第2話 玉の輿ノルンジャー、赤が来る
翌朝。
私は自室の机の前で、羽根ペンを握りしめていた。
紙には、昨日起きた出来事が箇条書きにされている。
一、前世の記憶を取り戻す。
二、自分が乙女ゲームの悪役令嬢っぽいと判明。
三、侍女ミーナに謝罪。泣かれる。
四、学園で男爵令嬢リリアナを助ける。
五、お姉様と呼ばれる。
五番目が明らかにおかしい。
いや、一番目から全部おかしいのだが、五番目だけ妙に生々しい。転生だの乙女ゲームだのは、まだ非現実として処理できる。だが「お姉様」は違う。あれは耳に残る。
困ったことに、少し気持ちよかった。
かなりまずい。
私は羽根ペンを置き、額を押さえる。
人間は、自分が褒められたときに「いや、そんなことないです」と言いながら、その言葉を心の棚に飾る生き物である。最低のインテリアだ。昨日の私はまさにそれだった。
お姉様。
前世の俺なら、完全に画面の向こうの属性だった。
百合ものに出てくる高貴な先輩。
女学院の象徴。
下級生たちの憧れ。
白い手袋。
長い髪。
微笑むだけで周囲が静まる女。
それを、今の私はやれる。
やれてしまう。
鏡の中のエリシア・フォン・クラウディアは、今日も無駄に美しかった。銀に近い金髪は朝日に透け、紫の瞳はやたらと神秘的で、肌は陶器のように白い。
前世の俺がこの顔でネカマプレイをしたら、だいたいの人間は騙せる。
私は深呼吸した。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
侍女のミーナが入ってくる。
昨日までと違い、彼女の足取りは少しだけ軽い。まだ緊張はしている。だが、怯えだけではない。
盆の上には紅茶と、小さな焼き菓子。
「ありがとう、ミーナ」
「はい」
その返事が、昨日よりも柔らかい。
胸の奥がまた少し甘くなる。
やめろ。
これは紅茶の香りだ。
人間は都合のいい解釈だけは天才的である。
私はカップを手に取り、一口飲んだ。
温度はちょうどいい。香りもいい。
「おいしいわ」
ミーナの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。あなたは紅茶を淹れるのが上手なのね」
「そんな……」
ミーナは頬を赤くする。
まずい。
褒めただけでこれだ。
昨日までの私がどれだけ褒めなかったかが分かる。前世の記憶を取り戻してから、私は自分の過去の行いに毎時間刺されている。
「ところで、ミーナ」
「はい」
「私のこと、学園で何か変な噂になっていませんか」
ミーナは一瞬、目を逸らした。
「いえ、私ども使用人は詰め所にて待機する決まりですのでその間の事は……」
話を逸らした。
「正直に言いなさい」
「……その、少しだけ」
「少しだけ?」
「エリシア様が、男爵家のご令嬢をお救いになったと」
「それはまあ、事実ね」
「それから、あの……」
「続けて」
「高貴なる白百合の君と」
私は紅茶を吹きかけた。
危なかった。
公爵令嬢として、朝から紅茶を噴霧する装置になるところだった。
「誰がそんな呼び名を?」
「学園の一部のご令嬢方が」
「一部とは?」
「下級貴族のご令嬢方を中心に、十名ほど」
増えている。
昨日の時点でリリアナ一人だったはずだ。噂というものは、どうしてこうも増殖能力が高いのか。
「白百合……」
私は頭を抱える。
昨日の一件で、もう百合が咲き始めている。
ミーナは不安げに私を見る。
「お嬢様、お気に召しませんでしたか?」
「……そうね。少し、大げさすぎるわ」
「ですが」
ミーナは胸の前で手を組んだ。
「私は、とてもお似合いだと思います」
やめなさい。
侍女までそちら側に行くな。
