第14話 セシル、踏まないために刺す
社交の授業は、たいてい退屈だ。
退屈だが、油断すると足をすくわれる。
礼の角度。
扇の開き方。
会話を切り上げるタイミング。
相手の家格に応じた距離。
相手の失言を聞かなかったことにする技術。
聞かなかったことにしたふりをしながら、あとで利用する技術。
貴族社会は大概性格が悪い。
人はここまでして優雅に見せたいものなのか。
今日の授業は、模擬茶会だった。
生徒たちは数人ずつに分かれ、設定された立場で会話する。
商談前の挨拶。
婚約祝い。
舞踏会での初対面。
家同士に緊張がある相手との会話。
不愉快な噂をやんわり否定する会話。
最後の項目で、白百合会の面々が一斉に顔を上げた。
嫌な予感しかしない。
ロゼ先生が課題を読み上げた。
「本日の応用課題です。あなたは茶会に招かれました。そこで、自分の所属する会について、事実と異なる噂を流されます。ただし、相手を公然と非難すれば場を壊す。相手を完全に放置すれば噂は広がる。どのように返しますか」
完全に白百合会案件である。
授業に見せかけた実戦訓練。
この先生、刃物をカリキュラムに混ぜるのがうまい。
生徒たちは四人組に分かれた。
私の組は、セシル、リリアナ、そして子爵家の令嬢エステル。
濃い。
かなり濃い。
紅茶なら渋すぎて舌が死ぬ。
「では、役を決めましょう」
リリアナが言った。
「私が噂を流す役をしますわ」
セシルが即答した。
全員が見た。
「なぜ?」
私が聞くと、セシルは扇を開く。
「得意ですもの」
堂々と言った。
自分の過去の武器を、教材として差し出している。
なかなかできることではない。
だが「得意ですもの」と言い切るのはどうなのか。まあ得意だろう。嫌な納得だ。
「では、私が白百合会側で受けます」
エステルが言った。
「私は同席者を」
リリアナが続く。
私は残った役を見る。
「私は?」
セシルが微笑む。
「場を観察して、あとで批評なさっては?」
「楽な役ですね」
「あなたが会話に入ると、すぐ場があなた中心になりますもの」
刺してくる。
しかも正しい。
「分かりました。観察します」
セシルの目が少し楽しそうに光った。
この人、模擬茶会で人を刺す気満々である。
ロゼ先生の合図で、各組の演習が始まった。
私たちは小さな丸テーブルを囲む。
白いクロス。
磁器のカップ。
模擬とはいえ、茶菓子も出ている。
学園の社交教育は妙に本格的だ。
人類は争い方を教える時ほど設備投資を惜しまない。
セシルは優雅にカップを持ち上げた。
その瞬間、空気が変わる。
彼女は今、セシル・バルディアではない。
社交界の微笑む刃物だ。
「ご存じかしら、エステル様」
声は柔らかい。
「最近、白百合会という集まりでは、婚約を軽んじるような話がされているそうですわ」
エステルは表情を変えずにカップを置いた。
「興味深いお話ですね。どちらでお聞きに?」
よい。
まず出所を聞いた。
セシルは微笑む。
「まあ、茶会の噂ですわ。皆様、ご心配なさっているようで」
「皆様、とは?」
「ご令嬢のご家族や、婚約者の方々など」
「なるほど」
エステルは頷く。
「白百合会では、婚約を軽んじる話はしておりません。ただ、婚約について不安がある場合、本人が相談できる先を持つことは大切だと考えています」
かなり堅実な返答。
だが、セシルはそこを逃さない。
「相談。素晴らしい言葉ですわね。けれど、相談という名で、若いご令嬢方が家の決定を疑うようになれば、困る方もいらっしゃるのでは?」
リリアナが少し緊張する。
エステルは答える。
「家の決定を疑うこと自体を、悪とは考えません」
強い。
だが、少し強すぎる。
相手に攻撃材料を与える。
セシルの目が細くなる。
「まあ。白百合会は、家の決定を疑う会なのですか?」
来た。
言葉の切り取り。
エステルの表情が硬くなる。
私は黙っていた。
口を出すな。
これは模擬茶会だ。
エステルが少し息を吸う。
「いいえ。白百合会は、家の決定を疑うための会ではありません」
「では?」
「自分が何を感じ、何を考えているのかを、まず言葉にするための会です」
