第4話 白百合会、設立される
学園の掲示板の前で、私は一枚の紙を握りしめていた。
『白百合の君を慕う会
第一回茶話会のお知らせ』
主催、クラリス・メイフィールド。
補佐、リリアナ・ベル。
議題。
一、エリシア様のお言葉について。
二、私たちはいかに自分の言葉を持つべきか。
三、お姉様呼称の使用範囲について。
最後が特におかしい。
なぜ議題化されているのか。
なぜ使用範囲を定めようとしているのか。
なぜ私本人の許可なく、呼称の運用規則が生まれようとしているのか。
人類は名前をつけた瞬間に、対象を所有できると思いがちである。よくない。非常によくない。
私は深呼吸した。
「クラリスさん」
「はい」
「これは何?」
目の前のクラリスは、両手を胸の前で重ね、まるで罪を告白する修道女のような顔をしていた。
いや、罪はある。
掲示物としてはかなりある。
「茶話会のお知らせです」
「それは読めば分かります」
「では、何をお尋ねでしょうか」
「なぜ、これを貼ったのかと聞いています」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
その横で、リリアナが不安そうにこちらを見ている。
周囲には下級貴族令嬢たちが集まっていた。昨日より増えている。明らかに増えている。数で言えば十五人ほど。
十五人。
もう小規模な派閥である。
貴族社会では、三人で噂、五人で派閥、十人で陰謀、十五人で歴史が動く。人間社会は人数に対する耐性が低すぎる。
「エリシア様のお言葉を、ただ崇めるだけではいけないと思いました」
クラリスは言った。
「それは、昨日エリシア様が教えてくださったことです」
「私は教祖ではありません」
「はい。ですから、会の目的も信仰ではありません」
「会の目的?」
嫌な言葉が出た。
クラリスは持っていたノートを開いた。
またノートだ。
もうこの子からノートを取り上げるべきかもしれない。だが、文字を書く自由を奪うのはまずい。いや、でもこの場合は危険物管理では。
クラリスは読み上げた。
「白百合会の目的。一、身分の上下にかかわらず、学びを志す令嬢が互いに助け合うこと」
周囲の令嬢たちが頷く。
「二、誰かの言葉をただ写すのではなく、自分の言葉を持つ練習をすること」
リリアナが真剣な顔で頷く。
「三、エリシア様をお慕いしつつ、エリシア様に依存しすぎないよう、互いに自立を促すこと」
「待ちなさい」
私は手を上げた。
クラリスが止まる。
「三番目、矛盾していませんか」
「どの部分がでしょう」
「私を慕う会が、私に依存しないことを目的にしているところです」
「だからこそ必要なのです」
クラリスは真顔だった。
「私たちは、エリシア様をお慕いしております」
「そこから間違いを修正したいのですが」
「ですが、エリシア様は私たちに、自分の足で立てとおっしゃいました」
「そこまでは言っていません」
「怖いままで一歩だけ進みなさい、とも」
「言いましたね」
「ならば、私たちは進まねばなりません。けれど、一人では怖いのです」
リリアナが小さく頷いた。
他の令嬢たちも、視線を落とす。
その顔を見て、私は言葉を止めた。
そうだ。
彼女たちは怖いのだ。
下級貴族の令嬢たち。
家格の低さ。
嫁ぎ先への不安。
社交界での軽視。
上級貴族からの圧力。
家族からの期待。
学園内の序列。
誰かに頼るな、と言うのは簡単だ。
だが、自立とは、孤独になれという意味ではない。
私が本当に彼女たちを私から離したいなら、私以外のつながりを作る必要がある。
それは正しい。
正しいのだが。
「なぜ名前が白百合会なのですか」
私は低い声で聞いた。
クラリスは目を逸らした。
リリアナも目を逸らした。
周囲の令嬢たちも、少しずつ目を逸らした。
「全員、目を逸らさない」
戻った。
「……候補はいくつかありました」
クラリスが言う。
「聞きましょう」
「自主学習互助会」
「良い」
「令嬢相互研鑽会」
「硬いけれど良い」
「リリウム学園下級貴族女子学生自立支援連絡会」
「行政文書?」
「そして、白百合会」
「なぜそれが採用されたのですか」
クラリスは、少しだけ頬を染めた。
「響きが美しいので」
却下。
即座に却下したい。
だが周囲の令嬢たちの顔を見ると、全員どこか誇らしげだった。
白百合会。
その名前は、彼女たちにとって単なる美称ではないのだろう。
昨日まで、彼女たちは誰かの影だった。
男爵家の娘。
子爵家の三女。
嫁ぎ先を待つ駒。
上級貴族に頭を下げるだけの存在。
背景。
そこに名前が与えられた。
会の名前。
自分たちが集まる理由。
それが、彼女たちを少しだけ強くしている。
私はそれを、完全には否定できなかった。
名前は危険だ。
だが、名前がなければ始まらないものもある。
面倒くさい。
言葉というものは、どうしてこう両刃なのか。人類は刃物を見つけるとすぐ料理と殺傷の両方に使う。言葉も同じだ。救いようがない。
「……分かりました」
私が言うと、令嬢たちの顔が明るくなった。
「ただし」
全員が背筋を伸ばす。
「いくつか条件があります」
「はい」
クラリスは即座にペンを構えた。
「書かない」
「条件ですので」
「なら書きなさい」
もう疲れた。
「一つ。私の語録を暗唱しないこと」
クラリスが書く。
「二つ。私の言葉を会の規則にしないこと」
「はい」
「三つ。お姉様呼びを制度化しないこと」
何人かが小さく落胆した。
落胆するな。
