意味を読む。権力というものは、本当に面倒くさい装置である。


 ギルバートは舌打ちした。


「……撤回する」


 セシルが頷く。


「ありがとうございます」


 ギルバートたちは不満げに去っていった。


 廊下の空気が緩む。


 白百合会の令嬢たちは、ほっと息を吐いた。


 リリアナはセシルを見る。


「ありがとうございます」


「礼は不要ですわ」


 セシルは扇を開く。


「私は、品のない言葉が嫌いなだけです」


「でも」


「それに」


 セシルは少しだけ目を逸らした。


「あなたが最初に答えましたもの。私が全部持っていくわけにはいきませんでしょう」


 リリアナが驚いた顔をする。


 それから、少し笑った。


「はい」


 セシルの頬が赤くなる。


「その返事、腹立たしいほど素直ですわ」


「すみません」


「謝らなくてよろしい」


 そのやり取りを見て、私は胸が温かくなった。


 いい。


 これはいい。


 私が前に出なくても、彼女たちは言葉を返した。


 リリアナが受け止めた。


 セシルが止めた。


 会の声明が、実際の場面で使われた。


 言葉が、彼女たちのものになっている。


 私は嬉しかった。


 心から。


 そして、その嬉しさの底に、やはり寂しさが沈んでいた。


「エリシア」


 アルヴィンがそっと近づいてきた。


「よく耐えたな」


「私は犬ですか」


「褒めたつもりだ」


「褒め方が騎士団向きです」


 アルヴィンは小さく笑った。


 それから、真面目な顔になる。


「だが、今のは大きい」


「ええ」


「君が出なかったことで、彼女たちは自分たちで立った」


「そうですね」


「寂しいか」


「殿下は最近、そればかり聞きますね」


「知りたい」


 まっすぐ言われると困る。


 私は掲示板の前で話す令嬢たちを見た。


 リリアナ。


 クラリス。


 マチルダ。


 エステル。


 セシル。


 それぞれが、それぞれの言葉を持ち始めている。


「寂しいです」


 私は言った。


「でも、嬉しい」


「両方か」


「人間ですので」


「厄介だな」


「本当に」


 アルヴィンは少し黙った。


 それから言った。


「私は、君に裁かれたいと思っていた」


 私はぎょっとして彼を見た。


「廊下で何を言い出すのですか」


「小声だ」


「小声ならいい話ではありません」


 アルヴィンは真面目だった。


「だが最近、少し分かった。君に裁かれるのは楽だった。自分で考えずに済む。自分で怒らずに済む。自分の間違いを、君の言葉で形にしてもらえる」


 彼はギルバートが去った方向を見る。


「だが、今の彼女たちは、自分で言葉にした」


「ええ」


「私も、そうしなければならないのだろう」


 よい傾向だ。


 非常によい傾向。


 なのに、私はほんの少し寂しい。


 アルヴィンもまた、私から離れようとしている。


 私はそれを望んだ。


 望んだはずなのに。


 まったく。


 私の中の「お姉様」は、思ったよりしぶとい。


 ネカマプレイのつもりだったものが、いつの間にか心の中に席を作っている。


 椅子まで持参している。出ていけ。


 その日の放課後、白百合会はもう一度短い会合を開いた。


 目的は、声明に対する反応の確認。


 つまり、反省会である。


 発足から三日で、すでに臨時会、声明、反省会。


 組織として立派すぎる。


 私は後方席に座りながら、少し遠い目をした。


 このままだと、本当に会報が出る。


 いや、もうクラリスが何か企画している顔をしている。


 やめろ。


 紙を増やすな。


 森の木にも限りがある。


「まず、声明の掲示後、大きな混乱はありませんでした」


 リリアナが言う。


「ただし、一部の男子生徒から嘲笑がありました」


 セシルがすました顔で言う。


「撤回させましたわ」


 クラリスが書く。


「セシル様、発言を撤回させる」


「書き方を考えなさい」


 セシルが言う。


「では、セシル様、白百合会の声明に基づき、身分差別的発言の撤回を求める」


「それならよろしい」


 完全に馴染んでいる。


 昨日参加したばかりなのに。


 セシルは、合う場所がなかっただけなのかもしれない。


 上に立つしかなかった少女が、ようやく横に立つ練習をしている。


 ただし、横に立ちながら扇で刺してくる。危険な横並びである。


「今後の課題です」


 マチルダが言った。


「白百合会の名を使った掲示や噂がまた出る可能性があります」


「掲示物は五人確認制にする」


 クラリスが確認する。


「それ以外の噂は?」


 エステルが言う。


「噂に全部反応していたらきりがありません」


 正しい。


 噂は無限に湧く。


 人間の口は泉ではなく下水管に近い。止めようとすると逆流する。


 レオンハルトが手を上げた。


 リリアナが少し緊張しながら指名する。


「レオンハルト様」


「噂を三種類に分類するとよいでしょう」


 出た。


 分類。


「一つ、放置すべき噂。内容が曖昧で、影響が小さいもの」


 クラリスが書く。


「二つ、訂正すべき噂。事実誤認が明確で、放置すれば会の活動に支障をきたすもの」


 マチルダが頷く。


「三つ、記録すべき噂。誰かを傷つける意図があり、繰り返される可能性があるもの」


 リリアナが真剣に聞いている。


「対応者は代表一人に集中させず、内容ごとに分けるべきです」


 彼は淡々と続ける。


「ただし、過剰に管理すると会が硬直します。判断基準は簡素に」


 私は思わず彼を見た。


 過剰に管理すると硬直する。


 この男が言った。


 成長している。


 青が成長している。


 人間、変われば変わるものだ。少しだけ感心した。かなり不本意だが。


「……何ですか」


 レオンハルトがこちらを見る。


「いえ。ずいぶん柔軟なことをおっしゃるようになったと思いまして」


「あなたのせいです」


「責任転嫁」


「影響です」


「もっと嫌です」


 リリアナたちが小さく笑った。


 空気が少し柔らかくなる。


 その日の会合は、思ったより穏やかに終わった。


 声明は、完全ではない。


 噂も消えていない。


 だが、白百合会は自分たちの名で、自分たちの言葉を守ろうとした。


 それは大きい。


 会が終わったあと、私は一人で中庭へ出た。