リリアナがほっとしたように頷く。
よい返しだ。
だが、セシルはさらに微笑む。
「自分が何を感じているか。まあ、たいへん大切ですわね。でも、感情に従ってばかりでは、家も婚約も成り立ちませんわ」
「感情だけに従うとは申し上げておりません」
「けれど、そう聞こえる方もいらっしゃるかもしれませんわ」
「その場合は、誤解です」
「誤解は怖いですわね。白百合会の皆様は、言葉を大切になさるのでしょう?」
セシル、容赦がない。
自分がかつてやっていた「柔らかい追い込み」を完全再現している。
観察役としては非常に勉強になる。
同時に胃が痛い。
エステルは少し詰まった。
彼女は正面から議論するのが得意だ。
だが、こういう社交の場では、正面から正しさを投げるほど相手に利用される。
エステルの強さは、茶会では少し尖りすぎる。
リリアナが同席者として口を開いた。
「セシル様」
おっと。
リリアナが入った。
「白百合会の説明は、まだ私たちも練習中です。もし誤解されやすい言葉があったなら、今日のように教えていただけると助かります」
柔らかい。
しかし、逃げていない。
相手を敵にせず、誤解の可能性を受け取った。
セシルは楽しそうに目を細める。
「では、私が申し上げてもよろしいかしら」
「はい」
「白百合会は、自分の言葉を持つことを大切にしている。けれど、それが『家に逆らうこと』や『婚約を拒むこと』と同じではない。そう明確に伝えたほうがよろしいですわ」
リリアナは頷いた。
「ありがとうございます」
「そしてもう一つ」
セシルはカップを置く。
「白百合会は、誰かの人生を代わりに決める会ではない。これも言うべきです」
これは、セシル自身の言葉だった。
噂役ではなく、白百合会の一員としての言葉。
演習の中に本音が混ざった。
リリアナは少し微笑んだ。
「はい」
そこでロゼ先生が手を叩いた。
「そこまで」
演習終了。
私は息を吐いた。
自分が話していないのに疲れた。
人間の会話は、見るだけでも体力を奪う。燃費が悪い。
ロゼ先生が私たちの席に来た。
「バルディア嬢」
「はい」
「噂を流す役としては、非常に的確でした」
「ありがとうございます」
「褒めきれませんね」
「でしょうね」
セシルは少し肩をすくめる。
ロゼ先生は続ける。
「あなたは、相手の言葉を切り取る癖をよく理解しています。以前、自分が使っていたからでしょう」
セシルの表情が少し硬くなる。
「はい」
「それを再現できることは強みです。ただし、再現に快感を覚えないように」
刺す。
さすがロゼ先生。
セシルの顔が少し赤くなった。
「……はい」
「クレイン嬢」
エステルが姿勢を正す。
「あなたは正面から答えすぎました。正しさをそのまま出すと、社交では切り取られます」
「はい」
「ただ、言い換えの芯はよかった。『自分が何を感じ、何を考えているのかを言葉にする』。これは残しなさい」
「分かりました」
「ベル嬢」
「はい」
「あなたは場を壊さず、誤解を受け取る形で入った。よい判断です」
リリアナの顔が少し明るくなる。
「ただし、謝りすぎないように」
「はい……」
「『誤解させてしまい申し訳ありません』と言うと、相手に責任がない形になります。『誤解されやすい表現でした』程度で十分です」
「分かりました」
ロゼ先生は最後に私を見る。
「クラウディア嬢」
「はい」
「よく黙っていました」
褒められた。
たぶん。
「ありがとうございます」
「ですが、観察者として何を見ましたか」
来た。
黙って終わらせてはくれない。
私は少し考えた。
「セシルさんの噂役は、相手の言葉を否定するのではなく、相手の言葉を少しだけずらしていました」
「続けて」
「エステルさんは、正確に返そうとして、逆に強い言葉を出しすぎた場面がありました。リリアナさんは、相手の指摘を敵意として受け取らず、誤解の可能性として受け止めた。結果として、セシルさんが白百合会側の言葉を補う余地ができたと思います」
ロゼ先生は頷いた。
「悪くありません」
やった。
いや、喜ぶところか?