私はカップを置き、姿勢を正した。
「ミーナ。人を過剰に美化してはいけません。どれほど立派に見えても、人は人です。間違えるし、弱いし、醜い部分も持っています」
「……はい」
「私も同じです」
ミーナは少しだけ驚いた顔をした。
「あなたに昨日謝ったのも、立派だからではありません。今までの私がひどすぎただけ」
「お嬢様……」
「だから、私をあまり特別なものにしないで」
これは自分にも言っていた。
私をお姉様にするな。
私を白百合にするな。
私を救済者にするな。
中身は前世で深夜にカップ麺を食っていた男だ。カップ麺に失礼なレベルで俗である。
だがミーナは、なぜか感動したように目を潤ませた。
「ご自分の弱さまで認められるなんて……」
「違う」
反射的に言った。
ミーナが目を丸くする。
私は咳払いをした。
「いえ。違わないけれど、違うの」
「はい……?」
だめだ。
何を言っても、良い方向に変換される。
人間の信仰心とは恐ろしい。推しを見る目は、たぶん神を見る目と同じ構造をしている。文明が何度も宗教で燃えた理由が少し分かった。
そのとき、扉の外から使用人の声がした。
「お嬢様。王太子殿下より、お迎えの馬車が到着しております」
私は固まった。
王太子殿下。
来た。
玉の輿ノルンジャー、赤。
アルヴィン・フォン・レグナード。
『薔薇冠の聖女と五つの誓約』における、メイン攻略対象。
正義に燃え、民を思い、剣も学問も優秀。少し不器用だがまっすぐな王子。ヒロインと出会うことで、王族としてではなく一人の人間として成長していく。
ゲーム上ではそうだった。
現実のアルヴィンは、もっと面倒くさい。
私の記憶の中の彼は、いつも正しかった。
正論を言う。
規則を守る。
弱者を助ける。
不正を許さない。
誰よりも理想的な王太子として振る舞う。
だが、その正しさは少し息苦しかった。
彼は自分が正しいと信じている。
そして、正しい自分であり続けなければならないと怯えている。
過去のエリシアは、そこを本能的に嗅ぎ取っていたのかもしれない。
彼女はアルヴィンに無茶を言った。
私のために膝をつけ。
私を一番に選べ。
あなたの正義とやらで、私の退屈を満たしてみせろ。
最低である。
だが記憶の中のアルヴィンは、怒りながらも従った。
そこが気持ち悪い。
嫌なら拒めばいい。王太子なのだから。公爵令嬢とはいえ、私はただの婚約者候補にすぎない。
なのに彼は、たびたび従った。
そしてその後、ひどく苦しそうな顔をしていた。
私はそれを思い出し、背筋が冷えた。
昨日のリリアナと同じだ。
人の痛みを、私は軽く見ていた。
いや、前のエリシアが軽く見ていた。
この区別も、そろそろ怪しい。
十五年分の記憶は私の中にある。
傲慢な言葉を吐いた口も、この口だ。
誰かを見下した目も、この目だ。
私ではないと言い切るには、身体が近すぎる。
「お嬢様?」
ミーナが心配そうに声をかける。
「……すぐ行くわ」
私は立ち上がった。
今日のドレスは、淡い青にした。
赤の王太子相手に赤を着るのは、なんとなく負けた気がする。青は冷静の色だ。色にすがるあたり、精神がだいぶ追い詰められている。
玄関ホールへ向かうと、そこに彼はいた。
金の髪。青い瞳。まっすぐな背筋。王族らしい品位。
アルヴィン・フォン・レグナード。
十七歳。
ゲームなら、立ち絵だけで課金が発生する顔である。
だが、現実の彼は画面の中のキャラではない。
私を見た瞬間、その青い瞳がわずかに揺れた。
「エリシア」
低い声。
私はゆっくりと礼をした。
「ごきげんよう、アルヴィン殿下」
彼は一瞬、眉を寄せた。
