第11話 婚約破棄をちらつかせた男
封筒が消えた翌日、ことば箱に新しい紙が入っていた。
今回は、前より少しだけ字が落ち着いていた。
けれど、ところどころ筆圧が強い。
迷いながら書いた字だ。
『回答を読みました。
ありがとうございます。
エミリア先生に、手紙で相談してみたいです。
でも、まだ名乗る勇気はありません。
婚約者のことを少し書きます。
彼は、悪い人ではないと思います。
以前は優しかったです。
でも最近、白百合会の話をすると怖い顔をします。
「君は余計なことを考えなくていい」と言われました。
「妻になるなら、夫を立てることを覚えなさい」とも。
私は、その言葉が怖かったです。
でも、彼が間違っていると言い切るのも怖いです。
私がわがままなのかもしれません。
彼は子爵家の長男です。
私は男爵家の次女です。
父は、この婚約をありがたい話だと言っています。
私は、どうしたいのか、まだ分かりません。』
サロンは静まり返った。
前回までの「どうすればいいですか」より、今回のほうがずっと生々しい。
名前はない。
それでも、ひとりの令嬢の呼吸が紙の向こうにあった。
彼は悪い人ではないと思います。
この一文が、何より重い。
完全な悪人なら、物語は楽だ。
ひどい婚約者。
怯える令嬢。
立ち上がる白百合会。
断罪。
拍手。
はい、終了。
人が大好きな単純構造である。脳に優しい。だが現実には優しくない。
たいていの支配は、悪人の顔をしていない。
普通の顔をしている。
心配の顔をしている。
家のためという顔をしている。
君のためという顔をしている。
だから厄介なのだ。
悪意なら切れる。
善意や慣習や不安でできた鎖は、切るとこちらまで痛む。
リリアナは紙を丁寧に机へ置いた。
「まず、エミリア先生へ手紙を渡す方法を整えます」
声は震えていなかった。
いや、少し震えていた。
でも、言葉は崩れなかった。
「名乗らなくていい形で、先生に届けられるように」
クラリスが頷く。
「ことば箱とは別に、ロゼ先生宛ての封筒を置くのはどうでしょう」
マチルダがすぐに言う。
「その場合、誰が回収するか決める必要があります。白百合会の誰かが見る形だと、匿名性が弱くなります」
レオンハルトが手を上げかけた。
止まった。
偉い。
だが、彼の顔が「解決策があります」と言っている。
顔に書くな。
リリアナが気づいて、少し笑った。
「レオンハルト様、ご意見をお願いします」
「はい」
彼は待ってましたと言わんばかりに紙を出した。
待っていたな。
絶対待っていた。
「ロゼ教諭の研究室前に、封蝋済み投函箱を置くのが最も安全です。鍵はロゼ教諭のみが持つ。白百合会はその存在を案内するだけに留める」
マチルダが頷く。
「白百合会が中身に触れない形ですね」
「はい」
「ただ、それだと白百合会の相談ではなく、先生個人への相談になります」
リリアナが言う。
レオンハルトは頷いた。
「それが望ましい」
空気が少し動いた。
望ましい。
白百合会が受け取った相談を、白百合会の外へ渡す。
つまり、自分たちの手柄にも、責任にも、物語にもできない形にする。
エステルが腕を組んだ。
「白百合会は、その方を手放すということですか」
鋭い。
だが、必要な問いだ。
レオンハルトは答えない。
自分の領分ではないと判断したらしい。
代わりに、リリアナが考え込んだ。
「手放す……」
彼女はその言葉をゆっくり繰り返した。
「でも、白百合会だけで抱えてはいけないと思います」
「ええ」
エステルは頷く。
「ただ、外に渡せばよいということでもないと思います」
「そうですね」
リリアナは紙を見た。
「この方は、白百合会に書いてくださいました。だから、私たちは受け取った責任があります。でも、私たちだけでは支えられない」
そこで一度息を吸う。
「だから、白百合会は窓口のひとつであり続ける。でも、必要な時には別の相談先へつなぐ。そういう形にしたいです」
マチルダがすぐに書き留める。
「相談の分担、ですね」
クラリスも書く。
「白百合会だけで抱えない」
セシルが扇を揺らした。
「よろしいのではなくて? 人を助ける時に一番危険なのは、『私だけがこの人を分かっている』と思うことですもの」
彼女は少しこちらを見た。
私を見るな。
刺さる。
かなり刺さる。
「セシルさん」
「何ですの」
「今、私を見ましたね」
「見ましたわ」