教師に悪くないと言われて喜ぶ公爵令嬢。
小学生か。
「ただし」
来た。
「あなたは今、少し嬉しそうでした」
「そこまで見ますか」
「見えます」
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りません」
「最近そればかり」
ロゼ先生は少しだけ笑った。
「授業ですから」
模擬茶会の後、生徒たちはそれぞれ反省を書いた。
私は観察者として、セシルの「刺し方」について考えていた。
セシルは相手を踏むことが得意だ。
相手の言葉の隙を見つけ、家格や品位や場の空気を使って逃げ道を塞ぐ。
それは危険な力だ。
けれど、今日の最後。
彼女は相手を潰すためではなく、白百合会が誤解されないために、その技術を使った。
刺す。
でも、踏まない。
いや、刺すのもどうなのか。
しかし、貴族社会では刺さなければ身を守れない場面がある。
問題は、刺し方と深さだ。
殺すためではなく、距離を取るために刺す。
嫌な技術だ。
でも、必要なのかもしれない。
*
放課後。
白百合会は模擬茶会の反省会を開いた。
参加者はいつもの面々に加え、授業で白百合会の噂役をやった数名も来ていた。
どうやら興味を持ったらしい。
また増える。
もう知らない。
増えろ。
いや、増えすぎるな。
リリアナが前に立つ。
「今日は、社交の場で白百合会について誤解された場合の返し方を考えます」
クラリスが黒板に書く。
『誤解への返答練習』
マチルダが事前に作った紙を配る。
そこには、噂の例が並んでいた。
『白百合会は婚約破棄を勧める会らしい』
『白百合会は男嫌いの集まりらしい』
『白百合会はエリシア様の派閥らしい』
『白百合会に入らない令嬢は遅れているらしい』
『白百合会は下級貴族の不満を煽っているらしい』
全部、実際に出た噂である。
胃が重い。
リリアナは言った。
「今日は、これらに対して、相手を敵にしすぎず、しかし事実は訂正する言葉を考えます」
セシルが前に出る。
「その前に、一つ」
全員が見る。
セシルは扇を閉じていた。
「私は、こういう場で相手を言い負かすのが得意です」
自分で言った。
「ですが、言い負かすことと、誤解を解くことは違います」
彼女は少しだけ目を伏せる。
「以前の私は、その違いを考えませんでした。相手が黙れば勝ちだと思っていました。でも、黙らせた言葉は、あとで別の場所で噂になります」
説得力がある。
実体験から来ている。
加害側の技術を、今は共有しようとしている。
「ですから、今日は三つに分けましょう」
セシルは黒板に書いた。
『訂正する』
『境界を引く』
『追い詰めない』
「訂正する。事実と違うことは違うと言う。
境界を引く。失礼な言葉には、受け入れないと示す。
追い詰めない。相手に引き返す余地を残す」
私は後方で目を細めた。
これは、かなり重要だ。
セシルが、自分の武器を手順化している。
踏むためではなく、踏まないために。
「たとえば」
彼女は一枚の紙を持ち上げた。
『白百合会は婚約破棄を勧める会らしい』
「これに対して、『そんな下品な噂を信じるなんて、どこの家の教育ですの?』と言うことはできます」
何人かが笑った。
セシルは真顔だった。
「できますが、やりすぎです」
自覚がある。
よい。
「代わりに、こう返します」
セシルは声を整えた。
「白百合会は婚約破棄を勧める会ではございません。婚約について不安がある場合、本人が相談先を持てるようにしているだけですわ。もし誤解されている方がいらっしゃるなら、ぜひ直接お尋ねくださいませ」
美しい。
やや棘がある。
しかし、ちょうどいい。
マチルダが頷く。
