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第5話 白百合会、さっそく揉める

 白百合会は、発足から三日で揉めた。


 早い。


 実に早い。


 人間は組織を作ると、まず理念を掲げ、次に役職を決め、その直後に揉める。国家でも学級委員会でもだいたい同じである。規模が違うだけで、やっていることはあまり変わらない。人類の進歩とは。


 揉め事の発端は、第二回茶話会だった。


 議題は「私たちが困っていることを、私たちの言葉で書く」。


 これは、リリアナが決めたものだ。


 私は関与していない。


 いや、少しはした。

 というより、私が「自分の言葉を持ちなさい」などと言ったのがそもそもの発端である。


 発言とは種である。


 そして人間社会という土壌は、雑草も毒草も花も、区別なくよく育つ。肥料が欲望だからだ。最悪の農地である。


 放課後、北棟サロン。


 白百合会の参加者は、二十三人から二十九人に増えていた。


 増えている。


 また増えている。


 掲示一枚で人が集まるのだから、学園にどれだけ抑圧された令嬢がいたのかという話でもある。だが同時に、噂の繁殖能力が高すぎる。王国は農業より噂の栽培に力を入れたほうがいい。すでに豊作だ。


 私は部屋の後方に座っていた。


 机の上には紅茶。


 隣には、なぜかアルヴィン。


 反対側には、なぜかレオンハルト。


 おかしい。


 ここは令嬢相互研鑽会、通称白百合会である。


 男子生徒二名が後方席に並んでいるのは、だいぶ絵面が怪しい。


「なぜ殿下までいらっしゃるのですか」


 私が小声で聞くと、アルヴィンは平然と答えた。


「学生会として、新設団体の様子を確認する必要がある」


「それは学生会の仕事ですか?」


「今作った」


「権力の私物化」


「必要な監督だ」


「監督という言葉がもう嫌です」


 アルヴィンは少し笑った。


 以前よりよく笑う。


 それはよいことなのだが、こちらに向ける視線が妙に熱い。


 やめてほしい。


 私は精神の整体師ではない。


 しかも資格がない。完全に闇営業である。


「レオンハルト様は?」


「記録です」


「知っていました」


 レオンハルトは既に紙とペンを用意していた。


 その横顔は静かで、無駄がない。


 いや、無駄がなさすぎる。


 人間には多少の無駄が必要だ。でないと道具に近づく。この男は自分を高性能な帳簿にしようとしている節がある。やめろ。帳簿は人を抱きしめない。


「あなたも参加者ではなく、観察者ですね」


「現時点では」


「今後は?」


「状況次第です」


「怖い言い方をしないでください」


 彼は何も答えず、前方を見た。


 サロンの中央では、リリアナが緊張した面持ちで立っている。


 代表。


 昨日決まったばかりの役職。


 男爵家の娘で、もともとは人前で話すのも苦手だった少女が、今や二十九人の令嬢の前に立っている。


 よくやっている。


 私はそう思った。


 思ってしまった。


 胸の奥が熱くなる。


 彼女を褒めたい。

 支えたい。

 失敗したら助けたい。


 その気持ちを、私は紅茶で飲み込んだ。


 苦い。


 砂糖を入れていないからだ。


 いや、私の人格の問題かもしれない。


「それでは、第二回茶話会を始めます」


 リリアナの声は少し震えていた。


 でも、聞こえる。


「今日の議題は、私たちが困っていることを、私たち自身の言葉で書くことです。名前を書いても、書かなくても構いません。まずは、紙に一つずつ書いてください」


 クラリスが紙を配る。


 マチルダがペンの本数を確認している。


 この二人はもう完全に運営側だ。


 成長が早い。


 頼もしい。


 そして少し怖い。


 会が形を持ち始めている。


 形を持つと、人はそこに所属したくなる。

 所属すると、外と内が生まれる。

 外と内が生まれると、今度は境界を守りたくなる。


 救いの場が、選別の場になる。


 私はまだ、それを言えない。


