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12/15

第12 話 白百合会、戦う前に聞く

 セドリック手紙が受け取られてから、三日が経った。

 返事は、まだない。


 ことば箱にも、ロゼ先生の投函箱にも、婚約の件についての新しい紙は入っていなかった。


 白百合会は待っていた。

 待っていた、というより、待つしかなかった。


 誰も大きな声でその話題を出さない。

 けれど、皆どこか気にしている。


 サロンに入る時、ことば箱をちらりと見る。

 廊下を通る時、ロゼ先生の研究室の前を気にする。

 封筒がないか、紙が差し込まれていないか、つい目で探す。


 追わない。

 でも、気になる。


 この矛盾が、部屋の空気に薄く溶けていた。


 人間は「待つ」と決めても、心の中では勝手に玄関前をうろうろする。精神の足音がうるさい。座っていろ。


「本日の議題は、教本の共同購入についてです」


 リリアナが言った。


 白百合会は通常運転に戻ろうとしていた。

 戻ろうとしている。

 それが大事なのだろう。


 誰か一人の問題を、会全体の緊張で包み込み続けると、その人は戻ってきにくくなる。


 だから日常を続ける。


 紅茶を注ぐ。

 焼き菓子を分ける。

 教本代の相談をする。

 寮の洗濯室の使用時間でもめる。


 マチルダが会費を数える。

 クラリスが議事録を書く。

 セシルが誰かの雑な言葉遣いに眉をひそめる。


 そういう、どうでもよく見えることを続ける。


 居場所とは、たぶん特別な救済の場ではない。

 戻ってきた時、まだ紅茶が残っている場所のことだ。


 いや、今のは少し綺麗すぎる。

 危ない。


 自分で自分を警戒する人生、かなり面倒だ。


「共同購入については、三案あります」


 マチルダが紙を広げた。


「一つ目は、会費から一部を補助する案。二つ目は、余裕のある方が任意で寄付し、必要な方が申請する案。三つ目は、貸出用の共用教本を作る案です」


 会の空気が少し落ち着く。


 数字と制度は、時に人を救う。

 救うと言うとまた大げさだが、少なくとも心拍数を下げる。


 マチルダの説明は淡々としていた。


 誰が貧しいかを晒さないよう、申請方法をどうするか。

 寄付した者の名前を出すか出さないか。

 貸出記録は誰が持つか。

 返却遅れが起きた場合、罰金にするか注意に留めるか。


 地味。

 とても地味。


 でも、白百合会が本当に必要としていたのは、こういう話だったのかもしれない。


 「あなたは尊い」と言われるより、来期の教本をどう借りるかのほうが切実な子は多い。


 人間の尊厳は、しばしば本棚と財布の間に挟まっている。文学的に言えば貧乏くさい。現実的に言えば、そういうところが一番痛い。


「寄付者の名前は出さないほうがよいと思います」


 エステルが言った。


「寄付した者が上に立つ形になるのを避けるためです」


「同感ですわ」


 セシルが頷く。


「善意の名札ほど厄介なものはありませんもの。私はこれだけ出しました、という顔をされると、紅茶の温度まで下がりますわ」


「温度は下がりません」


 マチルダが真面目に返す。


「比喩ですわ」


「失礼しました」


 この二人の会話、少し面白い。

 棘と帳簿。


 詩的に言いすぎか。

 クラリスが書きそうだ。やめておこう。


 私は後方席で聞いていた。


 最近、私はこの席に慣れてきた。


 前ではない。

 中央でもない。

 けれど、完全な外ではない。


 ここからだと、皆の背中が見える。


 リリアナの肩が緊張すると分かる。

 クラリスが書くべきか迷う時、ペン先が止まる。

 マチルダは数字に自信がある時ほど声が小さくなる。

 セシルは痛いところを突く直前、扇を一度だけ強く握る。

 エステルは怒っている時ほど姿勢が整う。


 中心からでは見えないものがある。


 そう思うと、少しだけこの席も悪くない。

 それでも、時々前に立ちたくなる。