「事実の訂正と、問い合わせ先の提示ですね」
「ええ」
エステルが言う。
「直接お尋ねください、は少し挑発的では?」
「少しだけ」
「少しだけならよいのですか」
「相手に、陰で言うより表で聞け、と示す必要がありますもの」
なるほど。
セシルの言葉は、柔らかいが逃げていない。
リリアナが次の紙を持つ。
『白百合会は男嫌いの集まりらしい』
部屋が少しざわつく。
この噂は地味に多い。
自分たちの困りごとを話しているだけで男嫌い扱いされる。人類の被害者意識はよく育つ。雑草より強い。
リリアナは少し考えて言った。
「白百合会は、男性を嫌うための会ではありません。令嬢たちが、自分の困りごとや考えを話し合うための会です」
セシルが頷く。
「よろしいですわ。ただ、少し弱い」
「弱い?」
「相手がさらに『でも男への不満を言っているのでしょう』と来たら?」
リリアナは詰まる。
エステルが口を開いた。
「不満がある場合もあります。それを話すことと、男性全体を嫌うことは違います」
セシルが微笑む。
「よいですわ」
クラリスが書く。
マチルダが整理する。
「では、回答例はこうでしょうか」
『男性への不満が話題になることはあります。しかし、それは男性全体を嫌うことではなく、具体的な困りごとを扱うことです。』
リリアナが頷く。
「それがよいです」
次。
『白百合会はエリシア様の派閥らしい』
全員が私を見た。
見るな。
いや、見ろ。
これは私の問題でもある。
私は手を上げた。
「私が言っても?」
リリアナが頷く。
「お願いします」
私は立ち上がらず、座ったまま言った。
「白百合会は、私の派閥ではありません。私は創設のきっかけの一人ではありますが、代表でも顧問でもありません。会の方針は、参加者が話し合って決めています」
セシルがすぐに言う。
「それは正確ですが、あなたが言うと逆に怪しいですわね」
「どういうこと」
「本当に黒幕の人もそう言いますもの」
ひどい。
だが、分からなくもない。
黒幕はだいたい「私は関係ない」と言う。人類の物語教育の弊害である。
マチルダが言った。
「この噂には、白百合会側から具体的な運営構造を示すのがよいと思います。代表、書記、会計、会議での決定方法など」
エステルが頷く。
「エリシア様を否定するより、会の仕組みを示すほうがよい」
セシルも頷く。
「その通りですわ。『エリシア様の派閥ではありません』と繰り返すほど、エリシア様の影が濃くなりますもの」
私は胸が少し痛んだ。
私の名前を出さないほうが、会にとってよい。
分かっている。
それでも、痛む。
マチルダがこちらを見た。
「エリシア様」
「何?」
「過剰支出です」
「まだ何も言ってない」
「表情が」
「顔に出すぎね、私」
「はい」
会場に少し笑いが起きた。
私は肩をすくめた。
笑われるくらいでちょうどいい。
白百合の君として崇められるより、顔に出る人として笑われるほうが健全だ。
たぶん。
次。
『白百合会に入らない令嬢は遅れているらしい』
これは重い。
内部の誇りが外に向いた時の噂。
リリアナが真剣な顔で言った。
「白百合会に入るかどうかは、本人の自由です。参加しないことは、遅れていることでも、間違っていることでもありません」
エステルが加える。
「むしろ、参加しない自由を守れなければ、白百合会は自分たちが反対しているものと同じになります」
セシルが頷く。
「よろしいですわ。少し硬いけれど」
クラリスが書く。
最後。
『白百合会は下級貴族の不満を煽っているらしい』
これは危険だ。
政治的に聞こえる。
エステルの目が鋭くなる。