「四つ。白百合会は、私を中心とする会ではなく、あなたたち自身の学びと助け合いのための会であること」
クラリスのペンが止まった。
リリアナがこちらを見る。
「私たち自身の……」
「ええ」
私は全員を見回した。
「私を慕う気持ちがあるなら、それは否定しません。否定しても、たぶんあなたたちは聞かないでしょうし」
令嬢たちが少しだけ気まずそうにする。
「でも、私だけを見る会にはしないで。私を見ている間は、あなたたちはあなた自身を見なくて済んでしまうから」
沈黙。
また静かになった。
最近、私の周囲はすぐ静かになる。
私は何か余計なことを言ったのだろうか。
いや、たぶん言った。
毎回言っている。
クラリスはゆっくりとペンを動かした。
「私を見ている間は、自分を見なくて済む……」
「語録にしない」
「はい。これは議事録です」
「議事録ならよいという話ではありません」
リリアナが、そっと言った。
「エリシア様」
「何?」
「私、昨日から考えていました。エリシア様に助けていただいたとき、私はとても嬉しかったのです。でも、それだけではありませんでした」
彼女は胸元の修繕されたノートを抱きしめた。
「私は、自分が助けられるべき人間だと思えて、嬉しかったのです」
私は黙った。
「それまでは、身分が低いから仕方ない。家にお金がないから仕方ない。うまく挨拶できなかった私が悪い。そう思っていました」
リリアナの声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「でも、エリシア様が『あなたは無礼ではない』と言ってくださった時、初めて、自分が間違っていないかもしれないと思えました」
重い。
また重い。
私の一言が、彼女の中でそんなふうに残っている。
私はその重さを受け止めるべきなのか、逃げるべきなのか、まだ分からない。
「だから、私は白百合会を作りたいです」
リリアナは言った。
「私のように、自分が助けられていいのか分からない子が、他にもいるかもしれないから」
それは、とてもまっすぐな言葉だった。
私ではなく、リリアナ自身の言葉だ。
私は少し、嬉しかった。
そして、やはり少し寂しかった。
彼女が自分の言葉で立ち始めている。
それを喜べない部分が、私の中に確かにある。
最悪だ。
自分の中の小さな悪意ほど処分に困るものはない。大きな悪なら斬れる。小さな悪は、日常の顔をして居座る。
「リリアナさん」
「はい」
「今の言葉は、あなたのものですね」
「……はい」
「なら、その会には意味があります」
リリアナの顔が明るくなる。
「ただし、私の名前を前面に出さないこと」
クラリスが紙を見た。
「では、白百合会は」
「その名前も再検討」
全員が固まった。
まるで王国滅亡の知らせを受けたような顔をしている。
名前への執着が強い。
「……白百合会では、いけませんか」
クラリスが小さく聞いた。
「いけないというより、危ないのです」
「危ない」
「白百合は、もう私の呼び名と結びついているでしょう」
「はい」
「なら、その名前を使えば、会は自然と私を中心に動くようになる」
クラリスは黙った。
「それはあなたたちのためにならない」
「……ですが」
「ですが?」
「私たちは、エリシア様に出会わなければ、この会を作ろうとは思いませんでした」
クラリスはノートを抱きしめる。
「その始まりまで、なかったことにはしたくありません」
私は言葉に詰まった。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
だが、これは大事な面倒くささだ。
私を中心にしたくない。
でも、私との出会いで始まったことまで否定したくない。
それは、たぶん正しい。
自立とは、過去の恩を消すことではない。
恩に縛られずに、恩を持ったまま歩くことだ。
こういう正しそうな言葉を考え始めると危ない。すぐ語録化される。自制しろ、私。
「では、こうしましょう」
私は言った。
「正式名称は、令嬢相互研鑽会」
令嬢たちが一斉にしょんぼりした。
「通称として、白百合会」
令嬢たちの顔がぱっと明るくなる。
感情が分かりやすすぎる。
「ただし、白百合とは私一人を指すものではありません」
「では、何を?」
「あなたたち自身です」
言った瞬間、全員が固まった。
しまった。
またやった。
美しいことを言ってしまった。
人類はなぜ、危険な場面ほどそれっぽい比喩を口走るのか。私だけか。私だけかもしれない。嫌だ。
「白百合は、誰か一人の象徴ではなく、この会に参加する一人一人の象徴とします」
もう止まらない。
言葉が勝手に歩き出している。
「私に向けて花を捧げるのではなく、あなたたちが自分自身に花を持てるように」
クラリスが泣いた。
リリアナも泣いた。
周囲の令嬢たちも、何人か泣いた。
そしてクラリスのペンが走った。
「クラリスさん」
「はい」
「今のは書いてはいけない部類です」
「申し訳ありません。もう書きました」
「速い」
速すぎる。
彼女の筆記速度が憎い。
その時、背後からぱちぱちと拍手が聞こえた。
振り返る。
そこにレオンハルト・ヴァイスが立っていた。
手には例の書類束。
『白百合会運営規約案』
相変わらず腹の立つほど整った字である。
「見事です、エリシア嬢」
「何がですか」
「名称問題を、中心性の解体と象徴の分散によって解決した」
「そういうつもりで言っていません」
「結果としてはそうです」
「結果が勝手に賢そうになるのをやめてください」
