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第8話 王太子、白百合会から退場する



 アルヴィン・フォン・レグナードは、その日から白百合会に出席しなくなった。


 正確には、出席しないことを自分で決めた。


 王太子が、自分の意志で場から退く。


 それは一見すると小さなことだが、この学園ではかなり大きい。


 なにしろ王太子である。


 座っているだけで意味が生まれる。

 黙っているだけで承認に見える。

 眉をひそめるだけで処罰の予兆になる。


 権力者というものは、本当に迷惑な家具だ。置くだけで部屋の意味が変わる。しかもだいたい重くて動かしづらい。


 だから彼が白百合会から退くことには意味があった。


 白百合会は、王太子の後ろ盾を失った。


 同時に、王太子の影から少しだけ自由になった。


 問題は、本人がそれを理解しているかどうかだった。


「エリシア」


 朝の廊下で、アルヴィンが私を呼び止めた。


 今日は一人だった。


 取り巻きの騎士候補も、学生会の補佐役もいない。


 王太子が一人で廊下に立っていると、それだけで周囲が距離を取る。


 本人は一人のつもりでも、権力は勝手に見えない従者を連れて歩く。厄介な幽霊である。


「ごきげんよう、アルヴィン殿下」


「昨日のことだが」


「白百合会への出席を控える件ですか」


「ああ」


 彼は少し言いづらそうにした。


「正しい判断だったと思うか」


 私は少し考えた。


「正しいかどうかは、まだ分かりません」


 アルヴィンは眉を寄せる。


「君なら、そう言うと思った」


「ですが、必要な判断だったとは思います」


「必要」


「ええ」


 私は廊下の窓から中庭を見た。


 白百合会の令嬢たちが、数人で集まっている。


 リリアナが何かを話し、マチルダが紙を広げ、クラリスが記録している。


 そこに私はいない。


 アルヴィンもいない。


 それでも、会は動いている。


「白百合会は、殿下の正義の証明ではありません」


 私は言った。


 アルヴィンの表情が変わる。


「私の正義?」


「殿下が彼女たちを見守ることで、ご自分が正しい側にいると安心する場ではない、という意味です」


 言ってから、少し強いと思った。


 だが、撤回はしない。


 彼には、たぶん必要だ。


 アルヴィンはしばらく黙っていた。


 怒るかと思った。


 しかし彼は、ゆっくり息を吐いた。


「相変わらず、容赦がない」


「控えめに申し上げたつもりです」


「本当に?」


「八割ほど」


「残り二割は?」


「王太子の自尊心保護です」


 アルヴィンは笑った。


 以前より、笑い方が自然になっている。


 それが少し嬉しい。


 そして、やはり少し怖い。


 私の言葉で彼が変わっていくことが。


 彼が私から離れていくことが。


 どちらも同時に。


「私は」


 アルヴィンは言った。


「白百合会を見ていると、安心した」


「安心?」


「ああ。君が言ったように、正しい側に立てている気がしたのかもしれない」


 彼は中庭を見る。


「彼女たちは、弱い立場から声を上げようとしている。私は王太子として、それを守るべきだと思った」


「それ自体は悪くありません」


「だが、その守るべきの中に、私が守る者でありたいという欲があった」


 私は彼を見た。


 アルヴィンは、少し苦そうに笑った。


「分かるようになってきた。嫌なものだな」


「慣れます」


「慣れるのか」


「自分の醜さは、見慣れてくると日用品になります」


「最悪の助言だ」


「ですが、事実です」


 人間は自分の中の嫌なものを見つけると、最初は怪物のように思う。


 だが、毎日顔を合わせているうちに、怪物は部屋の隅にある古い椅子のようになる。


 なくならない。


 ただ、そこにあると知って暮らす。


 たぶん、それが少しだけ成熟というものだ。


 嫌な家具付き物件である。


「エリシア」


「はい」


「私は、君に裁かれたいと思っていた」


「廊下で二度目ですよ、その告白」


「聞け」


「はい」


 彼は真面目だった。


「だが、昨日の箱の言葉で少し分かった。私がいることで話しにくい者がいる。それは、私が正しいかどうかとは別の問題だ」


「ええ」


「私は、自分が正しくあろうとするあまり、自分がいることで場が歪むことを見ていなかった」


 その言葉は、かなり大きい。


 王太子が、自分の存在そのものの圧を認めている。


 普通の貴族なら一生かかっても認めないかもしれない。


 地位の高い人間は、自分の善意がすでに命令のように響くことを忘れがちだ。人類の上層階には鏡を多めに置くべきである。ただし彼らは鏡を見ても自分の顔しか見ない。だめか。