以前の私は、彼を「アルヴィン」と呼び捨てにしていた。婚約者候補であることを盾に、王太子相手にも馴れ馴れしく振る舞っていた。
だから、殿下と呼んだだけで違和感が出る。
大丈夫。
ここは丁寧に距離を取る。
破滅回避の基本は、攻略対象との距離管理。前世の乙女ゲーム知識がこんな形で役に立つとは。人生は本当に性格が悪い。
「今日はどうなさいましたの?」
「学園まで送ろうと思って来た」
「まあ。お気遣いありがとうございます」
私は微笑んだ。
「ですが、私の馬車もございます。殿下のお手を煩わせるわけにはまいりません」
断る。
丁寧に断る。
これ以上、王太子と親密に見られるのはまずい。原作開始前から婚約者ムーブを強めると、将来ヒロインとの関係が面倒になる。私は悪役令嬢だ。近づけば近づくほど断罪の燃料になる。
アルヴィンは私をじっと見た。
「君が、私の申し出を断るのか」
その声に、わずかな苛立ちが混じる。
まずい。
以前のエリシアは、彼の誘いを当然のように受けていた。むしろ「迎えが遅い」と文句を言っていた。
だから、拒絶に聞こえたのだろう。
私は一歩近づき、声を柔らかくした。
「殿下」
アルヴィンの肩がかすかに強張る。
「私は今まで、あなたの優しさを当然のものとして扱っていました」
「……何?」
「迎えに来てくださることも、私に時間を割いてくださることも、王太子であるあなたが私を気にかけてくださることも。私は、それを権利のように受け取っていた」
言いながら、記憶が刺さる。
雪の日に彼を待たせたこと。
舞踏会でわざと別の男と踊り、彼の反応を見たこと。
民への視察の予定を潰して、私の買い物に付き合わせたこと。
最低だ。
どうして彼は怒鳴らなかったのだろう。
どうして離れなかったのだろう。
いや、離れられなかったのか。
王家と公爵家の関係。
婚約候補としての立場。
幼い頃からの約束。
そして、彼自身の「正しい王太子でなければならない」という呪い。
私は彼を縛っていた。
彼の正しさを利用していた。
「だから、これからは改めます」
私は頭を下げた。
「今まで、申し訳ありませんでした」
沈黙。
玄関ホールが静まり返る。
使用人たちの息を呑む気配が分かる。ミーナなど、背後で祈るように手を組んでいる。
アルヴィンは黙っていた。
私は頭を下げたまま待つ。
長い。
非常に長い。
謝罪のあとに沈黙されると、人間は自分の内臓の配置まで不安になる。人体というものは、普段意識しないほうが幸せだ。
「顔を上げろ」
私は顔を上げた。
アルヴィンは、ひどく困惑した顔をしていた。
怒りではない。
驚き。
疑念。
そして、ほんの少しの怯え。
「君は……何を企んでいる」
ですよね。
当然である。
昨日まで高慢悪役令嬢だった女が、急に謝ってきたのだ。普通なら毒か呪いを疑う。私でも疑う。
「何も企んではおりません」
「信じられると思うか」
「思いません」
アルヴィンが目を見開く。
「信じていただけるとは思っていません。私は、それだけのことをしてきました」
「……」
「ですが、信じられないからといって、謝らない理由にはなりません」
また決まった。
やめろ。
なぜこう、口が勝手にお嬢様名言製造機になるのか。前世の俺のネット弁慶成分と、エリシアの貴族教育が混ざって、最悪にそれっぽい出力をしている。
アルヴィンは私を見つめた。
その目が、少しずつ変わる。
まずい。
この目は昨日見た。
ミーナとリリアナがした目だ。
何かを見つけたような目。
自分の中で勝手に意味を作り始めた目。
「エリシア」
「はい」
「君は、本当に変わるつもりなのか」
「そのつもりです」
「なぜ」
私は答えに詰まった。
なぜ?