「なぜ」
「刺さると思ったので」
「性格が悪い」
「白百合会の良心ですわ」
「良心の棘が多すぎます」
サロンに少し笑いが起きた。
重い話の中に、こういう笑いがあるのは救いだ。
救いという言葉も最近危ない。
何でも救いにするな、私。
リリアナは紙をもう一度読んだ。
「この方は、『彼が悪い人ではないと思う』と書いています」
部屋が静かになる。
「だから、私たちは彼を悪者として決めつけないようにしたいです」
エステルの眉が少し動いた。
「ですが、『余計なことを考えなくていい』は明らかに問題です」
「はい」
リリアナは頷いた。
「問題です。でも、彼を悪者と決めつけてしまうと、この方は自分の感じている迷いを言いにくくなるかもしれません」
これは大事だった。
白百合会が「その男は最低だ」と言えば、投書主は一時的に楽になるかもしれない。
でも、彼女がまだ彼を好きかもしれないと思っているなら、その言葉は彼女自身を追い詰める。
相手を完全な悪にできない自分を、責めるようになる。
人間関係の暴力は、外から見れば分かりやすい場合でも、内側ではもっと絡まっている。
情、家、過去の優しさ、将来への不安、自分が悪いのではという疑い。
それらが絡まったものを、外から一刀両断すると、糸ではなく本人が切れる。
「切ればいいじゃん」と言う外野は楽だ。包丁だけ持って、片付けはしない。最悪の料理人である。
「では、回答にはどう書きますか」
クラリスが聞く。
リリアナはしばらく考えた。
「彼が悪い人かどうかを、今すぐ決めなくていい、と」
クラリスが書く。
「でも、あなたが怖いと感じたことは、なかったことにしなくていい、と」
マチルダが頷く。
「よいと思います」
セシルも静かに言った。
「怖かった、という感覚を疑わせる男は危険ですわ」
その言い方に、リリアナが少し驚いた。
セシルは扇で口元を隠す。
「私も以前、人を怖がらせた側ですから。相手が怖がっていると知っていて、『あなたのため』と言うのは、とても便利なのです」
彼女の声は静かだった。
「便利な言葉は、たいてい危険ですわ」
クラリスが書きかけて、手を止めた。
「これは書いても?」
セシルは少し目を逸らした。
「……会の記録として必要なら」
「必要です」
クラリスは書いた。
セシルは顔を赤くしながら黙った。
この人も、刺すだけではなく刺されることに少し慣れてきた。
よいことだ。
たぶん。
そこへ、扉がノックされた。
全員が振り向く。
サロンの扉の向こうにいたのは、見慣れない男子生徒だった。
整った制服。
少し硬い表情。
年は十七歳ほど。
胸元の校章の横に、子爵家を示す小さな銀の紋章。
彼は部屋の中を見回し、最後にリリアナを見た。
「失礼する」
声は丁寧だった。
だが、どこか固い。
「こちらが、白百合会で合っているだろうか」
部屋の空気が変わった。
リリアナが立ち上がる。
「はい。令嬢相互研鑽会、通称白百合会です。私は代表のリリアナ・ベルと申します」
彼は軽く礼をした。
「セドリック・ファルマン。子爵家の長男だ」
その瞬間、マチルダがわずかに表情を変えた。
レオンハルトの目も細くなる。
私は内心で舌打ちした。
子爵家の長男。
投書にあった条件と一致する。
もちろん、まだ確定ではない。
だが可能性は高い。
リリアナも気づいたのだろう。
顔色が少し変わった。
セドリックは続ける。
「婚約者が、こちらに出入りしているようなので、話を聞きに来た」
最悪だ。
来た。
本人が来た。
どうして人類は、こちらが慎重に扱おうとしている時に限って、靴のまま泥の部屋に踏み込んでくるのか。しかもだいたい自分は泥ではなく正義だと思っている。
リリアナは、すぐには答えなかった。
偉い。
ここで「どなたのことですか」と言うのも危険だ。
特定につながる。
セシルが扇を開いた。
「ファルマン様」
彼女の声は冷たい。
「白百合会には複数の令嬢が出入りしております。婚約者とおっしゃられても、こちらでは分かりかねますわ」
セドリックはセシルを見る。
少し驚いた顔をした。
侯爵令嬢がここにいるとは思わなかったのだろう。
「バルディア嬢も参加されているのか」
「ええ。何か問題でも?」
「いや」
彼は少しひるんだ。
家格の力。
セシルはそれを今、あえて使っている。
以前なら踏むために使った力。
今は守るために使っている。
だが、力は力だ。