「だから」


 アルヴィンは続けた。


「白百合会には、今後出席しない」


「はい」


「だが、彼女たちが学生会や王家に助けを求めた時は、逃げない」


「それがよろしいと思います」


「君は?」


「私?」


「君は、どうする」


 私は少し黙った。


 どうする。


 この問いは、最近ずっと私の中にある。


 中心には立たない。

 でも、離れすぎもしない。

 助けすぎない。

 でも、見捨てない。

 言葉を与えすぎない。

 でも、沈黙で突き放さない。


 なんて面倒な調整だろう。


 前世の俺なら、「距離感バグってる人間関係、だるい」と言って逃げていた。


 今は逃げられない。


 ドレスの裾が重い。


 家名が重い。


 美貌も重い。


 そして、誰かから向けられる期待が、何より重い。


「私は」


 ゆっくり言った。


「白百合会の外に立ちます」


 アルヴィンは私を見る。


「外?」


「ええ。中心ではなく、外。けれど、完全な外野でもない」


「難しいな」


「難しいです」


「なぜそうする」


「私が中にいると、皆が私を見るからです。でも、私が完全に離れると、私は責任から逃げたことになる」


 私は中庭の彼女たちを見る。


「始まりに関わった以上、責任はあります。けれど、所有する権利はありません」


 アルヴィンは静かに聞いていた。


「責任はあるが、所有しない」


「はい」


「王族にも必要な考えだな」


「ぜひ全国の権力者に配布してください」


「皮肉か?」


「願望です」


 彼は少し笑った。


 その笑みが、すぐに消える。


「エリシア」


「はい」


「君は、白百合会が君なしで動いていくことに耐えられるか」


 痛い。


 かなり痛い。


 この王太子、最近遠慮がなくなっている。


 私が彼の地雷を踏み続けたせいだろうか。人間関係は、殴ると殴り返される。健全といえば健全だが、痛いものは痛い。


「分かりません」


 私は正直に言った。


「耐えたいとは思っています」


「そうか」


「殿下は?」


「私も分からない」


 彼は少し自嘲した。


「白百合会に行かないと決めた途端、少し落ち着かない」


「気になりますか」


「ああ」


「守りたい?」


「それもある」


「見ていたい?」


「ある」


「自分が必要とされているか確認したい?」


 アルヴィンは苦笑した。


「ある」


「正直でよろしい」


「君のせいだ」


「責任の押し売りはやめてください」


 彼は首を横に振った。


「君に裁かれなくても、自分で言えた」


 私は黙った。


 その言葉は、少し嬉しかった。


 そして、少し寂しかった。


「それは良いことです」


「君は、また寂しそうな顔をしている」


「観察眼が育っていますね」


「君を見ているからな」


「重いです」


「すまない」


「謝られると、少し困ります」


「では撤回する」


「それも変です」


 私たちは、廊下で少しだけ笑った。


 その時だった。


 向こうから、ギルバート・オーウェンが歩いてくるのが見えた。


 昨日、白百合会の声明前でリリアナを侮辱した伯爵家の次男。


 彼は私たちを見つけると、表情を硬くした。


 逃げるかと思った。


 だが、逃げなかった。


 むしろこちらへ来た。


 アルヴィンが少し背筋を伸ばす。


 王太子の顔になる。


 だが、私が小さく言った。


「殿下」


「何だ」


「怒る練習の次は、待つ練習です」


 アルヴィンは一瞬こちらを見た。


 それから、小さく頷いた。


 ギルバートは私たちの前で立ち止まった。


「殿下。エリシア嬢」


「ごきげんよう、ギルバート様」


 私が挨拶すると、彼は少し気まずそうに視線を逸らした。


「昨日のことだが」


「はい」


「私は、言いすぎた」


 意外だった。


 謝罪。


 いや、まだ謝罪ではない。


