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第3話 白百合の君、語録を作られる

 翌朝。


 私は机の上に置かれた白百合を見つめていた。


 正確には、白百合に結ばれた紙片を見つめていた。


『お姉様へ』


 短い。


 短いのに、破壊力がある。


 差出人の名前はない。匿名である。匿名の好意は怖い。前世のネット文化でよく知っている。匿名で届く善意と悪意は、だいたい同じくらい人の精神を削る。


 私は花をつまみ上げた。


 百合。


 白い。


 綺麗。


 最悪。


 あまりにも象徴性が強い。誰だ、花言葉という概念を人類に与えたのは。あれのせいで植物がいちいち意味を背負わされる。花も迷惑だろう。


「ミーナ」


「はい、お嬢様」


「これは、あなたが?」


「いいえ」


「では、誰が?」


「分かりません。朝、お嬢様の机に置かれていたと、学園の使いの者が」


「学園の使いの者が、なぜ我が家に?」


「昨日、お嬢様が教室にお忘れになった教本と一緒に届けられました」


 私は目を細めた。


「教本を忘れた覚えはないわ」


「はい。私も確認いたしましたが、お嬢様の鞄には同じ教本がございました」


 つまり。


 教本を届けるという名目で、白百合を送りつけてきた。


 なかなか手が込んでいる。


 下級令嬢たちの誰かだろうか。リリアナか。いや、彼女ならもっと正面から渡してきそうだ。眼鏡の語録令嬢かもしれない。昨日から危険な気配がしていた。


 私は紙片を開いた。


 裏に、もう一行あった。


『あなたのお言葉に、昨日の私たちは救われました』


 私は深く息を吐いた。


 救われた。


 まただ。


 最近、その言葉がやたら重い。


 私は誰かを救うような立派なことをした覚えはない。昨日も一昨日も、その場で思ったことを言っただけだ。むしろ、言いすぎて王太子に注意された。


 だが、受け取る側にとっては違う。


 こちらが軽く投げた言葉が、相手の胸に刺さって抜けなくなる。


 それは嬉しい。


 嬉しいから、危ない。


 人間は自分の言葉が誰かの人生に残ると知ると、途端に神の真似事を始める。まったく、二足歩行にしては欲が深い。


「お嬢様、お顔色が」


「大丈夫よ」


「ですが」


「少し、朝から信仰を受けただけ」


「信仰……?」


「気にしないで」


 ミーナは困ったように首を傾げた。


 その顔に、以前のような怯えは少ない。


 私はそれに安堵する。


 そして同時に、寂しさを覚える。


 昨日より今日のほうが、彼女は私を怖がっていない。


 良いことだ。


 良いことのはずだ。


 なのに、あの怯えた目が消えていくことに、ほんの少しだけ空白を感じる。


 私はその感覚を、即座に踏み潰した。


 今のは駄目だ。


 駄目すぎる。


 人が健やかになることを惜しむな。最低にも程がある。倫理の授業なら初回で落第だ。


「ミーナ」


「はい」


「今日から、学園で私に関する妙な噂を聞いたら、すべて教えて」


「すべて、でございますか」


「ええ。褒め言葉でも、悪口でも、詩でも、祈祷文でも」


「祈祷文……」


「あり得ないと思う?」


 ミーナは少し考えた。


「……昨日のご様子ですと、なくはないかと」


「やめて」


 あり得るのか。


 世界はもう少し常識を持つべきだ。いや、常識のある世界なら、私は乙女ゲームっぽい異世界の悪役令嬢に転生していない。最初から負けている。


 私は白百合を花瓶に挿した。


 捨てるのは簡単だ。


 けれど、それはできなかった。


 花に罪はない。


 差出人の気持ちにも、たぶん罪はない。


 問題は、私がそれをどう受け取るかだ。


 私は鏡の前に立った。


 今日のドレスは、学園指定の制服。白を基調に、襟元に紫のリボン。エリシアの瞳の色と合っている。あまりにも似合う。


 困る。


 似合うと調子に乗る。


 人類は鏡を発明したせいで、毎朝自意識と戦わなければならなくなった。文明とは本当に余計なことばかりする。


「お嬢様」


 ミーナがリボンを整えながら言った。


「今日は、少し髪型を変えてみてもよろしいでしょうか」


「髪型?」


「はい。昨日、学園のご令嬢方が、お嬢様の髪飾りをとても褒めていらしたと聞きまして」


「誰から?」


「厨房のメイドが、出入りの商人から」


 噂の流通経路が広すぎる。


 もう経済圏じゃないか。


「それで、今日はより品よく、けれど近寄りがたすぎないように」


「ミーナ」


「はい」


「あなた、楽しんでいない?」


 ミーナは目を丸くした。


 そして、少しだけ笑った。


「……少しだけ」


 その笑顔は、昨日よりずっと自然だった。


 私は何も言えなくなった。


 楽しそうな人間を見るのは、困る。


 止める理由がなくなるからだ。


「なら、任せるわ」


「はい」


 ミーナの手が髪をすくう。


 丁寧に、優しく、私の髪を結い上げていく。


 鏡の中の私は、少し柔らかく見えた。


 以前のエリシアは、髪をきっちりまとめ、宝石の髪飾りをつけ、誰にも隙を見せない姿を好んでいた。


 今日の私は、編み込みを少しゆるめ、耳元に小さな真珠をひとつだけ。


 高慢な公爵令嬢ではなく、親しみやすいお姉様。


 いや、違う。


 私はお姉様ではない。


 そう思った直後、鏡の中の自分があまりにもそれらしく微笑んだ。


 腹が立つ。


「お嬢様、とてもお綺麗です」


「ありがとう」


「きっと、学園の皆様も」


「そこまででいいわ」


「はい」


 ミーナがくすりと笑った。


 この子、強くなっている。


 良いことだ。


 非常に良いことだ。


 なのに私は少し寂しい。


 駄目だ。


 今日の私は朝から最悪だ。