使えば場は歪む。
それを分かっていても、必要な時はある。
私は椅子に座ったまま、静かに見ていた。
出るな。
まだ出るな。
公爵令嬢が出ると、さらに場が歪む。
セドリックはリリアナへ視線を戻した。
「白百合会は、婚約や家のことにまで口を出していると聞いた」
リリアナはゆっくり答えた。
「婚約について不安を持つ方がいる場合、相談先を探すことはあります」
「それを口出しと言うのでは?」
「本人の意思を無視して婚約を壊すことはしません」
「だが、不安を煽っている」
セドリックの声が少し強くなる。
「家が決めたことに、令嬢たちが疑問を持つようにしている。自分の言葉を持つ、などと言って」
出た。
自分の言葉を持つことへの反発。
クラリスが手元のノートを握りしめる。
エステルの目が鋭くなる。
マチルダは何かを計算するように彼を見ている。
リリアナは震えていた。
だが、逃げない。
「疑問を持つことは、悪いことでしょうか」
セドリックは眉をひそめた。
「立場による」
「令嬢が、自分の婚約について疑問を持つことは?」
「家の判断を信じるべきだ」
「なぜ?」
リリアナの問いは短かった。
セドリックは一瞬詰まった。
「家は、その娘の将来を考えている」
「本人よりも?」
「本人は、目先の感情に流されることがある」
「家は流されないのですか」
サロンが静まり返った。
リリアナ。
強い。
今日のリリアナは強い。
ただし、かなり危うい。
声は震えていないが、少し硬い。
恐怖の上に言葉を乗せている。
このまま行くと、彼女は自分の強さに酔うかもしれない。
それは私の余計な心配かもしれない。
でも、私は身構えた。
セドリックの顔が赤くなった。
「君は、男爵家の娘だったな」
セシルの扇が鳴った。
ぱちん。
鋭い音。
「ファルマン様」
セシルが言った。
「今、その家格を持ち出す必要がございますの?」
セドリックは口を閉じた。
彼は一度息を吐く。
「失礼した」
意外にも、謝った。
だが、それで終わりではない。
「しかし、私には婚約者を心配する権利がある」
その言葉に、私は眉を寄せた。
心配する権利。
また便利な言葉だ。
心配。
権利。
どちらも単体なら悪くない。
混ぜるとかなり危険な匂いがする。
「心配とは」
リリアナが聞いた。
「何を心配されているのですか」
「彼女が、余計な影響を受けていることだ」
「余計かどうかは、誰が決めるのでしょう」
「婚約者である私が」
「なぜ?」
また短い問い。
セドリックは苛立った。
「なぜ、なぜと。君たちはそうやって何でも疑うのか」
リリアナは少し黙った。
そして言った。
「疑ってはいけないと言われてきたので」
セドリックが止まる。
「今、練習しています」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
私の胸に、じわりと熱が広がる。
よい言葉だ。
リリアナ自身の言葉だ。
クラリスのペンが走った。
今回は止めなかった。
これは記録されるべきだ。
セドリックは困惑していた。
彼は悪人のようには見えない。
いや、腹は立つ。
かなり腹は立つ。
だが、彼の顔に浮かんでいるのは悪意だけではなかった。
不安。
戸惑い。
自分の当然が崩されることへの恐怖。
彼は本当に、婚約者を心配しているのかもしれない。
ただし、その心配は彼女を黙らせる形をしている。
善意と支配は、時々同じ服を着る。
服を脱がせるのが本当に面倒だ。人間の欲望、着膨れしすぎである。
「ファルマン様」
今度はマチルダが口を開いた。
彼女がこういう場で前に出るのは珍しい。
「婚約者様に白百合会をやめなければ婚約破棄するとおっしゃったことはありますか」
直球。
部屋が固まる。
セドリックの顔が変わった。
これは、かなり当たりに近い反応だ。
「なぜ、それを」
言いかけて、彼は止まった。
しまった、という顔。
確定に近い。
私は内心でため息をついた。
やはり彼か。
セシルの目が細くなる。
エステルが静かに言う。
「その発言があったかどうかだけ、お答えください」
セドリックは唇を噛んだ。
「……言った」
部屋が重くなる。
「だが、本気ではない」
出た。
本気ではない。
人類が他人を傷つけた後に出す免罪符ランキング上位である。
本気ではない。冗談だった。そういう意味ではない。君のためだった。
だいたい凶器にリボンを巻いているだけだ。