破滅したくないから。
断罪されたくないから。
この世界が乙女ゲームに似ていて、自分が悪役令嬢の役だから。
だがそんなことを言えるはずがない。
それに、それだけでもない。
昨日、ミーナが泣いた。
リリアナが震えた。
自分の言葉で誰かが救われた。
その重さと甘さを知ってしまった。
私は変わりたい。
たぶん本当に。
だが、それが善意だけではないことも、もう薄々分かっている。
だから私は、少しだけ嘘を混ぜた。
「自分の醜さに、ようやく気づいたからです」
アルヴィンの表情が止まった。
「醜さ……?」
「ええ。私は、あなたの正しさに甘えていた。あなたが私を見捨てないと知っていて、試すようなことばかりしていました」
「……」
「殿下。あなたは王太子です。誰よりも正しくあろうとしている。それは立派なことです」
アルヴィンの唇がわずかに動く。
「けれど、正しい人間であろうとするあまり、傷ついたことまで正しさのために飲み込んでしまうのは、違うと思います」
言った瞬間、空気が変わった。
アルヴィンの青い瞳が、鋭くなる。
あ。
踏んだ。
これは地雷だ。
しかも王族用の豪華な地雷だ。踏むと歴史書に載るかもしれない。やめてほしい。私はまだ十五歳だ。
「君に、何が分かる」
低い声だった。
使用人たちが怯える。
でも私は、なぜか引かなかった。
前世の俺なら即座に謝って退散していた。だが今の私は、公爵令嬢エリシアの顔と声と背筋を持っている。
人間、外見に人格が引っ張られる。服装と姿勢でメンタルが変わるとかいう話は本当だったらしい。貴族令嬢の身体は、精神に悪い。
「分かりません」
私は言った。
「分からないから、尋ねています」
「尋ねてなどいない。君は決めつけている」
「そうかもしれません」
「……なら」
「ですが、あなたが苦しそうに見えたのは本当です」
アルヴィンが黙った。
私は一歩、近づいた。
「私に怒ってよかったのです」
彼の眉が震える。
「私を嫌ってよかった。私のわがままを拒んでよかった。王太子だから、公爵家との関係があるから、正しくあらねばならないから。そうやって、すべて飲み込む必要などなかった」
「黙れ」
「黙りません」
言ってから、内心で悲鳴を上げた。
黙れ私。
相手は王太子だ。将来の国王だ。前世日本なら国会中継に出るレベルの権力者だ。いや王政なので国会すらない。より悪い。
だが止まらない。
「あなたが怒らなかったから、私はつけあがった。あなたが我慢したから、私は自分が許されていると勘違いした」
「違う」
「違いません」
「違う!」
アルヴィンが声を荒げた。
ホールに響く。
私は静かに彼を見る。
彼の拳が震えていた。
「私は……私は、王太子だ。感情で人を裁くわけにはいかない。君がどれほど理不尽でも、公爵家との関係を壊すわけにはいかなかった。君を拒めば、周囲に余計な憶測を呼ぶ。父上にも迷惑がかかる。民にも、家臣にも」
「だから、自分ひとりが傷つけばいいと?」
「それが責務だ」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「それは責務ではなく、傲慢です」
言った。
言ってしまった。
王太子に傲慢と言った。
終わった。
今度こそ断罪イベントを前倒しで開催できる。会場は我が家の玄関ホール。チケットは無料。最悪の即売会だ。
アルヴィンは凍りついたように私を見た。
「……傲慢、だと?」
「ええ」
私はもう後戻りできない。
もはや言うしかないのだ。
「自分さえ耐えればすべて丸く収まると思うのは、自分の痛みに価値を置きすぎています。あなたが傷ついて黙ることで、私のような愚か者は増長する。周囲も何も言えなくなる。結果として、あなたの正しさは誰も救わない」
アルヴィンの顔から血の気が引いていく。
「あなたが本当に正しくありたいのなら」
私は彼をまっすぐ見た。
「怒るべき時に、怒りなさい」
沈黙。
今度の沈黙は、さっきより深かった。
アルヴィンは私を見ていた。
目を逸らさずに。
その青い瞳の奥で、何かが崩れる音がした気がした。