 言いすぎた、という表現は、自分の行為を少し小さくする。


 人間は謝る時ですら自己保護を忘れない。涙ぐましいほどの防衛本能である。


「誰に対してでしょうか」


 私は聞いた。


 ギルバートの顔がこわばる。


 アルヴィンが少しこちらを見る。


 だが、止めない。


「……リリアナ・ベル嬢に」


「ええ」


「そして、白百合会の令嬢たちに」


「はい」


「男爵令嬢風情、という言葉は撤回した」


「昨日、撤回なさいましたね」


 ギルバートは少し苛立ったように眉を寄せた。


「では、何を言えばいい」


「私に聞くのですか」


「あなたなら、こういう時にうまい言葉を知っているだろう」


 ああ。


 これか。


 彼は、自分で謝る言葉を探すのではなく、私に正しい言い方を求めている。


 私は思わず笑いそうになった。


 笑えない。


 これはアルヴィンと同じだ。


 セシルとも同じだ。


 レオンハルトとも、白百合会の令嬢たちとも同じだ。


 誰かに正しい言葉をもらいたい。


 そうすれば、間違えずに済む。


 傷つけずに済む。


 自分の醜さを、少し綺麗に包める。


 私もそうだった。


 前世で、誰かの言葉を引用して、自分が賢くなったような気がした。


「ギルバート様」


「何だ」


「私は、あなたの謝罪文の代筆屋ではありません」


 彼の顔が赤くなる。


「そういう意味では」


「あります」


 私は静かに言った。


「あなたは今、自分で傷つけた相手に、自分で言葉を探すことを避けようとしています」


 ギルバートは黙った。


「昨日、あなたはリリアナさんを家格で軽んじました。なら、謝る相手は私ではありません。殿下でもありません。リリアナさんです」


「それは分かっている」


「では、あなた自身の言葉で謝りなさい」


「……うまく言えなかったら」


「うまい謝罪が必要なのですか?」


 彼は黙った。


「下手でも、あなたの言葉でなければ意味がありません」


 ギルバートは唇を噛んだ。


 腹を立てている。


 恥ずかしがっている。


 逃げたいのだろう。


 分かる。


 謝罪ほど、プライドを不格好にする行為はない。人類は謝るための器官を進化させるべきだった。喉だけでは足りない。


 アルヴィンが静かに言った。


「ギルバート」


「殿下」


「私も、エリシアに謝罪の言葉を借りようとしたことがある」


 私は少し驚いた。


 アルヴィンは続ける。


「だが、借り物の言葉は、相手に届く前に自分の中で空になる」


 ギルバートは王太子を見る。


「昨日のことを恥じているなら、それをそのまま言えばいい。うまくなくていい」


 アルヴィンが、私ではなく、彼自身の言葉で話している。


 私はそれを聞いて、少し胸が詰まった。


 本当に変わっている。


 私がいなくても。


 いや、目の前にいるが。


 でも、私の代わりに言ったのではない。


 自分で言った。


 ギルバートは長い間黙っていた。


 やがて、視線を落とす。


「……分かった」


 彼はそう言って、去ろうとした。


 私は声をかける。


「ギルバート様」


「何だ」


「リリアナさんは白百合会の代表です。ですが、謝罪の場を白百合会の公開の場にする必要はありません」


 彼は振り返る。


「どういう意味だ」


「人前で謝れば、あなたは罰を受けた形になります。周囲は満足するかもしれません。でも、リリアナさん本人が、それを望むとは限らない」


 私は少し言葉を選ぶ。


「謝罪は、観客のための演目ではありません」


 ギルバートは黙った。


 アルヴィンも黙った。


 また語録じみたことを言ってしまった。


 反省している。たぶん。


「リリアナさんに、まず話す許可を取りなさい。彼女が一人で会うのを怖がるなら、誰か同席者を置く。彼女が会いたくないと言えば、手紙にする。それくらいは、相手に選ばせてください」