 この二つは、たぶんずっと一緒にある。


 会が終わりかけた時、扉が小さく叩かれた。


 全員が振り向く。


 そこにいたのは、一人の令嬢だった。


 淡い水色の髪を三つ編みにした、細身の少女。

 顔色は悪く、手には封筒を握っている。


 私は名前を知らない。

 いや、記憶を探ればある。


 エリシアとしての十五年分の記憶の奥に、社交界で何度か見た顔。


 男爵家次女。

 名前は。

 たしか、アメリア・フェン。


 リリアナが立ち上がった。


「アメリアさん」


 やはり。

 彼女が投書主か。


 サロンの空気が一気に変わった。


 誰も声を出さない。


 アメリアは怯えたように周囲を見た。

 この視線の多さは、彼女には重すぎる。


 私は立ち上がりかけた。


 いや、違う。

 必要なのは私ではない。


 リリアナがすぐに言った。


「皆様、少し席を外しましょう」


 その判断は早かった。


 素晴らしい。

 いや、ここで褒めるな。

 黙っていろ。


 リリアナは続ける。


「アメリアさんが望む人数でお話を聞きます」


 アメリアの目が揺れた。


「わ、私は……」


 声が小さい。


「リリアナ様と、ロゼ先生に……」


 そこで言葉が止まる。


 アメリアの視線が一瞬、セシルへ向いた。

 それから私へ。

 すぐに逸れる。


 彼女は迷っている。


 誰にいてほしいのか。

 誰にいてほしくないのか。

 それを言うこと自体が怖いのだろう。


 リリアナは待った。


 偉い。

 待てるようになっている。


 アメリアは封筒を握りしめ、ようやく言った。


「セシル様にも、いていただきたいです」


 セシルの眉が少し上がる。


「私でよろしいの?」


「はい……」


 アメリアは小さく頷いた。


「以前は、怖かったです。でも、今は……怖いから、いてほしいです」


 不思議な言い方だった。

 しかし、少し分かる。


 怖い人が、今は味方側にいる。

 それが安心になる時もある。


 セシルの棘は、相手によっては盾にもなる。


 セシルは一瞬、言葉を失ったようだった。

 それから扇を閉じる。


「承知しましたわ」


 アメリアの視線が、また私へ来た。


 私は何も言わない。


 呼ばれるか。

 呼ばれないか。


 胸が少しきしむ。


 アメリアは迷った末、小さく頭を下げた。


「エリシア様は……その、申し訳ありません。今は、少し……」


「ええ」


 私は微笑んだ。

 なるべく柔らかく。


「席を外します」


 胸が痛い。


 呼ばれなかった。


 当然だ。

 むしろ良いことだ。

 彼女は自分で選んだ。


 私がいると緊張するのだろう。

 公爵令嬢だから。

 白百合の君などと呼ばれているから。

 セドリックの前で言葉を放ったから。


 私の存在は、助けにも圧にもなる。


 頭では分かっている。

 でも、胸は少し痛い。


 やはり人間の身体は理屈を聞かない。欠陥構造だ。返品窓口はどこだ。


「必要なら呼んでください」


 私はそれだけ言って立ち上がった。


 クラリスもマチルダもエステルも、他の参加者たちも静かに部屋を出る。

 レオンハルトも当然のように出る。


 偉い。


 彼は記録したそうな顔をしていたが、出た。

 成長した。

 少し気味が悪いほど成長している。


 サロンの外に出ると、廊下の空気が少し冷たかった。


 扉が閉まる。


 中には、アメリア、リリアナ、セシル。

 ロゼ先生は、リリアナが呼びに行くのだろう。


 私は廊下の壁にもたれた。


 何もできない。

 何もすべきでない。


 でも、気になる。


 扉の向こうで何が話されているのか知りたい。

 彼女が手紙に何と書いてあったのか聞きたい。


 セドリックは謝ったのか。

 言い訳したのか。

 彼女はどう感じたのか。

 婚約を続けたいのか。

 やめたいのか。

 まだ分からないのか。


 知りたい。