レオンハルトは無表情のまま、書類を差し出した。
「では、改訂版を作成します」
「待ちなさい」
「何でしょう」
「あなたはなぜ当然のように運営に関わろうとしているのですか」
「情報流通の制御には、初期規約が重要です」
「それは分かりますが、あなたは男子生徒でしょう」
「顧問補佐という立場なら可能です」
「誰が顧問ですか」
「現時点では未定です」
「未定なのに補佐が先にいるのはおかしい」
「人材確保は早いほうがいい」
理屈が強い。
腹が立つ。
レオンハルトはクラリスの掲示紙を見た。
「議題三、お姉様呼称の使用範囲について。これは削除すべきです」
「珍しく同意します」
「公式文書に載せるには不適切です。非公式慣行として残すほうが摩擦が少ない」
「同意を返してください」
この男も危険だ。
昨日の時点では観察者だったはずなのに、もう規約を持ってきている。
管理癖のある人間に、新しい組織を見せてはいけない。すぐに定款を作る。文明の悪い癖だ。
「レオンハルト様」
「はい」
「あなた、楽しんでいますね」
「少しだけ」
「昨日もそれを言いましたね」
「正確には、今朝が二回目です」
「記録しない」
「記憶です」
私は頭を抱えた。
リリアナたちは、レオンハルトを少し怖がっている。
当然だ。宰相家の嫡男で、成績首席、冷徹な美貌、情報管理の化け物。普通に近寄りがたい。
だが、クラリスだけは少し違った。
彼女はレオンハルトの書類を見て、目を輝かせている。
「そ、その規約案、拝見してもよろしいでしょうか」
「構いません」
「ありがとうございます」
クラリスは受け取って読み始めた。
まずい。
書記型令嬢と管理型貴公子が接続した。
これは危険な化学反応である。
紙が増える。
絶対に紙が増える。
「クラリスさん、参考にするだけですよ」
「はい」
「写しませんよ」
「……一部だけなら」
「写さない」
「では、要約を」
「しない」
「感想文は」
「それは許します」
クラリスの顔が明るくなる。
どうしてこんなに教育現場みたいになっているのか。私は悪役令嬢だったはずだ。いつの間に作文指導をしている。
レオンハルトが淡々と言う。
「会を設立するなら、役割を定める必要があります」
「役割?」
「代表、書記、会計、連絡係、顧問」
「待ちなさい。まだ設立を認めたわけでは」
令嬢たちが一斉にこちらを見る。
期待。
不安。
祈り。
やめろ。
その目で見るな。
私が認めるかどうかで、この会の存在が決まるみたいになる。
それがもう危ない。
「私が認めるかどうかではありません」
私は言った。
「あなたたちが必要だと思うなら、あなたたちが責任を持って作りなさい」
リリアナが息を呑む。
「エリシア様は、許してくださらないのですか」
「許す、許さないではないのです」
私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたたちが、自分たちで決めることです」
令嬢たちは黙った。
これは、私にとっても怖いことだった。
私が「許します」と言えば、楽だ。
彼女たちは喜ぶ。
私も感謝される。
会は私の庇護下に入る。
私は中心でいられる。
でも、それでは駄目だ。
彼女たちは、私の許可で動くことになる。
それは、私を頂点にした温室の始まりだ。
そして、私はたぶんそれを心地よく感じてしまう。
だから、手を離さなければならない。
まだ何も始まっていない今のうちに。
「代表を決めるなら、私ではなく、この会に参加するあなたたちの中から選びなさい」
私は言った。
「私を顧問にもしないこと」
クラリスが露骨に落ち込んだ。
「では、名誉顧問は」
「しない」
「相談役は」
「しない」
「象徴顧問は」
「役職を作らない」
なぜそんなに私を置きたがるのか。
いや、分かる。
私がいれば安心なのだ。
公爵令嬢。
王太子と話せる。
上級貴族令嬢にも物申せる。
白百合の君とかいう、本人にとっては迷惑な称号まである。
彼女たちにとって、私は盾だ。
そして私は、盾であることに酔える。
だから危ない。
「エリシア様」
リリアナが言った。
「もし、私たちだけでは失敗したら?」
「失敗しなさい」
リリアナが目を見開く。
「失敗して、直しなさい」
私は少しだけ微笑む。
「私が最初から正解を渡したら、あなたたちはずっと私の答えを探すようになります」
クラリスのペンが動きかける。
私は見た。
止まった。
偉い。
「失敗しても、見捨てるつもりはありません」
令嬢たちの表情が揺れる。
「けれど、私が代わりに成功させるつもりもありません」
沈黙。
今度の沈黙は、祈りの沈黙ではなかった。
考える沈黙だった。
それは少しだけ、いいものに見えた。
レオンハルトが口を開く。
「では、初回茶話会は本日放課後、北棟サロンで行うのが妥当です」
「なぜあなたが進めるのですか」
「会場を押さえました」
「いつの間に」
「今朝」
「早い」
「反対派が会場を先に押さえる可能性があったため」
有能。
だが勝手。
有能な勝手者は本当に迷惑である。無能な善人より歴史を動かすぶん、さらに厄介だ。
「レオンハルト様」
「はい」
「あなたは白百合会に何を求めているのですか」
「観察です」
「正直ですね」
「それと、実験です」
「もっと悪くなりました」
レオンハルトは書類を整えた。
「身分の低い令嬢たちが、上級貴族の庇護なしに相互支援組織を形成できるのか。形成できるとすれば、既存の学園秩序にどのような影響を与えるのか。非常に興味深い」