しまった。
言いすぎた。
これは謝罪の範囲を超えている。カウンセリングでもない。むしろ辻説教だ。王太子相手に朝から何をしているのか。
「出過ぎたことを申しました。お許しください」
頭を下げようとした。
その前に。
アルヴィンが、笑った。
小さく。
苦しそうに。
けれど、確かに笑った。
「君は……本当に、残酷だな」
心臓が止まりかけた。
その言葉は、責めているようで、少し違った。
懐かしむような。
救われたような。
あるいは、もっと厄介な何かを見つけたような。
アルヴィンは私に近づいた。
私は反射的に一歩下がりそうになるのをこらえる。
王太子は私の前で足を止めた。
「私に怒れと言ったな」
「……はい」
「なら、怒ろう」
「え」
「エリシア。君はずっと、私を試していた。私の正しさを、私の責務を、私の忍耐を。君は私が拒まないと知っていた。だから踏み込んだ」
「はい」
「私は、君が嫌いだった」
当然だ。
当然なのに、胸が少し痛んだ。
「君を見るたび、自分の弱さを見せつけられるようだった。君を拒めない自分が、許せなかった」
「……はい」
「だが、今の君はもっと嫌いだ」
え。
「なぜなら、君は私が見ないようにしていたものを、正面から突きつけた」
アルヴィンの声が震えている。
「私は正しくありたかったのではない。正しくあることで、誰にも責められない場所にいたかった」
私は息を呑んだ。
彼自身が言った。
自分で。
王太子としてではなく、一人の人間として。
その瞬間、彼の表情が少しだけ歪んだ。
「……こんなことを、君に言わされるとは思わなかった」
「言わせたつもりは」
「あるだろう」
ない。
いや、あるかもしれない。
私は相手の弱い場所を見つけて、そこに言葉を置いた。
善意のふりをして。
反省のふりをして。
正しさのふりをして。
私は彼の中から、欲しかった言葉を引きずり出した。
自覚した瞬間、背中が冷えた。
アルヴィンはそんな私を見て、また笑った。
「君は、私を怒らせた」
「申し訳ありません」
「謝るな」
彼は言った。
「気分がいい」
終わった。
完全に何かが終わった。
アルヴィンは、まるで長年の鎧を一枚脱いだような顔をしていた。
その目が私を見る。
まっすぐに。
熱っぽく。
「エリシア」
「はい」
「これからも、私が間違っていたら言え」
「……殿下、それは」
「命令ではない。頼みだ」
頼むな。
王太子が悪役令嬢に精神の監査を頼むな。国家制度に穴がありすぎる。
「私は、あなたの教育係ではありません」
「分かっている」
「分かっていないお顔です」
「分かっている」
「では、なぜそんなに嬉しそうなのですか」
アルヴィンは一瞬黙った。
そして、なぜか少し赤くなった。
「嬉しそう、か」
やめろ。
その反応をするな。
私は両手を握りしめる。
「殿下。私が申し上げたのは、あなたがご自分で怒り、ご自分で考え、ご自分で判断なさるべきだということです。私に裁かれればいいという話ではありません」
「裁かれたいなどとは言っていない」
「顔に書いてあります」
「書いていない」
なんだこの会話。
王太子ルートの雰囲気ではない。もっと爽やかなはずだった。ゲームのアルヴィンは、ヒロインと共に民のために戦う好青年だった。
目の前の男は、正義の仮面の下に、裁かれることへの奇妙な渇望を抱えている。
タグで言えば、正義系王子。
だが、それでは足りない。
この人は、正しくありたいのではない。
正しくなかった自分を、誰かに見つけてほしかったのだ。
嫌な理解だった。
分かってしまうのが、嫌だった。
前世の俺にも似たところがあった。
自分で自分を責める。
でも、本当は誰かに「お前は間違っている」と言ってほしい。
そうすれば、自分の中のぐちゃぐちゃしたものに形がつく。
罰されれば、少し楽になる。
最低だ。
でも、少し分かる。
私は心の中で舌打ちした。
「殿下」
「何だ」
「今日のところは、別々の馬車で参りましょう」
アルヴィンは眉を寄せた。
「なぜ」
「学園で余計な噂になります」