 学園へ向かう馬車の中で、私は前世の記憶を整理していた。


『薔薇冠の聖女と五つの誓約』


 ゲームでは、原作ヒロインの入学は来年。


 聖女候補として平民から選ばれ、特待生として王立リリウム学園に入る。そこで五人の攻略対象と出会い、王国に迫る災厄を食い止める。


 悪役令嬢エリシアは、王太子アルヴィンの婚約者候補としてヒロインに敵意を向ける。


 嫉妬。妨害。階級差別。嫌がらせ。


 そして卒業パーティーで断罪される。


 国外追放ルート。修道院送りルート。失脚ルート。悪い場合は暗殺未遂の濡れ衣で処刑ルート。


 前世の俺は実況を見ながら、「悪役令嬢、やりすぎだろ」と笑っていた。


 今は笑えない。


 悪役令嬢は、私だ。


 しかも、前世を思い出す前の私は、本当にやりすぎていた。


 つまりゲーム知識は、警告であり、同時に罠でもある。


 私はどうしても人をキャラとして見てしまう。


 アルヴィンは王太子ルート。

 リリアナは背景モブ。

 セシルは取り巻き令嬢。

 まだ出会っていないヒロインは原作主人公。


 そう分類すると、世界は分かりやすい。


 だが、その分かりやすさが危ない。


 昨日のアルヴィンは、ゲームの正義系王子ではなかった。


 彼は、自分の正しさの中に逃げ込んだ少年だった。


 昨日のセシルも、ただのいじめ令嬢ではなかった。


 踏まれることを恐れて、踏む側に回ろうとする少女だった。


 リリアナも、モブではない。


 彼女のノートには、家で紙が買えないという生活が詰まっていた。


 人間はタグより重い。


 分かっている。


 分かっているのに、私は今朝も彼女たちを分類していた。


 白百合派。


 反発派。


 攻略対象。


 危険人物。


 便利な箱は、いつも手元にある。


 馬車が学園に着く。


 門の前には、いつもより多くの生徒がいた。


 いや、多いというより、こちらを見ている。


 明らかに私を待っている。


 最悪だ。


 私は馬車の中で一瞬だけ引き返したくなった。


 だが、公爵令嬢は逃げられない。


 前世の俺なら仮病を使って休んでいた。現代日本の労働倫理もまあまあ壊れているが、貴族社会の外聞の圧力もなかなかひどい。


 私は馬車を降りた。


 ざわめきが起こる。


 昨日より柔らかく結った髪。

 白い制服。

 紫のリボン。

 公爵令嬢らしい所作。


 視線が刺さる。


 崇拝、警戒、敵意、好奇心。


 全部まとめて、肌に触れる。


「エリシア様」


 声がした。


 リリアナだった。


 彼女は数人の令嬢と一緒に立っていた。昨日の子たちだ。その中に、やはり眼鏡の令嬢がいる。手にはノート。


 危険物確認。


 私は静かに歩み寄る。


「ごきげんよう、リリアナさん」


「ごきげんよう、お……エリシア様」


 今、言いかけたな。


 お姉様と。


 私は聞かなかったことにした。


「皆様も、ごきげんよう」


「ご、ごきげんよう、エリシア様」


 令嬢たちが一斉に礼をする。


 少しずつ、動きが揃ってきている。


 まずい。


 集団行動の気配がある。


 人間は三人集まると派閥になり、十人集まると規約を作り、百人集まると旗を立てる。どうしてそうなる。静かに茶でも飲め。


 私は眼鏡の令嬢を見た。


「あなた、お名前は?」


 彼女はびくっと肩を震わせた。


「は、はい。クラリス・メイフィールドと申します。子爵家の三女です」


「クラリスさん」


「はい」


「そのノートは?」


 クラリスは胸元でノートを抱えた。


 目が泳ぐ。


「これは、その……授業の記録で」


「朝の正門で?」


「予習も兼ねております」


 苦しい。


 人類の嘘はなぜこうも脆いのか。だが、前世の俺も親に「勉強してる」と言いながら攻略Wikiを見ていた。責められない。いや、責める。


「見せなさい」


 クラリスの顔が真っ赤になった。


「こ、これは、まだ未完成でして」


「未完成?」


「はい。語句の整理や、章立てが」


「章立て」


 語録確定。


 私は片手を差し出した。


「見せなさい」


 クラリスは泣きそうな顔になったが、最終的にノートを渡した。


 私は開いた。


 一ページ目。


『白百合の君のお言葉』


 閉じた。


 早い。


 閉じるのが早すぎると自分でも思ったが、仕方ない。精神防衛である。


「クラリスさん」


「はい……」


「これは何?」


「エリシア様のお言葉を、忘れぬように書き留めたものです」


「忘れていい言葉もあるわ」


「そんなことはございません」


 きっぱり言われた。


 困る。


 私はもう一度ノートを開いた。


『弱い者を踏んでも、足場は高くならない』


『高貴であることは、誰かを踏むための靴ではない』


『優しさにも、練習が必要』


『綺麗事です。だから、せめて言葉くらいは綺麗に』


 かなり書かれている。


 しかも字が美しい。


 装飾までついている。


 やめろ。美しくするな。私のその場しのぎの発言に飾り罫をつけるな。


「クラリスさん」


「はい」


「私は聖人ではありません」


「存じております」


「本当に?」


「はい。エリシア様は、聖人などという遠い存在ではなく、私たちと同じ弱さを知りながら、それでも気高くあろうとなさる方です」


 私は言葉を失った。


 解釈が強い。


 強すぎる。


 私より私を理解したような顔をするな。


 困ったことに、少し当たっている。


 私は聖人ではない。

 弱さも醜さもある。

 それでも、もう以前のようには振る舞いたくない。


 だが、それを他人に言語化されると、逃げ場がなくなる。


 人間は自分のことを説明されると怒る。たとえ当たっていても怒る。むしろ当たっているほど腹が立つ。私はいま、非常に腹が立っている。


「クラリスさん」


「はい」