 夕方の空は薄紫に染まっていた。


 花壇の白百合が、風に揺れている。


 美しい。


 嫌になるほど。


 私はその前で立ち止まった。


「白百合の君」


 背後から声がした。


 振り向くと、そこにセシルがいた。


「その呼び名はやめてください」


「嫌ですわ」


「なぜ」


「あなたが嫌がるからです」


「性格が悪い」


「お互い様です」


 セシルは隣に立った。


 二人で白百合を見る。


 しばらく無言だった。


「今日」


 セシルが言った。


「私、少し楽しかったですわ」


「ギルバート様を追い詰めた件ですか」


「その言い方はやめなさい」


「違うのですか」


「半分は」


「半分も」


 彼女は扇で口元を隠した。


「以前なら、私は彼をもっと傷つける言い方をしました。逃げ場をなくして、周囲に笑わせて、二度と逆らえないようにしたと思い第六話 白百合会、白百合を否定する


 臨時茶話会は、その日の昼休みに開かれた。


 場所は北棟サロン。


 昨日まで紅茶と焼き菓子の香りがしていた部屋は、今日は妙に冷えていた。


 原因は分かっている。


 掲示板に貼られていた紙。


『白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす』


 あれは、白百合会の言葉ではない。


 だが、白百合会の名を使っていた。


 それだけで十分だった。


 人間は、誰が言ったかよりも、どの看板の下に貼られていたかで判断する。実に雑である。だが、その雑さで評判も派閥も戦争も動く。文明、根本設計から不安すぎる。


 サロンには、白百合会の参加者がほぼ全員集まっていた。


 リリアナ。


 クラリス。


 マチルダ。


 エステル。


 セシル。


 その他、下級貴族令嬢たち。


 そして後方に、私。


 その隣にレオンハルト。


 扉近くにアルヴィン。


 王太子は、やはり来た。


 噂を聞いて、学生会として状況確認に来たらしい。


 便利な名目である。


 だが、今日のアルヴィンは少し緊張していた。


 自分が出すぎれば、白百合会が王太子派の団体に見える。


 それが分かっているのだろう。


 だから扉近くに立ち、前には出ない。


 怒る練習の次は、出しゃばらない練習である。


 王太子教育、妙な方向に進んでいる。


「では」


 リリアナが、中央に立った。


 顔色は悪い。


 手も震えている。


 だが、彼女は立っている。


「臨時茶話会を始めます」


 誰も拍手しなかった。


 空気が重すぎた。


 クラリスは書記席でノートを開いている。


 マチルダは別紙を用意している。


 レオンハルトは手元の紙に何かを書き留めていた。


 私は黙っていた。


 黙る。


 今日こそ、黙る。


 私が前に出れば、この会は一瞬で私のものになる。


 公爵令嬢。


 白百合の君。


 悪役から悔い改めた救済者。


 そんな都合のいい役を、周囲は私に着せたがっている。


 私も、少しだけ着たがっている。


 それが一番まずい。


「今朝、掲示板に貼られていた紙について話します」


 リリアナは言った。


「白百合会に参加しない令嬢を、弱き者を踏む側と見なす。そう書かれていました」


 令嬢たちの間にざわめきが起こる。


 怒り。


 不安。


 羞恥。


 疑念。


 この中の誰かが貼ったのか。

 外部の誰かが貼ったのか。

 上級貴族側の罠なのか。

 それとも、白百合会を支持する者の暴走なのか。


 分からない。


 分からないから、不安が人の顔を探し始める。


 不安は犯人を欲しがる。


 犯人がいれば、安心できるからだ。


 人類は混沌より悪人を好む。悪人は殴れるが、混沌は殴れないので。まったく雑な精神構造である。


「まず、確認したいです」


 リリアナは紙を持ち上げた。


 貼り紙は、剥がされたあとも彼女の手で震えている。


「この言葉は、白百合会の言葉ではありません」


 何人かが頷いた。


 だが、エステルが手を上げた。


「言葉ではなくとも、そう思っている者はいるかもしれません」


 部屋が静まる。


 鋭い。


 嫌なところを突く。


 しかし必要な問いだ。


 リリアナは少し息を呑んだ。


「そう、ですね」


 エステルは続ける。


「貼った者が外部の人間だとしても、この文が広がったのは、白百合会がすでに正しい側に見え始めているからです」


 正しい側。


 その言葉が、部屋の空気を刺した。


 白百合会は、下級令嬢の互助会だった。


 自分の言葉を持つための場だった。


 困りごとを記録する場だった。


 だが、そこに「正しさ」が乗った。


 弱い者を踏むな。

 自分の言葉を持て。

 身分で人を軽んじるな。


 どれも間違っていない。


 間違っていないから危ない。


 間違った言葉より、正しい言葉のほうが、人を殴る道具になりやすい。正しさは棍棒に向いている。人類はすぐ振り回す。やめろ。


「私は」


 エステルは言った。


「この貼り紙を見て、嫌だと思いました。でも同時に、少しだけ、気持ちが分かってしまいました」


 何人かが顔を上げる。


「これまで踏まれてきた側が、自分たちの側に来ない者を責めたくなる気持ちです」


 部屋が重くなる。


 リリアナは黙った。


 クラリスのペンがゆっくり動いている。


 セシルは腕を組み、目を伏せている。


 彼女には、痛い言葉だろう。


 踏む側だったから。


 そして、踏む側に回る快感を知っているから。


「エステルさん」


 リリアナが口を開いた。


「あなたは、その気持ちをどうしたらいいと思いますか」


 よい返しだった。


 裁かない。


 封じない。


 問い返す。


 エステルは少し驚いた顔をした。


「……分かりません」


「私も、分かりません」


 リリアナは言った。


「でも、分からないままにしておくと、たぶん誰かを傷つけます」


 彼女は貼り紙を見た。


「この紙の言葉は、私たちの会に参加していない人を、勝手に敵にしています」


 敵。


 その言葉に、何人かが肩を震わせる。


「私は、それが怖いです」


 リリアナの声は震えている。


「私たちは、誰かに無視されたり、見下されたり、踏まれたりしてきました。だから、自分たちはそうしたくない。そう思っていました。でも、この紙は、私たちも同じことができるのだと教えています」