 ギルバートは深く息を吐いた。


「……面倒だな」


「あなたが面倒にしたのです」


「そうだな」


 彼は苦い顔で頷いた。


「そうだ」


 その言い方は、昨日より少しだけましだった。


 彼は今度こそ去っていった。


 アルヴィンが私を見る。


「謝罪は観客のための演目ではありません、か」


「言わないでください」


「良い言葉だ」


「だから嫌なのです」


「なぜ」


「良い言葉ほど、独り歩きします」


 アルヴィンは少し考える。


「だが、今の言葉で彼は考えた」


「そうですね」


「なら、完全に悪いわけではない」


 私は黙った。


 そう。


 言葉は危険だ。


 でも、必要でもある。


 歩く言葉を恐れるあまり、何も言えなくなれば、それはそれで誰かを見捨てる。


 私はまだ、言葉の加減が分からない。


 たぶん一生分からない。


 それでも話すしかない。


 人間は言葉で傷つけ、言葉でごまかし、言葉で救われた気になる。


 不完全な道具を、他にないから使い続けている。


 まったく、不便な種族だ。


 昼休み。


 ギルバートはリリアナの前に現れた。


 私は少し離れたところから見ていた。


 同席者としてセシルが立っている。


 なぜセシルなのかと思ったが、リリアナが選んだらしい。


 たぶん、セシルならギルバートが余計なことを言った時に即座に刺せるからだ。


 実に合理的。


 レオンハルトも感心しそうである。


 私は近づかなかった。


 近づきたかった。


 ものすごく近づきたかった。


 何を言うのか聞きたかった。


 リリアナが傷つかないか心配だった。


 ギルバートが下手なことを言ったら、私が一言で切って捨てたかった。


 この衝動が、だめなのだ。


 私は遠くの柱の陰で、拳を握った。


 見守る。


 見守るとは、かなり不健康な姿勢である。


 心は走り出しているのに、足だけを床に縫い止めるのだから。


 セシルがこちらをちらりと見た。


 目が合う。


 彼女は扇で小さく合図した。


 来るな。


 という意味だった。


 腹が立つ。


 だが、頼もしい。


 私は小さく頷いた。


 ギルバートは、かなりぎこちなかった。


 遠くからでも分かる。


 背筋が硬い。


 手が落ち着かない。


 口を開いては閉じる。


 リリアナは緊張しているが、逃げていない。


 セシルは横で腕を組み、いつでも処刑できそうな顔で立っている。いや、処刑はだめだ。せめて訂正要求にしてほしい。


 やがて、ギルバートが頭を下げた。


 深くはない。


 だが、確かに下げた。


 リリアナは少し驚いた顔をする。


 ギルバートが何かを言う。


 リリアナが黙って聞く。


 セシルは黙っている。


 しばらくして、リリアナが何かを返した。


 ギルバートは顔を上げ、少し苦い顔で頷いた。


 それで終わった。


 大事件ではない。


 劇的な和解でもない。


 ギルバートが改心して白百合会に入るわけでもない。


 リリアナが涙ながらに許すわけでもない。


 ただ、謝罪があった。


 リリアナが聞いた。


 何かを返した。


 それだけ。


 でも、それで十分なこともある。


 人間はすぐ感動的な場面を欲しがるが、現実の修復はもっと地味だ。床板のきしみを一つずつ直すような作業である。拍手はない。腰が痛くなるだけだ。


 放課後、リリアナが私のところへ来た。


「エリシア様」


「ギルバート様の件ですね」


「はい」


「どうでした」


 リリアナは少し考えた。


「下手でした」


 私は思わず笑った。


「そう」


「でも、ご自分の言葉でした」


「それはよかった」


「許したのかと聞かれると、まだ分かりません」


「分からなくていいと思います」


「はい。私も、そう伝えました」


 リリアナは少し恥ずかしそうに笑った。


「謝ってくださったことは受け取ります。でも、すぐに何もなかったことにはできません、と」


 強い。


 とても強い。


 私は胸の奥が熱くなる。


「よく言いましたね」


 言ってしまった。


 今度は止められなかった。


 リリアナは顔を赤くした。


「ありがとうございます」


「セシルさんは?」


「あとで、少し褒めてくださいました」


「少し?」


「はい。『泣かずに言えたのは上出来ですわ。ただし、最後に謝りかけたのは余計です』と」


「彼女らしい」


 リリアナは笑った。


「でも、嬉しかったです」


「そう」


 よかった。


 本当に。


 彼女は、私だけでなくセシルからも言葉を受け取れるようになっている。


 白百合会の中に、関係が増えている。


 私を通さない言葉が増えている。


 よいことだ。


 よいことなのに、いつもの寂しさが来る。


 私はそれを、もう少しだけ眺めることにした。


 押し殺すでもなく、言い訳するでもなく。


 そこにあるものとして。


「リリアナさん」


「はい」


「寂しさは、悪いものではないのかもしれません」


 リリアナは首を傾げた。


「寂しさ、ですか」


「ええ。誰かが離れていく時、寂しいと思う。それは、その人を引き戻す理由にはしてはいけないけれど」


 私は中庭を見る。


「その人が大切だったことの証拠にはなるのだと思います」


 リリアナはしばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「では、寂しくても、引き戻さなければよいのですね」


