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第13話 エリシア、助けたくてたまらない

 継続中。


 白百合会の議事録に、その欄ができてから、私はやたらその言葉を見るようになった。


『婚約に関する相談、継続中』

『教本共同購入制度、継続中』

『ことば箱の運用見直し、継続中』

『匿名性と責任の扱い、継続中』


 何でもかんでも継続中である。


 便利だ。

 そして不便だ。


 終わらないことを、終わらないまま机の上に置いておくための言葉。


 完了でも失敗でも成功でもない。

 ただ、続いている。


 まったく人間関係にふさわしい言葉だ。だいたい全部、継続中である。終わったと思っても、記憶の奥でまだ湿っている。乾け。


 けれど、この「継続中」が、私にはどうにも落ち着かなかった。


 セドリックとアメリアの件もそうだ。


 アメリアは手紙を書いた。

 セドリックは返事を書いた。

 ロゼ先生が間に入り、二人はまだ直接会っていない。


 婚約は続いている。

 白百合会も続いている。


 でも、何も終わっていない。

 何も決まっていない。


 私はそれが気になって仕方なかった。


 朝起きる。

 ミーナが髪を整える。

 朝食を取る。

 馬車に乗る。

 学園に着く。

 授業を受ける。


 そのすべての隙間に、ふと考える。


 アメリアは大丈夫なのか。

 セドリックはまた何か言っていないか。

 アメリアの父は気づいていないのか。

 婚約はどうなるのか。

 このまま放っておいてよいのか。


 放っておいているわけではない。


 白百合会は、相談先を作った。

 ロゼ先生につないだ。

 本人の意思を尊重している。

 セドリックにも手紙を返す機会を作った。


 それでいい。

 いいはずだ。


 だが、私の中の何かが言う。


 本当に?


 公爵家の力を使えば、もっと早く解決できるのでは?