「すでに私たちは婚約候補だ」
「候補であって、婚約者ではありません」
「君は以前、それを不満に思っていただろう」
「以前の私は、かなり愚かでしたので」
「今も別の意味で愚かだ」
「否定できませんわ」
アルヴィンがまた笑った。
まずい。
笑わせている場合ではない。
「エリシア」
「はい」
「君は変わった」
「ええ」
「だが、油断するな」
その声が、少しだけ王太子のものに戻る。
「学園には、君の変化を喜ばない者もいる。君が昨日助けた男爵令嬢の件も、すでに噂になっている」
「存じております」
「下級貴族の令嬢たちが、君を慕い始めているとも聞いた」
「耳が早いですわね」
「王太子だからな」
「だが、上級貴族の令嬢たちは面白くないだろう。君が彼女たちの頂点にいたからこそ、彼女たちは安心して弱い者を踏めた」
胸が痛む。
それはつまり、私がいじめの構造そのものだったということだ。
「君が変われば、彼女たちは足場を失う」
「では、私はどうすれば?」
「知らない」
アルヴィンは少し意地悪く言った。
「君が自分で始めたことだ」
その通りである。
私は昨日、リリアナを助けた。
正しいことをした。
だが同時に、既存の序列を壊した。
弱い者を助けることは、ただ美しいだけではない。
誰かが踏んでいた床を抜くことでもある。
だから反発が来る。
当然だ。
物語なら、ここで主人公は颯爽と立ち向かう。
現実なら、胃が痛くなる。
「……承知しました」
私がそう言うと、アルヴィンは少しだけ満足そうに頷いた。
「では学園で会おう、エリシア」
「はい、殿下」
彼は背を向け、玄関を出ていく。
その背中は、来た時よりも少し軽く見えた。
私はそれを見送りながら、深く息を吐く。
ミーナがそっと近づいてきた。
「お嬢様……」
「何」
「王太子殿下と、とても深いお話をなさっていましたね」
「そう見えた?」
「はい」
「違うわ。事故よ」
「事故……」
「ええ。精神の交通事故」
ミーナは困ったように笑った。
笑わないでほしい。私は本気だ。
*
その日の学園は、予想通り騒がしかった。
廊下に入った瞬間、視線が集まる。
以前の視線とは違う。
恐怖。
好奇心。
警戒。
憧れ。
敵意。
そして、どこか熱っぽい期待。
最初に近づいてきたのは、リリアナだった。
彼女は昨日よりもきちんと髪を整え、破れたノートを丁寧に修繕して抱えていた。目が合うと、ぱっと頬を染める。
「エリシア様……!」
やめろ。
その声の温度を上げるな。
「ごきげんよう、リリアナさん」
「ご、ごきげんよう」
彼女はぎこちなく礼をした。
そして、周囲の目を気にしながら、そっと近づいてくる。
「あの、昨日は本当にありがとうございました」
「もう礼は受け取りました」
「ですが、どうしてももう一度お伝えしたくて」
「そう」
私は微笑む。
「なら、受け取っておきます」
リリアナの顔がまた赤くなる。
その背後に、数人の下級貴族令嬢がいた。
彼女たちは遠巻きにこちらを見ている。
目が合うと、さっと頭を下げた。
増えている。
確実に増えている。
「リリアナさん」
「はい」
「後ろの方々は?」
「その……昨日のお話を聞いて、エリシア様にご挨拶したいと」
ご挨拶。
言葉が軽すぎる。
彼女たちの目は、完全に巡礼者のそれだった。
人類はすぐ聖地を作る。校舎の廊下でやめろ。
私は彼女たちに向き直った。
「ごきげんよう」
令嬢たちは一斉に礼をした。
「ご、ごきげんよう、エリシア様」
「昨日の件を聞きました」
「私も、以前から上級生に……その……」
「エリシア様のような方がいらっしゃるなら、私たちも」
言葉が重なる。
私は手を軽く上げた。
それだけで、全員が黙った。
怖い。
この顔と家格、権力がありすぎる。
「私は、あなたたちの守護者ではありません」
令嬢たちは目を見開く。
私は続けた。
「困っている者がいれば、助けることはあります。ですが、私に縋ればすべて解決すると思ってはいけません」
ちゃんと言った。
依存するな、と。
私はお姉様ではない、と。