令嬢たちが少し引いた。
私も引いた。
「あなた、人間を人間として見ていますか」
「努力しています」
「努力段階なのですか」
「はい」
そこで素直に言われると困る。
レオンハルトは、少しだけ視線を落とした。
「私は、混乱を好みません」
「知っています」
「ですが、すべてを管理することも不可能だと、昨日理解しました」
「本当に?」
「少なくとも、あなたは管理不能です」
「褒められていませんね」
「褒めていません」
でしょうね。
「だから、観察します。管理ではなく」
レオンハルトは言った。
「この会がどう動くのか。あなたの言う、自分で失敗し、直す、という非効率な過程が、本当に有効なのか」
彼は令嬢たちを見た。
「そして、可能であれば、記録します」
クラリスが目を輝かせた。
そこに反応するな。
「記録は必要でしょうか」
リリアナが恐る恐る聞く。
レオンハルトは頷く。
「必要です。記録されないものは、後から都合よく歪められます」
私は彼を見た。
昨日聞いた彼の過去が、頭をよぎる。
言葉が家を壊した少年。
記録によって世界を押さえようとする男。
その彼が、今は白百合会の記録を作ろうとしている。
危ない。
でも、完全に悪いことではない。
「では、記録係はクラリスさん。ただし、会の発言をそのまま写すだけではなく、誰が何を考えたか、本人に確認すること」
私は言った。
「勝手に解釈しない」
クラリスが真剣に頷く。
「はい」
「そして、記録は会の参加者が見られるようにする。誰か一人が握らない」
レオンハルトがわずかに目を細めた。
「透明性の確保ですか」
「そんな賢そうな言い方をしないでください」
「ですが、正しい」
「腹が立ちます」
レオンハルトは少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかもしれない。
分かりにくい男だ。
「代表はどうするのですか」
クラリスが聞く。
令嬢たちの視線が、自然とリリアナに集まった。
リリアナは慌てた。
「わ、私ですか? 無理です。私、男爵家ですし、人前で話すのも苦手で」
「それが理由なら、練習になるわ」
私が言うと、リリアナは泣きそうな顔をした。
「エリシア様」
「嫌なら断っていい」
「嫌、ではありません。ただ、怖いです」
「なら、あなたが決めなさい」
「私が」
「ええ。怖いからやらないのか、怖いけれどやってみるのか」
リリアナは黙った。
その手がノートを握る。
彼女は少し震えていた。
私は助けたくなった。
「大丈夫、あなたならできる」と言いたくなった。
その言葉で、彼女を支えてやりたくなった。
そして、それを言った瞬間、彼女がまた私を見ると分かっていた。
だから、黙った。
黙るのは、助けるより難しい。
人間は誰かの沈黙に耐えるのが下手だ。すぐ言葉で埋めたがる。埋めた言葉が相手の場所を奪うこともあるのに。
長い沈黙の後、リリアナは顔を上げた。
「……やってみます」
小さな声だった。
でも、自分の声だった。
「代表を、やってみます」
令嬢たちの間に、柔らかなざわめきが広がった。
クラリスが拍手した。
他の令嬢たちも続く。
リリアナは真っ赤になった。
私は、その様子を見て胸が温かくなるのを感じた。
これは、いい。
とてもいい。
彼女が自分で決めた。
私が決めたのではない。
私の許可ではなく、彼女の選択だ。
それが嬉しい。
そしてやはり、少しだけ寂しい。
私はその寂しさに、名前をつけないでおいた。
つけたら、たぶん認めてしまうから。
「では、代表はリリアナさん。書記はクラリスさん」
レオンハルトが淡々と整理する。
「会計は?」
令嬢たちが顔を見合わせる。
一人、おずおずと手を上げた。
「私、やってみてもよろしいでしょうか」
淡い栗色の髪の少女。
たしか、マチルダ・ロウ。
準男爵家の娘で、商家の血が入っていると噂されていた。そのせいで、貴族令嬢たちから少し軽く見られている。
「家で帳簿を少し見ておりますので」
彼女は小さく言った。
周囲の数人が、少し驚いた顔をした。
貴族令嬢が帳簿を見る。
この世界では、それはあまり褒められることではない。
金勘定は商人の仕事。
令嬢は優雅に振る舞い、家の利益は父や夫が考えるもの。
くだらない。
金を扱えない人間に生活を任せる社会、普通に怖い。人類は権威のある無能に財産を預けすぎる。
「素晴らしいわ」
私は言った。
マチルダが目を見開く。
「え?」
「帳簿が読めるのは、大切な力です」
「ですが、母には、あまり人前で言わないほうがいいと」
「なぜ?」
「商人の娘のようだと」
「商人は計算ができます。誇るべきです」
マチルダの顔が真っ赤になった。
またやった。
だが、これは言うべきだ。
「会計はマチルダさんにお願いしては?」
私はリリアナを見る。
リリアナはすぐに頷いた。
「はい。マチルダさん、お願いできますか?」
マチルダは驚いたようにリリアナを見た。
代表が、会計を任命する。
小さなことだ。
だが、今ここで初めて、リリアナは代表として誰かに頼んだ。
マチルダは胸元で手を握った。
「はい。必ず」
クラリスがまた書く。
レオンハルトが頷く。
「最低限の役職は整いました。顧問は後ほど教師から選出すべきです。候補としては、文学担当のエミリア・ロゼ教諭が妥当でしょう」
「なぜ?」
「女子学生の自主活動に理解があり、上級貴族に過度に迎合しない。加えて、あなたに対して過去に三度注意した記録があります」