 セシルが小さく息を吐いた。


 彼女の顔は苦かった。


「踏む側が変わっただけ、ということですわね」


 昨日、彼女が言った言葉だ。


 リリアナは頷いた。


「はい」


「なら、踏まないためにはどうしますの?」


 セシルの声は意地悪ではなかった。


 本当に聞いている。


 彼女自身も知りたいのだ。


 踏む快感を知っている人間が、どうやって踏まないでいるのか。


 リリアナは答えに詰まる。


 部屋が静まる。


 私は口を開きそうになる。


 言える。


 いくらでも言える。


 「正しさを持つ者ほど、自分の足元を疑いなさい」とか。


 「誰かを敵にした瞬間、救いは選別になります」とか。


 「白百合は旗ではなく、花であるべきです」とか。


 うわ、全部言いそう。


 全部それっぽい。


 全部語録化されそう。


 黙れ。


 私は膝の上で手を握った。


 爪が掌に食い込む。


 その時、マチルダが手を上げた。


「仕組みを作るのは、どうでしょう」


 レオンハルトの眉がわずかに動いた。


 仕組み。


 彼の好物である。


 だが、今はマチルダの言葉だ。


「気持ちだけで、踏まないようにするのは難しいと思います」


 マチルダは言った。


「私たちは皆、自分が正しいと思った時ほど、間違いに気づきにくいから」


 よい。


 非常によい。


 私は心の中で頷いた。


 口には出さない。


「だから、白百合会の名前を使った掲示や発言をする時は、一人で決めない。代表、書記、会計、それから参加者から二人。最低五人で確認することにしてはどうでしょう」


 クラリスが書き始める。


「五人確認制……」


「それと」


 マチルダは続けた。


「白百合会に参加していない人を責める言葉は、白百合会として使わない、と規則に書く」


 エステルが言う。


「でも、それでは会の外から攻撃された時に弱くありませんか」


「攻撃には反論します。でも、会に参加していないこと自体を罪にはしない」


 マチルダは少し不安そうに言った。


「そういうことです」


 エステルはしばらく考えた。


「……賛成します」


 少しずつ、頷く者が増える。


 リリアナがほっとした表情をした。


「では、規則案として記録します」


 クラリスが書く。


 レオンハルトが、珍しく何も言わない。


 私は横目で見た。


 彼は少しだけ、満足そうだった。


 自分が仕組みを押しつけたのではなく、会の中から仕組みが出た。


 それが嬉しいのだろう。


 分かりにくいが。


「もう一つ」


 セシルが手を上げた。


 全員がそちらを見る。


 侯爵令嬢の発言は、やはり空気を変える。


 リリアナは少し緊張しながら頷いた。


「どうぞ、セシル様」


「この貼り紙の文面ですが」


 セシルは紙を扇で指した。


「下品ですわ」


 部屋が止まった。


 私は少しだけ目を閉じた。


 出た。


 セシルらしい角度。


「内容以前に、言葉が下品です。白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす。まるで脅迫状ですわ。仮に正しいことを言っていたとしても、これでは品位がありません」


 何人かがぽかんとしている。


 だがセシルは真剣だった。


「誤解なさらないで。私は、上品な言葉なら人を傷つけてもよいとは言いません。むしろ、私たち上級貴族はそれをやってきました。美しい言い回しで相手を刺す。礼儀の形で見下す。微笑みながら排除する」


 彼女の声が少し低くなる。


「私もそうでした」


 部屋が静かになる。


「だからこそ、言葉の品位は大事です。品位とは、相手を黙らせる飾りではなく、自分がどこまで相手を人として扱っているかの形です」


 セシルは少し顔を赤くした。


「……今のは、少しエリシア様のようでしたわね。腹立たしい」


 何人かが小さく笑った。


 空気が少し緩む。


 私は内心で頭を抱えた。


 やめろ。


 私の影響がこんなところに出ている。


 だが、セシルの言葉だった。


 踏む快感を知る彼女が、自分の言葉で「品位」を語った。


 以前なら、品位は人を見下すための道具だった。


 今は、踏みすぎないための手すりになりつつある。


 これは、良い変化だ。


 そして私は、やはり少し嬉しかった。


「では」


 リリアナがまとめる。


「白百合会として、声明を出します」


 声明。


 出た。


 ついに声明である。


 組織化の階段を一段ずつ登っている。次は議長選挙とか会報とか印章とか言い出すのではないか。

「内容は三つ」


 リリアナは指を立てた。


「一つ。今朝の貼り紙は、白百合会のものではないこと」


 クラリスが書く。


「二つ。白百合会に参加しないことは、誰かを踏む側であることを意味しないこと」


 マチルダが頷く。


「三つ。白百合会は、参加の有無にかかわらず、誰かを身分や所属で見下す言葉に反対すること」


 エステルが手を上げた。


「四つ目を加えてください」


「どうぞ」


「もし白百合会の名を使って誰かが他者を傷つけた場合、会はそれを止めること」


 少し強い。


 だが、必要だ。


 リリアナは頷く。


「加えます」


 クラリスが書く。


 そのペン先は、以前のように私の言葉を写しているだけではなかった。


 会の言葉を作っている。


 それが少し眩しい。


 私は目を逸らさなかった。


「声明を誰が出すか」


 レオンハルトが初めて口を開いた。


 全員が見る。


 彼は淡々と続けた。


「エリシア嬢が出せば効果は高い。しかし会の自立性は下がる。王太子殿下が出せば抑止力はあるが、政治的意味が強すぎる。代表一人が出せば責任が集中する。連名が妥当でしょう」