「不満を煽っているのではなく、すでにあった不満を言葉にしているのです」
強い。
かなり強い。
セシルが少し眉を上げる。
「正しいですが、茶会では燃えますわね」
「燃えてもよいのでは?」
「燃えた後、誰が消しますの?」
エステルは黙った。
セシルは続ける。
「あなたの言葉は必要です。でも、出す場所を選ばないと、相手は『やはり危険思想だ』と言いますわ」
エステルは少し悔しそうにする。
だが、反論しない。
リリアナが考える。
「では、こうでしょうか。白百合会は、下級貴族に限らず、学園生活で困っている令嬢たちが相談し合う場です。不満を煽るのではなく、問題を整理し、必要なら先生や学生会に相談します」
マチルダが頷く。
「現実の活動に基づいています」
セシルも頷いた。
「よろしいですわ。少し退屈ですが、退屈な回答は時に強いです」
退屈な回答は強い。
名言にしたい。
いや、しない。
でも、よい。
派手な言葉は広がる。
退屈な言葉は燃えにくい。
白百合会には、時々退屈さが必要だ。
クラリスが書き留めながら、ふと顔を上げた。
「今日の記録は、実用文集にできますね」
全員が彼女を見る。
「白百合会についての誤解に対する回答例として」
マチルダが頷く。
「必要です」
エステルも。
「各自がばらばらに答えると、また誤解が出ます」
セシルが扇を揺らす。
「ただし、丸暗記すると不自然ですわ。回答例はあくまで例に」
リリアナが言う。
「では、『白百合会へのよくある誤解と返答例』として作りましょう」
できた。
FAQだ。
異世界令嬢互助会、FAQを作る。
人類、本当にすぐ文書化する。
まあ必要だ。
必要だが、笑える。
私は後方で少し肩を震わせた。
マチルダが見た。
「エリシア様」
「何?」
「過剰支出ですか?」
「いえ、今回は純粋に面白くて」
「そうですか」
「白百合会がついにFAQを持つのだと思って」
「えふ、えー、きゅー?」
しまった。
前世語が出かけた。
「よくある質問集、という意味です」
「なるほど」
クラリスの目が輝いた。
「良いですね。よくある質問集」
また紙が増える。
もういい。
必要な紙だ。
白百合会はその日、正式に「よくある誤解と返答例」の作成を決めた。
担当はクラリスとセシル。
実務確認はマチルダ。
代表確認はリリアナ。
外部からの危険な解釈にはエステルが目を通す。
私は関与しない。
私の名前が出る項目だけ、必要なら確認する。
ちょうどいい。
たぶん。
会が終わった後、セシルが私のところへ来た。
「エリシア様」
「何?」
「今日はどうでした?」
「何が?」
「私の刺し方ですわ」
言い方。
「上手でした」
「褒めていますの?」
「はい。ただし、上手すぎて怖いです」
「でしょうね」
彼女は少し笑った。
それから、すぐ真顔になる。
「今日、噂役をやっていて、少し楽しかったですわ」
正直だ。
「相手の隙を見つける。言葉をずらす。逃げ道を狭める。あれは、やはり気持ちいい」
セシルは自分の手を見る。
「嫌になりますわね」
「ええ」
「否定しませんの?」
「あなたが否定してほしいなら、しません」
セシルは一瞬黙った。
それから笑った。
「本当に嫌な方」
「よく言われます」
「でも、今日は途中で止められました」
「ええ」
「殺さない刺し方、というのは難しいですわ」
「物騒な表現ですね」
「でも、分かるでしょう?」
「分かります」
分かってしまう。
言葉で相手を刺すこと。
場を制すること。
相手の反応を見て、自分の力を感じること。
その快感。
私は前世でも、文章で人をやり込めることに少し快感を覚えたことがある。
論破。
批評。
指摘。
正しい言葉で相手の足場を崩す。