「そのノートを、他人に見せてはいけません」


「……なぜですか」


「私の言葉を、私から切り離して広めてほしくないからです」


 クラリスの表情が変わる。


「切り離して……」


「ええ。言葉は、状況によって意味が変わります。私が誰に、どのような場で、どんな過ちのあとに言ったか。それを忘れて言葉だけを持ち運べば、きっと歪みます」


 クラリスはノートを見つめた。


 リリアナたちも黙っている。


 私は続ける。


「美しい言葉ほど危険です。人は美しい言葉で、自分の行いを正当化できますから」


 言ってから、背筋が少し冷えた。


 これは自分に刺さる。


 私は昨日からずっと、美しい言葉で自分の欲を隠している。


 破滅回避。

 反省。

 救済。

 自立。

 優しさ。


 その裏に、必要とされたいという甘い欲望がある。


 クラリスはゆっくり顔を上げた。


 眼鏡の奥の瞳が潤んでいる。


 やめろ。


 その顔はやめろ。


「エリシア様は……ご自分のお言葉が誰かを傷つける可能性まで、考えておられるのですね」


「違う」


「違うのですか?」


「違わないけれど、違うの」


 またこれだ。


 自分でも意味が分からない。


「とにかく、そのノートは私的な記録に留めなさい。配布、朗読、写本、暗唱会、いずれも禁止です」


「暗唱会……」


「しないわよね?」


 クラリスが目を逸らした。


「クラリスさん?」


「……昨日、少しだけ」


 もうやっていた。


 行動が早すぎる。


 前世なら炎上の初速が速いタイプだ。拡散力だけで世界を壊す。


「何人に?」


「五人ほど」


「どこで?」


「寮の談話室で」


「内容は?」


「主に、弱い者を踏んでも足場は高くならない、を」


 私は額を押さえた。


 もう遅い。


 すでに語録が流通している。


 私の知らないところで、私の言葉が歩き始めている。


 気味が悪い。


 そして同時に、少し誇らしい。


 最悪だ。


 人間は自分の言葉が引用されると、内容より先に自尊心が喜ぶ。引用文化の闇である。


「今後は禁止です」


「はい……」


 クラリスはしょんぼりした。


 それを見ると、少し罪悪感が湧いた。


 いや、ここで甘やかすな。


「ですが」


 私は言った。


 クラリスが顔を上げる。


「あなたが何かを書き留めたいというのなら、私の言葉ではなく、自分の考えを書きなさい」


「自分の……」


「ええ。私が何を言ったかではなく、あなたが何を感じ、何を考えたか。そちらのほうが大切です」


 クラリスは固まった。


 リリアナが息を呑む。


 しまった。


 またそれっぽい。


 いや、これは本心だ。

 彼女たちに私の語録をありがたがってほしくない。

 自分で考えてほしい。


 でも、言い方が完全にお姉様である。


 クラリスの目から、ぽろっと涙がこぼれた。


「私……自分の考えなど、価値がないと思っていました」


 重い。


 急に重い。


 朝の正門でやる話ではない。


「家では、三女だから嫁ぎ先に迷惑をかけないよう、黙って微笑んでいなさいと。学園でも、子爵家の娘が意見を持つなど生意気だと」


 クラリスの声が震える。


「だから、誰かの言葉を写していれば安心でした。正しい言葉を持っていれば、私も少しだけ正しくなれる気がして」


 私は黙った。


 分かってしまった。


 正しい言葉を集めれば、自分も正しくなれる気がする。


 前世の俺もそうだった。


 名言。評論。思想。作品解釈。誰かの鋭い文章。


 それを引用している間、自分も少し賢く、強く、正しい側にいるような気がした。


 だが、借り物の言葉は、借り物の鎧だ。


 身を守れるが、重い。


 脱ぎ方を忘れる。


「クラリスさん」


「はい」


「あなたの考えに、最初から価値があるとは言いません」


 周囲が少しざわめいた。


 クラリスも目を見開く。


 私は続けた。


「考えは、育てるものです。間違えたり、言い直したり、傷ついたり、恥をかいたりしながら。価値は、最初からあるのではなく、あなたが向き合うことで生まれます」


 クラリスの唇が震える。


「だから、私の言葉を写すだけで終わらせないで」


 私はノートを返した。


「次に見せるときは、あなた自身の言葉を読ませて」


 クラリスはノートを抱きしめた。


 そして深く頭を下げる。


「はい……お姉様」


 呼んだ。


 今、呼んだ。


 訂正するタイミングが完全に消えた。


 周囲の令嬢たちも、頬を染めてこちらを見ている。


 リリアナなど、胸の前で手を組んでいる。


 やめろ。


 祈るな。


 私は神ではない。前世ではポイントカードの期限を切らす程度の俗人だった。


「……その呼び方は、控えなさい」


 私が言うと、クラリスは真剣な顔で頷いた。


「公の場では、ですね」


「違う」


「私的な場では、お許しいただけるのですね」


「違う」


「では、心の中で」


「それは止めようがないけれど」


「ありがとうございます」


「許可していない」


 なぜ会話が負けていくのか。


 私が公爵令嬢で、相手が子爵家三女なのに、完全に押されている。信仰者は権力より強い。歴史が証明している。やめてほしい。


 その時、背後から冷ややかな声がした。


「朝からずいぶんと盛況ですのね」


 セシルだった。


 昨日よりも取り巻きが増えている。


 表情は硬い。


 だが、昨日のような単純な怒りではない。


 焦り。


 恐怖。


 そして、意地。


「ごきげんよう、セシルさん」


「ごきげんよう、エリシア様」


 セシルは礼をした。


 丁寧だ。


 丁寧すぎる。


 敵意に礼儀が着物を着ている。貴族社会の嫌なところだ。


「昨日は、少し言いすぎたかもしれません」


 私が言うと、セシルは目を細めた。