 セシルが言う。


「代表、書記、会計、参加者代表。そして私」


 全員が彼女を見る。


 セシルは扇を開いた。


「何ですの」


 リリアナが驚いたように言う。


「セシル様も?」


「私が入ることで、上級貴族令嬢すべてが敵ではないと示せます。加えて、私が以前踏む側だったことは皆様ご存じでしょう。ならば、私が署名する意味はあります」


 彼女は少しだけ顎を上げた。


「それに、どうせ私はもう半分ほど裏切り者扱いですわ」


 強がっている。


 だが、その強がりは必要な鎧だった。


 リリアナはしばらくセシルを見た。


 そして、深く頷いた。


「お願いします」


「ええ」


 セシルは短く答えた。


 その瞬間、白百合会はまた一歩変わった。


 下級令嬢の会から、身分をまたいだ会へ。


 ただし、それは美しい和解ではない。


 恐怖もある。

 疑いもある。

 過去の加害も消えない。


 それでも、同じ紙に署名する。


 現実の変化など、たぶんその程度の不完全さでしか始まらない。


 美しい物語にするには、汚れが多すぎる。


 だからこそ、少し信用できる。


 声明文は、三十分かけて作られた。


 最初の案はクラリスが書いた。


 それをリリアナが読み、マチルダが分かりにくい表現を直し、エステルが弱すぎる箇所を強め、セシルが下品な表現を削り、レオンハルトが誤解されやすい文を指摘した。


 私は何も言わなかった。


 いや、一度だけ言いそうになった。


 「白百合は誰かを選別する花ではありません」と。


 危なかった。


 口から出かけた瞬間、私は紅茶を飲んだ。


 熱かった。


 舌を少し火傷した。


 だが、語録が一つ減った。


 代償としては軽い。舌には悪いが、歴史には良い。


 完成した声明は、こうだった。


『令嬢相互研鑽会、通称白百合会より。


 本日掲示板に貼られた「白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす」との文書は、当会によるものではありません。