 セドリックの家に一言送ればいい。


 「令嬢の意思を尊重するように」と。


 柔らかく、丁寧に、逃げ場を残して。

 それだけで、相手は慎重になる。


 アメリアは守られる。

 白百合会も安心する。

 私は役に立てる。


 役に立てる。


 この言葉が、甘い。

 嫌になるほど甘い。


 人間は「役に立つ」という言葉で、どれだけ自己愛を砂糖漬けにしてきたのだろう。保存食か。腐りにくいぶんたちが悪い。


「お嬢様」


 ミーナの声で、私は現実へ戻った。


 鏡の前。

 髪はほとんど結い終わっている。


「何かお考えですか」


「ええ」


「白百合会のことですか」


「どうして分かるの」


「最近、そのお顔をされる時は、たいていそうです」


「どんな顔?」


 ミーナは少し考えた。


「助けに行きたいのに、行ってはいけないと分かっている犬のような」


「犬」


「申し訳ありません」


「いえ、かなり正確かもしれない」


 待てをされている犬。

 それだ。


 公爵令嬢としては最低の比喩だが、内面としてはかなり近い。


 尻尾はない。

 だが、心の中で盛大に床を掻いている。


「助けに行ってはいけないのですか」


 ミーナが聞いた。


 私は鏡の中の自分を見た。


 白い制服。

 紫のリボン。

 美しく整えられた髪。


 白百合の君と呼ばれるのにふさわしい顔。

 腹が立つほど似合っている。


「行ってはいけない、とは限らないわ」


「では」


「行きたい理由が、少し汚いの」


 ミーナは手を止めた。


「汚い?」


「アメリアさんを助けたい。それは本当。でも、私が助けたと思いたい気持ちもある」


 鏡の中の私は、少しだけ笑った。

 嫌な笑みだった。


「自分が必要とされる場所に戻りたいのよ」


 ミーナは黙っていた。


 責めない。

 驚きすぎもしない。


 その沈黙がありがたかった。


「それは、悪いことなのですか」


「悪いことではないかもしれない」


 私は言った。


「でも、危ない」


「危ないものは、全部捨てるべきでしょうか」


 私は彼女を見た。


 ミーナは真剣だった。

 侍女としてではなく、ひとりの人間として聞いている。


「いいえ」


 私はゆっくり答えた。


「危ないからこそ、手入れが必要なのだと思う」


「では、手入れをするのですね」


「ええ」


「今日は、何をなさいますか」


 私は少し考えた。


「何もしない、をする」


 ミーナは首を傾げた。


「難しそうです」


「とても」


 私は立ち上がった。


「人類、なぜこんなに難しい生き物に生まれたのかしら」


「私は人間でよかったと思っています」


「そう?」


「はい。お嬢様に紅茶を褒めていただけますので」


 私は少し笑った。


「本当に現金ね」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「でも、嬉しいです」


 ミーナは微笑んだ。


 その笑顔に、私は少し救われた。


 救われた、と言ってしまうとまた危ない。

 でも、まあ、少しだけ。


 学園に着くと、白百合会の掲示板には新しい紙が貼られていた。


『次回茶話会

 議題:自分の困りごとと、他人の困りごとの境界について』


 なるほど。

 アメリアの件から、リリアナたちはそこへ行ったのか。


 他人の困りごとを、どこまで自分たちで扱うのか。

 助けたい気持ちと、踏み込みすぎる危険。


 まさに今の私に刺さる議題である。


 誰だ、こんなタイミングのいい刃物を研いだのは。

 たぶん白百合会全体だ。嫌な成長をしている。


 掲示板の前に、マチルダがいた。

 紙の端を丁寧に整えている。


「ごきげんよう、マチルダさん」


「ごきげんよう、エリシア様」


「この議題は?」


「昨日、リリアナさんとエステルさんが話して決めました」


「そう」


「アメリアさんの件だけではなく、教本や寮のことでも、どこまで会が関わるのか曖昧でしたので」


 やはり、マチルダは運用を見る。

 地に足がついている。


「よい議題ですね」


