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第4話 白百合会、設立される

 学園の掲示板の前で、私は一枚の紙を握りしめていた。


『白百合の君を慕う会

 第一回茶話会のお知らせ』


 主催、クラリス・メイフィールド。

 補佐、リリアナ・ベル。


 議題。


 一、エリシア様のお言葉について。

 二、私たちはいかに自分の言葉を持つべきか。

 三、お姉様呼称の使用範囲について。


 最後が特におかしい。


 なぜ議題化されているのか。

 なぜ使用範囲を定めようとしているのか。

 なぜ私本人の許可なく、呼称の運用規則が生まれようとしているのか。


 人類は名前をつけた瞬間に、対象を所有できると思いがちである。よくない。非常によくない。


 私は深呼吸した。


「クラリスさん」


「はい」


「これは何?」


 目の前のクラリスは、両手を胸の前で重ね、まるで罪を告白する修道女のような顔をしていた。


 いや、罪はある。


 掲示物としてはかなりある。


「茶話会のお知らせです」


「それは読めば分かります」


「では、何をお尋ねでしょうか」


「なぜ、これを貼ったのかと聞いています」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


 その横で、リリアナが不安そうにこちらを見ている。


 周囲には下級貴族令嬢たちが集まっていた。昨日より増えている。明らかに増えている。数で言えば十五人ほど。


 十五人。


 もう小規模な派閥である。


 貴族社会では、三人で噂、五人で派閥、十人で陰謀、十五人で歴史が動く。人間社会は人数に対する耐性が低すぎる。


「エリシア様のお言葉を、ただ崇めるだけではいけないと思いました」


 クラリスは言った。


「それは、昨日エリシア様が教えてくださったことです」


「私は教祖ではありません」


「はい。ですから、会の目的も信仰ではありません」


「会の目的?」


 嫌な言葉が出た。


 クラリスは持っていたノートを開いた。


 またノートだ。


 もうこの子からノートを取り上げるべきかもしれない。だが、文字を書く自由を奪うのはまずい。いや、でもこの場合は危険物管理では。

 クラリスは読み上げた。


「白百合会の目的。一、身分の上下にかかわらず、学びを志す令嬢が互いに助け合うこと」


 周囲の令嬢たちが頷く。


「二、誰かの言葉をただ写すのではなく、自分の言葉を持つ練習をすること」


 リリアナが真剣な顔で頷く。


「三、エリシア様をお慕いしつつ、エリシア様に依存しすぎないよう、互いに自立を促すこと」


「待ちなさい」


 私は手を上げた。


 クラリスが止まる。


「三番目、矛盾していませんか」


「どの部分がでしょう」


「私を慕う会が、私に依存しないことを目的にしているところです」


「だからこそ必要なのです」


 クラリスは真顔だった。


「私たちは、エリシア様をお慕いしております」


「そこから間違いを修正したいのですが」


「ですが、エリシア様は私たちに、自分の足で立てとおっしゃいました」


「そこまでは言っていません」


「怖いままで一歩だけ進みなさい、とも」


「言いましたね」


「ならば、私たちは進まねばなりません。けれど、一人では怖いのです」


 リリアナが小さく頷いた。


 他の令嬢たちも、視線を落とす。


 その顔を見て、私は言葉を止めた。


 そうだ。


 彼女たちは怖いのだ。


 下級貴族の令嬢たち。


 家格の低さ。

 嫁ぎ先への不安。

 社交界での軽視。

 上級貴族からの圧力。

 家族からの期待。

 学園内の序列。


 誰かに頼るな、と言うのは簡単だ。


 だが、自立とは、孤独になれという意味ではない。


 私が本当に彼女たちを私から離したいなら、私以外のつながりを作る必要がある。


 それは正しい。


 正しいのだが。


「なぜ名前が白百合会なのですか」


 私は低い声で聞いた。


 クラリスは目を逸らした。


 リリアナも目を逸らした。


 周囲の令嬢たちも、少しずつ目を逸らした。


「全員、目を逸らさない」


 戻った。


「……候補はいくつかありました」


 クラリスが言う。


「聞きましょう」


「自主学習互助会」


「良い」


「令嬢相互研鑽会」


「硬いけれど良い」


「リリウム学園下級貴族女子学生自立支援連絡会」


「行政文書?」


「そして、白百合会」


「なぜそれが採用されたのですか」


 クラリスは、少しだけ頬を染めた。


「響きが美しいので」


 却下。


 即座に却下したい。


 だが周囲の令嬢たちの顔を見ると、全員どこか誇らしげだった。


 白百合会。


 その名前は、彼女たちにとって単なる美称ではないのだろう。


 昨日まで、彼女たちは誰かの影だった。


 男爵家の娘。

 子爵家の三女。

 嫁ぎ先を待つ駒。

 上級貴族に頭を下げるだけの存在。

 背景。


 そこに名前が与えられた。


 会の名前。


 自分たちが集まる理由。


 それが、彼女たちを少しだけ強くしている。


 私はそれを、完全には否定できなかった。


 名前は危険だ。


 だが、名前がなければ始まらないものもある。


 面倒くさい。


 言葉というものは、どうしてこう両刃なのか。人類は刃物を見つけるとすぐ料理と殺傷の両方に使う。言葉も同じだ。救いようがない。


「……分かりました」


 私が言うと、令嬢たちの顔が明るくなった。


「ただし」


 全員が背筋を伸ばす。


「いくつか条件があります」


「はい」


 クラリスは即座にペンを構えた。


「書かない」


「条件ですので」


「なら書きなさい」


 もう疲れた。


「一つ。私の語録を暗唱しないこと」


 クラリスが書く。


「二つ。私の言葉を会の規則にしないこと」


「はい」


「三つ。お姉様呼びを制度化しないこと」


 何人かが小さく落胆した。