「まあ。謝罪してくださるのですか?」


「謝罪というより、確認です」


「確認?」


「私はあなたを追い詰めるつもりはありません」


 セシルの表情が揺れる。


 私は続けた。


「けれど、あなたが弱い者を傷つけるなら止めます」


「……それは結局、脅しではありませんか」


「そう聞こえるなら、私の言い方が悪いのでしょう」


「いいえ」


 セシルは一歩前に出た。


「エリシア様。あなたは変わられた。ええ、それは結構なことですわ。下級貴族の娘たちに優しくなさり、王太子殿下にもご忠告なさり、今や白百合の君などと呼ばれて」


 白百合の君。


 本人の前で言うな。


 恥ずかしい。


 だがセシルの声は笑っていない。


「けれど、あなたが今まで私たちに命じてきたことはどうなりますの?」


 胸が止まった。


 セシルは続ける。


「下級貴族の娘たちを遠ざけるように言ったのは、誰でしたか。身分の低い者を近づけるなと笑ったのは、誰でしたか。王太子殿下にふさわしいのは自分だけだと、私たちに言わせたのは、誰でしたか」


 周囲が静まる。


 リリアナたちの顔が強張った。


 私は、何も言えなかった。


 セシルは笑った。


 痛々しい笑みだった。


「私たちは、あなたに従っていたのです。もちろん、私たちにも責任はありますわ。けれど、あなたが急に清らかな白百合になったからといって、私たちだけが泥をかぶるのは、おかしくありませんこと?」


 正しい。


 腹が立つほど正しい。


 私が変わったからといって、過去が消えるわけではない。


 私が謝ったからといって、私に従っていた者たちが勝手に許されるわけでもない。


 いや、逆だ。


 私が変わることで、彼女たちは取り残される。


 かつて私の影で悪事をしていた者たちが、急に悪者として切り捨てられる。


 それは、確かに残酷だ。


 私は、自分だけ綺麗になろうとしていたのか。


 白百合の君。


 笑わせる。


 根は泥の中だ。


「セシルさん」


「何ですの」


「あなたの言う通りです」


 セシルの目が見開かれる。


 周囲もざわめく。


「私が変わったからといって、あなた方だけに過去の責任を押しつけるのは卑怯です」


 私は静かに頭を下げた。


「私は、あなたたちを利用していました」


 セシルの表情が凍る。


「自分が直接手を下さなくても、あなたたちが私の意を汲んで動くと知っていた。私はそれを止めなかった。むしろ楽しんでいた」


 言葉にすると、吐き気がした。


 十五年分の記憶の中で、エリシアは何度も笑っていた。


 自分の手を汚さずに誰かが傷つくのを、優雅に眺めていた。


 その記憶は私のものではない。


 そう言いたい。


 だが、私の中にある。


 「前の私」がやったことだと切り離すには、あまりにも近い。


「あなたたちにも責任はあります」


 私は顔を上げた。


「けれど、最初に責められるべきは私です」


 リリアナが息を呑んだ。


 クラリスのペンが止まる。


 止めたのは偉い。いや最初から書くな。


 セシルは私を睨んでいた。


 その瞳が揺れている。


「そんな……そんなふうに言われたら」


 彼女の声が震えた。


「私たちは、何を言えばいいのですか」


「怒ればいい」


 昨日、アルヴィンに言った言葉と同じだった。


「私に怒っていい。あなたたちは私に従った。けれど、私に利用されたことも事実です」


「利用……」


「ええ。あなたは、私の傲慢さの道具ではありません」


 セシルの顔が歪んだ。


 泣きそうに見えた。


 だが、泣かない。


 彼女は上級貴族の令嬢だ。人前で簡単には泣けないよう育てられている。


 その強さも、きっと鎧だ。


「謝らないでくださいませ」


 セシルは低く言った。


「あなたが謝ると、私が惨めになります」


「そう」


「あなたが悪かったと言えば、私は被害者のようになります。でも、私は違います。私は楽しかったのです」


 リリアナたちが緊張する。


 セシルは唇を噛みながら続けた。


「下級貴族の娘たちが怯えるのを見るのが、楽しかった。エリシア様の隣に立って、皆が私にも頭を下げるのが嬉しかった。私は、踏まれたくなかったから踏んだのではありません」


 彼女は笑った。


「踏むのが、気持ちよかったのです」


 空気が凍った。


 私は、セシルを見つめた。


 彼女は自分の醜さを、こちらに差し出している。


 謝罪を拒むために。


 被害者にされないために。


 私は少し、彼女を見直した。


 そして、少し怖くなった。


 この子は正直だ。


 少なくとも今の私より。


 私は救済や反省という美しい言葉で、自分の快感を隠している。


 セシルは、踏むのが気持ちよかったと言った。


 どちらが醜い?


 どちらもだ。


 人は、ほんとうに救いがたい。


「セシルさん」


「何ですの」


「あなたは今、とても醜いことを言いました」


 セシルは顎を上げる。


「ええ」


「ですが、正直でした」


「それが何か」


「正直な醜さは、綺麗な嘘より扱いやすい」


 セシルが眉をひそめる。


「侮辱ですか?」


「半分は」


「もう半分は?」


「感心です」


 セシルは言葉に詰まった。


 私は一歩近づく。


「あなたは、自分が気持ちよかったことを認めた。なら、そこから始められます」


「何を」


「やめることを」


 セシルは笑った。


「簡単に言いますのね」


「簡単ではありません。私も今、やめようとして失敗ばかりしています」


「エリシア様が?」


「ええ」


 私は周囲の視線を感じながら、言った。


「人に慕われるのは気持ちがいい。正しい言葉を言うのも気持ちがいい。誰かが私の言葉で泣いたり、救われたりするのを見ると、私は自分が立派な人間になったような錯覚をします」