「ありがとうございます」


 マチルダは少し嬉しそうにしたが、すぐ真面目な顔に戻った。


「ただ、難しいです」


「ええ」


「困っている人に、ここから先は自分で、と言うことは冷たいのでしょうか」


「場合によるでしょうね」


「便利な言葉です」


「本当に」


 場合による。


 この世で一番正しくて、一番役に立たない言葉である。


「私は、会計として、できることとできないことを分けるのは得意です」


 マチルダは言った。


「でも、人の困りごとに線を引くのは難しいです」


「なぜ?」


「お金なら、足りるか足りないかが分かります。でも、人の不安は、どこまで足りないのか分かりません」


 よい言葉だった。

 クラリスがいたら確実に書いている。


 私は心の中で記録した。


 いや、私が記録するのもどうか。

 まったく、言葉を聞くたびに所有したくなる。創作者の業が深い。


「今日の茶話会、私も後ろで聞いてよろしい?」


 マチルダは少し驚いた。


「もちろんです。エリシア様はいつも後ろに」


「ええ。でも、今日は少し、聞くのが怖いので」


 マチルダの表情が変わった。


「怖いのですか」


「ええ」


「では、聞かないという選択もあります」


 私は目を瞬かせた。


 マチルダは真剣だった。


「エリシア様が後ろにいてくださると、安心する方もいます。でも、エリシア様ご自身が苦しいなら、休むことも必要かと」


 この子。

 私を会の装置として扱わない。


 ちゃんと人間として見る。


 ありがたい。

 そして少し痛い。


「ありがとう。でも、今日は聞きます」


「分かりました」


「ただ、私が口を出しすぎそうになったら」


「止めます」


 即答だった。


「頼もしいですね」


「会計として、過剰支出は止めます」


「私の発言は支出なの?」


「影響力の支出です」


 うまい。

 かなりうまい。


 マチルダ、恐ろしい子。


 茶話会は放課後に開かれた。


 参加者は三十六人。

 増えている。


 もう驚かない。

 いや、驚け。増殖している。百合の花園というより、かなり実務的な湿地帯になってきた。足を取られる。


 リリアナは中央に立った。


 今日の彼女は、いつもより少し落ち着いていた。


 怖くないわけではない。

 だが、怖さを含んだまま立っている。


「今日の議題は、自分の困りごとと、他人の困りごとの境界についてです」


 クラリスが書記席で頷く。

 マチルダは横に資料を置いている。

 セシルは少し離れた席。

 エステルは前列。

 私は後方。


 レオンハルトはいない。

 珍しい。


 後で聞いたら、ロゼ先生に「今日は来るな」と言われたらしい。

 よい判断だ。


 青い観察者がいない空気も必要である。


「白百合会では、困りごとを共有しています」


 リリアナは続けた。


「でも、困りごとを聞いた時、私たちはどこまで関わるべきなのか。どこから先は、その人自身の選択として待つべきなのか。それを考えたいです」


 会場は静かだった。

 誰も軽く聞いていない。


 アメリアの件がある。

 皆、それを直接言わなくても分かっている。


「まず、皆様に紙を配ります」


 クラリスが紙を配る。


「問いは三つです」


 リリアナが黒板に書いた。


『一、自分が困っていた時、他人にしてほしかったこと』

『二、他人にされて嫌だった助け』

『三、誰かを助けたくなった時、自分の中にあった気持ち』


 三つ目。

 痛い。

 非常に痛い。


 誰かを助けたくなった時、自分の中にあった気持ち。


 私はペンを握った。


 参加者ではない。

 だが、書いていいだろうか。


 迷っていると、マチルダが紙を一枚こちらに差し出した。


 何も言わずに。


 書けということか。

 会計、恐るべし。


 私は紙を受け取った。


 一つ目。


 自分が困っていた時、他人にしてほしかったこと。


 前世のことが浮かんだ。


 誰かに気づいてほしかった。

 でも、踏み込まれたくなかった。


 矛盾している。


 今のエリシアとしては?