 言えば、会の芽を摘むかもしれないからだ。


 令嬢たちは紙に向かい始めた。


 最初はぎこちない。


 何を書けばいいのか分からない子。

 ペンを持ったまま固まる子。

 隣を見ようとして、慌てて目を逸らす子。

 匿名で書くと言いながら、筆跡でバレるのではと怯える子。


 前世のアンケート用紙を思い出す。


 「自由に書いてください」と言われた瞬間、自由が一番不自由になる。人類、枠がないとすぐ途方に暮れる。自由とはだいたい高級な苦痛である。


 しばらくして、紙が集められた。


 リリアナとクラリスが読み上げる。


「上級生に挨拶をしても、無視されることがあります」


「授業で分からないところがあっても、家格が低いと質問しづらいです」


「ドレスを新調できないと、舞踏会で笑われます」


「兄から、女が政治の話をするなと言われました」


「婚約者候補の方に、家のために従順でいるよう言われました」


 一つ一つは、小さな困りごとだ。


 だが、並ぶと重い。


 学園の空気。


 家の中の圧力。


 社交界の視線。


 婚姻政治。


 言葉にされた途端、それらは「個人の我慢」ではなく「構造」になる。


 構造。


 レオンハルトが好きそうな言葉だ。


 私は横目で彼を見た。


 彼は静かに記録している。


 だが、その表情はいつもより少しだけ硬かった。


 自分の好きな構造が、人の痛みとして現れると、さすがの冷蔵庫も冷えすぎるらしい。


 読み上げが進むうち、部屋の空気は少しずつ変わった。


 最初は緊張。


 次に共感。


 それから、怒り。


「私も同じことを言われました」


「それ、私の家でもです」


「舞踏会の件、誰に言われたのですか」


「名前は……」


「言うべきでは?」


「でも、言えば家同士の問題に」


 声が重なる。


 リリアナが慌てて手を上げる。


「一度に話さないでください。順番に」


 彼女なりに場を収めようとしている。


 だが、二十九人の感情は重い。


 抑え込まれていた言葉は、一度出口を見つけると流れ出す。


 人間の我慢は、栓を抜くとだいたい洪水になる。瓶詰めにするには圧が高すぎる。


 その時、エステルが言った。


「結局、私たちは何をしたいのですか」


 部屋が静まる。


 前回、「話して何になるのか」と言った子だ。


 今日は少し違う。


 否定というより、問いだった。


「困りごとを書くだけなら、日記でもできます。ここに集まったからには、何か変えたいのでしょう?」


 何人かが頷いた。


 リリアナが言葉に詰まる。


「それは……」


 エステルは続けた。


「なら、上級貴族の令嬢たちに抗議すべきです。舞踏会での侮辱、授業での排除、寮での差別。具体的な名前を出して、白百合会として申し入れを行うべきです」


 空気が鋭くなった。


 なるほど。


 活動方針の分岐だ。


 互助会で留めるのか。

 抗議団体になるのか。


 発足三日で政治化の兆し。


 早い。


 早すぎる。


 人間は集まると、すぐ正義を帯びる。正義は便利だ。怒りに制服を着せられる。制服を着た怒りほど歩きやすいものはない。


「でも、それをしたら」


 リリアナが言う。


「上級貴族の方々と対立してしまいます」


「すでに対立しています」


 エステルは言った。


「私たちは今まで、対立していないふりをしていただけです」


 強い。


 言葉が強い。


 私は彼女を見た。


 エステルは細い指で紙を押さえている。顔色は青い。怖いのだ。怖いのに、言っている。


 その姿には力があった。


 だが、同時に危うい。


 怒りは人を立たせる。


 だが、立ったあとにどこへ歩くかまでは教えてくれない。


 別の令嬢が言う。


「私は、対立したくありません。家に知られたら困ります」


「でも、黙っていたら何も変わらないわ」


「名前を出した子が不利益を受けたら?」


「白百合会が守ればいい」


「どうやって?」


 議論が熱を帯びる。


 リリアナの顔が強張る。


 クラリスのペンが追いつかない。