 これが、もう危ない。


 知りたいという欲望は、優しさの顔をして入ってくる。

 でも、時々ただの覗き見だ。

 他人の痛みに対する好奇心。


 創作者にとって、これはかなり深い業である。人の苦しみを見て、物語の匂いを嗅ぐ。最悪だが、否定すると嘘になる。


「エリシア嬢」


 横から声。

 レオンハルトだった。


 柱のそばに立っている。


「聞き耳を立てないのですね」


「あなたこそ」


「私は立てたいです」


「正直ですね」


「はい」


 彼は扉を見た。


「情報としては、知るべき内容です」


「そうでしょうね」


「しかし、知る権利がありません」


「成長しましたね」


「不快です」


「でしょうね」


 私たちは廊下に立ったまま、しばらく黙った。


 クラリスとマチルダは少し離れたところで、他の参加者たちを解散させている。

 エステルは「今日はここまで」と冷静に告げている。


 白百合会は、こういう場面で少しずつ動けるようになっている。


 私がいなくても。


 また痛む。


 もういい。

 この痛みにも名前をつけよう。


 寂しさ。

 嫉妬。

 不要になる恐怖。


 全部混ざっている。

 きれいな名前にしないほうがいい。


 白百合色の寂しさ、などと言ったらクラリスが泣く。いや、私が自分に引く。


「あなたは」


 レオンハルトが言った。


「自分が呼ばれなかったことを、どう受け止めていますか」


「嫌な質問ですね」


「必要かと」


「あなたの必要はいつも痛い」


「そうですか」


 私は少し考えた。


「寂しいです」


「はい」


「少し傷つきました」


「はい」


「でも、安心もしています」


「なぜ」


「彼女が、自分で選べたからです」


 レオンハルトは頷いた。


「矛盾していますね」


「人間なので」


「便利な言葉です」


「かなり」


 彼は少しだけ口元を緩めた。


「記録したいところですが、やめます」


「偉い」


「褒められると不快です」


「面倒ですね」


「あなたほどでは」


「失礼な」


 廊下の先から、ロゼ先生が歩いてきた。


 リリアナが呼びに行ったらしい。


 先生は私とレオンハルトを見ると、軽く眉を上げた。


「廊下で待つのは構いませんが、扉に近すぎます」


「すみません」


 私はすぐに一歩下がった。

 レオンハルトも下がる。


「聞こえましたか」


「いいえ」


「聞こうとは?」


 私は黙った。

 レオンハルトも黙った。


 ロゼ先生はため息をついた。


「正直でよろしい。聞こうと思ったが、聞かなかった、ですね」


「はい」


「はい」


 二人で答える。


 なんだこの反省会。

 廊下で教師に見抜かれる公爵令嬢と宰相候補。

 情けない。


 だが、たぶん必要だ。


 ロゼ先生は少しだけ表情を緩めた。


「それで十分な時もあります」


 そう言って、サロンに入っていった。


 扉が閉まる。


 今度は、もっと離れたところで待つことにした。


 待つ。

 また待つ。


 最近の人生、待ってばかりだ。


 前世ではロード画面が嫌いだった。今は人間のロード画面を見ている。進捗バーがない。最悪である。


 しばらくして、セシルが部屋から出てきた。


 一人だった。


 扉を静かに閉める。

 表情が硬い。


 私は近づこうとして、止まった。


 セシルがこちらへ来る。


「アメリアさんは?」


「ロゼ先生とリリアナ様が残っていますわ」


「そう」


 セシルは壁にもたれ、珍しく扇を開かなかった。


「大丈夫ですか」


「私が?」


「ええ」


 彼女は少し笑った。


「おかしなことを聞きますのね」


「顔色が悪いので」


「……そうでしょうね」


 セシルは目を伏せる。


「手紙には、謝罪が書いてありましたわ。自分は本気で婚約破棄するつもりはなかった。君が白百合会に入って変わっていくのが怖かった。君が自分を必要としなくなる気がした、と」