 前のエリシアの記憶で、孤独だった時。

 公爵令嬢として完璧であることを求められた時。


 誰かに「あなたは怖がっているのですね」と言われたかったかもしれない。


 でも、言われたら怒っただろう。


 二つ目。


 他人にされて嫌だった助け。


 正しい言葉で包まれること。

 勝手に美談にされること。

 「あなたなら大丈夫」と言われて、大丈夫ではない場所を見えなくされること。


 三つ目。


 誰かを助けたくなった時、自分の中にあった気持ち。


 私は手が止まった。


 ここだけは、書くのが怖い。


 でも、書く。


『必要とされたい。

 感謝されたい。

 自分が良い人間になったと思いたい。

 その人が自分なしで大丈夫になるのが怖い。

 その人の問題を解決することで、自分の中の空白を埋めたい。

 もちろん、相手が苦しんでいるのを見たくない気持ちもある。

 でも、それだけではない。』


 書いてから、紙を裏返したくなった。


 ひどい。

 しかし、たぶん本当だ。


 人間の動機は、だいたい混ざり物でできている。純度百パーセントの善意など、蒸留器にかけても出ないのではないか。知らないが。


 書き終えた紙は、匿名で集められた。

 私のものも混ざった。


 クラリスが読み上げる前に、リリアナが言った。


「今日は、すべてを読み上げるわけではありません。似た内容をまとめて、話し合います」


 クラリスが頷く。


 以前なら全部読みたがっただろう。

 今は、扱い方を考えている。


 紙が分類される。

 マチルダが手伝う。

 セシルも意外なほど真面目に読んでいる。


 やがて、リリアナがいくつかの声を読み上げた。


「困っていた時、ただ隣にいてほしかった」

「何も聞かずにお菓子を分けてくれたのが嬉しかった」

「大丈夫と言われるのが嫌だった」

「私の代わりに怒られると、あとで自分が悪いような気持ちになった」

「助けたいと思った時、本当は自分が役に立つ人間だと思いたかった」


 最後の紙で、会場が少し静まった。


 それは私の紙ではない。

 たぶん。


 似ているが、私の文章ではない。


 誰かも同じことを書いている。


 私は少し息を吐いた。


 自分だけではない。

 安心する。


 同時に、人類全体への不信が少し増す。

 皆だいたい同じ穴にいる。穴が混雑している。


「この紙を書いた方を探す必要はありません」


 リリアナが言った。


「でも、この気持ちは、私にもあります」


 会場が静かになる。


「誰かを助けられたら、私は代表として少し役に立てた気がします。それは嬉しいです。でも、その嬉しさがあることを忘れると、私は相手のためではなく、白百合会のため、代表である自分のために動いてしまうかもしれません」