 マチルダが会計帳簿を抱えたまま、困ったように周囲を見ている。


 私は口を開きかけた。


 助けたい。


 助けたい、というより、収めたい。


 私なら、この場を収められる。


 たぶん。


 公爵令嬢としての威圧。

 お姉様としての微笑み。

 少し鋭い言葉。

 「怒りを持つことと、怒りに使われることは違いますわ」などと言えば、きっと静まる。


 実際、言いたい。


 とても言いたい。


 今なら綺麗に決まる。


 最悪だ。


 私は、場を救いたいのではない。


 場を救う自分を見たいのだ。


 そのことに気づいた瞬間、喉が詰まった。


 私はカップを握りしめる。


 黙る。


 黙れ。


 ここは彼女たちの会だ。


 私は中心ではない。


 中心になってはいけない。


「エリシア」


 隣でアルヴィンが小さく呼んだ。


 彼は私を見ていた。


「苦しそうだな」


「見ないでください」


「助けたいのか」


「ええ」


「助ければいい」


「駄目です」


「なぜ」


「私が助けると、彼女たちは私を見る」


 アルヴィンは黙った。


 私は小さく続ける。


「私は、それが嬉しいから」


 アルヴィンの表情が少し変わった。


 彼は何かを言いかけ、やめた。


 よくやめた。


 この王太子も、少しずつ待つことを覚えている。


 成長している。


 その成長すら、私は嬉しい。


 だから危ない。


「リリアナ」


 エステルの声が少し強くなった。


「あなたは代表でしょう。どうするのですか」


 リリアナの肩が震える。


 全員の視線が彼女に集まる。


 代表。


 昨日決めたばかりの役職が、早くも彼女を押し潰そうとしている。


 私は椅子から立ち上がりそうになった。


 その時。


 リリアナが、ゆっくり息を吸った。


「分かりません」


 部屋が静まった。


 エステルが目を見開く。


「分からない、ですか?」


「はい。私は、どうすればよいのか分かりません」


 リリアナの声は震えている。


 けれど、逃げてはいない。


「私も、黙っていたくはありません。けれど、誰かの名前を出して抗議すれば、その人の家や立場にも影響します。私たちに守れるのかと聞かれたら、まだ守れません」


 彼女は紙束を見た。


「でも、何もしないのも違うと思います」


 リリアナは顔を上げた。


「だから、今日決めるのは、抗議ではなく、記録にしませんか」


 クラリスが顔を上げる。


「記録?」


「はい。困っていることを集めて、名前を伏せて整理します。どんなことが、どれくらい起きているのか。それを次回までにまとめます」


 マチルダが小さく頷く。


「件数や内容を分けるのですね」


「はい」


 リリアナは続けた。


「それを見てから、何をするか決めたいです。抗議するのか、教師に相談するのか、まず会の中で助け合えることを探すのか」


 エステルは黙っていた。


 リリアナは彼女を見た。


「エステルさんの言う通り、私たちは対立していないふりをしていただけかもしれません。でも、怒りだけで動くのは怖いです」


「怖いから、やめるのですか」


「いいえ」


 リリアナは首を横に振った。


「怖いから、準備したいのです」


 沈黙。


 その言葉は、部屋の中にゆっくり落ちた。


 私は息を止めていたことに気づく。


 レオンハルトのペンが止まっていた。


 アルヴィンも、リリアナを見ていた。


 エステルはしばらく黙ったあと、息を吐いた。


「……準備」


「はい」


「それなら、賛成します」


 部屋の空気が少し緩んだ。


 よかった。


 そう思った瞬間、私は胸の奥に不思議な感覚を覚えた。


 嬉しい。


 リリアナが自分で場を収めたことが、嬉しい。


 同時に、私は少しだけ役立たずになった気がした。


 そのことが、胸に刺さる。


 なんて面倒な心だろう。


 人間の感情はどうしてこう、よいことにまで毒を混ぜるのか。欠陥品にも程がある。


 クラリスが勢いよく書き始める。