 当会は、参加の有無によって誰かを裁く場ではありません。


 当会は、身分、家格、所属、財産、婚約の有無によって、誰かを軽んじる言葉と振る舞いに反対します。


 また、当会の名を用いて他者を脅し、排除し、見下す行為を認めません。


 私たちは、誰かの上に立つためではなく、それぞれが自分の言葉を持つために集まります。


 令嬢相互研鑽会代表 リリアナ・ベル

 書記 クラリス・メイフィールド

 会計 マチルダ・ロウ

 参加者代表 エステル・クレイン

 参加者代表 セシル・バルディア』


 良い文だった。


 少し硬い。


 少し不器用。


 でも、彼女たちの言葉だった。


 私の言葉ではない。


 それが何よりよかった。


 クラリスがこちらを見た。


「エリシア様」


「何?」


「確認を」


「しません」


 クラリスが少し驚く。


「ですが」


「これは、あなたたちの声明です。私が直せば、私の言葉になります」


 クラリスは紙を見た。


 リリアナも黙っている。


 私は続けた。


「誤字だけは見ます」


 レオンハルトが咳払いした。


「誤字は私が確認しました」


「それはそれで腹が立ちますね」


「ありません」


「でしょうね」


 声明は掲示板に貼られた。


 昼休みの終わり頃。


 多くの生徒が集まっていた。


 リリアナの手は震えていた。


 クラリスが横に立つ。


 マチルダが紙と糊を持つ。


 エステルが周囲を見回す。


 セシルが少し離れて、腕を組んで立っている。


 私はさらに後ろに立った。


 アルヴィンはその反対側。


 レオンハルトは、掲示板から少し離れた柱のそば。


 声明が貼られる。


 ざわめきが起きる。


「白百合会が否定した」


「参加しない者を敵とは見なさないって」


「セシル様の名前がある」


「侯爵家のセシル様が?」


「王太子殿下は?」


「名前がない」


「エリシア様も?」


「ない」


 そう。


 ない。


 私の名前も、アルヴィンの名前も、レオンハルトの名前もない。


 そのことに、私は少し安心した。


 そして、少しだけ胸が痛んだ。


 名前がないことが寂しい。


 なんて面倒くさい心だろう。


 まったく。


 人類の心臓には、自己愛が細い根を張りすぎている。引っこ抜くと出血するので、扱いづらい。


 その時、一人の男子生徒が声を上げた。


「綺麗事だな」


 空気が止まる。


 彼は伯爵家の次男だったはずだ。


 名前は、ギルバート・オーウェン。


 白百合会の噂を面白がっていた一人。


 彼は周囲の男子生徒たちと一緒に笑った。


「自分の言葉を持つ? 令嬢たちが集まって茶を飲みながら不満を言うことがか?」


 リリアナの顔が強張る。


 クラリスがノートを抱きしめる。


 セシルの眉が跳ねる。


 私は前に出そうになった。


 出るな。


 出るな。


 だが、これは侮辱だ。


 白百合会を。


 彼女たちを。


 私は足に力を入れた。


 その時、リリアナが一歩前に出た。


「はい」


 ギルバートが眉を上げる。


「はい?」


「私たちは、茶を飲みながら不満を言っています」


 周囲が静まる。


 リリアナの声は震えていた。


 しかし、続いた。


「でも、今まで不満を言うこともできませんでした。何に困っているか、名前をつけることもできませんでした。だから、まずはそこから始めています」


 ギルバートは少し笑った。


「それで世界が変わると?」


「まだ、変わりません」


 リリアナは言った。


「でも、私たちが何も感じていないことには、もうできません」


 その言葉に、空気が変わった。


 私の言葉ではない。


 リリアナの言葉だ。


 ギルバートは少し苛立ったように笑う。


「随分と強くなったものだな、男爵令嬢風情が」


 その言葉に、セシルが動いた。


 扇を閉じる音が、廊下に響く。


「ギルバート様」


 セシルの声は冷たかった。


「今のお言葉、撤回なさい」


 ギルバートは顔をしかめる。


「セシル嬢。あなたもずいぶん変わられた。下級貴族の味方ですか?」


「いいえ」


 セシルは微笑んだ。


 美しい微笑みだった。


 そして、とても怖い。


「品のない言葉の敵です」


 周囲が息を呑む。


 セシルは続けた。


「男爵令嬢風情、ですか。伯爵家の次男ともあろう方が、家格を笠に着るにしても語彙が粗雑ですわね。もう少し磨いてからおいでになって」


 強い。


 強すぎる。


 そして煽りの質が高い。


 さすが元加害側。武器の扱いがうまい。今はその刃を別方向に向けているだけで、危険物であることに変わりはない。


 ギルバートの顔が赤くなる。


「何だと」


「聞こえませんでしたか? 語彙が粗雑です、と申し上げました」


「君は」


「それとも、内容を撤回なさいますか?」


 セシルは一歩も引かない。


 リリアナが少し慌てた。


「セ、セシル様」


「分かっていますわ」


 セシルは小さく言った。


 そして、深呼吸した。


 怒りを飲み込むように。


「訂正します。ギルバート様、あなたの今の言葉は、私たちが反対すると声明に書いた、身分によって誰かを軽んじる言葉です。白百合会は、それを認めません」


 リリアナの目が見開かれる。


 セシルは続けた。


「撤回を求めます」


 今度は、煽りではなかった。


 会の言葉だった。


 ギルバートは周囲を見た。


 思ったよりも味方が少ないことに気づいたのだろう。


 そこにはアルヴィンもいた。


 ただし王太子は何も言わない。


 見ているだけ。


 それが逆に圧になる。


 王族の沈黙は便利だ。本人が喋らなくても周囲が勝手に意味を読む。権力というものは、本当に面倒くさい装置である。


 ギルバートは舌打ちした。


「……撤回する」


 セシルが頷く。


「ありがとうございます」


 ギルバートたちは不満げに去っていった。


 廊下の空気が緩む。


 白百合会の令嬢たちは、ほっと息を吐いた。


 リリアナはセシルを見る。


「ありがとうございます」


「礼は不要ですわ」


 セシルは扇を開く。


「私は、品のない言葉が嫌いなだけです」


「でも」


「それに」


 セシルは少しだけ目を逸らした。


「あなたが最初に答えましたもの。私が全部持っていくわけにはいきませんでしょう」


 リリアナが驚いた顔をする。


 それから、少し笑った。


「はい」


 セシルの頬が赤くなる。


「その返事、腹立たしいほど素直ですわ」


「すみません」


「謝らなくてよろしい」


 そのやり取りを見て、私は胸が温かくなった。


 いい。


 これはいい。


 私が前に出なくても、彼女たちは言葉を返した。


 リリアナが受け止めた。


 セシルが止めた。


 会の声明が、実際の場面で使われた。


 言葉が、彼女たちのものになっている。


 私は嬉しかった。


 心から。


 そして、その嬉しさの底に、やはり寂しさが沈んでいた。


「エリシア」


 アルヴィンがそっと近づいてきた。


「よく耐えたな」


「私は犬ですか」


「褒めたつもりだ」


「褒め方が騎士団向きです」


 アルヴィンは小さく笑った。


 それから、真面目な顔になる。


「だが、今のは大きい」


「ええ」


「君が出なかったことで、彼女たちは自分たちで立った」


「そうですね」


「寂しいか」


「殿下は最近、そればかり聞きますね」


「知りたい」


 まっすぐ言われると困る。


 私は掲示板の前で話す令嬢たちを見た。


 リリアナ。


 クラリス。


 マチルダ。


 エステル。


 セシル。


 それぞれが、それぞれの言葉を持ち始めている。


「寂しいです」


 私は言った。


「でも、嬉しい」


「両方か」


「人間ですので」


「厄介だな」


「本当に」


 アルヴィンは少し黙った。


 それから言った。


「私は、君に裁かれたいと思っていた」


 私はぎょっとして彼を見た。


「廊下で何を言い出すのですか」


「小声だ」


「小声ならいい話ではありません」


 アルヴィンは真面目だった。


「だが最近、少し分かった。君に裁かれるのは楽だった。自分で考えずに済む。自分で怒らずに済む。自分の間違いを、君の言葉で形にしてもらえる」