「たぶん」


「難しいです」


「ええ」


「でも、分かる気がします」


 彼女は微笑んだ。


「私も、いつかエリシア様からもっと離れる日が来るのかもしれません」


 胸が痛む。


 だが、今度は逃げなかった。


「その時は」


 私は言った。


「名前で呼びなさい」


 リリアナは目を伏せ、頬を赤くした。


「はい。いつか」


 まだ、お姉様とは呼ばなかった。


 それが少し嬉しく、少し寂しかった。



 その頃、王宮では別の話が動いていた。


 アルヴィンが白百合会への出席を控えたことは、学園だけでなく王宮にも伝わっていた。


 王太子が、下級貴族令嬢の集まりから距離を置いた。


 それを、保守的な貴族たちは安心材料として受け取った。


 王太子は白百合会に深入りしていない。

 あの会は、所詮令嬢たちの茶会だ。

 公爵令嬢エリシアも、少し変わったが、まあ一時の気まぐれだろう。


 人間は、自分に都合のいい解釈を見つけると、それを椅子にして座り込む。


 一方で、別の者たちは違う解釈をした。


 王太子が表から退いたのは、白百合会を独立した存在として認めたからではないか。

 エリシア・フォン・クラウディアは、王太子の庇護すら必要としない令嬢たちの組織を育てているのではないか。

 これは、学園内の小さな話では済まないかもしれない。


 解釈は増える。


 どれも少しずつ間違っている。


 しかし、完全には外れていない。


 それが一番面倒だ。


 そして王都の礼拝堂。


 ミリア・アストレイは、その噂をまた別の形で受け取っていた。


「王太子殿下が、自ら退かれた……」


 彼女は手紙を読んで、目を輝かせた。


「エリシア様のために?」


 違う。


 白百合会のためだ。


 いや、それも半分違う。


 彼自身のためでもある。


 だが、ミリアの中では、物語はすぐ一本の線になる。


 複雑なものを、美しく単純にする。


 それが彼女の才能であり、狂気だった。


 ミリアは日記を開く。


『王太子殿下は、白百合の君の意志を尊重し、あえて身を引かれた。

 なんという信頼。

 なんという静かな献身。

 白百合の君は人々を支配しない。

 だからこそ、人々は彼女に従うのだ。』


 違う。


 従わせたくないから、困っているのだ。


 だが、拒むほど美しく見える。


 退くほど中心に見える。


 ミリアは、その逆説に酔っていた。


「早く、学園に行きたい」


 彼女は呟いた。


「そして、見届けたい。白百合の君が、どのように人々を救うのか」


 その時、礼拝堂の扉が開いた。


 年配の修道女が入ってくる。


「ミリア。何を書いているのですか」


「日記です、シスター」


「また、学園の噂ですか」


 ミリアは少し恥ずかしそうに笑った。


「はい。エリシア様のことを」


 修道女は小さくため息をついた。


「噂だけで人を判断してはいけませんよ」


「判断ではありません」


 ミリアは日記を胸に抱いた。


「物語を、読んでいるのです」


 修道女の表情が曇った。


「人は物語ではありません」


「でも、人は物語なしには生きられません」


 ミリアはまっすぐに言った。


 修道女は黙った。


 ミリアの瞳は、澄んでいる。


 澄んでいるからこそ、怖かった。


「苦しみも、迷いも、醜さも、ただ散らばっているだけでは人を壊します。けれど物語になれば、人は意味を見つけられる」


 彼女は微笑む。


「私は、その意味を見つけたいのです」


 修道女は静かに言った。


「意味を与えすぎてはいけません」


「なぜですか」


「人が、自分で苦しむ余地を奪うからです」


 ミリアは少しだけ首を傾げた。


 その顔は本当に分かっていなかった。


「苦しむ余地など、なぜ必要なのですか」


 修道女は答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 ミリアは、まだ知らない。


 他人の苦しみを美しい物語に変えることが、時に救いではなく略奪になることを。



 その夜、私は自室で、ミーナの淹れた紅茶を飲んでいた。


「おいしいわ」


「ありがとうございます」


 ミーナは嬉しそうに笑う。


 以前より、ずっと自然な笑顔だ。


 私はその笑顔を見て、少し安心する。


「お嬢様」


「何?」


「最近、学園で大変なのですね」


「ええ。人間が集まると大変です」


「それは、そうですね」


 ミーナは少し笑った。


 侍女が公爵令嬢の人間不信めいた発言に笑う。


 これも変化だ。


「でも、楽しそうでもあります」


「楽しそう?」


「はい」


「私が?」


「はい」


 私はカップを置いた。


「そう見える?」


「困っておられます。悩んでおられます。時々、とても疲れた顔をなさいます」


「でしょうね」


「でも、以前よりも、何かを見ておられる目が生きています」


 私は何も言えなかった。


 生きている。


 前世の俺は、たぶんあまり生きていなかった。


 画面越しに人を見ていた。

 タグで理解したつもりになっていた。

 物語を消費していた。

 人間の面倒くささから距離を取っていた。


 今は、その面倒くささの中にいる。


 逃げ場は少ない。


 責任は重い。


 そして、妙に生きている。


「ミーナ」


「はい」


「私は、今の自分が少し怖いわ」


「なぜですか」


「人に必要とされることが、嬉しいから」