ところが、令嬢たちの目が潤んだ。
「なんて……厳しくもお優しいお言葉……」
違う。
「私たちが自ら立つことまで望んでくださるなんて……」
違う。
「さすが、白百合の君……」
違う。
人間はなぜこうも自分に都合よく解釈するのか。いや、私も前世で散々やっていた。推しの何気ない発言を勝手に深読みする生き物だった。今、その業が返ってきている。
私は頭痛を覚えた。
その時。
廊下の向こうから、鋭い声が飛んだ。
「ずいぶんと楽しそうですわね、エリシア様」
振り向く。
そこにいたのは、昨日リリアナを囲んでいた令嬢の一人。
侯爵家の娘、セシル・バルディア。
かつての私の取り巻きの中心人物。
紅い髪を高く結い、勝ち気な瞳でこちらを睨んでいる。
彼女の周囲には、上級貴族令嬢たちが数人。
来た。
反発。
アルヴィンの忠告、即日回収である。展開が律儀すぎる。もう少し間を置け。
「ごきげんよう、セシルさん」
「まあ。今日はずいぶんとお上品にご挨拶なさいますのね」
「以前の私が下品でしたので」
セシルの表情が引きつった。
背後の下級令嬢たちが息を呑む。
私は内心で後悔した。
また言い方が強い。
でも仕方ない。事実だ。
「昨日のこと、聞きましたわ」
「そう」
「下級貴族の娘に優しくなさったとか」
「優しくしたというより、あなた方の振る舞いが目に余っただけです」
セシルの頬が赤くなる。
「エリシア様。私たちは、あなたのために」
「私のため?」
「ええ。身分をわきまえない者たちが、あなたの威厳を損なわぬように」
「私の威厳は、誰かを傷つけなければ保てないほど安いの?」
廊下が静まった。
セシルの目が揺れる。
私は一歩近づいた。
「セシルさん。あなたは私のためと言いましたね」
「……はい」
「本当に?」
「何がですの」
「本当に、私のためだったの?」
セシルは口を閉ざした。
私は彼女を見つめる。
分かる。
この子もまた、何かに怯えている。
上級貴族の令嬢として、常に上に立たなければならない。
侮られてはいけない。
下級貴族と同じ場所に落ちてはいけない。
誰かを踏まなければ、自分が踏まれる。
だから、私の傲慢さに乗った。
私が頂点でいてくれれば、自分はその側近でいられた。
私が誰かを踏めば、自分も踏む側でいられた。
私が変わると、彼女は困る。
自分の立ち位置が消えるから。
「あなたは、私のために彼女たちを傷つけたのではありません」
私は静かに言った。
「自分が傷つけられる側に回るのが、怖かったのでしょう」
セシルの顔色が変わった。
あ。
またやった。
人の弱点を見抜いて、言葉にしてしまった。
これは悪い癖だ。
いや、癖どころではない。十五歳の悪役令嬢ボディと前世の観察癖が合体した、対人地雷探知機だ。探知したあと踏みに行くのが本当に終わっている。
「あなたに……何が分かりますの」
セシルの声が震える。
さっきのアルヴィンと同じ言葉。
私は一瞬、返答に迷った。
分からない。
分からないはずだ。
でも、少し分かる。
誰かより上でいたい。
見下されたくない。
惨めになりたくない。
だから、自分より弱い相手を見つける。
最低だ。
でも、少し分かる。
私はその「少し分かる」を、口に出さないようにした。
「すべては分かりません」
私は言った。
「けれど、弱い者を踏んでも、あなたの足場は高くなりません」
セシルは唇を噛んだ。
「綺麗事ですわ」
「ええ。綺麗事です」
私は微笑む。
「だから、せめて言葉くらいは綺麗にしておきませんと。私たち貴族は、放っておくと行いが汚れますもの」
セシルが目を見開く。
背後で誰かが小さく息を呑んだ。
私は心の中で頭を抱えた。
また名言っぽい。
お姉様語録に追加されそうだ。
やめてくれ。
書き留めるな。
特に後ろの眼鏡の令嬢、今ペンを出すな。
セシルは何かを言い返そうとした。
だが、その前に、廊下の端から男子生徒の声が響いた。
「そこまでだ」
アルヴィンだった。
また赤が来た。
王太子は廊下を歩いてくる。