 令嬢たちが息を呑む。


 クラリスが泣きそうな顔をしている。


 リリアナは胸の前で手を握っている。


 私は続けた。


「でも、それは危ない。踏む快感と同じくらい、救う快感も人を歪めます」


 セシルの目が見開かれる。


「だから私は、あなたを責めながら、自分も疑わなければならない」


 私は彼女を見た。


「あなたが踏むことをやめるなら、私は救うことに酔うのをやめる努力をします」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 正門前に集まった生徒たちが、誰も動かない。


 なんだこの空間。


 朝から哲学対話をするな。始業前だぞ。教師も出てこい。


 セシルは私をしばらく睨んでいた。


 やがて、ふっと笑った。


「エリシア様」


「はい」


「あなた、以前よりずっと嫌な方になりましたわ」


「自覚はあります」


「以前はただ傲慢で、分かりやすかった。今は、こちらの醜さを見つけて、その隣にご自分の醜さまで並べてくる」


「迷惑でしょう」


「ええ。たいへん」


 セシルは扇を開いた。


 その手が少し震えている。


「考えておきますわ」


「何を?」


「踏むのを、やめることを」


 彼女はそう言って、背を向けた。


 取り巻きたちは慌てて後を追う。


 去り際、セシルは一度だけ振り返った。


「ただし、私はあなたをお姉様とは呼びませんから」


「それは助かるわ」


「……そこは少し寂しそうにしないでくださる?」


「していません」


「していましたわ」


 セシルは鼻を鳴らして去っていった。


 私はその背中を見送り、深く息を吐いた。


 疲れた。


 朝から疲れすぎる。


 まだ一限も始まっていない。学園生活とはこんなに過酷なものだったか。前世の高校もだるかったが、少なくとも登校直後に貴族令嬢の倫理的更生について問答することはなかった。


「エリシア様……」


 リリアナが近づいてくる。


 その目には涙が浮かんでいた。


「今のお言葉、とても……」


「クラリスさん」


 私は即座に言った。


 クラリスがびくっとする。


「書かない」


「……はい」


「リリアナさんも、感動しない」


「それは難しいです」


「難しくない」


「だって、エリシア様はご自分の弱さまで私たちに」


「違う」


 また言う羽目になった。


「違うのです。私は弱さを見せたのではありません。予防線を張ったのです」


「予防線?」


「ええ。あなたたちが私を美化しすぎないように」


 リリアナは真剣に頷いた。


「私たちを遠ざけるために、あえてご自分を低くおっしゃったのですね」


「違う」


「では、私たちが自分の足で立つために」


「違わないけれど違う」


 クラリスが小さく呟いた。


「違わないけれど違う……」


「書かない」


「はい」


 怪しい。


 彼女は絶対に書く。


 私はノートを没収すべきか迷った。


 だが、さっき自分の言葉を書けと言ったばかりだ。没収すると矛盾する。言葉は一度出すと自分を縛る。発言とは呪いである。SNS時代の人類が何度も燃えている理由がよく分かる。