 ミーナは静かに聞いていた。


「それは、悪いことなのでしょうか」


「悪くはないと思う」


「では」


「でも、悪くないものほど危ないの」


 私は紅茶を見る。


 琥珀色の水面に、自分の顔が揺れる。


「悪いことなら避ければいい。けれど、嬉しいこと、優しいこと、正しいことは、避ける理由がない。だから、いつの間にか踏み込みすぎる」


 ミーナは少し考えた。


「では、お嬢様が踏み込みすぎたら、私も止めてもよろしいですか」


 私は顔を上げた。


 ミーナは真剣だった。


 少し緊張している。


 侍女が主人を止める。


 この家では、以前なら考えられなかったことだ。


 だが、私は微笑んだ。


「ええ。止めて」


 ミーナの顔が明るくなる。


「はい」


「ただし、怖いでしょう」


「怖いです」


 即答。


「でも、今のお嬢様なら、聞いてくださると思います」


 その信頼が重い。


 でも、嬉しい。


 私はまた、胸の奥に甘さを感じる。


 この甘さと、どう付き合えばいいのか。


 まだ分からない。


 分からないまま、私は紅茶を飲んだ。


 翌日。


 学園に着くと、白百合会の掲示板に新しい紙が貼られていた。


『ことば箱への回答

 白百合会は、参加していない人を遅れているとは見なしません。

 自分の言葉を持つことは、他人を測るためではなく、自分が黙らされていた場所に気づくためです。

 誇りを持つことは大切です。

 ただし、その誇りで他者を見下すなら、私たちは以前の構造を繰り返すことになります。

 白百合会は、参加者自身の誇りについても、問い続けます。』


 署名。


 リリアナ・ベル。

 クラリス・メイフィールド。

 マチルダ・ロウ。

 エステル・クレイン。

 セシル・バルディア。


 私の名前はない。


 それでいい。


 私は紙を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。


 その横に、別の小さな紙が貼られていた。


『次回議題

 婚約者や家族に白百合会を否定された時、私たちはどうするか』


 来た。


 ついに家と婚約の問題に入る。


 学園内のいじめや噂とは違う。


 ここから先は、家同士の力関係、婚姻政治、相続、持参金、将来の生活が絡む。


 軽く触れれば火傷する。


 深く触れれば、燃える。


 私は紙を見ながら、胃が重くなるのを感じた。


 その時、背後からレオンハルトが言った。


「次は難題ですね」


「ええ」


「介入を誤れば、白百合会は危険思想扱いされます」


「分かっています」


「慎重に」


「分かっています」


「あなたが出ると、事態は大きくなります」


「分かっています」


 私は少し強く言った。


 レオンハルトが黙る。


 言いすぎたか。


 いや、彼が正しい。


 正しいから腹が立つ。


 私は苦笑した。


「すみません。少し、怖くなりました」


 レオンハルトは瞬きをした。


「あなたが?」


「私も人間です」


「それは知っています」


「最近ようやく?」


「以前から」


「本当に?」


「記録上は」


「その記録は信用できません」


 彼は少し口元を緩めた。


 そして、珍しく柔らかい声で言った。


「怖いなら、会に言うべきです」


「私が?」


「はい。あなたが怖いと言えば、彼女たちはあなたを無敵の象徴として扱いにくくなる」


 私は彼を見る。


 レオンハルトは続けた。


「弱さの開示が常に有効とは限りません。ですが、現在の白百合会においては、あなたが恐怖を隠すほど、周囲はあなたを役割に押し込みます」


「……あなた、本当に柔らかくなりましたね」


「不本意です」


「よいことです」


「不本意です」


 二度言った。


 かなり不本意らしい。


 だが、彼の助言は正しかった。


 私が恐怖を隠せば、白百合の君はますます白くなる。


 完璧に見える。


 完璧な人間には、人は遠慮なく意味を載せる。


 壊れないと思うから。


 でも私は壊れる。


 普通に壊れる。


 前世でも締切前の仕事メールで胃が痛くなる程度には脆かった。公爵令嬢になったからといって、内臓が鋼鉄になったわけではない。


 昼休み。


 私はリリアナたちに、自分から声をかけた。


「次回議題について、少し話があります」


 リリアナがすぐに緊張する。


「はい」


 クラリスがペンを構える。


「書かなくていいわ」


「ですが」


「これは記録ではなく、事前相談です」


 クラリスは少し迷って、ペンを置いた。


 偉い。


「婚約や家族の問題は、学園内の話よりずっと重いです」


 私は言った。


「ええ」


 リリアナが頷く。


「家の決定に逆らうことになるかもしれません」


 マチルダが言う。


「会が反家族的だと言われる可能性もあります」


 エステルが続ける。


「実際、そう言いたがる人はいるでしょう」


 セシルが扇を開く。


「すでにいますわ」


 私は頷いた。


「私は、それが怖いです」


 全員が私を見る。


 空気が止まる。


 リリアナが小さく言う。


「エリシア様が、怖いのですか」


「ええ」


 私は正直に言った。


「白百合会が潰されることも怖い。あなたたちが家から責められることも怖い。私が関わることで問題が大きくなることも怖い。逆に、私が離れすぎてあなたたちを守れなくなることも怖い」