 落胆するな。


「四つ。白百合会は、私を中心とする会ではなく、あなたたち自身の学びと助け合いのための会であること」


 クラリスのペンが止まった。


 リリアナがこちらを見る。


「私たち自身の……」


「ええ」


 私は全員を見回した。


「私を慕う気持ちがあるなら、それは否定しません。否定しても、たぶんあなたたちは聞かないでしょうし」


 令嬢たちが少しだけ気まずそうにする。


「でも、私だけを見る会にはしないで。私を見ている間は、あなたたちはあなた自身を見なくて済んでしまうから」


 沈黙。


 また静かになった。


 最近、私の周囲はすぐ静かになる。


 私は何か余計なことを言ったのだろうか。


 いや、たぶん言った。


 毎回言っている。


 クラリスはゆっくりとペンを動かした。


「私を見ている間は、自分を見なくて済む……」


「語録にしない」


「はい。これは議事録です」


「議事録ならよいという話ではありません」


 リリアナが、そっと言った。


「エリシア様」


「何?」


「私、昨日から考えていました。エリシア様に助けていただいたとき、私はとても嬉しかったのです。でも、それだけではありませんでした」


 彼女は胸元の修繕されたノートを抱きしめた。


「私は、自分が助けられるべき人間だと思えて、嬉しかったのです」


 私は黙った。


「それまでは、身分が低いから仕方ない。家にお金がないから仕方ない。うまく挨拶できなかった私が悪い。そう思っていました」


 リリアナの声は小さい。


 だが、はっきりしていた。


「でも、エリシア様が『あなたは無礼ではない』と言ってくださった時、初めて、自分が間違っていないかもしれないと思えました」


 重い。


 また重い。


 私の一言が、彼女の中でそんなふうに残っている。


 私はその重さを受け止めるべきなのか、逃げるべきなのか、まだ分からない。


「だから、私は白百合会を作りたいです」


 リリアナは言った。


「私のように、自分が助けられていいのか分からない子が、他にもいるかもしれないから」


 それは、とてもまっすぐな言葉だった。


 私ではなく、リリアナ自身の言葉だ。


 私は少し、嬉しかった。


 そして、やはり少し寂しかった。


 彼女が自分の言葉で立ち始めている。


 それを喜べない部分が、私の中に確かにある。


 最悪だ。


 自分の中の小さな悪意ほど処分に困るものはない。大きな悪なら斬れる。小さな悪は、日常の顔をして居座る。


「リリアナさん」


「はい」


「今の言葉は、あなたのものですね」


「……はい」


「なら、その会には意味があります」


 リリアナの顔が明るくなる。


「ただし、私の名前を前面に出さないこと」


 クラリスが紙を見た。


「では、白百合会は」


「その名前も再検討」


 全員が固まった。


 まるで王国滅亡の知らせを受けたような顔をしている。


 名前への執着が強い。


「……白百合会では、いけませんか」


 クラリスが小さく聞いた。


「いけないというより、危ないのです」


「危ない」


「白百合は、もう私の呼び名と結びついているでしょう」


「はい」


「なら、その名前を使えば、会は自然と私を中心に動くようになる」


 クラリスは黙った。


「それはあなたたちのためにならない」


「……ですが」


「ですが?」


「私たちは、エリシア様に出会わなければ、この会を作ろうとは思いませんでした」


 クラリスはノートを抱きしめる。


「その始まりまで、なかったことにはしたくありません」


 私は言葉に詰まった。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 だが、これは大事な面倒くささだ。


 私を中心にしたくない。

 でも、私との出会いで始まったことまで否定したくない。


 それは、たぶん正しい。


 自立とは、過去の恩を消すことではない。


 恩に縛られずに、恩を持ったまま歩くことだ。


 こういう正しそうな言葉を考え始めると危ない。すぐ語録化される。自制しろ、私。


「では、こうしましょう」


 私は言った。


「正式名称は、令嬢相互研鑽会」


 令嬢たちが一斉にしょんぼりした。


「通称として、白百合会」


 令嬢たちの顔がぱっと明るくなる。


 感情が分かりやすすぎる。


「ただし、白百合とは私一人を指すものではありません」


「では、何を?」


「あなたたち自身です」


 言った瞬間、全員が固まった。


 しまった。


 またやった。


 美しいことを言ってしまった。


 人類はなぜ、危険な場面ほどそれっぽい比喩を口走るのか。私だけか。私だけかもしれない。嫌だ。


「白百合は、誰か一人の象徴ではなく、この会に参加する一人一人の象徴とします」


 もう止まらない。


 言葉が勝手に歩き出している。


「私に向けて花を捧げるのではなく、あなたたちが自分自身に花を持てるように」


 クラリスが泣いた。


 リリアナも泣いた。


 周囲の令嬢たちも、何人か泣いた。


 そしてクラリスのペンが走った。


「クラリスさん」


「はい」


「今のは書いてはいけない部類です」


「申し訳ありません。もう書きました」


「速い」


 速すぎる。


 彼女の筆記速度が憎い。


 その時、背後からぱちぱちと拍手が聞こえた。


 振り返る。


 そこにレオンハルト・ヴァイスが立っていた。


 手には例の書類束。


『白百合会運営規約案』


 相変わらず腹の立つほど整った字である。


「見事です、エリシア嬢」


「何がですか」


「名称問題を、中心性の解体と象徴の分散によって解決した」


「そういうつもりで言っていません」


「結果としてはそうです」


「結果が勝手に賢そうになるのをやめてください」


 レオンハルトは無表情のまま、書類を差し出した。


「では、改訂版を作成します」


「待ちなさい」


「何でしょう」


