第1話 前世を思い出したら、だいたい詰んでいた
十五の春。
私は階段から落ちた。
別に誰かに突き落とされたわけではない。陰謀でもなければ、悪役令嬢ものにありがちな暗殺未遂でもない。
ただ、ドレスの裾を踏んだ。
そして見事に転げ落ちた。
公爵家の令嬢としてあるまじき醜態である。まあ、人は二本足で歩くようになってからずっと転ぶ危険を抱えているので、進化の怠慢と言えなくもない。
額を打った。
視界が白く弾けた。
次の瞬間、私は思い出した。
自分が前世では男だったことを。
日本という国に生まれ、安アパートでコンビニ飯を食い、スマホ片手にソシャゲと動画と掲示板を往復し、たまに乙女ゲーム実況を見ては「攻略対象、全員めんどくせえな」と笑っていたことを。
そして。
この世界が、その実況で見た乙女ゲームに妙に似ていることを。
ゲームのタイトルは、たしか。
『薔薇冠の聖女と五つの誓約』
王立リリウム学園を舞台に、平民出身の聖女候補であるヒロインが、五人の高貴な男たちと絆を結び、王国を救う恋愛ファンタジー。
攻略対象は五人。
正義に燃える王太子。
冷徹な宰相候補。
金の力で世界を動かす商会御曹司。
慈愛に満ちた神官候補。
無骨で忠実な騎士候補。
通称、五つの誓約。
前世の俺は、それを心の中でこう呼んでいた。
玉の輿ノルンジャー五人衆。
ひどい名前である。
だが、だいたい合っている。攻略すれば権力、財力、信仰、武力、王位継承権が手に入る。婚活市場に国家予算をぶち込んだような面々だ。恋愛とは。
そして、そのゲームには悪役令嬢がいた。
公爵家の一人娘。
美貌と家格と権力を持ちながら、嫉妬と傲慢でヒロインをいじめ、最後は卒業パーティーで断罪される女。
名前は、エリシア・フォン・クラウディア。
つまり、私である。
鏡を見た。
銀に近い淡い金髪。深い紫の瞳。人形のように整った顔立ち。十五歳とは思えないほど完成された美貌。
なるほど。
悪役令嬢だ。
説得力がすごい。顔面がもう他人を見下すために生まれている。失礼な造形である。神がいたら一度説教したい。
私は寝台の上で、静かに頭を抱えた。
「……終わった」
終わっている。
かなり終わっている。
ただ転生しただけならまだいい。いや、よくはない。性別も変わっている。身体も違う。名前も家も違う。だが、まあ、そこはいい。現代日本人の適応力をなめてはいけない。だいたいの異常は三日で日常になる。人間の精神、防御機構だけはやたら高性能だ。
問題は、思い出すのが十五歳だったことだ。
十五年分の記憶がある。
エリシアとして生きてきた記憶が、ある。
そしてそれが、控えめに言っても最悪だった。
王太子には、膝をつかせた。
宰相候補には、舞踏会の招待状をわざと一通だけ遅らせた。
商会御曹司には、金では買えないものを用意してみせろと命じた。
神官候補には、祈りが本物なら雨を止めてみせろと言った。
騎士候補には、自分の影を踏んだ罪で一晩中庭に立たせた。
何をしているのだ、この女は。
いや、この女は私だ。
厳密には、前世を思い出す前の私だ。
言い訳をするなら、幼少期から公爵家の令嬢として持ち上げられ、周囲が誰も逆らわず、父は仕事、母は社交、使用人は沈黙、教師は追従、婚約者候補たちは媚び、誰も私を叱らなかった。
そりゃ腐る。
人間は放置するとだいたい腐る。貴族は特に腐敗が早い。保存料として倫理を入れておけ。
私は寝台から起き上がった。
身体が軽い。
手が白い。
指が細い。
胸がある。
あった。
あるな。
とてもある。
前世の俺はしばらく黙った。
エリシアとしての私は、頬を赤らめた。
両者の会議は紛糾した。
「お嬢様?」
侍女のミーナが、不安そうに声をかけてくる。
栗色の髪を後ろでまとめた、年若い侍女だ。たしか十七歳。私より二つ上。いつも私の癇癪に怯えている。
その怯え方を見て、胸が痛んだ。
そうだ。
私はこの子にも、相当ひどいことをしている。
紅茶の温度が気に入らないと叱った。
リボンの結び目が左右非対称だとやり直させた。
歩く音が耳障りだと言った。
最低である。
転生前の俺なら、ネットで「こういう女いるよな」と書き込んでいた側だ。まさか自分がその女になるとは。因果応報の仕事が丁寧すぎる。
「ミーナ」
「は、はい」
彼女の肩が跳ねた。
私は口を開きかけ、止まる。
どう謝る?