「それは有望ですね」
私に注意できる教師は貴重だ。
前のエリシアに注意するなど、なかなかの胆力である。教育者としてかなりまとも。貴族社会ではまともな人間ほど苦労する。悲しい生態系だ。
「では、放課後の茶話会は?」
リリアナが聞く。
全員が私を見る。
私は首を横に振った。
「私を見ない」
リリアナははっとした。
そして、自分で考えるように目を伏せた。
「……予定通り、行います」
彼女は言った。
「ただし、掲示の文面は修正します。エリシア様のお言葉について、ではなく、私たちが学園で困っていること、必要な助け合いについて話し合う場にします」
クラリスが頷く。
「議題二は残しても?」
「はい。自分の言葉を持つことについては、話したいです」
「議題三は」
全員がちらりと私を見る。
「削除」
私が言う前に、リリアナが言った。
偉い。
非常に偉い。
令嬢たちは少し残念そうだったが、反論はしなかった。
「お姉様呼称については、私的な心の問題とします」
クラリスが真剣に言った。
「それも書かない」
「はい」
怪しい。
だが、今はよい。
鐘が鳴った。
朝の予鈴。
令嬢たちは慌てて教室へ向かおうとする。
リリアナは最後に私の前で立ち止まった。
「エリシア様」
「何?」
「ありがとうございます」
「私は何もしていません」
「はい」
リリアナは、少しだけ笑った。
「だから、ありがとうございます」
私は何も言えなかった。
彼女は礼をして、走っていった。
その背中は、昨日より少しだけまっすぐだった。
私はそれを見送りながら、思った。
これでいい。
これでいいのだ。
彼女たちは私から離れて、自分たちの会を作る。
私が中心ではない。
私が許すのではない。
私が導くのではない。
それでいい。
いいはずなのに。
「寂しそうですね」
横からレオンハルトが言った。
私は彼を睨んだ。
「記録しないでください」
「表情の変化は記録していません」
「頭の中では?」
「しています」
「やめなさい」
「努力します」
この男の努力は信用できない。
レオンハルトは、掲示板から剥がした紙を見た。
「あなたは中心であることを避けようとしている」
「当然です」
「ですが、すでに中心です」
「嫌なことを言いますね」
「事実です」
事実はだいたい嫌な顔をしている。
「あなたが望まなくても、彼女たちはあなたを始まりとして語るでしょう」
「だから危ないのです」
「はい」
レオンハルトは頷いた。
「しかし、始まりであることと、支配者であることは別です」
私は彼を見た。
彼は淡々と言った。
「あなたは今、それを分けようとしている。興味深い」
「また観察ですか」
「はい」
「腹が立ちます」
「慣れてください」
「嫌です」
彼は少しだけ笑った。
やはり笑っている気がする。
青が妙に柔らかくなっている。
これはこれでまずい。
昨日までは管理癖の強い冷蔵庫だったのに、今は少し解凍されている。食品ならよいが、人間だと厄介なことになる。
午前の授業は、ほとんど白百合会の噂で埋まっていた。
教師が黒板に古代王朝の制度を説明している間も、生徒たちの視線がちらちらと動く。
下級貴族令嬢たちは、期待と緊張。
上級貴族令嬢たちは、警戒と苛立ち。
男子生徒たちは、面白がる者、無関心を装う者、不快そうな者に分かれている。
その中で、セシル・バルディアだけは難しい顔をしていた。
彼女は私を睨んではいなかった。
むしろ、リリアナたちのほうを見ている。
何かを考えている顔だった。
昼休み。
私は中庭の一角で軽食を取っていた。
以前の私は、大広間の中央席で取り巻きに囲まれていた。
今は少し離れた木陰の席。
静かでよい。
と、思ったのが甘かった。
「隣、よろしいかしら」
セシルだった。
赤い髪を揺らし、扇を手に立っている。
私は少し驚いた。
「どうぞ」
彼女は向かいに座った。
無言。
長い無言。
貴族令嬢同士の昼食にしては、空気が重い。前世なら気まずすぎてスマホを見る場面だ。しかしスマホはない。文明がない。いや、文明はあるがスマホがない。つらい。
「白百合会」
セシルが言った。
「設立なさるそうですわね」
「私は設立しません。彼女たちが設立します」
「同じことですわ」
「違います」
「世間は同じと見ます」
「それは困りますね」
「本当に困っていますの?」
セシルが私を見る。
鋭い目だった。
「あなた、困った顔をなさりながら、どこか嬉しそうですわ」
私は言葉に詰まった。
まただ。
彼女は嫌なところを見る。
「……そう見えますか」
「ええ」
「なら、たぶんそうなのでしょう」
セシルが少し目を見開いた。
「認めますのね」
「否定したところで、あなたは納得しないでしょう」
「しませんわ」
「人に慕われるのは、気持ちがいいものです」
私は言った。
「それは否定できません」
セシルは扇を閉じた。
「正直ですのね」
「最近、正直な醜さは扱いやすいと誰かに言いましたので」
「私ですわね」
「ええ」
彼女は小さく笑った。
少しだけ、空気が緩む。
「白百合会に、上級貴族の令嬢は参加できますの?」
私は彼女を見た。
「あなたが?」
「仮の話です」
「参加したいのですか」
「仮の話です」
「そう」
私は少し考えた。
「私が決めることではありません。代表はリリアナさんですから」
セシルの眉が動く。
「男爵家の娘に、私を拒む権限があると?」
「白百合会の中では、あるでしょう」