 私は息を呑んだ。


 セドリック。


 そうか。

 彼も、必要とされなくなることが怖かった。


 まただ。

 また同じ構造。


 人に必要とされたい。

 相手が自分なしで立つことが怖い。

 だから、自分のそばに置こうとする。


 私と同じではないか。


 違うと言いたい。

 私は婚約破棄で脅してはいない。


 だが、欲望の根は近い。

 それが嫌だ。

 理解できてしまうのが嫌だ。


「アメリアさんは」


 私は聞いた。


「何と?」


 セシルはしばらく黙った。


「泣いていましたわ」


「そう」


「セドリック様を嫌いになったわけではないと。でも、あの言葉を言われてから、彼の前で自分の考えを話すのが怖くなった、と」


 重い。


 言葉は戻せない。

 謝罪はできる。

 訂正もできる。


 でも、一度相手の中に作った恐怖は、消せない。

 薄れることはあっても、なかったことにはならない。


 人間は、言葉を軽く投げすぎる。

 投げた本人は忘れても、刺さった側は肉の中に残る。


「セシルさん」


「何ですの」


「あなたが、なぜ出てきたのか聞いても?」


 セシルは少しだけ顔を歪めた。


「私がいると、アメリア様が私を気にして話しにくそうでしたの」


「だから?」


「出ましたわ」


 それだけ。


 でも、それは大きい。


 セシルは、以前なら場に残っただろう。

 自分がいることの圧を利用しただろう。

 あるいは、相手の沈黙に気づかなかっただろう。


 今は、出た。

 自分から。


「よく出ましたね」


 私が言うと、セシルは睨んだ。


「子ども扱いしないでくださる?」


「していません」


「していますわ」


「では、少し」


「エリシア様」


「はい」


「私、悔しかったですわ」


 セシルは低く言った。


「アメリア様に選ばれて、少し嬉しかった。怖いからいてほしいと言われて、私は役に立てると思った。でも、そのあと、私がいることで話しにくくなっていると気づいた」


 彼女の手が、扇を強く握る。


「私はまた、自分が役に立つ場に居座りそうになりました」


 私は何も言わなかった。


 分かる。

 分かりすぎる。


「出たくありませんでしたわ」


 セシルは言った。


「最後まで見たかった。私がいたから安心できたのだと、思いたかった。けれど、そうではなかった」


「それで出た」


「ええ」


「痛かった?」


「とても」


「でしょうね」


 セシルは私を見た。


「あなたも、こんな気分ですの?」


「かなり頻繁に」


「最悪ですわね」


「ええ」


 二人で少し笑った。


 笑うしかない。


 誰かの自立のために場を離れるのは、なかなか惨めだ。

 美談ではない。


 ただ、扉の外に追い出されたような寂しさがある。

 たとえ自分で出たとしても。


「でも」


 セシルはぽつりと言った。


「少しだけ、よかったとも思いますわ」


「何が?」


「アメリア様が、私に遠慮せず、私がいると話しにくい顔をできたこと」


 彼女は苦笑する。


「以前なら、そんな顔もさせませんでしたもの」


 私は頷いた。


「それは、大きいです」


「だから子ども扱い」


「していません」


「しています」


 セシルは少しだけ元気を取り戻したようだった。


 その後、ロゼ先生とリリアナが出てきた。


 アメリアはロゼ先生の研究室へ移動したらしい。

 さらに詳しく話すためだ。


 リリアナの顔は、泣いた後だった。

 だが、崩れてはいない。


「リリアナさん」


 私は声をかけた。


「大丈夫?」


「……大丈夫ではありません」


 彼女は正直に言った。


「でも、立っています」


「ええ」


 ロゼ先生が横から言う。


「立っていることを誇りすぎないように」


「はい」


 即座に刺す。


 この先生、今日も冴えている。


 リリアナは少し笑った。

 泣いた後の笑顔。


「アメリアさんは、セドリック様に返事を書くそうです」


「そう」


「ただし、すぐには会わないと」


「ええ」


「手紙で、自分が怖かったこと、まだ会う準備ができていないこと、婚約を続けたいかどうか考えたいことを書くそうです」