「本気ではないのに、なぜ言ったのですか」
マチルダが聞く。
セドリックは眉を寄せた。
「彼女が、最近変わったからだ」
「どのように?」
「私の言葉に、すぐ頷かなくなった」
沈黙。
彼は自分で言ってから、その意味に気づいたようだった。
セシルが冷たく笑った。
「それは大事件ですわね。婚約者が人形ではなかったなんて」
刺した。
かなり刺した。
リリアナが小さく「セシル様」と言う。
セシルは少しだけ息を吐く。
「失礼。言いすぎましたわ」
言いすぎたと自分で言えた。
成長している。
ただし、刺した後に言っている。
遅いが、以前よりはまし。
セドリックは顔を赤くしている。
怒りと羞恥。
だが、逃げてはいない。
「私は、彼女を軽んじたつもりはない」
彼は言った。
「ただ、家同士の婚約なのだから、慎重に振る舞うべきだと思った。白百合会は、令嬢たちに家への不満を言わせていると聞いた。婚約を壊すような思想なら、距離を置くべきだと」
「それを、彼女に説明しましたか」
リリアナが聞く。
「説明?」
「はい。あなたが何を不安に思っているのか。どうして白百合会が危険だと思うのか。婚約破棄という言葉を使わずに、話しましたか」
セドリックは黙った。
話していないのだろう。
だが、彼はすぐに反論しなかった。
少しだけ、自分の行動を見ている顔だった。
「ファルマン様」
私はここで初めて口を開いた。
全員の視線がこちらへ来る。
まずい。
出すぎるな。
だが、今は必要だ。
「白百合会は、婚約を壊すための会ではありません」
私は静かに言った。
「しかし、婚約を理由に令嬢が黙らされることを、当然とは考えません」
セドリックは私を見る。
公爵令嬢としての私を。
彼の顔に緊張が走る。
そうだ。
私が話すと、こうなる。
圧になる。
だから、慎重にしなければならない。
「あなたが婚約者を心配したこと自体を、私は否定しません」
彼の表情が少し変わる。
「けれど、心配を理由に相手の言葉を奪うなら、それは心配ではなく支配です」
言ってしまった。
これは強い。
強すぎるかもしれない。
だが、必要だった。
セドリックは黙った。
サロン全体も黙る。
私は続けた。
「あなたが本当に婚約者を大切に思うなら、まず彼女が何を怖がっているのかを聞いてください」
そこで止めた。
言いすぎるな。
断罪するな。
これは彼を潰す場ではない。
セドリックはしばらく私を見ていた。
やがて、低い声で言った。
「私は、彼女に怖がられているのか」
誰も答えなかった。
答える権利がない。
それは彼女本人の言葉だ。
リリアナが静かに言った。
「それを、あなたが彼女に聞けるかどうかだと思います」
セドリックは目を伏せた。
「……そうか」
その声は、小さかった。
彼はまだ納得していない。
傷ついている。
苛立っている。
だが、少なくとも自分の言葉が相手を怖がらせたかもしれない、という場所に立った。
今日はそれで十分かもしれない。
十分であってほしい。
「彼女に会わせてもらえるか」
彼が言った。
リリアナは首を横に振った。
「白百合会からは、お約束できません」
「なぜ」
「本人の意思が必要です」
セドリックは少し苛立った顔をしたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
「ただ」
リリアナは続けた。
「あなたが伝えたいことがあるなら、手紙を預かることはできます。ただし、こちらで中身を見ることはしません。渡すかどうかも、本人が決めます」
セドリックは目を見開いた。
「渡さないかもしれないのか」
「はい」
「私の婚約者なのに?」
また危ない。
だが、今度はセドリック自身が言った直後に表情を変えた。
気づいた。
「私の」という言葉の重さに。
リリアナは静かに言った。
「婚約者でも、手紙を読むかどうかは本人が決めることです」
セドリックは長い沈黙の後、頷いた。
「分かった」
その言葉は、今度は少し違った。
完全な理解ではない。
でも、飲み込もうとしている。
彼は礼をして、サロンを出ていった。
扉が閉まる。
沈黙。
全員、しばらく動けなかった。
最初に息を吐いたのはセシルだった。
「嫌な汗をかきましたわ」
「珍しく同感です」
私は言った。
リリアナはその場に座り込むように椅子へ戻った。
「こ、怖かったです……」
「よく話しました」