 言葉にすると、少し楽になった。


 同時に、情けなくもなった。


「私は、すべて分かっているわけではありません。正しい答えも持っていません」


 クラリスが、ペンを置いたまま私を見ている。


 リリアナは静かに聞いている。


 セシルは少しだけ目を細めていた。


「だから、次回の議題は慎重に扱ってください。怒りだけで、家と対立しないこと。けれど、恐怖だけで黙らないこと」


 私は息を吐く。


「そして、必要なら私に相談してください。ただし、私に決めさせないで」


 リリアナはしばらく黙った。


 やがて、頷いた。


「分かりました」


「本当に?」


「分かっていない部分もあります」


 彼女は少し笑った。


「でも、エリシア様も怖いのだと分かったので、少し安心しました」


「安心?」


「はい。私たちだけが怖いのではないのだと」


 その言葉に、私は少し驚いた。


 弱さを見せることは、必ずしも相手を不安にするわけではない。


 時には、同じ地面に立たせる。


 そういうこともあるのか。


 人間、本当に面倒だ。


 扱いづらい。


 だが、たまに面白い。


 その日の白百合会は、次回議題の準備だけで終わった。


 婚約や家族の話に入る前に、まず情報を集めることになった。


 家に反対された経験。

 婚約者に活動を制限された経験。

 白百合会に入ることで実際に不利益を受けた例。

 ただし、個人名は伏せる。

 会として一律に反抗を勧めない。

 まずは相談先を整理する。


 慎重だ。


 少し慎重すぎるくらいだ。


 でも今は、それでいい。


 勢いで燃えるより、湿った薪を確認してから火をつけるほうがいい。いや、火をつけるな。比喩が危ない。


 会が終わったあと、アルヴィンが私のところへ来た。


 今日は会には出ていない。


 扉の外で待っていたらしい。


「どうだった」


「殿下、出席しないとは、扉の外で待つという意味ではありません」


「入っていない」


「子どもの理屈」


「心配だった」


 まっすぐ言われると困る。


「心配でも、距離は必要です」


「分かっている」


「本当に?」


「……半分ほど」


「残り半分は?」


「今、耐えている」


 私は少し笑った。


「では、よく耐えました」


 アルヴィンは目を丸くした。


 そして、少し赤くなった。


「そう言われると」


「嬉しがらない」


「難しい」


「努力してください」


「分かった」


 赤もまだ危うい。


 でも、自分で危うさを言えるようになっている。


 それは、たぶん進歩だ。


 帰り道。


 私はふと、前世で見た乙女ゲームのことを思い出した。


『薔薇冠の聖女と五つの誓約』


 原作では、アルヴィンはヒロインと出会い、初めて王太子ではない自分を認めてもらう。


 レオンハルトはヒロインに、記録できない感情を教えられる。


 他の攻略対象たちも、それぞれヒロインによって救われる。


 ゲームなら、ヒロインが中心だった。


 攻略対象たちはヒロインに出会い、変わる。


 美しい物語だ。


 だが、今この世界では、その役割が少しずつズレている。


 アルヴィンは私に裁かれたがった。

 レオンハルトは私を観察対象にした。

 白百合会は私を白百合の君と呼んだ。

 セシルは私を刺す相手として選んだ。

 リリアナは私から離れる練習を始めた。


 私は、原作ヒロインの役を奪っているのだろうか。


 それとも、そもそもこの世界はゲームではないのか。


 いや。


 ゲームだとしても、目の前の人間はキャラではない。


 そのことだけは、もう分かっている。


 分かっているはずだ。


 それでも、私はまだ「原作ヒロイン」という言葉を使っている。


 ミリア・アストレイ。


 まだ会ってもいない少女。


 私は彼女を、すでに役割で呼んでいる。


 原作ヒロイン。


 聖女候補。


 物語の中心。


 それは、私が嫌がっていることと同じではないか。


 白百合の君と呼ばれる私。


 原作ヒロインと呼ぶ私。


 役割に押し込められる苦しさを知りながら、私はまだ他人を役割で見ている。


 最悪だ。


 人間は自分がされたくないことを、別の相手に平然とやる。倫理とは、かなり穴の多い網である。


 その夜。


 私は自室の机で、紙に名前を書いた。


 ミリア・アストレイ。


 原作ヒロインではなく。