 その時、校舎の鐘が鳴った。


 一限の開始を告げる鐘。


 助かった。


 授業という制度がこんなにありがたいとは思わなかった。教育万歳。人類の数少ない発明品の中で、かなりまともな部類だ。


「皆様、授業へ」


 私が言うと、令嬢たちは名残惜しそうに散っていった。


 リリアナは最後までこちらを見ていた。


「エリシア様」


「何?」


「昨日、エリシア様に助けていただいてから、私、少しだけ変わりたいと思いました」


 私は黙って彼女を見る。


「でも、まだ怖いです」


「それでいいわ」


「え?」


「怖くない変化は、たぶん本当の変化ではありません」


 リリアナの表情が揺れる。


 私はしまったと思った。


 まただ。


 また言葉が勝手にそれっぽくなる。


 しかし、これはもう取り消せない。


「怖いままで、一歩だけ進みなさい。二歩目は、そのあと考えればいい」


 リリアナは、小さく頷いた。


「はい……お姉様」


「今の流れで呼ばない」


「すみません」


 彼女は頬を染めて走っていった。


 私はひとり、廊下に残る。


 いや、ひとりではなかった。


 曲がり角の向こうから、誰かがこちらを見ている気配がした。


 振り向く。


 一瞬だけ、青い制服の裾が消えた。


 男子生徒。


 背は高い。


 銀縁の眼鏡が光った気がする。


 次は青か。


 玉の輿ノルンジャー、冷徹宰相候補。


 レオンハルト・ヴァイス。


 ゲームでは、完璧な頭脳と冷たい美貌を持つ、合理主義の貴公子。


 前世の実況では「冷蔵庫王子」と呼ばれていた。正しくは王子ではないが、前世ネット民は雑である。


 現実の彼について、エリシアの記憶が告げている。


 彼は、すべてを記録する。


 出席。成績。会話。派閥。贈答品。好感度。失言。弱み。


 人間を帳簿のように扱う男。


 そして過去の私は、その記録を便利に使っていた。


 誰が誰に不満を持っているか。

 誰が誰の婚約に反対しているか。

 どの令嬢を揺さぶれば、どの家が動くか。


 レオンハルトは、私に情報を与えた。


 私はそれを使って、誰かを傷つけた。


 次は彼か。


 私は頭を抱えたい気分になった。


 正義に飢えた赤だけで、すでに胃が重い。そこへ人間管理癖の青が来る。五人衆を揃える前にこちらの精神が死ぬ。


 教室に入ると、すでに生徒たちが席についていた。


 私の席は窓際の前列。


 以前は当然のように中央に座っていた。教師にも見えやすく、周囲を見下ろせる位置。


 だが、私は今朝、席替え申請を出していた。


 理由は「授業に集中するため」。


 本当は、取り巻きの中心から距離を置くためだ。


 席に着くと、机の中に小さな紙片が入っていた。


 またか。


 私は周囲を確認してから、それを開いた。


『白百合の君へ。今日の放課後、図書室奥の閲覧席にてお待ちしております。あなたの言葉が広がる速度について、少々お話がございます。

 レオンハルト・ヴァイス』


 丁寧な字。


 無駄のない文章。


 そして、内容が怖い。


 あなたの言葉が広がる速度について。


 何だその分析対象。


 私は自分の語録がついに統計処理されるのかと頭を抱えた。


 授業中、教師の説明はほとんど頭に入らなかった。


 代わりに、私は窓の外を見ながら考えていた。


 言葉が広がる。


 昨日までは、私の言葉はその場限りだった。


 リリアナに言った。

 ミーナに言った。

 アルヴィンに言った。

 セシルに言った。


 それが、クラリスのノートに記録され、寮で朗読され、白百合の花とともに象徴になりつつある。


 私の意図を離れて、私の言葉が歩く。


 歩いた先で、誰かを救うかもしれない。


 誰かを縛るかもしれない。


 誰かが、自分の都合のいいように使うかもしれない。


 そして私自身も、それを望んでいるかもしれない。


 広がってほしくない。


 でも、少し広がってほしい。


 知られてほしくない。


 でも、少し崇められたい。


 この二つが同時にある。


 最低だ。


 だが、人間はだいたいそうだ。秘密にしたいと言いながら見つけてほしい。傷つけないでと言いながら理解してほしい。放っておいてと言いながら追いかけてほしい。面倒な仕様である。誰が設計した。


 放課後。


 私は図書室へ向かった。


 リリウム学園の図書室は広い。


 高い天井。壁一面の書架。梯子。古い紙の匂い。大きな窓から差し込む西日。


 前世の俺なら、ここで三時間は潰せる。


 だが今日は読書ではない。


 青との面談である。


 図書室奥の閲覧席に、レオンハルト・ヴァイスはいた。


 灰青色の髪。細い銀縁眼鏡。冷たい横顔。整いすぎていて、あまり人間味がない。


 彼は手元の書類に目を落としていた。


 私が近づくと、彼は顔を上げる。


「お待ちしておりました、エリシア嬢」


「ごきげんよう、レオンハルト様」


「その呼び方は珍しいですね。以前は私を便利な帳簿係と呼んでおられましたが」


 私は即座に死にたくなった。


 過去の私。


 最悪すぎる。


「……その節は、大変失礼いたしました」


「謝罪は結構です。記録上、あなたは昨日から謝罪回数が急増しています」


「記録しないでください」


「癖です」


「悪癖ですわ」


「自覚はあります」


 あるのか。


 なら直せ。


 私は向かいの席に座った。


 彼の前には、数枚の紙が並んでいる。


 名前、矢印、日付、発言内容。


 嫌な予感がした。


「これは?」


「あなたに関する噂の流通経路です」


「作らないでください」


「すでに手遅れです」


 レオンハルトは一枚の紙を私の前に置いた。


 そこには、昨日から今日にかけての情報伝播が整理されていた。


 リリアナ・ベル

 ↓

 寮談話室

 ↓

 クラリス・メイフィールドによる記録

 ↓

 下級貴族令嬢六名

 ↓

 昼食時に三名追加

 ↓

 白百合の君呼称発生

 ↓

 今朝、匿名の花


 仕事が早い。


 早すぎる。


「あなたは何者ですか」


「宰相家の人間です」


「それで許されると思っているのですか」


「多くの場合、許されます」


 嫌な社会だ。


 レオンハルトは眼鏡を押し上げた。


「結論から申し上げます。あなたの影響力は危険な速度で拡大しています」


「分かっています」


「いいえ。分かっていません」


 彼は淡々と言う。


「あなたは、自分の発言が好意的に受け取られていることを困惑している。ですが、問題は好意そのものではありません。構造です」


「構造?」


「ええ。あなたは元々、上級貴族令嬢たちの頂点にいました。そのあなたが急に下級貴族令嬢たちに手を差し伸べた。これは単なる善行ではありません。既存の序列に対する介入です」