 彼はギルバートが去った方向を見る。


「だが、今の彼女たちは、自分で言葉にした」


「ええ」


「私も、そうしなければならないのだろう」


 よい傾向だ。


 非常によい傾向。


 なのに、私はほんの少し寂しい。


 アルヴィンもまた、私から離れようとしている。


 私はそれを望んだ。


 望んだはずなのに。


 まったく。


 私の中の「お姉様」は、思ったよりしぶとい。


 ネカマプレイのつもりだったものが、いつの間にか心の中に席を作っている。


 椅子まで持参している。出ていけ。


 その日の放課後、白百合会はもう一度短い会合を開いた。


 目的は、声明に対する反応の確認。


 つまり、反省会である。


 発足から三日で、すでに臨時会、声明、反省会。


 組織として立派すぎる。


 私は後方席に座りながら、少し遠い目をした。


 このままだと、本当に会報が出る。


 いや、もうクラリスが何か企画している顔をしている。


 やめろ。


 紙を増やすな。


 森の木にも限りがある。


「まず、声明の掲示後、大きな混乱はありませんでした」


 リリアナが言う。


「ただし、一部の男子生徒から嘲笑がありました」


 セシルがすました顔で言う。


「撤回させましたわ」


 クラリスが書く。


「セシル様、発言を撤回させる」


「書き方を考えなさい」


 セシルが言う。


「では、セシル様、白百合会の声明に基づき、身分差別的発言の撤回を求める」


「それならよろしい」


 完全に馴染んでいる。


 昨日参加したばかりなのに。


 セシルは、合う場所がなかっただけなのかもしれない。


 上に立つしかなかった少女が、ようやく横に立つ練習をしている。


 ただし、横に立ちながら扇で刺してくる。危険な横並びである。


「今後の課題です」


 マチルダが言った。


「白百合会の名を使った掲示や噂がまた出る可能性があります」


「掲示物は五人確認制にする」


 クラリスが確認する。


「それ以外の噂は?」


 エステルが言う。


「噂に全部反応していたらきりがありません」


 正しい。


 噂は無限に湧く。


 人間の口は泉ではなく下水管に近い。止めようとすると逆流する。


 レオンハルトが手を上げた。


 リリアナが少し緊張しながら指名する。


「レオンハルト様」


「噂を三種類に分類するとよいでしょう」


 出た。


 分類。


「一つ、放置すべき噂。内容が曖昧で、影響が小さいもの」


 クラリスが書く。


「二つ、訂正すべき噂。事実誤認が明確で、放置すれば会の活動に支障をきたすもの」


 マチルダが頷く。


「三つ、記録すべき噂。誰かを傷つける意図があり、繰り返される可能性があるもの」


 リリアナが真剣に聞いている。


「対応者は代表一人に集中させず、内容ごとに分けるべきです」


 彼は淡々と続ける。


「ただし、過剰に管理すると会が硬直します。判断基準は簡素に」


 私は思わず彼を見た。


 過剰に管理すると硬直する。


 この男が言った。


 成長している。


 青が成長している。


 人間、変われば変わるものだ。少しだけ感心した。かなり不本意だが。


「……何ですか」


 レオンハルトがこちらを見る。


「いえ。ずいぶん柔軟なことをおっしゃるようになったと思いまして」


「あなたのせいです」


「責任転嫁」


「影響です」


「もっと嫌です」


 リリアナたちが小さく笑った。


 空気が少し柔らかくなる。


 その日の会合は、思ったより穏やかに終わった。


 声明は、完全ではない。


 噂も消えていない。


 だが、白百合会は自分たちの名で、自分たちの言葉を守ろうとした。


 それは大きい。


 会が終わったあと、私は一人で中庭へ出た。


 夕方の空は薄紫に染まっていた。


 花壇の白百合が、風に揺れている。


 美しい。


 嫌になるほど。


 私はその前で立ち止まった。


「白百合の君」


 背後から声がした。


 振り向くと、そこにセシルがいた。


「その呼び名はやめてください」


「嫌ですわ」


「なぜ」


「あなたが嫌がるからです」


「性格が悪い」


「お互い様です」


 セシルは隣に立った。


 二人で白百合を見る。


 しばらく無言だった。


「今日」


 セシルが言った。


「私、少し楽しかったですわ」


「ギルバート様を追い詰めた件ですか」


「その言い方はやめなさい」


「違うのですか」


「半分は」


「半分も」


 彼女は扇で口元を隠した。


「以前なら、私は彼をもっと傷つける言い方をしました。逃げ場をなくして、周囲に笑わせて、二度と逆らえないようにしたと思います」


「でしょうね」


「否定しないのですわね」


「あなた自身も否定していないでしょう」


 セシルは小さく笑った。


「でも今日は、途中で止めました」


「ええ」


「リリアナ様が見ていましたから」


 彼女の声は少し低くなる。


「私がまた踏むところを、あの子に見せたくなかった」


 私は黙った。


「これも、依存かしら」


「誰かに恥じないようにしたいと思うことは、全部が依存ではないでしょう」


「では、何ですの」


「関係、でしょうか」


「曖昧ですわね」


「人間関係はだいたい曖昧です」


 セシルは白百合を見つめた。


「私は、リリアナ様が少し苦手です」


「なぜ?」


「まっすぐだから」


「ええ」


「私の醜さが、よく見える」


 その言葉は、静かだった。


「でも、今日、あの子が私に止めると言った時、少し安心しました」


「止めてもらえるから?」


「ええ」


 セシルは自嘲する。


「踏みたくないのに、踏みたい。最低ですわね」


「最低ですが、分かります」


 彼女が私を見た。


 私は白百合を見たまま言う。


「私も、中心に立ちたくないのに、立ちたい。救済者になりたくないのに、必要とされたい。最低です」


 セシルはしばらく黙っていた。


 やがて、くすりと笑った。


「私たち、本当に嫌な令嬢ですわね」


「ええ」


「でも、以前よりはましですわ」


「たぶん」


「たぶん?」


「断言すると調子に乗りますので」


「賢明ですわ」


 風が吹いた。


 白百合が揺れる。


 セシルはぽつりと言った。


「私は、白百合ではありませんわね」


「そうですか?」


「ええ。私には白すぎます」


 彼女は自分の赤い髪を指で摘む。


「もっと、毒々しい花が似合いますわ」


「では、薔薇ですか」


「棘がありますものね」


「あなたの場合、棘のほうが本体かもしれません」


「失礼な方」


 彼女は笑った。


 でも、その笑みは悪くなかった。


「エリシア様」


「何?」


「私は、まだあなたをお姉様とは呼びません」


「助かります」


「でも」


 彼女は少しだけ顔を赤くした。


「もし、私がまた誰かを踏もうとしたら」


 言葉を探すように、扇を握る。


「止めなさい」


 命令形だった。


 でも、それは彼女なりの頼みだった。


 私は頷いた。


「あなたも、私が中心に立ちすぎたら止めてください」


「ええ。喜んで」


「喜ばないで」


「喜びますわ」


 セシルは微笑んだ。


「だって、あなたを刺せる機会ですもの」


 やはり危険物だ。


 でも、少しだけ頼もしい。


 その夜。


 クラリスの議事録には、今日の声明文と会の反省がまとめられていた。


 最後に、クラリス自身の言葉があった。


『今日は、白百合会の名前が誰かを傷つけるために使われた。

 私は怖かった。

 私たちの会が、良いものだと思っていたから。

 でも、良いものだから危なくない、ということはないのだと思った。

 むしろ、良い名前ほど、人はそれを使って正しく見せようとする。

 私も、エリシア様のお言葉を写すことで、自分を正しく見せたかったのかもしれない。

 だから今日は、少しだけ、自分の手が怖かった。

 でも、怖いままで書く。

 たぶん、それが今の私にできることだから。』


 私はそれを読んで、静かにノートを閉じた。


 クラリスは成長している。


 リリアナも。


 マチルダも。


 エステルも。


 セシルも。


 アルヴィンも。


 レオンハルトも。


 皆、少しずつ変わっている。


 では、私は?