「……面白いことを言いますわね」
声が少し低くなる。
プライドが傷ついたのだろう。
だが同時に、彼女の目には別の色もあった。
興味。
いや、期待かもしれない。
上級貴族の令嬢であるセシルは、常に上に立つ側だった。
だがそれは、言い換えれば、下に降りる自由がなかったということでもある。
彼女は、踏むのが気持ちよかったと言った。
だが今、その踏む足場が揺らいでいる。
彼女はそこから落ちることを恐れている。
同時に、落ちた先に何があるのか見たがっている。
「セシルさん」
「何ですの」
「参加したいなら、あなた自身の言葉でリリアナさんに頼みなさい」
「私が、男爵家の娘に?」
「ええ」
「エリシア様から一言言ってくだされば、済む話ではありませんの」
「済ませません」
セシルは私を睨んだ。
「意地が悪いですわ」
「そうですね」
「否定しませんの?」
「あなたがリリアナさんに頭を下げるところを見たい、という気持ちが少しあります」
「最低ですわね」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、それだけではありません」
セシルは黙る。
「あなたが本当に変わりたいなら、私の紹介状ではなく、あなた自身の言葉が必要です」
「……変わりたいなどと、言っておりません」
「では、参加しなくてよいのでは?」
セシルは扇を握りしめた。
分かりやすい。
彼女は言葉を欲しがっている。
変わりたいと言いたくない。
でも、変わる入口には立ってみたい。
人間はいつも入口でうろうろする。入る覚悟も戻る勇気もない。まったく不便な生き物だ。
「私は」
セシルは小さく言った。
「踏むのが気持ちよかったと言いました」
「はい」
「その気持ちは、今も消えておりませんわ」
「すぐには消えないでしょう」
「もし参加しても、私はまた誰かを見下すかもしれません」
「でしょうね」
「止めてくださる?」
「私ではなく、会の人たちに止めてもらいなさい」
セシルは私を見た。
「あなたは本当に、私を助ける気がありませんのね」
「あります」
「では」
「だから、私だけが助けないようにしています」
セシルは言葉を失った。
私も、言ってから少し黙った。
今のは危ない。
語録化される類の言葉だ。
周囲にクラリスがいなくてよかった。
と思ったら、茂みの向こうで何かが揺れた。
「出てきなさい」
私は言った。
茂みから、クラリスとリリアナが出てきた。
終わっている。
「盗み聞きはよくありません」
クラリスは深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
リリアナも真っ赤になっている。
「ご、ごめんなさい。お二人が真剣にお話しされていたので、声をかけるタイミングが」
「どこから聞いていましたか」
クラリスが目を逸らす。
「白百合会に上級貴族の令嬢は参加できますの、あたりから」
「ほぼ全部ですね」
「はい」
正直でよろしい。
よくない。
セシルは顔を真っ赤にしていた。
怒りか羞恥か、たぶん両方だ。
「あなたたち、趣味が悪いですわよ」
「申し訳ありません、セシル様」
リリアナは頭を下げた。
それから、おそるおそる顔を上げる。
「あの、セシル様」
「何ですの」
「白百合会は、身分にかかわらず参加できる会にしたいと思っています」
セシルの表情が固まる。
リリアナは続けた。
「でも、誰かを傷つけるために参加することは、できません」
「……当然ですわね」
「そして、もし誰かを見下してしまった時は、その場で話し合うことにしたいです」
「私を裁くつもり?」
「いいえ」
リリアナは首を横に振る。
「私も、誰かを怖がって黙ってしまうかもしれません。その時は、止めてほしいです」
セシルは黙った。
「だから、セシル様が参加されるなら、私も怖いです。でも、来ていただきたいとも思います」
リリアナの声は震えている。
だが、逃げていない。
昨日まで壁際で震えていた少女が、今、侯爵家の令嬢に自分の言葉で話している。
私は何も言わなかった。
言いたくなった。
よく言えたわ、と。
あなたは強い、と。
私が誇らしい、と。
でも、それは今、私の役目ではない。
リリアナが自分で立っているところに、私が花を飾ってはいけない。
セシルは長い沈黙の後、扇を閉じた。
「……考えておきますわ」
「はい」
「参加すると決めたわけではありません」
「はい」
「それに、私はあなたを認めたわけでもありません」
「はい」
「返事が素直すぎて腹が立ちますわ」
「す、すみません」
セシルは立ち上がった。
去り際、彼女は私をちらりと見た。
「エリシア様」
「何?」
「あなたがいなくても、少しは話せましたわ」
私は微笑んだ。
「ええ」
「その嬉しそうな顔、腹が立ちますわ」
「これは失礼」
「でも」
セシルは少しだけ声を落とした。
「……悪くはありませんでした」
そう言って、彼女は去った。
私は静かに息を吐く。
リリアナはその場でへたり込みそうになっていた。
「こ、怖かったです……」
「よく話しましたね」
私は言った。
言ってしまった。
だがこれは、許してほしい。
リリアナは涙目で笑った。
「ありがとうございます」
クラリスがノートを開いている。
「クラリスさん」
「はい」
「今の会話は、誰の言葉として記録しますか」
彼女は少し考えた。
そして、ノートに書いた。
『リリアナ代表、セシル様に参加条件を説明。声は震えていたが、自分の言葉で話した』