 アルヴィンと同じことを、より冷たく言う。


「さらに、あなたは王太子殿下と互いを正す関係を示した。これは、あなたの行動が王権から一定の承認を得たように見えます」


「承認された覚えはありません」


「見え方の話です」


 痛い。


「そして本日、セシル嬢に対して、あなたは自らの過去の責任を認めた。これにより、あなたは単なる加害者から、悔い改めた権力者へと物語上の位置を変えました」


「物語上」


「人は事実ではなく、解釈で動きます」


 私は黙った。


 青は厄介だ。


 アルヴィンは感情の地雷だった。


 レオンハルトは構造のナイフだ。


 淡々と切ってくる。


「つまり、現在のあなたは下級貴族令嬢たちにとって、三つの意味を持っています」


 彼は指を一本立てた。


「一つ、庇護者」


 二本目。


「二つ、反省した権力者」


 三本目。


「三つ、上級貴族社会に対抗しうる象徴」


「やめてください」


「現実です」


「現実はもっと遠慮すべきです」


「しません」


 知っている。


 現実は昔から遠慮がない。


 私は額を押さえた。


「では、あなたは私に何を望んでいるのですか」


「制御です」


「私の?」


「あなたの言葉の」


 レオンハルトは一枚の紙を差し出した。


 そこには、びっしりと項目が書かれていた。


 一、発言前に対象者、周囲、伝播可能性を確認すること。

 二、比喩表現の使用を控えること。特に靴、花、翼、光、救済に類する語を避けること。

 三、個人への助言は密室ではなく第三者同席の場で行うこと。

 四、下級貴族令嬢との接触頻度を週三回以下に抑えること。

 五、白百合の呼称を公式に否定すること。

 六、語録の写本化を禁止すること。

 七、必要に応じて、私が発言案を事前審査すること。


 私は紙を置いた。


「お断りします」


「なぜです」


「気持ち悪いからです」


 レオンハルトは表情を変えなかった。


「感情的な拒絶ですか」


「ええ。とても感情的です。人間なので」


「感情は管理可能です」


「その考え方が気持ち悪いのです」


 彼の目が、少しだけ細くなった。


「エリシア嬢。あなたの善意は、すでに管理を必要とする段階にあります」


「そうかもしれません」


「なら」


「ですが、あなたが管理するものではありません」


 空気が変わった。


 レオンハルトは黙った。


 私は彼を見る。


「あなたは昔から、何でも記録しますね」


「必要だからです」


「人の発言、行動、弱み、関係、立場。すべてを紙に並べる」


「そうすれば見落としが減ります」


「そうすれば、安心するのでしょう」


 レオンハルトの指が止まった。


 私はしまったと思った。


 また踏んだ。


 だがもう遅い。


「あなたは、人間が予測不能であることが怖いのではありませんか」


 レオンハルトは無表情だった。


 しかし、机の上の指先だけがわずかに震えた。


「続けてください」


「嫌です」


「なぜ」


「あなたが、それを記録しそうだから」


「します」


「だから嫌なのです」


 私は椅子にもたれた。


「レオンハルト様。あなたの提案は、たしかに正しい部分があります。私の言葉は、今のままでは危険です。広がり方も、受け取られ方も、私が思うよりずっと大きい」


「ならば」


「でも、人間の言葉をすべて管理表に入れれば安全になる、という考え方はもっと危険です」


「なぜです」


「安全になる代わりに、生きていなくなるからです」


 レオンハルトが私を見る。


「言葉は間違えます。人も間違えます。誤解も起きます。傷もつきます。けれど、すべてを事前に管理し、正しい形に整えてからでなければ話せないなら、それはもう会話ではありません」