「では、記録項目を分けます。身分による扱い、授業、寮、社交、婚約、家庭内の発言制限……」


 マチルダが会計用の表を裏返し、分類案を書き始めた。


「件数も数えましょう。同じ内容が多ければ、優先度が分かります」


 レオンハルトがぴくりと反応する。


 分類と件数。


 好物だ。


 彼は今にも口を出しそうになった。


 私は小声で言った。


「待ちなさい」


「……分かっています」


「本当に?」


「九割ほど」


「一割が怖いです」


 彼は手元の紙に何かを書いた。


 こちらに見せる。


『助言は求められてから』


 私は少し驚いた。


 彼は無表情だった。


 だが、少しだけ変わっている。


 管理ではなく、待つ。


 この男にとっては、たぶんかなり大変なことだ。


 赤も青も、白百合会も、少しずつ自分の場所で変わり始めている。


 良いことだ。


 良いことだと、何度も自分に言い聞かせる。


 その時、サロンの扉が開いた。


 全員が振り向く。


 そこに立っていたのは、セシル・バルディアだった。


 赤い髪。


 いつもの扇。


 上級貴族令嬢らしい完璧な姿勢。


 だが、表情は少し硬い。


 部屋の空気が凍る。


 昨日まで、彼女はリリアナたちを踏む側だった。


 その彼女が、白百合会の場に現れた。


 セシルは一瞬、私を見た。


 私は何も言わなかった。


 彼女はわずかに眉を寄せ、それから視線をリリアナへ移した。


「リリアナ・ベル様」


 男爵令嬢に、侯爵令嬢が「様」をつけた。


 部屋がざわめく。


 リリアナは完全に固まった。


 そりゃ固まる。


 私でも少し固まった。


 セシルは扇を閉じる。


「本日の茶話会に、参加を希望いたします」


 リリアナは口を開けたまま、何も言えない。


 クラリスのペンが震えている。


 書くな。


 いや、これは記録すべきかもしれない。


 セシルは続けた。


「ただし、私は善人になったわけではありません。あなた方を見下す気持ちも、まだ残っています。踏むのが気持ちよかったと、以前申し上げました。それも消えておりません」


 最悪の自己紹介である。


 だが、正直だった。


 部屋の令嬢たちは戸惑っている。


 当然だ。


 加害側の人間が、いきなり「まだ見下してます」と言いながら入会希望してきたのだ。入会申込書に書くことではない。人類の社会性はどこへ行った。


「それでも」


 セシルはリリアナを見た。


「もし、この会が本当に、自分の醜さを見ないふりしない場であるなら」


 彼女の声が少し震えた。


「私も、参加してみたい」


 リリアナはまだ固まっている。


 私は何も言わない。


 言うな。


 これはリリアナの場面だ。


 リリアナは、震える手で紙を握りしめた。


 そして、深く息を吸った。


「……セシル様」


「はい」


「参加を、歓迎します」


 部屋がざわめく。


 セシルの顔に、ほんの少し安堵が浮かんだ。


 だが、リリアナは続けた。


「でも、もし誰かを傷つける言葉を言ったら、止めます」


 セシルの目が見開かれる。


「私が怖くても、止めます。たぶん、声は震えます。でも、止めます」


 リリアナの声は震えていた。


 でも、まっすぐだった。


「それでも、参加されますか?」


 今度はセシルが黙った。


 少しして、彼女は笑った。


 楽しそうではない。


 苦しそうでもない。


 何かを受け入れるような笑みだった。


「ええ」


 彼女は言った。


「その時は、止めてくださいませ」


 リリアナは頷いた。


「はい」


 セシルは席に着いた。


 だが、すぐには誰も話しかけない。


 当然だ。


 歓迎と安心は別である。


 クラリスが記録する。


 私は遠くからそれを見ていた。


 セシルが白百合会に入った。


 これは大きい。


 上級貴族令嬢の参加。


 しかも元加害側。


 会は、ただの下級令嬢互助会ではなくなる。


 対話の場になるかもしれない。