 私は、変わっているのだろうか。


 それとも、皆が私から離れていくのを見ながら、寂しさに綺麗な名前をつけているだけなのだろうか。


 分からない。


 分からないが、今日は少なくとも、私は前に出なかった。


 それだけは、少しだけ誇ってもいい気がした。


 人間の成長など、だいたいその程度だ。


 昨日より少しまし。


 ひどく地味で、拍手もない。


 しかし、たぶんそれでいい。


 翌朝。


 学園に行くと、掲示板の前にまた人だかりができていた。


 私は身構えた。


 また何か貼られたのか。


 近づく。


 そこには、白百合会の声明文の隣に、小さな紙が貼られていた。


『昨日の文書は、私が貼りました。

 白百合会の皆様を支持するつもりでした。

 ですが、参加しない方々を傷つける言葉でした。

 申し訳ありません。

 名前は、今は書けません。

 でも、いつか自分の言葉で謝りたいです。』


 匿名の謝罪文。


 リリアナがそれを見つめていた。


 クラリスも。


 セシルは腕を組んでいる。


 エステルは難しい顔をしていた。


 マチルダは小さく呟いた。


「外部の攻撃ではなかったのですね」


 そう。


 白百合会を潰そうとする敵ではなかった。


 支持者だった。


 善意だった。


 善意が、誰かを傷つける形になった。


 これが一番厄介だ。


 悪意なら切れる。


 善意は、切るとこちらも少し血が出る。


「どうしますか」


 クラリスがリリアナを見る。


 以前なら、彼女たちは私を見たかもしれない。


 だが今は、まず代表を見る。


 リリアナはしばらく黙っていた。


 そして言った。


「次の茶話会で、匿名の発言箱を作ります」


 マチルダが頷く。


「名前を書けない人のために?」


「はい」


 リリアナは謝罪文を見る。


「この人は、謝りたいけれど名乗れない。なら、名乗れないままでも言葉を出せる場所が必要です」


 エステルが言う。


「ただし、匿名で他者を傷つける言葉も出るかもしれません」


「だから、箱に入れられた言葉は、会で扱う前に五人で確認します」


 リリアナは言った。


「名乗れない言葉を、なかったことにはしない。でも、そのまま刃物にもさせない」


 私は息を呑んだ。


 言葉が強い。


 リリアナの言葉だ。


 彼女はもう、私の後ろに隠れていない。


 小さく震えながら、前を見ている。


 セシルが小さく笑った。


「よろしいのではなくて?」


 クラリスが書く。


「匿名発言箱。仮称、白百合箱」


「その名前はどうかと思います」


 私が思わず言うと、全員がこちらを見た。


 しまった。


 つい口を出した。


 だが、これは言わせてほしい。


「箱にまで白百合をつけると、何でも白百合になります」


 クラリスは真剣に頷いた。


「では、ことば箱」


「そちらがよいです」


 クラリスが書き直す。


 リリアナが笑った。


「エリシア様も、名前には口を出されるのですね」


「そこは重要です」


「はい」


 皆が少し笑った。


 その笑いは、軽かった。


 昨日より、少しだけ。


 私は掲示板の謝罪文を見た。


 名前のない言葉。


 歩きすぎた善意。


 傷つけたあとで、戻ってきた言葉。


 言葉は歩く。


 時に花になる。


 時に刃になる。


 そして時々、自分の過ちに気づいて、震えながら帰ってくる。


 その帰ってきた言葉を、どう扱うか。


 たぶん、そこからが本当の会なのだ。


 その頃。


 王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイが新しい写しを受け取っていた。


 白百合会の声明文。


 匿名の謝罪文。


 そして、誰かが添えた噂。


『白百合の君は、会の中心に立つことを拒み、少女たち自身に言葉を返した』


 ミリアはそれを読み、金色の瞳を輝かせた。


「やはり……」


 彼女は胸に紙を抱く。


「やはり、エリシア様はご自分を消してまで、人々を導いておられる」


 違う。


 違う。


 ご自分を消してまで、ではない。


 中心に立ちたくなる自分を抑えているだけだ。


 だが、ミリアの中では、それはもう美しい物語になっている。


「悪役令嬢ではなく、隠れた聖女」


 彼女はうっとりと呟いた。


「いいえ。聖女であることを拒む聖女」


 最悪の命名が発生した。


 本人不在の場所で。


 ミリアは日記を開く。


『白百合の君は、自らを中心に置かない。

 それはきっと、真の救済者のしるし。

 私は学園に入ったら、彼女の言葉を集めたい。

 そして、彼女が拒むなら、なおさら私が伝えなければならない。

 人は、自分の物語を選べない。

 ならば、正しく読む者が必要なのだから。』


 彼女はペンを置いた。


 その顔は、幸福そうだった。


 狂気は、いつも叫びながら来るわけではない。


 時には、祈るような顔で来る。


 美しい物語を抱えて。


 人間の善意ほど、手入れを怠ると怖いものはない。

ます」


「でしょうね」


「否定しないのですわね」


「あなた自身も否定していないでしょう」


 セシルは小さく笑った。


「でも今日は、途中で止めました」


「ええ」


「リリアナ様が見ていましたから」


 彼女の声は少し低くなる。


「私がまた踏むところを、あの子に見せたくなかった」


 私は黙った。


「これも、依存かしら」


「誰かに恥じないようにしたいと思うことは、全部が依存ではないでしょう」


「では、何ですの」


「関係、でしょうか」


「曖昧ですわね」


「人間関係はだいたい曖昧です」


 セシルは白百合を見つめた。


「私は、リリアナ様が少し苦手です」


「なぜ?」


「まっすぐだから」


「ええ」


「私の醜さが、よく見える」


 その言葉は、静かだった。


「でも、今日、あの子が私に止めると言った時、少し安心しました」


「止めてもらえるから?」


「ええ」


 セシルは自嘲する。


「踏みたくないのに、踏みたい。最低ですわね」


「最低ですが、分かります」


 彼女が私を見た。


 私は白百合を見たまま言う。


「私も、中心に立ちたくないのに、立ちたい。救済者になりたくないのに、必要とされたい。最低です」


 セシルはしばらく黙っていた。


 やがて、くすりと笑った。


「私たち、本当に嫌な令嬢ですわね」


「ええ」


「でも、以前よりはましですわ」


「たぶん」


「たぶん?」


「断言すると調子に乗りますので」


「賢明ですわ」


 風が吹いた。


 白百合が揺れる。


 セシルはぽつりと言った。


「私は、白百合ではありませんわね」


「そうですか?」


「ええ。私には白すぎます」


 彼女は自分の赤い髪を指で摘む。


「もっと、毒々しい花が似合いますわ」


「では、薔薇ですか」


「棘がありますものね」