「あなたはなぜ当然のように運営に関わろうとしているのですか」


「情報流通の制御には、初期規約が重要です」


「それは分かりますが、あなたは男子生徒でしょう」


「顧問補佐という立場なら可能です」


「誰が顧問ですか」


「現時点では未定です」


「未定なのに補佐が先にいるのはおかしい」


「人材確保は早いほうがいい」


 理屈が強い。


 腹が立つ。


 レオンハルトはクラリスの掲示紙を見た。


「議題三、お姉様呼称の使用範囲について。これは削除すべきです」


「珍しく同意します」


「公式文書に載せるには不適切です。非公式慣行として残すほうが摩擦が少ない」


「同意を返してください」


 この男も危険だ。


 昨日の時点では観察者だったはずなのに、もう規約を持ってきている。


 管理癖のある人間に、新しい組織を見せてはいけない。すぐに定款を作る。文明の悪い癖だ。


「レオンハルト様」


「はい」


「あなた、楽しんでいますね」


「少しだけ」


「昨日もそれを言いましたね」


「正確には、今朝が二回目です」


「記録しない」


「記憶です」


 私は頭を抱えた。


 リリアナたちは、レオンハルトを少し怖がっている。


 当然だ。宰相家の嫡男で、成績首席、冷徹な美貌、情報管理の化け物。普通に近寄りがたい。


 だが、クラリスだけは少し違った。


 彼女はレオンハルトの書類を見て、目を輝かせている。


「そ、その規約案、拝見してもよろしいでしょうか」


「構いません」


「ありがとうございます」


 クラリスは受け取って読み始めた。


 まずい。


 書記型令嬢と管理型貴公子が接続した。


 これは危険な化学反応である。


 紙が増える。


 絶対に紙が増える。


「クラリスさん、参考にするだけですよ」


「はい」


「写しませんよ」


「……一部だけなら」


「写さない」


「では、要約を」


「しない」


「感想文は」


「それは許します」


 クラリスの顔が明るくなる。


 どうしてこんなに教育現場みたいになっているのか。私は悪役令嬢だったはずだ。いつの間に作文指導をしている。


 レオンハルトが淡々と言う。


「会を設立するなら、役割を定める必要があります」


「役割?」


「代表、書記、会計、連絡係、顧問」


「待ちなさい。まだ設立を認めたわけでは」


 令嬢たちが一斉にこちらを見る。


 期待。


 不安。


 祈り。


 やめろ。


 その目で見るな。


 私が認めるかどうかで、この会の存在が決まるみたいになる。


 それがもう危ない。


「私が認めるかどうかではありません」


 私は言った。


「あなたたちが必要だと思うなら、あなたたちが責任を持って作りなさい」


 リリアナが息を呑む。


「エリシア様は、許してくださらないのですか」


「許す、許さないではないのです」


 私はゆっくりと言葉を選ぶ。


「あなたたちが、自分たちで決めることです」


 令嬢たちは黙った。


 これは、私にとっても怖いことだった。


 私が「許します」と言えば、楽だ。


 彼女たちは喜ぶ。

 私も感謝される。

 会は私の庇護下に入る。

 私は中心でいられる。


 でも、それでは駄目だ。


 彼女たちは、私の許可で動くことになる。


 それは、私を頂点にした温室の始まりだ。


 そして、私はたぶんそれを心地よく感じてしまう。


 だから、手を離さなければならない。


 まだ何も始まっていない今のうちに。


「代表を決めるなら、私ではなく、この会に参加するあなたたちの中から選びなさい」


 私は言った。


「私を顧問にもしないこと」


 クラリスが露骨に落ち込んだ。


「では、名誉顧問は」


「しない」


「相談役は」


「しない」


「象徴顧問は」


「役職を作らない」


 なぜそんなに私を置きたがるのか。


 いや、分かる。


 私がいれば安心なのだ。


 公爵令嬢。

 王太子と話せる。

 上級貴族令嬢にも物申せる。

 白百合の君とかいう、本人にとっては迷惑な称号まである。


 彼女たちにとって、私は盾だ。


 そして私は、盾であることに酔える。


 だから危ない。


「エリシア様」


 リリアナが言った。


「もし、私たちだけでは失敗したら?」


「失敗しなさい」


 リリアナが目を見開く。


「失敗して、直しなさい」


 私は少しだけ微笑む。


「私が最初から正解を渡したら、あなたたちはずっと私の答えを探すようになります」


 クラリスのペンが動きかける。


 私は見た。


 止まった。


 偉い。


「失敗しても、見捨てるつもりはありません」


 令嬢たちの表情が揺れる。


「けれど、私が代わりに成功させるつもりもありません」


 沈黙。


 今度の沈黙は、祈りの沈黙ではなかった。


 考える沈黙だった。


 それは少しだけ、いいものに見えた。


 レオンハルトが口を開く。


「では、初回茶話会は本日放課後、北棟サロンで行うのが妥当です」


「なぜあなたが進めるのですか」


「会場を押さえました」


「いつの間に」


「今朝」


「早い」


「反対派が会場を先に押さえる可能性があったため」


 有能。


 だが勝手。


 有能な勝手者は本当に迷惑である。無能な善人より歴史を動かすぶん、さらに厄介だ。


「レオンハルト様」


「はい」


「あなたは白百合会に何を求めているのですか」


「観察です」


「正直ですね」


「それと、実験です」


「もっと悪くなりました」


 レオンハルトは書類を整えた。


「身分の低い令嬢たちが、上級貴族の庇護なしに相互支援組織を形成できるのか。形成できるとすれば、既存の学園秩序にどのような影響を与えるのか。非常に興味深い」


 令嬢たちが少し引いた。


 私も引いた。


「あなた、人間を人間として見ていますか」


「努力しています」


「努力段階なのですか」


「はい」


 そこで素直に言われると困る。