 あるいは、分裂の火種になるかもしれない。


 どちらもあり得る。


 リリアナが進行を再開する。


「では、セシル様にも紙を」


 クラリスが紙を渡す。


 セシルはペンを取った。


 少し迷ってから、何かを書いた。


 提出された紙を、リリアナが読む。


「私は、誰かを踏まないと、自分の立つ場所がなくなる気がします」


 部屋が静まり返った。


 セシルは前を向いたまま、顔を赤くしていた。


 その紙には名前がなかった。


 だが、誰のものかは明らかだった。


 リリアナはその紙を、他の紙と同じように置いた。


 特別扱いしなかった。


 それが、たぶん正しかった。


「では、この困りごとも、記録します」


 クラリスが頷いた。


 マチルダが分類を考える。


「これは……身分不安、でしょうか」


 セシルが小さく言った。


「醜悪な優越感、でも構いませんわ」


 クラリスが真剣に悩み始める。


「分類名としては、少し強すぎるかもしれません」


「では、立場喪失への恐れ、では?」


 レオンハルトがつい口を出した。


 全員が振り向く。


 彼は少しだけ気まずそうにした。


「……求められていませんでしたね」


 私は小声で言った。


「一割ですか」


「一割です」


 だが、マチルダが頷いた。


「立場喪失への恐れ。分かりやすいです」


 クラリスが書く。


 セシルは不満そうにしながらも、否定しなかった。


 会は進んだ。


 困りごとは、二十九枚から三十五項目に整理された。


 重複があったからだ。


 教本、授業、寮、社交、婚約、家庭、身分不安、発言の制限。


 白百合会は次回までに、それぞれの項目について「自分たちでできること」と「教師や学生会に相談すべきこと」を分けることになった。


 もう完全に組織活動である。


 発足三日目でこれ。


 人類の組織化能力は恐ろしい。戦争も労働組合も趣味サークルも、同じエンジンで動いている気がする。たぶん燃料は不満だ。


 茶話会が終わったあと、令嬢たちは少しずつ帰っていった。


 セシルも立ち上がる。


 彼女は私の前に来た。


「何もおっしゃらないのですね」


「今日は、あなたがリリアナさんに話しましたから」


「あなたは、本当に中心に立つ気がありませんの?」


「立ちたくなるので、立たないようにしています」


 セシルは私をじっと見た。


「変な方」


「最近よく言われます」


「以前より、ずっと面倒ですわ」


「それもよく言われます」


「でも」


 セシルは扇で口元を隠した。


「少しだけ、楽でした」


「何が?」


「醜いことを言っても、すぐに追い出されなかったことが」


 私は黙った。


 セシルは視線を逸らす。


「だからといって、感謝はしません」


「ええ」


「あなたに感謝すると、またあなたの側に立ちたくなりますもの」


 私は少し笑った。


「賢明です」


「腹が立つ言い方ですわね」


 セシルは踵を返した。


 去り際に、彼女はリリアナのほうを見た。


「リリアナ様」


 リリアナがびくっとする。


「次回も、参加してよろしいかしら」


 リリアナは驚いた顔をしたあと、少しだけ笑った。


「はい。お待ちしています」


 セシルは何も言わずに出ていった。


 その背中は、まだ硬い。


 だが、昨日よりは少しだけ軽く見えた。


 私は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。


 いい。


 これは、いい方向だ。


 そう思った瞬間。


 クラリスがこちらに駆け寄ってきた。


「エリシア様」


「何?」


「本日の議事録ですが、確認をお願いできますか」


「私が確認すると、私の会になります」


「では、レオンハルト様に」


「それも危険です」


 レオンハルトが静かに言う。


「私が見ると、整えすぎる可能性があります」


「自覚があるのはよいことです」


「改善は未定です」


「改善してください」


 クラリスは困ったようにノートを抱えた。