 私は彼の紙を指で押さえた。


「それは手続きです」


 レオンハルトは黙っている。


 私は続けた。


「あなたは、人を間違えさせたくないのかもしれない。傷つけたくないのかもしれない。混乱を避けたいのかもしれない」


「……」


「でも、本当は」


 私は少しだけ声を落とした。


「自分の手元にないものが、怖いのではありませんか」


 沈黙。


 図書室の奥は静かだった。


 遠くでページをめくる音がする。


 レオンハルトは、ゆっくり息を吐いた。


「あなたは」


「はい」


「実に、不快な方になりましたね」


「今日二度目です」


「誰に言われたのです」


「セシルさんに」


「彼女は正しい」


「私もそう思います」


 レオンハルトは目を伏せた。


 長い指が、紙の端を整える。


 その動作は几帳面で、少し神経質だった。


「真意の不確かな言葉は、意志は……放置すると混乱します」


「ええ」


「発言は誤解される。善意は派閥を作る。感情は判断を鈍らせる。誰かの涙ひとつで、十人が動く」


「そうですね」


「だから記録が必要です。分類が必要です。予測が必要です」


「ええ」


「そうしなければ」


 彼の声が、ほんの少し低くなる。


「誰が何を壊すか分からない」


 その一言に、記憶が反応した。


 エリシアの記憶。


 幼い頃のレオンハルト。


 彼の兄。


 才能があり、人望もあり、だが放蕩癖のあった兄。


 ある夜、兄が不用意に漏らした冗談が、派閥争いの火種になった。


 誰かがそれを誇張し、誰かが記録し、誰かが利用した。


 結果、ヴァイス家は一時的に失脚寸前まで追い込まれ、兄は表舞台から消えた。


 幼いレオンハルトは、そのとき見たのだ。


 言葉が家を壊すところを。


 記録されなかった本心が、捏造された事実に負けるところを。


 だから彼は、すべてを記録するようになった。


 自分が先に記録しておけば、誰にも歪められない。


 自分が先に分類しておけば、誰にも奪われない。


 私は、言葉を失った。


「思い出しましたか」


 レオンハルトが言った。


「……少し」


「あなたは当時、私に言いました」


「何を?」


「泣く暇があるなら、役に立つ記録を寄越しなさい、と」


 最悪だ。


 もう何度目か分からないが、過去のエリシアが最悪すぎる。


 私は深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


「謝罪は不要です」


「必要です」


「謝罪されても、過去は変わりません」


「ええ」


「ならば、不要です」


「それでも、謝ります」


 レオンハルトは、少しだけ眉をひそめた。


「あなたの謝罪には効率がありません」


「人間には、効率の悪い行為が必要な時があります」


「感情論です」


「そうです」


 私は顔を上げた。


「あなたも、少しは感情論をなさったほうがいい」


「無駄です」


「無駄なことをしないと、人は壊れます」


 レオンハルトは黙った。


 私は彼の管理案の紙を、そっと返した。


「管理は必要です。ですが、あなたが私を管理するのではありません」


「では、どうするのです」


「一緒に考えてください」


「一緒に?」


「ええ。私の言葉が誰かを傷つけないように。けれど、誰かの声を押し潰さないように」


 レオンハルトは怪訝そうな顔をした。


「非効率です」


「人間関係はだいたい非効率です」


「不安定です」


「ええ」


「予測不能です」


「そうですね」


「あなたは、それを分かっていて選ぶのですか」


 私は少し考えた。


 そして答えた。


「管理されるよりは、失敗するほうがましです」


 レオンハルトはしばらく私を見ていた。


 やがて、机の上の管理案を一枚ずつ整え、封筒にしまった。


「分かりました」


「分かってくださったのですか?」


「いえ。まったく理解できません」


「ではなぜ」


「観察対象として興味があります」


 だめだ。


 これはだめな方向の興味だ。


「あなたは、危険です」


「自覚はあります」


「ですが、管理不能なものとしては、比較的有用です」


「褒めていますか?」


「分類に困っています」


「それは褒めていませんね」


 レオンハルトは立ち上がった。


「しばらく、あなたの周囲の情報流通を観察します」


「やめてください」


「必要です」


「私に許可を求める気は?」


「今、求めました」


「拒否します」


「参考にします」


「参考にしないで」


 話が通じない。


 青は赤と別方向に面倒くさい。


 レオンハルトは書類をまとめると、最後にこちらを見た。


「エリシア嬢」


「はい」


「あなたは、言葉が歩き始めたことを恐れている」


「ええ」


「ですが、言葉は歩きます。どれほど止めても、人の口と紙と記憶を通って」


「……」


「ならば、止めるよりも、どこで歪むかを見たほうがいい」


 その言葉は、冷たいのに妙に正しかった。


 私は悔しい気分になった。


「それは、あなたの言葉ですか」


「はい」


「では、クラリスさんに記録させても?」


 レオンハルトは眉をひそめた。


「なぜです」


「あなたも少し、自分の言葉が他人に持ち運ばれる気味悪さを知ればいいと思いまして」


 彼は黙った。


 初めて少しだけ、嫌そうな顔をした。


 勝った。


 小さい勝利だが、勝利である。人類はこういう小さな意地で精神を保っている。


「遠慮します」


「そうでしょうね」


 レオンハルトは立ち去った。


 私は図書室にひとり残された。


 窓の外は夕暮れだった。


 西日に照らされた書架が、赤く染まっている。


 言葉は歩く。


 止められない。


 私の言葉も、クラリスのノートも、セシルの告白も、アルヴィンの怒りも、レオンハルトの記録も。


 誰かに届けば、形を変える。


 救いにもなる。


 刃にもなる。


 鎖にもなる。


 私はそれを、まだ甘く見ている。


 帰り際、図書室の入口でクラリスに会った。


 彼女は妙にそわそわしていた。


「クラリスさん」


「は、はい」


「なぜここに?」


「偶然です」


「本当に?」


「半分ほど」


「残り半分は?」


「エリシア様がレオンハルト様とお話しされると聞きまして」


「誰から?」


「リリアナさんから」


 情報網が育っている。


 早すぎる。


「盗み聞きは?」


「しておりません」


「本当に?」


「扉越しに少しだけ」


「それを盗み聞きと言います」


 クラリスはしゅんとした。


 私はため息をつく。


「何を聞きました?」


「言葉は歩く、というお話を」


「そこだけ?」


「はい」


「それで?」


 クラリスは胸元のノートを開いた。


 そこには、新しい見出しが書かれていた。


『白百合の君のお言葉・第二章 歩き始める言葉』


 章が増えた。


 私は静かにノートを閉じた。


「クラリスさん」


「はい」


「あなた自身の言葉を書きなさいと言いましたね」


「はい」


「これは?」


 クラリスは少しだけ誇らしげに言った。


「章題は私が考えました」


 違う。


 そうじゃない。


 だが、少し前進している気もする。


 人類の成長はだいたい不完全で、こちらの神経を逆撫でする形で現れる。まったく面倒だ。


「では、その下にあなたの考えも書きなさい」


「私の考え……」


「ええ。今日、あなたは何を聞いて、何を感じたのか」


 クラリスはしばらく考えた。


 そして、ペンを取る。


 ゆっくりと、震える手で書き始めた。


『言葉は、言った人のものだけではなくなる。だから怖い。でも、誰かに届くから、少し嬉しい。私は、エリシア様のお言葉を残したいと思った。けれど、本当は、エリシア様の言葉を残すことで、自分も何か大切なものに関わっている気がしたのかもしれない』


 私は黙ってそれを読んだ。


 良い文章だった。


 未熟だが、借り物ではない。


 クラリス自身の、少し恥ずかしい言葉だった。


「よく書けています」


 私が言うと、クラリスの顔がぱっと輝いた。


「本当ですか?」


「ええ」


「では、これは語録に」


「入れない」


「ですが」


「あなたの日記にしなさい」


 クラリスは少し残念そうにしたが、すぐに大事そうにノートを抱えた。


「はい」


 その表情は、先ほどまでとは少し違っていた。


 私を見ているだけではない。


 自分の書いたものも、見ている。


 それに、私は少し安心した。


 そしてまた、寂しくなった。


 自分の言葉から離れて、彼女が自分の言葉を持ち始める。


 それは良いことだ。


 良いことなのに。


 私は、彼女がいつか私の言葉を必要としなくなる日を、ほんの少し想像してしまった。


 胸の奥が、かすかに痛んだ。


 だから私は微笑んだ。


 完璧なお姉様の微笑みで。


「クラリスさん」


「はい」


「いつか、そのノートを私に見せてください。私の言葉ではなく、あなたの言葉でいっぱいになったら」


 クラリスの目が潤む。


「はい……必ず」


 その涙は、今までのものとは少し違った。


 救われた涙ではない。


 何かを始める前の、怖さと喜びの混じった涙だった。


 私はそれを見て、少しだけ救われた気がした。


 まただ。


 私が救われている。


 誰かを救ったつもりで、私のほうが救われている。


 この構造は、たぶんとても危ない。


 でも今は、見なかったふりをした。


 帰りの馬車の中で、私は花瓶に挿した白百合のことを思い出していた。


 白い花。


 匿名の言葉。


 歩き始める語録。


 赤は怒りを覚えた。

 青は記録を持ってきた。

 白百合は増殖している。


 破滅フラグは、回避されていない。


 ただ、別の名前を与えられただけだ。


 翌日。


 学園の掲示板に、一枚の紙が貼られていた。


『白百合の君を慕う会

 第一回茶話会のお知らせ』


 私はそれを見た瞬間、しばらく動けなかった。


 主催者名は、クラリス・メイフィールド。


 補佐、リリアナ・ベル。


 議題。


 一、エリシア様のお言葉について

 二、私たちはいかに自分の言葉を持つべきか

 三、お姉様呼称の使用範囲について


 私は紙を剥がした。


 すぐに剥がした。


 しかし、掲示板の前にはすでに十人以上の令嬢が集まっていた。


 彼女たちは私を見て、一斉に礼をする。


「ごきげんよう、白百合の君」


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