「あなたの場合、棘のほうが本体かもしれません」


「失礼な方」


 彼女は笑った。


 でも、その笑みは悪くなかった。


「エリシア様」


「何?」


「私は、まだあなたをお姉様とは呼びません」


「助かります」


「でも」


 彼女は少しだけ顔を赤くした。


「もし、私がまた誰かを踏もうとしたら」


 言葉を探すように、扇を握る。


「止めなさい」


 命令形だった。


 でも、それは彼女なりの頼みだった。


 私は頷いた。


「あなたも、私が中心に立ちすぎたら止めてください」


「ええ。喜んで」


「喜ばないで」


「喜びますわ」


 セシルは微笑んだ。


「だって、あなたを刺せる機会ですもの」


 やはり危険物だ。


 でも、少しだけ頼もしい。


 その夜。


 クラリスの議事録には、今日の声明文と会の反省がまとめられていた。


 最後に、クラリス自身の言葉があった。


『今日は、白百合会の名前が誰かを傷つけるために使われた。

 私は怖かった。

 私たちの会が、良いものだと思っていたから。

 でも、良いものだから危なくない、ということはないのだと思った。

 むしろ、良い名前ほど、人はそれを使って正しく見せようとする。

 私も、エリシア様のお言葉を写すことで、自分を正しく見せたかったのかもしれない。

 だから今日は、少しだけ、自分の手が怖かった。

 でも、怖いままで書く。

 たぶん、それが今の私にできることだから。』


 私はそれを読んで、静かにノートを閉じた。


 クラリスは成長している。


 リリアナも。


 マチルダも。


 エステルも。


 セシルも。


 アルヴィンも。


 レオンハルトも。


 皆、少しずつ変わっている。


 では、私は?


 私は、変わっているのだろうか。


 それとも、皆が私から離れていくのを見ながら、寂しさに綺麗な名前をつけているだけなのだろうか。


 分からない。


 分からないが、今日は少なくとも、私は前に出なかった。


 それだけは、少しだけ誇ってもいい気がした。


 人間の成長など、だいたいその程度だ。


 昨日より少しまし。


 ひどく地味で、拍手もない。


 しかし、たぶんそれでいい。


 翌朝。


 学園に行くと、掲示板の前にまた人だかりができていた。


 私は身構えた。


 また何か貼られたのか。


 近づく。


 そこには、白百合会の声明文の隣に、小さな紙が貼られていた。


『昨日の文書は、私が貼りました。

 白百合会の皆様を支持するつもりでした。

 ですが、参加しない方々を傷つける言葉でした。

 申し訳ありません。

 名前は、今は書けません。

 でも、いつか自分の言葉で謝りたいです。』


 匿名の謝罪文。


 リリアナがそれを見つめていた。


 クラリスも。


 セシルは腕を組んでいる。


 エステルは難しい顔をしていた。


 マチルダは小さく呟いた。


「外部の攻撃ではなかったのですね」


 そう。


 白百合会を潰そうとする敵ではなかった。


 支持者だった。


 善意だった。


 善意が、誰かを傷つける形になった。


 これが一番厄介だ。


 悪意なら切れる。


 善意は、切るとこちらも少し血が出る。


「どうしますか」


 クラリスがリリアナを見る。


 以前なら、彼女たちは私を見たかもしれない。


 だが今は、まず代表を見る。


 リリアナはしばらく黙っていた。


 そして言った。


「次の茶話会で、匿名の発言箱を作ります」


 マチルダが頷く。


「名前を書けない人のために?」


「はい」


 リリアナは謝罪文を見る。


「この人は、謝りたいけれど名乗れない。なら、名乗れないままでも言葉を出せる場所が必要です」


 エステルが言う。


「ただし、匿名で他者を傷つける言葉も出るかもしれません」


「だから、箱に入れられた言葉は、会で扱う前に五人で確認します」


 リリアナは言った。


「名乗れない言葉を、なかったことにはしない。でも、そのまま刃物にもさせない」


 私は息を呑んだ。


 言葉が強い。


 リリアナの言葉だ。


 彼女はもう、私の後ろに隠れていない。


 小さく震えながら、前を見ている。


 セシルが小さく笑った。


「よろしいのではなくて?」


 クラリスが書く。


「匿名発言箱。仮称、白百合箱」


「その名前はどうかと思います」


 私が思わず言うと、全員がこちらを見た。


 しまった。


 つい口を出した。


 だが、これは言わせてほしい。


「箱にまで白百合をつけると、何でも白百合になります」


 クラリスは真剣に頷いた。


「では、ことば箱」


「そちらがよいです」


 クラリスが書き直す。


 リリアナが笑った。


「エリシア様も、名前には口を出されるのですね」


「そこは重要です」


「はい」


 皆が少し笑った。


 その笑いは、軽かった。


 昨日より、少しだけ。


 私は掲示板の謝罪文を見た。


 名前のない言葉。


 歩きすぎた善意。


 傷つけたあとで、戻ってきた言葉。


 言葉は歩く。


 時に花になる。


 時に刃になる。


 そして時々、自分の過ちに気づいて、震えながら帰ってくる。


 その帰ってきた言葉を、どう扱うか。


 たぶん、そこからが本当の会なのだ。


 その頃。


 王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイが新しい写しを受け取っていた。


 白百合会の声明文。


 匿名の謝罪文。


 そして、誰かが添えた噂。


『白百合の君は、会の中心に立つことを拒み、少女たち自身に言葉を返した』


 ミリアはそれを読み、金色の瞳を輝かせた。


「やはり……」


 彼女は胸に紙を抱く。


「やはり、エリシア様はご自分を消してまで、人々を導いておられる」


 違う。


 違う。


 ご自分を消してまで、ではない。


 中心に立ちたくなる自分を抑えているだけだ。


 だが、ミリアの中では、それはもう美しい物語になっている。


「悪役令嬢ではなく、隠れた聖女」


 彼女はうっとりと呟いた。


「いいえ。聖女であることを拒む聖女」


 最悪の命名が発生した。


 本人不在の場所で。


 ミリアは日記を開く。


『白百合の君は、自らを中心に置かない。

 それはきっと、真の救済者のしるし。

 私は学園に入ったら、彼女の言葉を集めたい。

 そして、彼女が拒むなら、なおさら私が伝えなければならない。

 人は、自分の物語を選べない。

 ならば、正しく読む者が必要なのだから。』


 彼女はペンを置いた。


 その顔は、幸福そうだった。


 狂気は、いつも叫びながら来るわけではない。


 時には、祈るような顔で来る。


 美しい物語を抱えて。


 人間の善意ほど、手入れを怠ると怖いものはない。



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