「では、誰に確認していただけば」


 リリアナが考え込む。


 マチルダが言った。


「会の参加者で、次回の最初に確認するのはどうでしょう」


「全員で?」


「はい。書記がまとめた記録を、会の皆で読んで、違うところがあれば直す」


 クラリスの目が輝いた。


「共同確認ですね」


 レオンハルトが少し頷く。


「妥当です」


 私は微笑んだ。


「よいと思います」


 マチルダはぱっと顔を赤くした。


「ありがとうございます」


 この子も、少しずつ前に出てきている。


 最初は会計役として名乗っただけだったのに、今は運営の方法を提案している。


 数字が読める子は、構造も見える。


 貴族社会はこういう子を「商人の娘のよう」と笑う。


 笑わせておけばいい。


 金勘定のできない貴族など、豪華な借金製造機である。


「マチルダさん」


「はい」


「あなたの提案は、会を私から遠ざける助けになります」


 マチルダは少し驚いた。


「それは、よいことなのですか?」


「ええ」


「でも、エリシア様は」


 彼女は少し迷ってから言った。


「寂しくありませんか?」


 今日、何度目だろう。


 その質問。


 私は笑ってしまった。


「寂しいわ」


 部屋が静かになる。


 クラリスも、リリアナも、マチルダも、レオンハルトも、アルヴィンも私を見る。


 見るな。


 いや、見ていい。


 これはたぶん、言うべきことだ。


「私は、あなたたちに頼られると嬉しい。褒められると嬉しい。お姉様と呼ばれると、困るけれど、少し嬉しい」


 リリアナの顔が赤くなる。


 クラリスがペンを構えた。


「書かない」


「はい」


「でも、その嬉しさに甘えると、私はあなたたちが私なしで立つことを邪魔するかもしれない」


 私はゆっくり言う。


「だから、寂しくても、離れる練習をします」


 リリアナの目が潤む。


 クラリスが唇を噛む。


 マチルダは考え込むように紙を見ている。


 レオンハルトは静かに私を見ていた。


 アルヴィンは、少し痛そうな顔をしていた。


 私は続けた。


「あなたたちも、私を見るだけではなく、互いを見なさい。自分を見なさい。私に救われるのではなく、自分たちで助け合う方法を探しなさい」


 そこまで言って、私は息を吐いた。


「そして、私がまた中心に立ちたがったら」


 少し笑う。


「止めて」


 沈黙。


 長い沈黙。


 最初に頷いたのは、リリアナだった。


「はい」


 次にクラリス。


「記録します」


「それはしていいです」


 クラリスは嬉しそうに書いた。


 マチルダも頷く。


 レオンハルトが静かに言う。


「あなたを管理するのではなく、相互に止める仕組みが必要ですね」


「また仕組みにする」


「必要です」


 アルヴィンも言った。


「私も止める」


「殿下まで?」


「君が私を止めたように」


 その目は真剣だった。


 少し重い。


 けれど、前よりはましだ。


 裁かれたい目ではない。


 対等であろうとする目だ。


 たぶん。


 私は頷いた。


「では、その時はお願いします」


 その夜。


 白百合会の議事録には、こう書かれた。


『第二回茶話会。

 私たちは、困りごとを記録した。

 怒りで動く前に、準備することを決めた。

 セシル様が参加した。

 エリシア様は、私たちに頼られることが嬉しいとおっしゃった。

 けれど、それに甘えると私たちの自立を邪魔するかもしれないとも。

 私たちは、エリシア様が中心に立ちすぎた時、止めることを約束した。

 これは少し怖い。

 でも、エリシア様も怖いのだと思う。

 だから、私たちはたぶん、同じ場所ではなく、同じ怖さの前に立っている。』


 クラリスは、その最後に小さく自分の言葉を添えていた。


『私は、エリシア様のお言葉を書き残したい。

 でも今日、初めて思った。

 いつか、エリシア様がいなくても、この記録が続くようにしたい。

 その日が来たら、私は少し泣くと思う。

 でも、きっと嬉しい。』