 レオンハルトは、少しだけ視線を落とした。


「私は、混乱を好みません」


「知っています」


「ですが、すべてを管理することも不可能だと、昨日理解しました」


「本当に?」


「少なくとも、あなたは管理不能です」


「褒められていませんね」


「褒めていません」


 でしょうね。


「だから、観察します。管理ではなく」


 レオンハルトは言った。


「この会がどう動くのか。あなたの言う、自分で失敗し、直す、という非効率な過程が、本当に有効なのか」


 彼は令嬢たちを見た。


「そして、可能であれば、記録します」


 クラリスが目を輝かせた。


 そこに反応するな。


「記録は必要でしょうか」


 リリアナが恐る恐る聞く。


 レオンハルトは頷く。


「必要です。記録されないものは、後から都合よく歪められます」


 私は彼を見た。


 昨日聞いた彼の過去が、頭をよぎる。


 言葉が家を壊した少年。


 記録によって世界を押さえようとする男。


 その彼が、今は白百合会の記録を作ろうとしている。


 危ない。


 でも、完全に悪いことではない。


「では、記録係はクラリスさん。ただし、会の発言をそのまま写すだけではなく、誰が何を考えたか、本人に確認すること」


 私は言った。


「勝手に解釈しない」


 クラリスが真剣に頷く。


「はい」


「そして、記録は会の参加者が見られるようにする。誰か一人が握らない」


 レオンハルトがわずかに目を細めた。


「透明性の確保ですか」


「そんな賢そうな言い方をしないでください」


「ですが、正しい」


「腹が立ちます」


 レオンハルトは少しだけ口元を緩めた。


 笑ったのかもしれない。


 分かりにくい男だ。


「代表はどうするのですか」


 クラリスが聞く。


 令嬢たちの視線が、自然とリリアナに集まった。


 リリアナは慌てた。


「わ、私ですか? 無理です。私、男爵家ですし、人前で話すのも苦手で」


「それが理由なら、練習になるわ」


 私が言うと、リリアナは泣きそうな顔をした。


「エリシア様」


「嫌なら断っていい」


「嫌、ではありません。ただ、怖いです」


「なら、あなたが決めなさい」


「私が」


「ええ。怖いからやらないのか、怖いけれどやってみるのか」


 リリアナは黙った。


 その手がノートを握る。


 彼女は少し震えていた。


 私は助けたくなった。


 「大丈夫、あなたならできる」と言いたくなった。


 その言葉で、彼女を支えてやりたくなった。


 そして、それを言った瞬間、彼女がまた私を見ると分かっていた。


 だから、黙った。


 黙るのは、助けるより難しい。


 人間は誰かの沈黙に耐えるのが下手だ。すぐ言葉で埋めたがる。埋めた言葉が相手の場所を奪うこともあるのに。


 長い沈黙の後、リリアナは顔を上げた。


「……やってみます」


 小さな声だった。


 でも、自分の声だった。


「代表を、やってみます」


 令嬢たちの間に、柔らかなざわめきが広がった。


 クラリスが拍手した。


 他の令嬢たちも続く。


 リリアナは真っ赤になった。


 私は、その様子を見て胸が温かくなるのを感じた。


 これは、いい。


 とてもいい。


 彼女が自分で決めた。


 私が決めたのではない。


 私の許可ではなく、彼女の選択だ。


 それが嬉しい。


 そしてやはり、少しだけ寂しい。


 私はその寂しさに、名前をつけないでおいた。


 つけたら、たぶん認めてしまうから。


「では、代表はリリアナさん。書記はクラリスさん」


 レオンハルトが淡々と整理する。


「会計は?」


 令嬢たちが顔を見合わせる。


 一人、おずおずと手を上げた。


「私、やってみてもよろしいでしょうか」


 淡い栗色の髪の少女。


 たしか、マチルダ・ロウ。


 準男爵家の娘で、商家の血が入っていると噂されていた。そのせいで、貴族令嬢たちから少し軽く見られている。


「家で帳簿を少し見ておりますので」


 彼女は小さく言った。


 周囲の数人が、少し驚いた顔をした。


 貴族令嬢が帳簿を見る。


 この世界では、それはあまり褒められることではない。


 金勘定は商人の仕事。

 令嬢は優雅に振る舞い、家の利益は父や夫が考えるもの。


 くだらない。


 金を扱えない人間に生活を任せる社会、普通に怖い。人類は権威のある無能に財産を預けすぎる。


「素晴らしいわ」


 私は言った。


 マチルダが目を見開く。


「え?」


「帳簿が読めるのは、大切な力です」


「ですが、母には、あまり人前で言わないほうがいいと」


「なぜ?」


「商人の娘のようだと」


「商人は計算ができます。誇るべきです」


 マチルダの顔が真っ赤になった。


 またやった。


 だが、これは言うべきだ。


「会計はマチルダさんにお願いしては?」


 私はリリアナを見る。


 リリアナはすぐに頷いた。


「はい。マチルダさん、お願いできますか?」


 マチルダは驚いたようにリリアナを見た。


 代表が、会計を任命する。


 小さなことだ。


 だが、今ここで初めて、リリアナは代表として誰かに頼んだ。


 マチルダは胸元で手を握った。


「はい。必ず」


 クラリスがまた書く。


 レオンハルトが頷く。


「最低限の役職は整いました。顧問は後ほど教師から選出すべきです。候補としては、文学担当のエミリア・ロゼ教諭が妥当でしょう」


「なぜ?」


「女子学生の自主活動に理解があり、上級貴族に過度に迎合しない。加えて、あなたに対して過去に三度注意した記録があります」


「それは有望ですね」


 私に注意できる教師は貴重だ。


 前のエリシアに注意するなど、なかなかの胆力である。教育者としてかなりまとも。貴族社会ではまともな人間ほど苦労する。悲しい生態系だ。


「では、放課後の茶話会は?」


 リリアナが聞く。


 全員が私を見る。


 私は首を横に振った。