 ミリア。


 私はその名前を、しばらく見つめた。


 まだ会っていない。


 どんな子かも知らない。


 ゲームの中では善良で、明るく、少し天然で、誰の心にも寄り添う聖女候補だった。


 だが、この世界の彼女が同じとは限らない。


 同じだったとしても、ゲームの説明だけでは足りない。


 私は彼女に会う前から、彼女を怖がっている。


 原作。


 断罪。


 ヒロイン。


 破滅。


 そういう言葉が、彼女の上に覆いかぶさっている。


 それは不公平だ。


 私はペンを取った。


 そして、名前の横に書いた。


『会うまでは、決めつけない』


 簡単な言葉だ。


 だが、たぶん難しい。


 ミリア・アストレイ。


 彼女はまだ、王都の片隅で私の噂を読んでいる。


 そして私は、彼女の存在を紙の上で警戒している。


 私たちはまだ会っていない。


 なのに、互いにすでに少しずつ誤読している。


 人間関係とは、出会う前から始まっていることがある。


 噂と記憶と期待と恐怖によって。


 まったく、面倒な生き物だ。


 翌日、白百合会のことば箱に、新しい投書が入っていた。


『婚約者から、白百合会をやめなければ婚約を破棄すると言われました。

 家には言えません。

 私はどうすればいいですか。』


 茶話会の空気が、一瞬で凍った。


 ついに来た。


 遊びでも、理念でも、語録でもない。


 現実の婚約。


 家と家の契約。


 令嬢の将来。


 誰かの人生を左右する問題。


 リリアナの手が震える。


 クラリスのペンが止まる。


 マチルダの顔が青ざめる。


 セシルが扇を強く握る。


 私は、椅子の背を掴んだ。


 出るな。


 まだ出るな。


 でも、これは。


 これは、誰かが傷つく。


 その時、リリアナがゆっくり顔を上げた。


「この件は、会だけで抱えてはいけないと思います」


 声は震えていた。


 しかし、確かだった。


「まず、本人が望むなら、信頼できる教師に相談できるようにします。家や婚約者へ勝手に連絡はしません。白百合会だけで判断もしません」


 マチルダが頷く。


「法や学園規則の確認も必要です」


 レオンハルトが口を開きかける。


 止まった。


 するとクラリスが彼を見た。


「レオンハルト様。規則の確認について、後で教えていただけますか」


「はい」


 求められてから助言。


 青、耐えた。


「それから」


 セシルが言った。


「婚約破棄を脅しに使う相手が誰か、いずれ確認が必要ですわ。もちろん本人の意思を最優先に」


 エステルが頷く。


「これは白百合会への攻撃でもありますが、それ以前に、その令嬢個人への圧力です」


 リリアナが深く息を吸う。


「では、今日の最初の対応はこうします」


 彼女は紙に向かって、はっきり言った。


「あなたの意思を聞かせてください。

 白百合会は、あなたの代わりに勝手に戦いません。

 でも、あなたが一人で抱えなくてよいように、相談先と選択肢を一緒に探します」


 私は、何も言えなかった。


 言う必要がなかった。


 彼女たちは、もうここまで来ている。


 嬉しい。


 寂しい。


 怖い。


 誇らしい。


 全部が同時に来る。


 心が忙しすぎる。


 人間の感情処理能力には限界があるのだから、もう少し順番に来てほしい。


 その日の議事録の最後に、クラリスはこう書いた。


『今日、白百合会は初めて、誰かの人生に関わるかもしれない問題を受け取った。

 怖かった。

 正しいことを言いたかった。

 でも、正しい言葉でその人の人生を奪ってはいけないと思った。

 私たちは、代わりに戦うのではなく、一緒に選択肢を探すことにした。

 これは、救うより難しい。

 でも、たぶん、必要な難しさなのだと思う。』


 私はそれを読んで、静かに目を閉じた。


 救うより難しい。


 そう。


 救うより難しいものがある。


 相手の人生を相手に返すことだ。


 そして私は、たぶんそれをこれから何度も学ばなければならない。


 白百合の君を降りるために。


 お姉様であることに酔いすぎないために。


 そして、いつかミリア・アストレイと出会った時、彼女を「原作ヒロイン」と呼ばずに済むように。


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