 私はそれを読んで、しばらく黙った。


 そして、ほんの少し泣きそうになった。


 泣かなかった。


 公爵令嬢だから。


 いや、たぶん意地だ。


 翌日。


 白百合会の噂は、さらに広がっていた。


 下級貴族令嬢の互助会に、侯爵令嬢セシル・バルディアが参加した。


 王太子殿下と宰相家嫡男が後方で見守った。


 公爵令嬢エリシアは、自分が中心に立つことを拒んだ。


 その噂は、学園の中だけでは収まらなかった。


 社交界の夫人たちの茶会へ。

 学生の家族への手紙へ。

 使用人たちの噂話へ。

 そして、王都の片隅にある小さな礼拝堂へ。


 そこに、聖女候補の少女がいた。


 まだ学園には入っていない。


 名は、ミリア・アストレイ。


 平民出身。


 白い髪に、淡い金の瞳。


 ゲームの原作ヒロイン。


 彼女は、修道女から渡された一枚の写しを読んでいた。


 白百合会の議事録。


 誰が写したのかは分からない。


 けれど、もう言葉はここまで歩いてきていた。


 ミリアは、紙に書かれた文章を指でなぞる。


『私が中心に立ちすぎた時、止めて』


 彼女は、うっとりと息を吐いた。


「なんて、美しい方」


 その目には、憧れがあった。


 敬意があった。


 そして、危うい光があった。


「自らの影まで知り、それでも人々を導こうとなさるなんて」


 違う。


 導こうとしていない。


 むしろ降りようとしている。


 だが、紙の上の言葉は、もう本人の意図を離れている。


 ミリアはそっと微笑んだ。


「エリシア様。あなたの物語は、きっとまだ始まったばかりなのですね」


 物語。


 彼女はそう言った。


 人間を物語として読む少女。


 苦しみを筋書きに変える少女。


 他人の傷を、美しい章題で包む少女。


 彼女はまだ、私を知らない。


 私もまだ、彼女を知らない。


 けれど、私の言葉はすでに彼女に届いてしまった。


 その夜、ミリアは自分の日記にこう書いた。


『白百合の君。

 彼女は悪役ではない。

 きっと、救済者だ。

 私が学園に入ったら、彼女の物語を見届けたい。

 いいえ、必要ならば、私がその物語を正しく伝えなければ。』


 言葉は歩く。


 記録は残る。


 そして、誰かがそれを読む。


 読むという行為は、時々、祈りよりも危険である。


 なぜなら人間は、読んだものを理解したつもりになるからだ。


 翌朝。


 私は学園の廊下で、また新しい噂を聞いた。


「白百合会は、学園を変えるらしい」


「エリシア様は、下級貴族の令嬢たちを率いて上級貴族に対抗するおつもりだとか」


「セシル様まで取り込まれたそうよ」


「王太子殿下も支持しているらしいわ」


 違う。


 全部少しずつ違う。


 だが、完全な嘘でもない。


 それが一番厄介だった。


 嘘は否定できる。


 だが、少し真実を含んだ誤読は、なかなか死なない。


 私は廊下の窓に映る自分を見た。


 白百合の君。


 救済者。


 改革者。


 悪役令嬢ではない何か。


 そんなものではない。


 私はただ、破滅を避けたかっただけだ。


 少しお姉様ロールを楽しみたかっただけだ。


 誰かに必要とされる甘さに、少し酔っているだけだ。


 それなのに、世界は私に役を与え始めている。


 私は窓から目を逸らした。


「……早めに、火消しが必要ね」


 そう呟いた瞬間。


 背後から声がした。


「火を消すのは、火がどこにあるか分かってからのほうがいい」


 振り向く。


 そこには、レオンハルトが立っていた。


 手には新しい書類。


 私は嫌な予感しかしなかった。


「何ですか、それは」


「白百合会に関する噂の分布図です」


「作らないでください」


「必要です」


「また必要」


「今回は本当に必要です」


 彼は紙を広げた。


 そこには、学園内の派閥と噂の経路が細かく記されていた。


 そして、赤い印がいくつかある。


「この印は?」


「意図的に噂を歪めて流している可能性が高い者たちです」