私は言いかけて、止まる。
褒めたい。
でも、今はどうだ。
彼女は代表として、かなり重い対話をした。
褒めてもいい。
いや、褒めるとまた私を見るのでは。
私が迷っていると、セシルが先に言った。
「リリアナ様」
「はい」
「よく踏みとどまりましたわ」
リリアナの顔がぱっと赤くなる。
「ありがとうございます」
「ただし、最後に少し泣きそうでした」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
よかった。
セシルが言った。
私ではなく。
私は少し寂しい。
でも、よかった。
クラリスが震える手で記録している。
「今日の記録は、扱いに注意しましょう」
マチルダが言った。
「個人が特定されます」
レオンハルトが頷く。
「会の内部記録としても、名は伏せるべきです。ファルマン家の名も避けたほうがよい」
セシルが言う。
「ただし、彼が来た事実は残すべきですわ」
「はい」
クラリスが書く。
「婚約者と思われる男子生徒が来訪。本人の名は伏せる」
私は口を開く。
「そして、白百合会は投書主本人の意思なしに彼へ情報を渡さない」
クラリスが頷く。
「書きます」
その後、会はセドリックへの対応をまとめた。
一、彼の来訪について投書主に伝える。
二、彼が手紙を書いた場合、本人が受け取るかどうかを選べるようにする。
三、彼に対して、本人の許可なく情報を渡さない。
四、必要であればロゼ先生を通す。
五、白百合会はこの件を成功例や噂にしない。
地味だ。
かなり地味。
でも、これが大切なのだろう。
誰かを救う劇ではなく、誰かの選択肢を守る手順。
人間の尊厳は、時々こういう地味な手続きの中にある。
派手な演説より、封筒の扱いのほうが大事な日がある。創作的には地味だが、人生とはだいたい地味な方が効く。迷惑なほどに。
会が終わる頃、リリアナが私に近づいてきた。
「エリシア様」
「何?」
「今日、少しだけ分かりました」
「何を?」
「相手を悪者にできたら、楽なのだと」
私は黙った。
リリアナは続けた。
「セドリック様は、怖かったです。腹も立ちました。でも、途中で少しだけ、あの方も怖いのかもしれないと思いました」
「ええ」
「そう思うと、どうすればいいのか分からなくなりました」
「それでいいと思います」
「分からなくていいのですか」
「分からないものを、分かったことにするよりは」
リリアナは少し考え、頷いた。
「はい」
彼女は、少し疲れた顔で笑った。
「でも、疲れました」
「でしょうね」
「代表って、疲れるのですね」
「ええ」
「エリシア様は、ずっとこういう疲れを抱えていたのですか」
私は一瞬、返答に詰まった。
違う。
私はずっと代表だったわけではない。
むしろ、他人に役割を押しつけられているようでいて、その役割の甘さにも酔っていた。
「私は」
ゆっくり言った。
「疲れを、自分が特別である証拠のように感じていたかもしれません」
リリアナの目が揺れる。
「それは、危ないことですか」
「たぶん」
「私も、そうなるでしょうか」
「なるかもしれません」
私は正直に答えた。
「代表は大変です。だから、大変な自分に酔うこともあります」
リリアナは少し青ざめる。
「でも、それを気づける人が周りにいれば、少しはましです」
「エリシア様も?」
「私も」
「では、私も止めます」
リリアナが言った。
「エリシア様が、疲れている自分に酔っていたら」
私は少し笑った。
「お願いします」
リリアナも小さく笑った。
その日の夕方。
セドリックから、白百合会宛てに手紙が届いた。
封はされている。
宛名は、
『私の婚約者へ。受け取るかどうかは、あなたに任せます』
変わった。
少しだけ。
「私の婚約者へ」はまだ重い。
だが、「受け取るかどうかは、あなたに任せます」と書いた。
彼なりに、かなり譲ったのだろう。
白百合会はその手紙を開けなかった。
ことば箱の横に、別の封筒を置いた。
『婚約について投書された方へ。
セドリック様より手紙が届いています。
受け取るかどうかは、あなたが決めてください。
受け取らない場合は、ロゼ先生立ち会いのもと返却します。』
私はそれを見て、静かに息を吐いた。
物語なら、ここで彼女が手紙を受け取り、涙し、すれ違いが解ける。
あるいは手紙を拒み、自立への第一歩を踏み出す。
どちらも美しい。
だが現実には、彼女が受け取るかどうかは分からない。