「私を見ない」


 リリアナははっとした。


 そして、自分で考えるように目を伏せた。


「……予定通り、行います」


 彼女は言った。


「ただし、掲示の文面は修正します。エリシア様のお言葉について、ではなく、私たちが学園で困っていること、必要な助け合いについて話し合う場にします」


 クラリスが頷く。


「議題二は残しても?」


「はい。自分の言葉を持つことについては、話したいです」


「議題三は」


 全員がちらりと私を見る。


「削除」


 私が言う前に、リリアナが言った。


 偉い。


 非常に偉い。


 令嬢たちは少し残念そうだったが、反論はしなかった。


「お姉様呼称については、私的な心の問題とします」


 クラリスが真剣に言った。


「それも書かない」


「はい」


 怪しい。


 だが、今はよい。


 鐘が鳴った。


 朝の予鈴。


 令嬢たちは慌てて教室へ向かおうとする。


 リリアナは最後に私の前で立ち止まった。


「エリシア様」


「何?」


「ありがとうございます」


「私は何もしていません」


「はい」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「だから、ありがとうございます」


 私は何も言えなかった。


 彼女は礼をして、走っていった。


 その背中は、昨日より少しだけまっすぐだった。


 私はそれを見送りながら、思った。


 これでいい。


 これでいいのだ。


 彼女たちは私から離れて、自分たちの会を作る。


 私が中心ではない。

 私が許すのではない。

 私が導くのではない。


 それでいい。


 いいはずなのに。


「寂しそうですね」


 横からレオンハルトが言った。


 私は彼を睨んだ。


「記録しないでください」


「表情の変化は記録していません」


「頭の中では?」


「しています」


「やめなさい」


「努力します」


 この男の努力は信用できない。


 レオンハルトは、掲示板から剥がした紙を見た。


「あなたは中心であることを避けようとしている」


「当然です」


「ですが、すでに中心です」


「嫌なことを言いますね」


「事実です」


 事実はだいたい嫌な顔をしている。


「あなたが望まなくても、彼女たちはあなたを始まりとして語るでしょう」


「だから危ないのです」


「はい」


 レオンハルトは頷いた。


「しかし、始まりであることと、支配者であることは別です」


 私は彼を見た。


 彼は淡々と言った。


「あなたは今、それを分けようとしている。興味深い」


「また観察ですか」


「はい」


「腹が立ちます」


「慣れてください」


「嫌です」


 彼は少しだけ笑った。


 やはり笑っている気がする。


 青が妙に柔らかくなっている。


 これはこれでまずい。


 昨日までは管理癖の強い冷蔵庫だったのに、今は少し解凍されている。食品ならよいが、人間だと厄介なことになる。


 午前の授業は、ほとんど白百合会の噂で埋まっていた。


 教師が黒板に古代王朝の制度を説明している間も、生徒たちの視線がちらちらと動く。


 下級貴族令嬢たちは、期待と緊張。


 上級貴族令嬢たちは、警戒と苛立ち。


 男子生徒たちは、面白がる者、無関心を装う者、不快そうな者に分かれている。


 その中で、セシル・バルディアだけは難しい顔をしていた。


 彼女は私を睨んではいなかった。


 むしろ、リリアナたちのほうを見ている。


 何かを考えている顔だった。


 昼休み。


 私は中庭の一角で軽食を取っていた。


 以前の私は、大広間の中央席で取り巻きに囲まれていた。


 今は少し離れた木陰の席。


 静かでよい。


 と、思ったのが甘かった。


「隣、よろしいかしら」


 セシルだった。


 赤い髪を揺らし、扇を手に立っている。


 私は少し驚いた。


「どうぞ」


 彼女は向かいに座った。


 無言。


 長い無言。


 貴族令嬢同士の昼食にしては、空気が重い。前世なら気まずすぎてスマホを見る場面だ。しかしスマホはない。文明がない。いや、文明はあるがスマホがない。つらい。


「白百合会」


 セシルが言った。


「設立なさるそうですわね」


「私は設立しません。彼女たちが設立します」


「同じことですわ」


「違います」


「世間は同じと見ます」


「それは困りますね」


「本当に困っていますの?」


 セシルが私を見る。


 鋭い目だった。


「あなた、困った顔をなさりながら、どこか嬉しそうですわ」


 私は言葉に詰まった。


 まただ。


 彼女は嫌なところを見る。


「……そう見えますか」


「ええ」


「なら、たぶんそうなのでしょう」


 セシルが少し目を見開いた。


「認めますのね」


「否定したところで、あなたは納得しないでしょう」


「しませんわ」


「人に慕われるのは、気持ちがいいものです」


 私は言った。


「それは否定できません」


 セシルは扇を閉じた。


「正直ですのね」


「最近、正直な醜さは扱いやすいと誰かに言いましたので」


「私ですわね」


「ええ」


 彼女は小さく笑った。


 少しだけ、空気が緩む。


「白百合会に、上級貴族の令嬢は参加できますの?」


 私は彼女を見た。


「あなたが?」


「仮の話です」


「参加したいのですか」


「仮の話です」


「そう」


 私は少し考えた。


「私が決めることではありません。代表はリリアナさんですから」


 セシルの眉が動く。


「男爵家の娘に、私を拒む権限があると?」


「白百合会の中では、あるでしょう」


「……面白いことを言いますわね」


 声が少し低くなる。


 プライドが傷ついたのだろう。


 だが同時に、彼女の目には別の色もあった。


 興味。


 いや、期待かもしれない。


 上級貴族の令嬢であるセシルは、常に上に立つ側だった。