 私は静かに頷いた。


 いい。

 とてもいい。


 誰かが勝手に決めたのではない。

 アメリアが決めた。

 自分で。


「白百合会は?」


 私は聞いた。


 リリアナは少し考えて答えた。


「封筒を預かります。開けずに、ロゼ先生を通してセドリック様へ渡します」


「よいと思います」


 ロゼ先生が頷いた。


「白百合会が恋文配達係になるのは感心しませんが」


「恋文ではないと思います」


 リリアナが言う。


「そうですね。もっと厄介なものです」


 ロゼ先生は淡々と言った。


「自分の恐怖を相手に返す手紙です」


 重い。

 だが、正しい。


 アメリアは、セドリックに恐怖を返そうとしている。


 あなたの言葉で怖かった。

 あなたの前で考えることが怖くなった。


 それを伝える。


 これは攻撃ではない。

 しかし、相手には痛い。


 痛くて当然だ。


 相手を傷つけた事実は、傷つけた側にも返るべき時がある。

 ただし、断罪としてではなく、現実として。


 その日の白百合会では、この件の共有は最小限になった。


 個人名は出さない。

 内容も詳しくは言わない。


 リリアナは会の前で、こうだけ話した。


「婚約の件について、投書された方はロゼ先生と相談し、自分で返事を書くことを選ばれました。白百合会は、その手紙を開けずに届ける手助けだけをします」


 それだけ。


 クラリスは議事録に書いた。


『手紙を開けずに届ける。内容は記録しない。』


 最初、クラリスは手が震えていた。


 内容を知りたいのだろう。

 記録したいのだろう。


 だが、書かない。


 それが今日の記録だった。


 記録しないことを記録する。

 奇妙だが、たぶん重要だった。


 その夜。


 アメリアの手紙はロゼ先生に預けられた。

 セドリックへ渡される。


 返事が来るかは分からない。

 彼がどう受け取るかも分からない。


 怒るかもしれない。

 反省するかもしれない。

 婚約を続けるかもしれない。

 破棄するかもしれない。


 分からない。


 白百合会は、その分からなさを抱えたまま、次の日常に戻った。


 翌日、教本の共同購入案が正式に通った。


 貸出用の共用教本を三冊買うことになった。

 寄付者は匿名。

 利用者も匿名申請。

 管理はマチルダ。

 記録はクラリス。

 確認は月一回、会全体で。


 地味。

 とても地味。


 でも、白百合会はこうやって生きていくのだろう。


 大きな問題だけではなく、小さな不便を少しずつ扱う。


 誰かの婚約の悩みと、誰かの教本代。

 どちらも軽んじない。


 その両方があるから、会は美談ではなく居場所に近づく。


 放課後、私は中庭でリリアナと会った。


 彼女は白百合の花壇を見ていた。


「エリシア様」


「何?」


「アメリアさんは、私たちに全部を話したわけではありません」


「ええ」


「私は、もっと聞きたいと思ってしまいました」


「私も」


 リリアナは少し驚いた顔をした。


「エリシア様も?」


「ええ。とても」


「それは、心配だからですか」


「心配もあります」


「他には?」


 最近、リリアナも聞くようになった。

 遠慮なく。

 いや、少し遠慮しながら、それでも聞く。


 私は苦笑した。


「知りたいからです」


「知りたい」


「人の痛みの続きを知りたい。どうなるのか見たい。自分が関わったことの結果を見届けたい」


 私は白百合を見る。


「それは、優しさだけではありません」


 リリアナは黙っていた。


「私も、あります」


 彼女は小さく言った。


「アメリアさんがどうするのか、知りたいです。手紙に何を書いたのかも、本当は知りたい」


「ええ」


「でも、知らないまま支えることもあるのですね」


「たぶん」


「難しいです」


「とても」


 白百合が風に揺れた。


 最近、この花を見ると、きれいだと思う前に面倒だと思うようになっている。

 花としては気の毒である。


「リリアナさん」


「はい」


「もし、アメリアさんが白百合会を辞めることを選んだら、どうしますか」