受け取っても読むかどうか分からない。
読んでも許すかどうか分からない。
許しても婚約を続けるか分からない。
分からないことばかりだ。
その分からなさを、奪ってはいけない。
その夜。
クラリスの議事録にはこうあった。
『婚約者と思われる男子生徒が白百合会を訪ねてきた。
彼は、自分が婚約者を怖がらせたかもしれないことに気づいたようだった。
でも、完全に変わったわけではないと思う。
私たちも、彼を悪者にして終わらせたかったのかもしれない。
そのほうが、簡単だから。
リリアナ代表は、本人の意思が必要だと言った。
マチルダ様は、手紙の扱いを決めた。
セシル様は、言いすぎてから少し戻った。
エリシア様は、必要なところだけ話した。
私は、それを美しく書きたくなった。
でも、今日は美しく書かない。
彼は悪人ではないかもしれない。
でも、怖がらせた。
彼女は彼を嫌いではないかもしれない。
でも、怖かった。
白百合会は彼女を救ったわけではない。
ただ、手紙を開けずに置いた。
今日は、それだけ。』
私は最後の一文を、何度も読んだ。
ただ、手紙を開けずに置いた。
今日は、それだけ。
良い。
とても良い。
美談ではない。
勝利でもない。
けれど、誰かの選択を守った。
それは、たぶん白百合会がこれまでにした中で、最も大人びた行為だった。
翌朝。
封筒は、まだ置かれていた。
誰も受け取っていない。
昼になっても、まだあった。
放課後にも、まだあった。
リリアナは何度も見に行きそうになり、そのたびに止まった。
私も見に行きたかった。
だが、行かなかった。
追わない。
待つ。
これがこんなに難しいとは。
人間は、他人の選択を待つことに向いていない。すぐ続きを知りたがる。物語読者としての悪癖が、人生にも出る。迷惑である。
その翌日。
封筒は消えていた。
手紙は、受け取られた。
誰が取ったかは分からない。
追わない。
クラリスは議事録に一行だけ書いた。
『手紙、受け取られる。追わない。』
その日、白百合会はいつも通り茶話会を開いた。
教本の貸し借り。
寮での騒音問題。
社交界の挨拶練習。
会費の扱い。
ことば箱の新しい投書。
婚約の話は、出なかった。
誰も出さなかった。
ただ、ことば箱の横に小さな紙が入っていた。
『手紙を読みます。
返事を書くかどうかは、まだ分かりません。
待ってくれて、ありがとうございます。』
リリアナはそれを読んで、少しだけ泣いた。
セシルが「代表がすぐ泣くものではありませんわ」と言った。
でも、その声は優しかった。
私は後方で、その様子を見ていた。
泣きたくはならなかった。
ただ、少しだけ静かだった。
救ったわけではない。
解決したわけでもない。
誰も勝っていない。
ただ、誰かが自分で手紙を読むことを選んだ。
それだけ。
その「それだけ」を、白百合会は守った。
*
その頃。
王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイが、また歪んだ形でこの噂を受け取っていた。
『白百合会は、婚約に悩む令嬢と婚約者の間に立ち、二人に対話の機会を与えたらしい』
間違ってはいない。
だが、やはり少し違う。
白百合会は間に立ったのではない。
封筒を開けずに置いたのだ。
その地味さが大事だった。
しかし、噂は地味さを嫌う。
派手な形に膨らみたがる。
ミリアは紙を読み、瞳を潤ませた。
「なんて優しい……」
彼女は日記を開く。
『白百合の君の会は、誰かの人生を奪わず、ただ選択の場を整えた。
これこそ真の救済だ。
剣を振るうでもなく、命じるでもなく、ただ花のように場を整える。
エリシア様の優しさは、会の隅々にまで染み渡っている。』
違う。
エリシア様の優しさだけではない。
リリアナの震え。
セシルの棘。
マチルダの手続き。
クラリスの記録。
エステルの問い。
ロゼ先生の厳しさ。
レオンハルトの抑制。
セドリックの不格好な手紙。
全部だ。
全部で、封筒を開けずに置いた。
だが、ミリアの文章では、それが一つの美しい中心に集まっていく。
エリシア様。
白百合の君。
物語は、中心を欲しがる。
人間の複数性に耐えられない時、物語は英雄を作る。
ミリアは微笑んだ。
「やはり、早くお会いしたい」
その声は、祈りのようだった。
祈りは美しい。
そして、時々とても危ない。