私は頷いた。
「よろしい」
クラリスは嬉しそうに微笑んだ。
その日の放課後。
北棟サロンには、二十三人の令嬢が集まった。
当初の予想より多い。
多すぎる。
部屋には丸テーブルが三つ。紅茶と焼き菓子。黒板。記録用の紙。レオンハルトが用意した規約案。クラリスのノート。マチルダの簡易帳簿。
そして、部屋の隅にはなぜか白百合が一輪飾られていた。
「誰ですか、飾ったのは」
私が聞くと、全員が目を逸らした。
またか。
「象徴は分散すると言いましたよね」
クラリスが言った。
「ですので、一輪だけにしました」
「そういう話ではありません」
リリアナが慌てて前に出る。
「え、ええと。第一回、令嬢相互研鑽会、通称白百合会の茶話会を始めます」
拍手。
小さな拍手から始まり、やがて部屋全体に広がる。
リリアナは真っ赤になった。
でも、立っていた。
クラリスが書記席に座る。
マチルダが会費と茶菓子代の計算表を用意する。
私は部屋の後方に座った。
中心ではなく、隅。
それでも視線は何度もこちらへ向かう。
私はそのたびに、リリアナを見るよう目で促した。
最初の議題は、学園で困っていること。
最初は誰も話さなかった。
沈黙。
紅茶の湯気だけが揺れる。
やがて、一人の令嬢が手を上げた。
「教本を買い替えるのが難しいです」
別の子が続く。
「上級生のお古を譲っていただく仕組みがあれば」
「でも、直接頼むのは怖いです」
「では、会で仲介しては?」
少しずつ言葉が出る。
次に、寮での部屋割り。
次に、社交界での挨拶の練習。
次に、婚約話を断る方法。
そこで空気が重くなった。
婚約。
令嬢たちにとって、それは遠い話ではない。
家のため。
父の決定。
持参金。
相手の家格。
自分の意思。
その場にいた何人かが、目を伏せた。
リリアナは震えながらも、議題を書き留めるようクラリスに頼んだ。
私は何も言わなかった。
言いたいことは山ほどある。
人間を家の取引材料にするな、と。
本人の意思を聞け、と。
婚姻政治、滅べ、と。
だが、それを私が言えば、会は私の怒りに引っ張られる。
彼女たち自身の言葉が消える。
だから黙る。
黙る。
黙る。
こんなに苦しいとは思わなかった。
助言とは麻薬だ。
必要とされる快感がある。
黙って見守ることは、その快感を断つことだ。
私は紅茶を飲んだ。
味がしない。
そして、一人の令嬢が言った。
「でも、そんなことを話して、何になるのでしょう」
部屋が静まる。
彼女は子爵家の娘、エステルだった。
「私たちがここで話しても、父や兄が決めることは変わりません。家格も、持参金も、婚約も」
正しい。
痛いほど正しい。
「自分の言葉を持つと言っても、それを聞いてもらえなければ意味がありません」
リリアナが言葉に詰まる。
クラリスもペンを止める。
全員が沈黙した。
私は口を開きかけた。
その瞬間、レオンハルトが後方から紙を差し出した。
そこには一言だけ書かれていた。
『待て』
腹が立つ。
だが、正しい。
私は黙った。
沈黙が続く。
やがて、マチルダが手を上げた。
「意味があるかは、まだ分かりません」
彼女は小さく言った。
「でも、少なくとも、ここで話したことを記録に残せば、私たちが何に困っていたかは消えません」
クラリスが顔を上げる。
マチルダは続けた。
「家では言えなくても、ここで言ったことが残れば、いつか誰かが読むかもしれません。次に同じことで困った子が、私だけではないと思えるかもしれません」
エステルは黙った。
「それでは足りないかもしれません。でも、何も話さないよりは、少しだけましです」
リリアナが頷いた。
「私も、そう思います」
クラリスが書く。
今度は誰かの名言としてではなく、会の記録として。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
私が言わなかったから、マチルダが言った。
私が黙ったから、彼女たちの言葉が出た。
それは嬉しかった。
救うよりも、ずっと静かで、ずっと不安定で、でも確かに嬉しかった。
茶話会は一時間続いた。
最後にリリアナがまとめた。
「次回までに、それぞれ、自分が学園で困っていることを一つ、自分の言葉で書いてくることにします。名前は書いても、書かなくても構いません」
クラリスが記録する。
マチルダが会費の残りを計算する。
エステルが、少し不満そうながらも紙を一枚受け取る。
会は終わった。
大きな変化は何もない。
王国は変わっていない。
家父長制も貴族制度もそのまま。
彼女たちの婚約問題も、教本代も、明日すぐ解決するわけではない。
だが、部屋を出ていく令嬢たちの顔は、来た時とは少し違っていた。
自分の困りごとを、初めて言葉にした顔。
誰かの困りごとを、初めて聞いた顔。
それだけだ。
それだけなのに、何かが始まってしまった気がした。
解散後、私は部屋の隅に残った白百合を見た。
花は静かに咲いている。
その前で、リリアナが立ち止まった。
「エリシア様」
「何?」
「今日、私は何度もエリシア様を見そうになりました」
「見ていましたね」
「はい……」
彼女は恥ずかしそうに笑う。
「でも、最後は少しだけ、自分で話せた気がします」
「ええ」
「怖かったです」
「でしょうね」
「でも、またやりたいです」
その言葉は、私に向けたものではなかった。
リリアナ自身の中から出た言葉だった。
「なら、続けなさい」
「はい」
リリアナは頷いた。