急に人格が変わったように謝れば不気味だ。というか実際、人格が変わっている。中身は元男の日本人だ。説明しても狂人である。貴族令嬢が「前世では男で、ここは乙女ゲームかもしれない」などと言い始めたら、医者ではなく神官が呼ばれる。神官も困る。
だから私は、演じることにした。
エリシアとして。
ただし、以前の傲慢な令嬢ではない。
前世の俺が見てきた、理想の令嬢像。
気高く、優雅で、慈悲深く、少しだけ人を見透かすように微笑む。
つまり。
ネカマプレイである。
異世界公爵令嬢の肉体を使った、最悪に贅沢なロールプレイだ。倫理委員会があれば議題に上がる。ないので続行する。
私は背筋を伸ばした。
声を少しだけ柔らかくする。
「いつも、苦労をかけていますね」
ミーナが固まった。
「……え?」
「あなたが私のために尽くしてくれていること、私は当然のように受け取っていました。けれど、それは当然ではありません」
言ってから、内心で震える。
何だこのセリフ。
すごい。
すごくお嬢様っぽい。
前世でチャットの語尾に「ですわ」をつけて遊んでいた経験が、まさか命を救うとは思わなかった。人生、どんな無駄も無駄ではない。いや、だいたい無駄だが、たまにこういう事故が起きる。
「ミーナ」
「は、はい……」
「今まで、ごめんなさい」
ミーナの目が大きく開いた。
私は静かに続ける。
「すぐに信じろとは言いません。私があなたにしてきたことは、言葉ひとつで消えるものではありませんから」
ミーナの唇が震えた。
「お嬢様……」
「だから、これから見ていて。私は変わります」
我ながら、決まった。
かなり決まった。
前世の俺が画面の向こうで見ていたら、「うわ、悪役令嬢の改心イベントだ」と笑っているところだ。
しかしミーナは笑わなかった。
彼女は両手で口元を覆い、涙を浮かべた。
「そんな……私などに、そのようなお言葉を……」
あれ。
重い。
思ったより重い。
私はほんの少し謝っただけだ。いや、謝罪は大事だが、ここまで泣くほどだろうか。
違う。
泣くほどだったのだ。
私が軽く踏みつけていたものは、相手にとっては泣くほど痛かった。
その事実に、遅れて気づく。
胸の奥が、少し冷えた。
でも同時に。
ほんの少しだけ、甘かった。
誰かが自分の言葉で救われる。
自分の一言が、相手の中で特別なものになる。
それは、気持ちよかった。
私はその感覚に気づき、すぐに目を逸らした。
いまのは違う。
これは反省だ。
責任だ。
そういうことにしておく。
人間は、自分の醜さに名前をつけるのがうまい。だいたい「善意」とか「正義」とか呼ぶ。最悪のラベリング技術だ。
「泣かないで、ミーナ」
私は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
細い肩が震える。
「あなたには、笑っていてほしいの」
言った瞬間、ミーナの顔が真っ赤になった。
しまった。
距離感を間違えた。
だがもう遅い。
彼女は私を見つめ、震える声で言った。
「……はい、お嬢様」
その目には、恐怖ではない何かが宿っていた。
敬意。
感謝。
あるいは、もっと厄介なもの。
私はその名前を、まだ知らないふりをした。
翌日。
私は王立リリウム学園へ向かった。
馬車の窓から見える街並みは、前世の日本とはまるで違う。石畳。馬車。噴水。鐘楼。貴族街の白い建物。遠くに見える王城。
美しい。
だが、この世界を美しいと思った瞬間、私は同時に思う。
これはゲームの背景に似ている。
リリウム学園の正門もそうだった。
白亜の門。
絡みつく蔓薔薇。
中央広場の噴水。
左右対称の校舎。
どこかで見た構図。
前世のモニターの中で、ヒロインが初めて学園に足を踏み入れる場面。
ゲームではここで、王太子と出会う。
たしか、落とした教本を拾ってくれるのだ。
王太子ルートの開始イベント。
私は馬車を降りながら、小さく息を吐いた。
まだヒロインの入学までは一年あるはずだ。
今は原作開始前。
つまり、準備期間。