気持ちいい。
そして、醜い。
「セシルさん」
「何ですの」
「刺す技術を捨てる必要はないと思います」
彼女は私を見る。
「ただ、刺す前に、何のために刺すのかを確認したほうがいい」
「相手を黙らせるためではなく?」
「境界を引くため。誤解を止めるため。誰かを守るため。ただし、それを口実に相手を痛めつけないため」
セシルは静かに聞いていた。
「難しいですわ」
「ええ」
「私は、きっとまたやりすぎます」
「その時は止めます」
「あなたが?」
「私も。リリアナさんも。マチルダさんも。白百合会も」
セシルは少しだけ目を伏せる。
「ずいぶん増えましたわね」
「ええ」
「私を止める人が」
「よいことでは?」
「……ええ」
彼女は小さく言った。
「少し怖いですが」
「怖い?」
「だって、止められるということは、見られているということですもの」
分かる。
人に見られる。
自分の癖を、醜さを、やりすぎを。
それは怖い。
だが、誰にも見られない場所で人はたいてい悪化する。
自分一人の暗がりほど、欲望が育つ温室はない。
「お互い様です」
私は言った。
「私も見られています」
「そうですわね。大型犬のように」
「まだそれを引っ張る」
「気に入りましたの」
セシルは満足そうに去っていった。
その背中は、以前より少し軽い。
棘は残っている。
むしろ、棘を自覚した分だけ鋭くなっているところもある。
でも、方向を選び始めた。
踏むためではなく、踏まないために刺す。
危うい。
けれど、彼女らしい変化だった。
その日の議事録で、クラリスはこう書いた。
『今日、セシル様は噂役をした。
とても上手だった。
怖いくらい上手だった。
相手の言葉を少しずらし、弱いところを突き、逃げ道を狭める。
以前のセシル様は、きっとそれで人を踏んでいたのだと思う。
でも今日は、その技術を、誤解に返す言葉を考えるために使った。
技術は、それ自体では善でも悪でもないのかもしれない。
けれど、使う時の快感は危ない。
セシル様は、自分が少し楽しかったと言った。
それを言えたことが、私は怖くて、少し尊いと思った。
尊いと書くと美しくなりすぎるので、言い換える。
必要だった。』
尊いを消して、必要だった。
クラリスも変わっている。
美しさを削ることを覚え始めている。
その一方で、余白にはこうあった。
『よくある誤解と返答例を作る。
題名は未定。
白百合会問答集、では硬い。
白百合会小さな返答集、では少し可愛い。
セシル様は「誤解を踏まずに刺すための手引き」と言った。却下。』
私は吹き出した。
却下で正しい。
翌日。
白百合会の掲示板には、新しい告知が貼られた。
『白百合会についてのよくある誤解と返答例を作成中です。
皆様が聞いた噂や、返答に困った言葉があれば、ことば箱へお寄せください。』
その下に、小さく追記。
『相手を言い負かすためではなく、誤解を減らすためのものです。』
よい。
地味でよい。
すると、その日の昼には、ことば箱に大量の紙が入った。
多すぎる。
十七枚。
また十七枚。
人類、匿名で意見を出せる箱を見つけるとすぐ詰め込む。紙吹雪か。
その中には、こんなものがあった。
『白百合会は紅茶の淹れ方まで規則にするらしい』
しない。
『白百合会に入るとエリシア様から白百合を授与されるらしい』
しない。
『セシル様に叱られたい男子生徒がいるらしい』
知らない。
いや、ありそうで嫌だ。
『白百合会は婚約者を交換する会らしい』
意味が分からない。
人類の噂生成能力、たまに理解不能な方向へ飛ぶ。脳に羽が生えているのか。むしろ羽虫か。