そして、少し迷ってから言った。
「お姉様」
「公的な場では控えるはずでは?」
「もう茶話会は終わりました」
「そういう解釈をする」
リリアナは真っ赤になりながらも、続けた。
「今日だけ、言わせてください」
私は止めなかった。
「私は、いつかエリシア様を見なくても話せるようになりたいです」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
痛い。
でも、これは良い痛みだ。
たぶん。
「そうなったら」
私は微笑んだ。
「名前で呼びなさい」
リリアナは目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
その夜。
クラリスの議事録の最後には、こう記された。
『第一回茶話会、終了。
私たちはまだ何も変えられていない。
けれど、何に困っているのかを、初めて声にした。
白百合とは、エリシア様だけを指す花ではない。
いつか、それぞれが自分の花を持つための名である。』
私はそれを読んで、しばらく黙っていた。
「どうでしょうか」
クラリスが不安そうに聞く。
「よく書けています」
「本当ですか?」
「ええ」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
この子たちは、たぶん少しずつ私から離れていく。
それでいい。
それがいい。
そう思っているのに、やはり少し寂しい。
私はまだ、白百合の君であることを捨てきれていない。
救済者ではないと言いながら、救済者の席に未練がある。
温室の中心に立つことを恐れながら、その温かさを惜しんでいる。
翌日。
学園の掲示板には、新しい紙が貼られていた。
『令嬢相互研鑽会、通称白百合会
第二回茶話会のお知らせ
議題:私たちが困っていることを、私たちの言葉で書く』
その下に、小さく追記があった。
『お姉様呼称は非公式とする』
私はその一文を見て、額を押さえた。
消えていない。
非公式になっただけである。
人類は制度から追い出したものを、慣習として生かす。しぶとい。実にしぶとい。
だが、掲示板の前では、令嬢たちが笑っていた。
その中心にいるのは、私ではない。
リリアナだった。
私は少し離れた場所から、それを見ていた。
すると、横にアルヴィンが立った。
「ずいぶん大きくなったな」
「昨日生まれたばかりの会ですが」
「芽は早く伸びる」
「雑草もそうです」
「百合ではないのか?」
「殿下までその呼び名を使わないでください」
アルヴィンは小さく笑った。
その表情は、以前より少し柔らかい。
そして少し危険だ。
「エリシア」
「はい」
「君は、彼女たちから離れようとしているのか」
「離れるというより、中心にならないようにしています」
「それは難しいだろう」
「分かっています」
「寂しくはないのか」
痛いところを突く。
赤まで妙に鋭くなっている。
人を矯正しようとすると、相手からも矯正される。やはり人間関係は危険物だ。
「寂しいです」
私は正直に言った。
アルヴィンは少し驚いた顔をした。
「認めるのか」
「否定しても仕方ありません」
「君は、変わったな」
「まだ変わり途中です」
「そうか」
彼はリリアナたちを見た。
「なら、私もそうなのだろうな」
「殿下も?」
「ああ」
アルヴィンは静かに言った。
「私は昨日から、怒る練習をしている」
「練習」
「難しい」
「でしょうね」
「だが、少し楽だ」
彼は私を見た。
「君に裁かれずとも、自分で怒れるようになれば、私は君を必要としなくなるのだろうか」
その言葉に、私は息を呑んだ。
それは、あまりにも直接的だった。
私が恐れていること。
彼らが、彼女たちが、私を必要としなくなる日。
その日を望んでいるのに、恐れている私。
「そうなるべきです」
私は言った。
「君は、それでいいのか」
「よくないと思う部分があります」
「正直だな」
「最近そればかりです」
私は小さく笑った。
「でも、そうなるべきです。私がいないと怒れない王太子など、国民が困ります」
「手厳しい」
「殿下のためです」
「そう言われると、少し嬉しい」
「そこで嬉しがらないでください」
アルヴィンは笑った。
困った人だ。
赤も青も、少しずつ変わっている。
白百合会も動き始めた。
セシルも、たぶん入口に立っている。
すべてがよい方向に見える。
だからこそ、私は怖かった。
よいことは、人を酔わせる。
救済は、支配より美しい顔をして近づいてくる。
自立を願う言葉ですら、誰かを自分の理想に押し込めることがある。
私はまだ、その境目を知らない。
この時の私は、まだ知らなかった。
白百合会が学園内に広がるにつれて、そこに入りたくても入れない令嬢たちが現れることを。
白百合の名が、救いではなく新しい序列として使われ始めることを。
そして、遠くない日。
この会の記録を読んだ一人の少女が、こう言うことを。
「なんて美しい物語なのでしょう」
原作ヒロイン。
聖女候補。
まだ入学前の彼女は、王都の片隅で、誰かが写した白百合会の議事録を手にしていた。
その少女は、紙の上の言葉を指でなぞりながら、うっとりと微笑んだ。
「エリシア・フォン・クラウディア様。あなたはきっと、この国の女性たちを救うために生まれた方なのですね」
違う。
まったく違う。
けれど、その誤読はまだ誰にも止められない。
言葉は歩く。
そして時々、こちらの知らない場所で、勝手に祈りになる。