断罪イベントを回避するには、ここから評判を改善し、五人衆との関係を修復し、ヒロインに敵対せず、できれば関わらない。
簡単だ。
攻略対象に媚びず、モブをいじめず、社交界で適度に上品に振る舞えばいい。
そう思っていた時期が、私にもあった。
「エリシア様……!」
校舎裏で、小さな悲鳴が聞こえた。
振り返る。
数人の令嬢がいた。
上級貴族の娘たちだ。取り巻きだった記憶がある。過去の私は彼女たちを従え、下級貴族の令嬢をからかっていた。
そして今も、同じことをしていた。
壁際に追い詰められている少女が一人。
淡い灰色の髪。小柄な体。制服のリボンは少し古く、靴も磨かれてはいるが高級品ではない。
名前は、たしかリリアナ・ベル。
男爵家の娘。
ゲームでは背景モブだ。
名前つきですらなかったかもしれない。
いや。
違う。
私はその考えを止めた。
背景モブ。
その言葉を使った瞬間、目の前の少女が薄くなる。
記号になる。
扱いやすくなる。
それは危ない。
分かっている。
分かっているのに、前世の記憶は勝手に人を分類する。
攻略対象。
悪役。
ヒロイン。
モブ。
便利な箱だ。
便利な箱に入れた瞬間、人間は軽くなる。
私はゆっくり歩いた。
取り巻き令嬢たちが、ぱっと笑顔になる。
「エリシア様、ちょうどよいところに」
「この子ったら、また身の程をわきまえずに」
「公爵令嬢であるエリシア様の前で、きちんとご挨拶もしなかったのですわ」
リリアナは青ざめていた。
その手には、破れたノートがある。
胸がざらついた。
過去の私は、おそらくこの流れに乗っていた。
弱い者を選び、礼儀を理由に叱り、周囲に笑わせる。
貴族社会の小さな暴力。
きれいな言葉で包まれた、ただのいじめ。
私は微笑んだ。
完璧に。
前世の俺が考える、気高いお姉様の微笑みで。
「そう」
取り巻きたちが嬉しそうに頷く。
私はリリアナの前に立った。
彼女は震えながら頭を下げる。
「も、申し訳ございません、エリシア様……」
「顔を上げなさい」
リリアナがおそるおそる顔を上げる。
大きな瞳に涙が浮かんでいた。
私は彼女の破れたノートを見た。
「それは、あなたのもの?」
「は、はい……」
「大切なもの?」
「……はい。授業の、まとめで……家では紙があまり買えませんので……」
取り巻きの一人が鼻で笑った。
「でしたら、もっと大事に扱えばよろしいのに」
私はそちらを見た。
「あなたが破ったの?」
令嬢の笑みが止まる。
「え?」
「聞こえませんでしたか。あなたが破ったのかと尋ねています」
声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
だが、周囲の空気が冷えた。
令嬢は慌てて首を振る。
「い、いいえ、私はただ、その子が無礼でしたので」
「無礼なら、物を破っていいの?」
「そ、それは……」
「貴族の礼とは、弱い者の持ち物を壊す許可証でしたか」
沈黙。
ああ。
決まった。
また決まってしまった。
内心の俺が、変な達成感を覚える。
やめろ。
これは見栄えのいいセリフを言う場面ではない。
私はリリアナのノートを受け取った。
破れたページをそっと重ねる。
「リリアナさん」
「は、はい」
「あなたは無礼ではありません」
彼女の瞳が揺れる。
「でも、わ、私……」
「挨拶が遅れたことは、たしかに失敗です。けれど、失敗した者を大勢で囲んで傷つけるほうが、よほど醜い」
取り巻きたちが息を呑む。
私はリリアナにノートを返した。
「あなたが学ぼうとした跡を、恥じる必要はありません」
リリアナの指が震えながらノートを受け取る。
「……エリシア様」
「次からは、私を見たら挨拶なさい」
少しだけ意地悪く微笑む。
「私、無視されると寂しいの」
場が凍った。
あれ。
今のは軽い冗談のつもりだった。
しかし貴族令嬢エリシアの顔面で言うと、破壊力が違ったらしい。
リリアナは真っ赤になった。
取り巻きたちも顔を赤くした。
なぜだ。
なぜ全員、そういう反応をする。