クラリスが真面目に分類しようとしていたので、さすがに止めた。
「これは全部扱わなくていいです」
「ですが、噂として」
「紅茶の規則は無視で」
マチルダが真面目に言う。
「紅茶については、将来的に茶話会運営の手引きが必要かもしれません」
「そこは別議題にしましょう」
白百合会、本当に官僚化している。
油断すると茶葉管理規程ができる。
セシルは「婚約者を交換する会らしい」の紙を見て、心底嫌そうな顔をした。
「下品ですわ」
「返答例は?」
エステルが聞く。
「『そのような発想に至る方の社交環境を心配いたします』」
「追い詰めない方針は?」
「今のは浅く刺しただけですわ」
「却下です」
リリアナが言った。
セシルは少し不満そうだったが、引いた。
止められている。
ちゃんと。
よい。
その日、白百合会はかなり笑った。
重い議題が続いた後だったから、皆どこかほっとしていた。
紅茶の規則。
白百合授与式。
婚約者交換。
セシル様に叱られたい男子生徒。
馬鹿馬鹿しい噂。
笑ってよいものもある。
すべてを深刻に受け取っていたら、会が沈む。
これも学びだ。
ロゼ先生が言いそうだ。
「笑えるものは笑いなさい。ただし、誰かを踏んで笑わないこと」
たぶん言う。
その日の帰り道、私は廊下でアルヴィンに会った。
彼は掲示板の前で、白百合会の告知を見ていた。
「よくある誤解と返答例」
彼は読み上げる。
「随分と実務的になったな」
「ええ」
「白百合会は、もう君の語録からずいぶん遠い」
胸が少し痛む。
アルヴィンはそれに気づいたようだった。
「すまない」
「いいえ。本当のことです」
「寂しいか」
「ええ」
「嬉しいか」
「ええ」
彼は少し笑った。
「君の返答例も必要だな」
「何の?」
「それを聞かれた時の」
私は少し考えて言った。
「『寂しいです。でも、それは会が育っている証拠でもあります』」
「綺麗すぎる」
「では、『心が面倒です』」
「そちらのほうが君らしい」
ひどいが、正しい。
「殿下は最近、少し意地悪になりましたね」
「君の影響かもしれない」
「責任転嫁」
「継続中だ」
「便利に使わないでください」
アルヴィンは笑った。
その笑いは、以前よりずっと軽かった。
*
その夜。
王都の礼拝堂で、ミリア・アストレイは新しい噂を聞いていた。
『白百合会は、噂に対する返答集を作っているらしい』
ミリアは目を輝かせた。
「言葉で人を傷つけず、誤解をほどくための手引き……」
違う。
半分はそうだが、半分は「セシル様に叱られたい男子生徒」への対応に困っている。
しかし、ミリアの耳には届かない。
届いたとしても、彼女は美しい部分だけを選ぶだろう。
彼女は日記を開いた。
『白百合会は、戦うためではなく、傷つけずに言葉を返すための書を作っている。
白百合の君の精神は、ただの救済から、言葉の作法へと広がっている。
人を踏まずに、しかし沈黙もしない。
なんと高貴な実践だろう。』
彼女はペンを止め、少し考えた。
そして、別の紙を取り出した。
題名を書く。
『白百合問答』
ああ。
やってしまった。
本人たちがまだ題名で迷っているのに、遠くの少女が勝手に命名した。
ミリアは微笑む。
「これなら、私にもまとめられるかもしれない」
彼女は、集めた噂と記録をもとに、白百合会の問答を自分なりに整理し始めた。
それは美しかった。
簡潔で、読みやすく、心に残る言葉が並んでいた。
そして、白百合会の迷いや失敗や馬鹿馬鹿しい噂は、ほとんど削られていた。
誤解を減らすための言葉が、別の場所で新しい誤解の種になる。
言葉は歩く。
しかも時々、勝手に身なりを整えて戻ってくる。
その時が、一番怖い。