「誰です」


「上級貴族令嬢の一部。そして、男子生徒の一部」


 レオンハルトは淡々と言った。


「彼らは、白百合会を下級貴族令嬢による反上級貴族運動として扱いたがっています」


「なぜ?」


「潰しやすいからです」


 冷たい言葉だった。


「互助会なら潰しにくい。自分の言葉を持つ会なら、なおさらです。しかし、反上級貴族運動なら、秩序を乱す危険団体として扱えます」


 私は黙った。


 早い。


 反発が早い。


 まだ会は二回しか開いていない。


 それでも、既存の秩序は反応している。


 人間社会は、自分の足元が揺れそうになると異様に敏感だ。普段は鈍いくせに。嫌なところだけ高性能である。


「どうしますか」


 レオンハルトが聞く。


「私が中心になって否定すれば、白百合会は私のものになる」


「はい」


「学生会が守れば、王太子殿下の政治的庇護と見られる」


「はい」


「放置すれば、噂が育つ」


「はい」


「詰んでいませんか?」


「難局です」


「詰んでいるの婉曲表現ですね」


 私はため息をついた。


 その時、廊下の向こうからリリアナが走ってきた。


 顔が青い。


「エリシア様!」


「どうしました」


「白百合会の掲示が……!」


 嫌な予感がして、掲示板へ向かった。


 そこには、昨日貼った第二回茶話会のお知らせの横に、新しい紙が貼られていた。


 筆跡は不明。


 文面は短い。


『白百合会に参加せぬ令嬢は、弱き者を踏む側と見なす』


 私は、それを見た瞬間、血の気が引いた。


 違う。


 これは違う。


 白百合会は、そんなことを言っていない。


 だが、白百合の名を使っている。


 誰かが、私たちの言葉を利用し始めた。


 救いの名が、選別の刃になった。


 リリアナが震える声で言う。


「こんなこと、私たちは」


「分かっています」


 クラリスも駆けつけてきた。


 マチルダも。


 少し遅れて、セシルも来た。


 彼女は貼り紙を見て、顔を歪めた。


「始まりましたわね」


「何が?」


「白百合の名を使った、踏みつけが」


 セシルの声は苦かった。


「踏む側が変わっただけですわ」


 私は何も言えなかった。


 その通りだった。


 弱い者を踏むなと言った言葉が、今度は「白百合会に入らない者」を踏むために使われる。


 正義は、向きを変えればすぐ暴力になる。


 私は紙を剥がした。


 だが、もう遅い。


 周囲の生徒たちは見ていた。


 噂は走る。


 言葉は歩く。


 そして今度は、花ではなく刃を持って。


 私は剥がした紙を握りしめながら、静かに言った。


「今日、臨時茶話会を開きます」


 リリアナが私を見る。


「エリシア様が?」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「白百合会が、です」


 そして、少しだけ息を吸う。


「この言葉を、白百合会自身の言葉で否定しなければなりません」


 リリアナは青ざめていた。


 だが、逃げなかった。


「……はい」


 クラリスがノートを開く。


 マチルダが周囲の人を確認する。


 セシルが扇を閉じる。


 レオンハルトが、静かに記録を始める。


 アルヴィンはまだ来ていない。


 だが、きっと噂を聞けば来る。


 私は思った。


 これが最初の試練だ。


 白百合会が、本当に私から離れて立てるのか。


 それとも、私の名前を中心にした新しい序列になるのか。


 そして私は。


 この場で、救済者の席に戻らずにいられるのか。


 廊下の窓から、中庭が見えた。


 白百合が咲いている。


 美しい花だ。


 だが、美しいものほど、人間はすぐ旗にする。


 旗になった花は、いつか誰かを殴る棒に結ばれる。


 まったく、救いがたい。


 それでも。


 私はまだ、あの花を捨てたくなかった。


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