 彼女は自分の言葉で言っている。


 弱い自分を演じるのではなく。

 代表として。


 かなり強い。


 セシルが口を開いた。


「私は、助けるという言葉があまり好きではありませんわ」


「なぜですか」


 リリアナが聞く。


「助ける側は、上に立ちやすいからです」


 セシルは扇を閉じた。


「私は以前、踏む側でした。今度は助ける側になれば、同じ高さに立てるかと思いました。でも、助ける側もまた上に立てますのね」


 苦い声。


「下に見るか、上から助けるか。どちらにしても、自分が高い場所にいることには変わりません」


 エステルが言った。


「では、助けないのですか」


「助けますわ」


 セシルは即答した。


「必要なら。ただ、その高さに酔わないようにするだけです」


 その言葉に、何人かが頷いた。


 クラリスが書く。

 マチルダが手を上げた。


「仕組みにするなら、三つに分けられると思います」


 また仕組み。

 でも、今日はありがたい。


「一つ、聞くこと。二つ、選択肢を整理すること。三つ、実際に代わりに動くこと」


 彼女は黒板に書いた。


『聞く』

『整理する』

『代わりに動く』


「白百合会は、まず聞く。次に、本人が望むなら選択肢を整理する。代わりに動くのは、本人が明確に望んだ場合、かつ会で慎重に確認した場合だけにする」


 エステルが頷く。


「妥当です」


 セシルも頷いた。


「代わりに動く、は最も危険ですわね」


「はい」


 マチルダは続ける。


「代わりに動く時は、本人の意思確認、相談先の確認、会としての可否、影響範囲を記録する必要があります」


 会計がどんどん制度を作る。

 ありがたいが、少し官僚化の香りがする。


 人類はすぐ書式を増やす。まあ、増やさないと暴走するから仕方ない。書式は文明の鎖である。足に絡まるが。


「もう一つ」


 エステルが言った。


「助けたい側の気持ちも記録すべきです」


 皆が彼女を見る。


「本人の困りごとだけでなく、私たちがなぜ関わりたいのか。怒りなのか、心配なのか、自己満足なのか。全部は無理でも、少しは確認したほうがいい」


 痛い。

 だが、必要だ。


 白百合会は、ついに自分たちの動機を点検し始めた。


 これは強い。

 強いが、とても面倒。


 私は、後方で静かに聞いていた。


 今日は口を出していない。


 出していないが、心は何度も前に出た。


 マチルダの分類に補足したい。

 エステルの提案に言葉を添えたい。

 リリアナを褒めたい。

 セシルに「それはあなた自身にも刺さっていますね」と言いたい。


 全部やめた。


 やめることが正しいとは限らない。

 だが今日は、彼女たちが自分たちで進んでいる。


 私は、待つ。


 会の終盤、リリアナがまとめた。


「白百合会は、困っている人を見つけた時、すぐに助けるのではなく、まず聞くことにします」


 クラリスが書く。


「本人の意思を確認すること。選択肢を整理すること。代わりに動く時は、本人が望んだ場合に限ること。そして、助けたい私たち自身の気持ちも確認すること」


 リリアナは少し息を吸う。


「これは、冷たくなるためではありません」


 会場が静まる。


「その人の人生を、私たちのものにしないためです」


 私は思わず目を伏せた。


 よい。

 よい言葉だ。


 だが、今日はクラリスが書いていい。

 これは白百合会の言葉だ。

 私のものではない。


 クラリスのペンが静かに走った。


 会が終わった後、マチルダが私のところへ来た。


「エリシア様」


「何?」


「今日は、口を出されませんでしたね」


「ええ」


「出したかったですか」


「とても」


「やはり」


 マチルダは少し笑った。


「過剰支出はありませんでした」


「評価されているのかしら」


「はい」


「ありがとう」


 少し嬉しい。


 同時に、私は彼女に管理されているのでは、と思った。


 いや、自分から頼んだ。

 管理ではなく相互抑制。


 言葉を変えると安心するあたり、危ない。実態を見ろ。


 そのあと、セシルがやってきた。


「今日のあなた、犬のようでしたわ」


「ミーナにも同じようなことを言われました」


「皆、見ていますのね」


「そんなに?」


「ええ。助けたくてたまらないのに待たされている大型犬」


「犬種まで大きくなった」


「公爵令嬢ですもの」


「関係ありますか」


 セシルは笑った。


 それから少し真面目な顔になる。


「でも、助かりましたわ」


「何が?」


「あなたが黙っていたので、私たちは自分で醜いことを言えました」


 彼女は肩をすくめる。


「助ける側も上に立てる。あれは、あなたがいたらあなたに言わせていたかもしれません」


「そう」


「だから、今日の黙り方はよかったと思いますわ」


 私は少し驚いた。


 セシルに褒められた。

 いや、これも褒めなのか?