生徒たちが道を開ける。彼の存在感は強い。正義の王子様という看板は伊達ではない。中身はさっき精神の扉をこじ開けられて少し嬉しそうにしていた男だが、外面は完璧である。
「セシル嬢」
「で、殿下……」
「学園内での身分を盾にした威圧は、以前から問題になっていた。これ以上続けるなら、学生会で正式に取り上げる」
セシルが青ざめる。
アルヴィンは続けた。
「ただし」
彼は私を見た。
「エリシア嬢。君もだ」
「私も?」
「ああ。君の言葉は正しいかもしれない。だが、強すぎる」
私は黙った。
「人を正す言葉も、使い方を誤れば刃になる」
心臓が跳ねた。
それは、まさに今の私に必要な言葉だった。
アルヴィンはまっすぐ私を見る。
「君は、自分がどれほど人に影響を与えるか、もう少し自覚したほうがいい」
廊下が静まり返る。
私は、ゆっくり頭を下げた。
「……ご忠告、感謝いたします」
アルヴィンは少しだけ目を細めた。
それは勝ち誇った顔ではなかった。
ただ、何かを返せたことに安堵している顔だった。
私は思った。
よかった。
彼はちゃんと怒れた。
ちゃんと止めた。
ちゃんと私を正した。
それが、少し嬉しかった。
だが同時に。
その嬉しさを見て、アルヴィンがまた嬉しそうにした。
まずい。
これは非常にまずい。
互いに矯正し合う関係みたいになっている。
そんな健全そうな名前をつけるな。中身はもっとややこしい。
「今日のところは解散しろ」
アルヴィンの一言で、生徒たちは散っていく。
セシルは悔しげに私を見たあと、取り巻きを連れて去った。
リリアナたちも、不安そうにこちらを見ていたが、私が頷くと頭を下げて離れていった。
廊下に、私とアルヴィンだけが少し残る。
「助かりました、殿下」
「君に借りを返しただけだ」
「借り?」
「今朝、君は私を怒らせた。だから私も、君を止めた」
「それは借りではなく、健全な注意です」
「そうか」
アルヴィンは少し笑った。
「なら、また君が間違えたら止める」
「ぜひ、そうしてください」
私は素直に言った。
すると、彼は少し目を丸くした。
そして、なぜか嬉しそうにした。
だからその顔をやめろ。
「エリシア」
「はい」
「君も、私が間違えたら止めろ」
「……それは、互いに自立するための約束ですか?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「裁かれたいからではなく?」
「違う」
即答だった。
だが、耳が少し赤い。
だめだ。
赤はだめだ。
玉の輿ノルンジャー赤、矯正完了どころか変な方向に変色し始めている。
私は窓の外を見た。
中庭では、リリアナたち下級令嬢がこちらを見上げていた。
目が合うと、彼女たちは一斉に頭を下げる。
その中の一人、眼鏡の令嬢が、何かをノートに書いている。
嫌な予感がした。
あとで確認したところ、そのノートの一ページ目にはこう書かれていた。
『白百合の君のお言葉 一
弱い者を踏んでも、足場は高くならない』
やめろ。
書くな。
私はただ、その場の勢いで言っただけだ。
だが、もう遅かった。
その日の放課後には、リリウム学園の下級貴族令嬢たちの間で、ひとつの噂が広まっていた。
エリシア・フォン・クラウディア様は、王太子殿下すら正し、そして王太子殿下にすら正されることを受け入れる、真に高潔なお方である。
違う。
違うのだ。
私はただ、破滅フラグを避けたいだけで。
ちょっとだけ、お姉様ロールが楽しくて。
人に必要とされると、少しだけ胸が甘くなって。
それが怖くて。
それでも、やめられなかっただけなのだ。
帰りの馬車の中で、私は窓に映る自分を見た。
美しい公爵令嬢が、困ったように眉を下げている。
その顔すら、絵になっていた。
腹が立つ。
私は小さく呟いた。
「……これは、早めに対策しないとまずい」
その翌日。
私室の机の上に、白い百合の花が一輪、置かれていた。
その花には小さな紙片が結ばれていた。
『お姉様へ』
私はそれを見て、しばらく無言になった。
そして理解した。
破滅フラグは、回避されていない。
別の形で、芽吹いている。