 だがそれは、言い換えれば、下に降りる自由がなかったということでもある。


 彼女は、踏むのが気持ちよかったと言った。


 だが今、その踏む足場が揺らいでいる。


 彼女はそこから落ちることを恐れている。


 同時に、落ちた先に何があるのか見たがっている。


「セシルさん」


「何ですの」


「参加したいなら、あなた自身の言葉でリリアナさんに頼みなさい」


「私が、男爵家の娘に?」


「ええ」


「エリシア様から一言言ってくだされば、済む話ではありませんの」


「済ませません」


 セシルは私を睨んだ。


「意地が悪いですわ」


「そうですね」


「否定しませんの?」


「あなたがリリアナさんに頭を下げるところを見たい、という気持ちが少しあります」


「最低ですわね」


「ええ」


 私は頷いた。


「でも、それだけではありません」


 セシルは黙る。


「あなたが本当に変わりたいなら、私の紹介状ではなく、あなた自身の言葉が必要です」


「……変わりたいなどと、言っておりません」


「では、参加しなくてよいのでは?」


 セシルは扇を握りしめた。


 分かりやすい。


 彼女は言葉を欲しがっている。


 変わりたいと言いたくない。

 でも、変わる入口には立ってみたい。


 人間はいつも入口でうろうろする。入る覚悟も戻る勇気もない。まったく不便な生き物だ。


「私は」


 セシルは小さく言った。


「踏むのが気持ちよかったと言いました」


「はい」


「その気持ちは、今も消えておりませんわ」


「すぐには消えないでしょう」


「もし参加しても、私はまた誰かを見下すかもしれません」


「でしょうね」


「止めてくださる?」


「私ではなく、会の人たちに止めてもらいなさい」


 セシルは私を見た。


「あなたは本当に、私を助ける気がありませんのね」


「あります」


「では」


「だから、私だけが助けないようにしています」


 セシルは言葉を失った。


 私も、言ってから少し黙った。


 今のは危ない。


 語録化される類の言葉だ。


 周囲にクラリスがいなくてよかった。


 と思ったら、茂みの向こうで何かが揺れた。


「出てきなさい」


 私は言った。


 茂みから、クラリスとリリアナが出てきた。


 終わっている。


「盗み聞きはよくありません」


 クラリスは深く頭を下げた。


「申し訳ありません」


 リリアナも真っ赤になっている。


「ご、ごめんなさい。お二人が真剣にお話しされていたので、声をかけるタイミングが」


「どこから聞いていましたか」


 クラリスが目を逸らす。


「白百合会に上級貴族の令嬢は参加できますの、あたりから」


「ほぼ全部ですね」


「はい」


 正直でよろしい。


 よくない。


 セシルは顔を真っ赤にしていた。


 怒りか羞恥か、たぶん両方だ。


「あなたたち、趣味が悪いですわよ」


「申し訳ありません、セシル様」


 リリアナは頭を下げた。


 それから、おそるおそる顔を上げる。


「あの、セシル様」


「何ですの」


「白百合会は、身分にかかわらず参加できる会にしたいと思っています」


 セシルの表情が固まる。


 リリアナは続けた。


「でも、誰かを傷つけるために参加することは、できません」


「……当然ですわね」


「そして、もし誰かを見下してしまった時は、その場で話し合うことにしたいです」


「私を裁くつもり?」


「いいえ」


 リリアナは首を横に振る。


「私も、誰かを怖がって黙ってしまうかもしれません。その時は、止めてほしいです」


 セシルは黙った。


「だから、セシル様が参加されるなら、私も怖いです。でも、来ていただきたいとも思います」


 リリアナの声は震えている。


 だが、逃げていない。


 昨日まで壁際で震えていた少女が、今、侯爵家の令嬢に自分の言葉で話している。


 私は何も言わなかった。


 言いたくなった。


 よく言えたわ、と。

 あなたは強い、と。

 私が誇らしい、と。


 でも、それは今、私の役目ではない。


 リリアナが自分で立っているところに、私が花を飾ってはいけない。


 セシルは長い沈黙の後、扇を閉じた。


「……考えておきますわ」


「はい」


「参加すると決めたわけではありません」


「はい」


「それに、私はあなたを認めたわけでもありません」


「はい」


「返事が素直すぎて腹が立ちますわ」


「す、すみません」


 セシルは立ち上がった。


 去り際、彼女は私をちらりと見た。


「エリシア様」


「何?」


「あなたがいなくても、少しは話せましたわ」


 私は微笑んだ。


「ええ」


「その嬉しそうな顔、腹が立ちますわ」


「これは失礼」


「でも」


 セシルは少しだけ声を落とした。


「……悪くはありませんでした」


 そう言って、彼女は去った。


 私は静かに息を吐く。


 リリアナはその場でへたり込みそうになっていた。


「こ、怖かったです……」


「よく話しましたね」


 私は言った。


 言ってしまった。


 だがこれは、許してほしい。


 リリアナは涙目で笑った。


「ありがとうございます」


 クラリスがノートを開いている。


「クラリスさん」


「はい」


「今の会話は、誰の言葉として記録しますか」


 彼女は少し考えた。


 そして、ノートに書いた。


『リリアナ代表、セシル様に参加条件を説明。声は震えていたが、自分の言葉で話した』


 私は頷いた。


「よろしい」


 クラリスは嬉しそうに微笑んだ。


 その日の放課後。


 北棟サロンには、二十三人の令嬢が集まった。


 当初の予想より多い。


 多すぎる。


 部屋には丸テーブルが三つ。紅茶と焼き菓子。黒板。記録用の紙。レオンハルトが用意した規約案。クラリスのノート。マチルダの簡易帳簿。


 そして、部屋の隅にはなぜか白百合が一輪飾られていた。


「誰ですか、飾ったのは」