 彼女の言葉はいつも棘の形をしているので、判別が難しい。


「ありがとう」


「ただし、黙ることに酔わないように」


「ロゼ先生みたいなことを」


「学びましたの」


「嫌な学び」


 セシルは満足そうに去っていった。


 その日の夕方。

 私はロゼ先生の研究室へ寄った。


 別に呼ばれたわけではない。

 少しだけ、話したかった。


 扉を叩くと、中から「入りなさい」と声がする。


 研究室では、ロゼ先生が答案を読んでいた。


「クラウディア嬢。今日は叱られに来たのですか」


「自分から来る人間はいません」


「あなたは少し怪しい」


「否定しづらいのが嫌です」


 先生は紙を置いた。


「何か?」


「今日の白百合会で、助けたい側の動機も確認する、という話になりました」


「よいですね」


「でも」


「でも?」


「そこまで考えていたら、いざという時に動けなくなるのではないかとも思います」


 ロゼ先生は頷いた。


「その通りです」


「その通り?」


「ええ。考えすぎれば、動けなくなります」


「では」


「考えなければ、踏み込みすぎます」


「最悪ですね」


「人間関係ですから」


 またこの返し。

 教師は容赦がない。


「では、どうすれば」


「事前に考えておくのです」


 ロゼ先生は言った。


「火事の時に避難経路を考えるのは遅い。普段から、どこまで関わるか、誰に繋ぐか、何をしてはいけないかを話しておく。そうすれば、いざという時に少しは動けます」


「つまり、今日の議題は無駄ではない」


「無駄どころか、必要です」


 少し安心した。


 ロゼ先生は私を見た。


「あなたは、助けたい気持ちを抑えることばかり考えていますね」


「ええ」


「抑えるだけでは、いずれ噴き出します」


「では?」


「使い方を覚えなさい」


 使い方。


「助けたい気持ち自体は悪ではありません。なければ、誰も動かない。問題は、その気持ちで相手の選択肢を奪うことです」


 先生は静かに続ける。


「衝動を消すのではなく、手順に乗せる。個人の美徳にせず、関係の中で点検する。あなたに必要なのは禁欲ではなく、運用です」


 運用。


 また実務の言葉が出た。


 美しい救済でも、劇的な自己否定でもなく。

 運用。


 なんて地味で、なんて助かる言葉だろう。


「ロゼ先生」


「何です」


「文学の先生なのに、妙に実務的ですね」


「文学は人間の面倒を読む学問です。実務的でなければ嘘です」


 かっこいい。

 かなりかっこいい。


 言わない。

 言うと先生に刺される。


「ありがとうございます」


「礼は結構です。次にあなたが暴走しそうになった時、今日の話を思い出しなさい」


「努力します」


「努力では足りません。周囲に止めさせなさい」


「最近、そればかりですね」


「あなたは一人にすると危ないので」


 ひどい。

 だが、反論しづらい。


 研究室を出ると、廊下の窓から夕日が差していた。


 中庭の白百合が赤く染まっている。


 白い花なのに、夕日を浴びれば赤く見える。

 象徴も、光の当たり方で変わる。


 またそれっぽいことを考えてしまった。

 危ない。


 でも、少しだけ本当だ。


 その夜。


 クラリスの議事録には、今日の会のまとめが書かれていた。


『今日、私たちは、助けたい気持ちについて話した。

 助けることは良いことだと思っていた。

 でも、助ける側も上に立つことがある。

 助けたい気持ちの中には、感謝されたい、役に立ちたい、自分が正しいと思いたい、という気持ちも混じる。

 それを悪として捨てるのではなく、混じっていることを忘れないようにする。

 白百合会は、困りごとを聞いた時、まず聞く。

 次に選択肢を整理する。

 代わりに動く時は、本人が望んだ場合だけ。

 そして、助けたい私たち自身の気持ちも確認する。

 リリアナ代表は、これは冷たくなるためではなく、その人の人生を私たちのものにしないためだと言った。』


 その下に、クラリス自身の言葉が続いていた。


『私は、人を助ける話を書きたいと思った。

 でも今日、助ける話を書く前に、助けたい人の顔を書かなければいけないと思った。

 助けられる人ではなく、選ぶ人として。

 まだうまく書けない。

 継続中。』


 継続中。


 またこの言葉。


 私はノートを閉じ、微笑んだ。


 継続中でいい。

 むしろ、継続中がいい。



 その頃、王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイがまた噂を受け取っていた。


『白百合会は、人を救う前に、その人の意思を聞くことを決めたらしい』


 今回はかなり正確だった。


 だが、ミリアはそこに別の光を見た。


「救う前に聞く……」


 彼女はその言葉を、祈りのように繰り返した。


「なんて深い慈愛なのでしょう」


 違う。


 慈愛というより、手続きと恐怖と反省と支配欲の点検である。


 だが、ミリアの中ではそれが美しい一文に変わる。


 彼女は日記を開いた。


『白百合の君の会は、救済すら相手に押しつけない。

 救う前に聞く。

 導く前に待つ。

 差し伸べた手で相手の道を塞がない。

 これは、もはや人の徳ではなく、思想である。』


 思想。

 また大きくなった。


 白百合会は、ただ手紙を開けずに置いたり、教本代を相談したり、助けたい動機を点検しているだけだ。


 だが、遠くから見れば思想になる。

 近くでは手順。

 遠くでは革命。


 距離とは恐ろしい。


 ミリアはペンを止め、そっと微笑んだ。


「私なら、きっと書ける」


 何を?


 彼女自身も、まだはっきりとは分かっていなかった。


 だが、タイトルだけは浮かんでいた。


『白百合の君と、救われる少女たち』


 最悪の章題だった。


 救われる少女たち。


 白百合会がようやく「救われる人」ではなく「選ぶ人」として見ようとしているのに。


 遠く離れた少女は、もう彼女たちを救われる者として並べ始めていた。


 言葉は歩く。

 そして時々、こちらが苦労してほどいた紐を、遠くでまた綺麗に結んでしまう。


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