私はただ、場を和ませようとしただけだ。前世の俺なら「すまん、無視されると泣いちゃうぞ」くらいのノリである。だがこの身体、この声、この顔で言うと、どうやら違うものになる。
非常にまずい。
私は咳払いをした。
「それから、あなたたち」
取り巻き令嬢たちが背筋を伸ばす。
「家格を盾にして誰かを傷つけるのは、おやめなさい。高貴であることは、誰かを踏むための靴ではありません」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
靴。
比喩がだいぶ強い。
しかし取り巻きたちは青ざめて頭を下げた。
「も、申し訳ございません……!」
「以後、気をつけますわ……!」
彼女たちは逃げるように去っていった。
残されたのは、私とリリアナだけ。
春の風が、校舎裏の花壇を揺らす。
リリアナはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……どうして」
「え?」
「どうして、私などを助けてくださったのですか」
私など。
その言い方が、少し嫌だった。
私はまた、ロールプレイの仮面をかぶる。
優しく。
気高く。
完璧なお姉様として。
「あなたが、助けられるべき人だったからです」
リリアナの目から、涙がこぼれた。
しまった。
また重い。
だがもう止まらない。
彼女は胸元でノートを抱きしめ、震える声で言った。
「エリシア様は……お優しいのですね」
違う。
私は優しいわけではない。
破滅を回避したいだけだ。
前世の知識で、この世界をゲームのように見て、悪役令嬢の死亡フラグを避けようとしているだけだ。
しかも半分は、理想の令嬢ロールを楽しんでいる。
だから私は、そんな目で見られる資格はない。
そう言うべきだった。
けれど私は、言わなかった。
代わりに微笑んだ。
「優しさにも、練習が必要ですわ」
何を言っているのだ私は。
しかしリリアナは、その言葉を宝石でも受け取るように胸にしまった。
「……はい」
そして。
彼女は小さく、けれどはっきりと言った。
「お姉様」
私は固まった。
「……今、何と?」
リリアナは真っ赤になりながら、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません! あまりに、その、気高くて、美しくて、私などにも手を差し伸べてくださって、それで、つい……!」
お姉様。
お姉様?
誰が?
私が?
いや、私は前世男である。
中身は、深夜にカップ麺をすすりながら乙女ゲーム実況に茶々を入れていた成人男性である。
それが今、男爵令嬢にお姉様と呼ばれている。
脳が処理を拒否した。
だが同時に。
胸の奥が、また甘く疼いた。
よくない。
これはよくない。
かなりよくない。
人に慕われるのは、気持ちがいい。
美しい姿で、優しい言葉をかけ、相手の人生に少しだけ触れる。
それだけで、相手の目が変わる。
自分が特別な存在になったような気がする。
危険だ。
これは危険だ。
分かっている。
分かっているのに、私は微笑んでしまった。
「その呼び方は、少し大げさですわ」
「で、では……」
「けれど」
私はリリアナの乱れたリボンを、そっと直した。
指先が触れると、彼女の肩が小さく跳ねる。
「あなたがそう呼びたいのなら、今だけは許してあげます」
終わった。
完全に調子に乗った。
前世の俺が見ていたら、「こいつ絶対あとで痛い目見る」とコメントしている。
リリアナは、潤んだ瞳で私を見つめた。
「ありがとうございます……お姉様」
その日。
王立リリウム学園の片隅で、最初の花が咲いた。
私はまだ知らなかった。
それが百合の花園になることを。
そして、その中心に立つ私自身が、誰よりもその香りに酔うことを。
ただこの時の私は、かなり呑気に考えていた。
破滅フラグ、ひとつ回避。
評判改善、順調。
ネカマお姉様ロール、意外と適性あり。
馬鹿である。
人間は、自分の欲望に名前をつけるまで、それが欲望だと気づかない。
私はその日、はじめて「お姉様」と呼ばれた。
そして少しだけ、救われた気がした。