 リリアナは少しだけ目を伏せた。


「寂しいです」


「ええ」


「でも、責めません」


「本当に?」


 彼女は私を見る。

 少し困った顔で笑った。


「責めたくなると思います」


 正直だ。


「でも、それを会の正しさで隠さないようにします」


 私は頷いた。


「それでいいと思います」


「エリシア様」


「何?」


「私は、少しずつ嫌な人間になっている気がします」


「たぶん、元から嫌な部分はあったのです」


 リリアナが目を丸くする。


 私は続けた。


「それが見えるようになっただけでしょう」


「……慰めですか?」


「かなり誠実な慰めです」


「変な慰めです」


「人間向けなので」


 リリアナは少し笑った。


「でも、少し安心しました」


「それはよかった」


 その日の夜。


 クラリスの議事録には、こう書かれた。


『今日は、記録しないことが多かった。


 アメリアさんの手紙の内容は記録しない。

 セドリック様へどう渡されたかも、必要以上には記録しない。


 ただ、アメリアさんが自分で返事を書くことを選んだ、という事実だけを残す。


 記録係なのに、書かないことを選ぶのは怖い。


 でも、全部を書くことが誠実なのではない。

 書かないことで守るものもある。


 私は今日、それを少し学んだ。』


 私はそれを読んで、しばらく黙った。


 書かないことで守るものもある。


 クラリスがそこまで来た。

 最初に私の語録を書き写していた子が。


 ずいぶん遠くまで来たものだ。


 その遠さが嬉しい。

 そして、少し寂しい。


 もはや定型になりつつある。


 嬉しいと寂しいが同時に来る。面倒な定期便だ。解約したい。


 数日後。


 セドリックから、ロゼ先生宛てに返事が来た。


 アメリアに渡すかどうかは、ロゼ先生が本人と相談することになった。

 白百合会には内容は共有されなかった。


 ただ、ロゼ先生から一言だけ伝えられた。


「彼は、自分の言葉を撤回したいと書いていました。ただし、撤回で恐怖が消えるわけではないとも」


 それだけ。


 それで十分だった。


 いや、本当はもっと知りたい。

 だが、十分ということにする。


 白百合会は、この件を「解決」とは記録しなかった。


『継続中』


 マチルダがそう書くことを提案した。


 クラリスが頷いた。

 リリアナも。

 セシルも。

 エステルも。


 継続中。


 なんて地味で、正しい言葉だろう。


 物語は完結を欲しがる。

 でも、人間関係の多くは継続中だ。


 壊れたまま続く。

 修復途中で続く。

 分からないまま続く。


 それでも、翌日は来る。


 白百合会はその日、初めて「継続中」という分類を議事録に作った。


 これは、たぶん大きな発明だった。

 人の人生を勝手に終わらせないための欄。



 その頃。


 王都の礼拝堂で、ミリア・アストレイは、また噂をまとめていた。


『白百合会は、婚約に苦しむ令嬢を救い、婚約者にも反省を促したらしい』


 美しい結末。

 勝手な完了形。


 救い、促した。


 違う。

 継続中だ。


 誰も救い切っていない。

 誰も完全には変わっていない。


 でも噂は、継続中を嫌う。

 語りやすい形に丸める。


 ミリアはその噂を聞いて、目を輝かせた。


「やはり……白百合会は、ただの令嬢たちの集まりではないのですね」


 彼女は日記を開く。


『白百合の君のまわりでは、傷ついた者が言葉を取り戻し、誤った者が悔い改める。


 彼女自身が前に出ずとも、その精神が人々を動かしている。


 これは、もはや個人の善行ではない。

 静かな革命だ。』


 革命。


 ミリアは微笑んだ。


「私も、いつかその物語の中へ」


 彼女はまだ知らない。


 その物語の中へ入ることが、誰かの人生を踏むことでもあると。


 そして私はまだ知らない。


 遠く離れた場所で、私たちの「継続中」が、誰かの中で勝手に完結させられていることを。

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