 私が聞くと、全員が目を逸らした。


 またか。


「象徴は分散すると言いましたよね」


 クラリスが言った。


「ですので、一輪だけにしました」


「そういう話ではありません」


 リリアナが慌てて前に出る。


「え、ええと。第一回、令嬢相互研鑽会、通称白百合会の茶話会を始めます」


 拍手。


 小さな拍手から始まり、やがて部屋全体に広がる。


 リリアナは真っ赤になった。


 でも、立っていた。


 クラリスが書記席に座る。


 マチルダが会費と茶菓子代の計算表を用意する。


 私は部屋の後方に座った。


 中心ではなく、隅。


 それでも視線は何度もこちらへ向かう。


 私はそのたびに、リリアナを見るよう目で促した。


 最初の議題は、学園で困っていること。


 最初は誰も話さなかった。


 沈黙。


 紅茶の湯気だけが揺れる。


 やがて、一人の令嬢が手を上げた。


「教本を買い替えるのが難しいです」


 別の子が続く。


「上級生のお古を譲っていただく仕組みがあれば」


「でも、直接頼むのは怖いです」


「では、会で仲介しては?」


 少しずつ言葉が出る。


 次に、寮での部屋割り。


 次に、社交界での挨拶の練習。


 次に、婚約話を断る方法。


 そこで空気が重くなった。


 婚約。


 令嬢たちにとって、それは遠い話ではない。


 家のため。

 父の決定。

 持参金。

 相手の家格。

 自分の意思。


 その場にいた何人かが、目を伏せた。


 リリアナは震えながらも、議題を書き留めるようクラリスに頼んだ。


 私は何も言わなかった。


 言いたいことは山ほどある。


 人間を家の取引材料にするな、と。

 本人の意思を聞け、と。

 婚姻政治、滅べ、と。


 だが、それを私が言えば、会は私の怒りに引っ張られる。


 彼女たち自身の言葉が消える。


 だから黙る。


 黙る。


 黙る。


 こんなに苦しいとは思わなかった。


 助言とは麻薬だ。


 必要とされる快感がある。


 黙って見守ることは、その快感を断つことだ。


 私は紅茶を飲んだ。


 味がしない。


 そして、一人の令嬢が言った。


「でも、そんなことを話して、何になるのでしょう」


 部屋が静まる。


 彼女は子爵家の娘、エステルだった。


「私たちがここで話しても、父や兄が決めることは変わりません。家格も、持参金も、婚約も」


 正しい。


 痛いほど正しい。


「自分の言葉を持つと言っても、それを聞いてもらえなければ意味がありません」


 リリアナが言葉に詰まる。


 クラリスもペンを止める。


 全員が沈黙した。


 私は口を開きかけた。


 その瞬間、レオンハルトが後方から紙を差し出した。


 そこには一言だけ書かれていた。


『待て』


 腹が立つ。


 だが、正しい。


 私は黙った。


 沈黙が続く。


 やがて、マチルダが手を上げた。


「意味があるかは、まだ分かりません」


 彼女は小さく言った。


「でも、少なくとも、ここで話したことを記録に残せば、私たちが何に困っていたかは消えません」


 クラリスが顔を上げる。


 マチルダは続けた。


「家では言えなくても、ここで言ったことが残れば、いつか誰かが読むかもしれません。次に同じことで困った子が、私だけではないと思えるかもしれません」


 エステルは黙った。


「それでは足りないかもしれません。でも、何も話さないよりは、少しだけましです」


 リリアナが頷いた。


「私も、そう思います」


 クラリスが書く。


 今度は誰かの名言としてではなく、会の記録として。


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 私が言わなかったから、マチルダが言った。


 私が黙ったから、彼女たちの言葉が出た。


 それは嬉しかった。


 救うよりも、ずっと静かで、ずっと不安定で、でも確かに嬉しかった。


 茶話会は一時間続いた。


 最後にリリアナがまとめた。


「次回までに、それぞれ、自分が学園で困っていることを一つ、自分の言葉で書いてくることにします。名前は書いても、書かなくても構いません」


 クラリスが記録する。


 マチルダが会費の残りを計算する。


 エステルが、少し不満そうながらも紙を一枚受け取る。


 会は終わった。


 大きな変化は何もない。


 王国は変わっていない。

 家父長制も貴族制度もそのまま。

 彼女たちの婚約問題も、教本代も、明日すぐ解決するわけではない。


 だが、部屋を出ていく令嬢たちの顔は、来た時とは少し違っていた。


 自分の困りごとを、初めて言葉にした顔。


 誰かの困りごとを、初めて聞いた顔。


 それだけだ。


 それだけなのに、何かが始まってしまった気がした。


 解散後、私は部屋の隅に残った白百合を見た。


 花は静かに咲いている。


 その前で、リリアナが立ち止まった。


「エリシア様」


「何?」


「今日、私は何度もエリシア様を見そうになりました」


「見ていましたね」


「はい……」


 彼女は恥ずかしそうに笑う。


「でも、最後は少しだけ、自分で話せた気がします」


「ええ」


「怖かったです」


「でしょうね」


「でも、またやりたいです」


 その言葉は、私に向けたものではなかった。


 リリアナ自身の中から出た言葉だった。


「なら、続けなさい」


「はい」


 リリアナは頷いた。


 そして、少し迷ってから言った。


「お姉様」


「公的な場では控えるはずでは?」


「もう茶話会は終わりました」


「そういう解釈をする」


 リリアナは真っ赤になりながらも、続けた。


「今日だけ、言わせてください」


 私は止めなかった。


「私は、いつかエリシア様を見なくても話せるようになりたいです」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 痛い。


 でも、これは良い痛みだ。


 たぶん。


「そうなったら」


 私は微笑んだ。


「名前で呼びなさい」


 リリアナは目を見開いた。


 そして、小さく頷いた。


「はい」


 その夜。


 クラリスの議事録の最後には、こう記された。


『第一回茶話会、終了。

 私たちはまだ何も変えられていない。

 けれど、何に困っているのかを、初めて声にした。

 白百合とは、エリシア様だけを指す花ではない。

 いつか、それぞれが自分の花を持つための名である。』


 私はそれを読んで、しばらく黙っていた。


「どうでしょうか」


 クラリスが不安そうに聞く。


「よく書けています」


「本当ですか?」


「ええ」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、私は思った。


 この子たちは、たぶん少しずつ私から離れていく。


 それでいい。


 それがいい。


 そう思っているのに、やはり少し寂しい。


 私はまだ、白百合の君であることを捨てきれていない。


 救済者ではないと言いながら、救済者の席に未練がある。


 温室の中心に立つことを恐れながら、その温かさを惜しんでいる。


 翌日。


 学園の掲示板には、新しい紙が貼られていた。


『令嬢相互研鑽会、通称白百合会

 第二回茶話会のお知らせ

 議題:私たちが困っていることを、私たちの言葉で書く』


 その下に、小さく追記があった。


『お姉様呼称は非公式とする』


 私はその一文を見て、額を押さえた。


 消えていない。


 非公式になっただけである。


 人類は制度から追い出したものを、慣習として生かす。しぶとい。実にしぶとい。


 だが、掲示板の前では、令嬢たちが笑っていた。


 その中心にいるのは、私ではない。


 リリアナだった。


 私は少し離れた場所から、それを見ていた。


 すると、横にアルヴィンが立った。


「ずいぶん大きくなったな」


「昨日生まれたばかりの会ですが」


「芽は早く伸びる」


「雑草もそうです」


「百合ではないのか?」


「殿下までその呼び名を使わないでください」


 アルヴィンは小さく笑った。


 その表情は、以前より少し柔らかい。


 そして少し危険だ。


「エリシア」


「はい」


「君は、彼女たちから離れようとしているのか」


「離れるというより、中心にならないようにしています」


「それは難しいだろう」


「分かっています」


「寂しくはないのか」


 痛いところを突く。


 赤まで妙に鋭くなっている。


 人を矯正しようとすると、相手からも矯正される。やはり人間関係は危険物だ。


「寂しいです」


 私は正直に言った。


 アルヴィンは少し驚いた顔をした。


「認めるのか」


「否定しても仕方ありません」


「君は、変わったな」


「まだ変わり途中です」


「そうか」


 彼はリリアナたちを見た。


「なら、私もそうなのだろうな」


「殿下も?」


「ああ」


 アルヴィンは静かに言った。


「私は昨日から、怒る練習をしている」


「練習」


「難しい」


「でしょうね」


「だが、少し楽だ」


 彼は私を見た。


「君に裁かれずとも、自分で怒れるようになれば、私は君を必要としなくなるのだろうか」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


 それは、あまりにも直接的だった。


 私が恐れていること。


 彼らが、彼女たちが、私を必要としなくなる日。


 その日を望んでいるのに、恐れている私。


「そうなるべきです」


 私は言った。


「君は、それでいいのか」


「よくないと思う部分があります」


「正直だな」


「最近そればかりです」


 私は小さく笑った。


「でも、そうなるべきです。私がいないと怒れない王太子など、国民が困ります」


「手厳しい」


「殿下のためです」


「そう言われると、少し嬉しい」


「そこで嬉しがらないでください」


 アルヴィンは笑った。


 困った人だ。


 赤も青も、少しずつ変わっている。


 白百合会も動き始めた。


 セシルも、たぶん入口に立っている。


 すべてがよい方向に見える。


 だからこそ、私は怖かった。


 よいことは、人を酔わせる。


 救済は、支配より美しい顔をして近づいてくる。


 自立を願う言葉ですら、誰かを自分の理想に押し込めることがある。


 私はまだ、その境目を知らない。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 白百合会が学園内に広がるにつれて、そこに入りたくても入れない令嬢たちが現れることを。


 白百合の名が、救いではなく新しい序列として使われ始めることを。


 そして、遠くない日。


 この会の記録を読んだ一人の少女が、こう言うことを。


「なんて美しい物語なのでしょう」


 原作ヒロイン。


 聖女候補。


 まだ入学前の彼女は、王都の片隅で、誰かが写した白百合会の議事録を手にしていた。


 その少女は、紙の上の言葉を指でなぞりながら、うっとりと微笑んだ。


「エリシア・フォン・クラウディア様。あなたはきっと、この国の女性たちを救うために生まれた方なのですね」


 違う。


 まったく違う。


 けれど、その誤読はまだ誰にも止められない。


 言葉は歩く。


 そして時々、こちらの知らない場所で、勝手に祈りになる。



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